適合度71.2%
本作は短編として構成していますが、読者の皆さまの反応次第では長編としてリメイクすることも検討しています。
「もっと読みたい」と感じていただけた場合は、★評価やフォロー、コメントなどで意思表示していただけると非常に参考になります。
作者はわりと単純なので、すぐその気になります。
適合度71.2%
一月一日の朝は、どんな天気であっても晴れやかであるべきだ——と、母が毎年言う。おせちを並べ、雑煮を作り、家族全員が食卓についてから「あけましておめでとう」と微笑む。柊家の元旦はいつもそうだった。
柊真白は布団の中でスマートフォンの通知音を聞いていた。カーテンの隙間から差し込む冬の陽光が、天井に細い線を引いている。実家の二階、高校時代から変わらない自分の部屋。階下からは出汁の匂いが漂い、テレビの音声がくぐもって聞こえてくる。
——今年もやってるんだ、あの特番。
毎年一月一日の朝、全国ネットで中継される「運命確定日」特番。全国各地の二十五歳たちがリストを開封する瞬間を追いかけ、AIが選んだ五人の名前に笑い、泣き、呆然とする姿を映し出す。街頭インタビュー、専門家のコメント、過去の成功カップルのVTR。真白は三年間、テレビの向こう側で——正確にはカウンターのこちら側で——それを眺めてきた。
午前七時〇〇分。全国一斉配信。
今年は、自分の番だ。
真白は婚姻準備支援センターの職員だ。内閣府傘下の公的機関で、リストを受け取った対象者たちの相談窓口を担当している。毎年一月になると、対象者たちがカウンターの向こう側にやってくる。泣いている人。怒っている人。拍子抜けしたように笑っている人。「リストの一位が同僚なんですけど」と困り顔の女性。「五人全員知らない人なんですが、普通ですか」と青い顔の男性。「適合度がどの人も75%前後なんですが、もっと高い人はいないんですか」と食い下がる母親。
真白はそのすべてに同じ言葉を返してきた。
「適合度が高いほど幸せとは限りません。大切なのは、ここから二人で何を築いていくかです」
何百回と繰り返した台詞。最初の一年は心を込めて言っていた。二年目からは口が勝手に動くようになった。三年目の今は、自分がその言葉を信じているのかどうかさえ、わからない。
スマートフォンを手に取る。指紋認証。CUPID-AIの専用アプリが立ち上がり、画面いっぱいに政府紋章が表示される。「遺伝子適合婚姻法に基づく適合者リストの送付について」——見慣れた堅苦しい前文。仕事で何百回も見たフォーマット。ただし、宛名の欄に自分の名前があるのは初めてだ。
スクロールして、リストを開いた。
第一位。適合度98.7%。氷室蓮。二十五歳。都内在住。職業:内閣府遺伝子情報管理センター・データ分析官。
——98.7%。
真白は息を呑んだ。仕事で何百件ものリストを処理してきたが、95%を超える適合度は年間でも数十組しか出ない。統計上、適合度95%以上のカップルの十年後継続率は99.1%。それが自分のリストの一位に並んでいる。
添付されたプロフィール写真の男は、端正な顔立ちで、穏やかな知性を感じさせる目をしていた。学歴、職歴、健康データ、性格診断——すべてが整っている。遺伝子情報管理センター勤務というのは、CUPID-AIの運営に関わる部署だ。制度のことを熟知している人間。
第二位。適合度89.2%。第三位。87.1%。第四位。84.5%。
どれも高い。センターの同僚が見たら「当たりリスト」と言うだろう。統計的に見れば、真白は恵まれている。この五人の中から選べば、高い確率で安定した婚姻が得られる。データがそう言っている。
第五位——。
真白の指が、画面の上で止まった。
第五位は空欄だった。
通常、リストには五人の名前が記載される。五人に満たないケースは稀だが、存在する。適合度70%以上の候補者が五人に満たない場合、リストは四人以下で配布される。真白はそのケースを職場で何度か処理したことがある。
だが、そのことは今、真白の意識の表面には浮かんでこなかった。真白が見ていたのは空欄そのものではなく、空欄の向こう側にある名前——リストに載らなかった名前のことだった。
宮沢陽。
大学二年から四年までの二年間。高校の「適正パートナーシップ論」で教わった通りの、二十五歳までの「人間関係学習期間」としての交際。制度はそれを「体験的愛情」と呼ぶ。リストによって始まる婚姻が「生涯的愛情」であり、それ以前のすべての恋愛は予行演習にすぎない。学校でそう教わった。社会がそう言っていた。
でも手を繋いで歩いた夜道の温度は、「練習」ではなかった。くだらない映画を観て、二人だけで通じる冗談で笑い合った時間は、「体験」という言葉で片付けられるものではなかった。真冬のコンビニの前で、缶コーヒーを両手で包みながら、将来の話を——二十五歳の話をしないように気をつけながら——したあの夜のことを、真白はまだ覚えている。
卒業の日に、きちんと「終わり」にした。
二十五歳になったらリストが届く。そこに互いの名前があるかどうかはわからない。ないほうが確率としては圧倒的に高い。だから今のうちに、ちゃんと終わらせよう——そう言ったのは真白のほうだった。制度を信じていたからではない。制度に逆らえないと知っていたからだ。逆らったところで何も変わらない。それならせめて、傷が浅いうちに。
陽は少し笑って、「わかった」とだけ答えた。その笑い方の意味を、真白は一年以上経った今もまだ考えている。諦めだったのか。優しさだったのか。それとも、何か別のものだったのか。
リストに、陽の名前はない。
CUPID-AIは二人を「適合しない」と判定した。それが正しいのだろう。遺伝子データ、性格分析、健康リスク、社会経済的背景——すべてを勘案した上で、AIは「この二人は合わない」と結論を出した。科学的に、統計的に、正しい。
でも、「正しい」と「納得できる」は違う言葉だ。
「真白ー、お雑煮冷めるわよー」
階下から母の声。真白はスマートフォンを裏返しにして枕元に置いた。画面の光が消え、天井の細い線だけが残る。
——母さんと父さんの適合度は91.3%だった。
制度第一世代の成功例。リストで出会い、半年間の面談を経て結婚し、二十五年。今も仲がいい。父は「AIのおかげだな」と冗談めかして言い、母はそれを聞いて笑う。真白はその光景を見て育った。制度は正しい。データは正しい。AIは正しい。
だったら、この胸の奥にある小さな痛みは、何だろう。
真白は布団を跳ねのけて起き上がった。冬の朝の空気が頬に触れる。冷たい。この冷たさだけは、データでは測れない。
二月中旬。面談推奨期間に入り、真白は氷室蓮との初回面談に臨んでいた。
場所は青山の面談専用カフェ「コンパス」。CUPID-AIの認定を受けた施設で、全国に約三百店舗を展開している。木目調の半個室には柔らかい照明が落とされ、壁面のモニターには二人の適合度レポートがリアルタイムで表示される仕組みだ。脈拍、瞳孔径、声紋のストレス値——すべてが数値化され、会話の合間にAIがフィードバックを返す。「緊張度がやや高めです。深呼吸をお勧めします」「相互リラックス値が改善しています」。
真白は職場でこのシステムの説明を何十回もしてきた。「モニターの数値はあくまで参考です。数字に一喜一憂せず、お相手との対話を楽しんでください」と。そう言いながら、自分が測定される側に座ると、背中に薄い汗をかいた。モニターに映る自分の心拍数が、じわじわと上がっていくのが見える。
「柊さんは、支援センターにお勤めなんですね」
蓮は穏やかな声で言った。背筋が自然に伸びていて、指先まで清潔感がある。コーヒーカップの持ち方ひとつにも育ちの良さが滲んでいた。シャツの袖口から覗く腕時計はシンプルな国産ブランドで、華美でも質素でもない。すべてが丁度いい。作為のない丁度よさ——それが、かえって不思議だった。
「ええ。三年目になります。毎年一月は戦場みたいになるんです。対象者の方が一斉にいらっしゃるので」
「今年は、ご自身が対象者側ですか」
「はい。カウンターの向こう側に座るのは初めてで。不思議な気分です」
「僕も不思議な気分ですよ」蓮は少し笑った。「遺伝子情報管理センターで働いていると、CUPID-AIの仕組みは嫌というほどわかるんです。アルゴリズムの構造も、適合度の計算ロジックも。でも、自分のリストを開くときは——やっぱり手が震えました」
「98.7%を見て、どう思いました?」
「正直に言うと——」蓮はコーヒーを一口飲み、カップをソーサーに戻した。「安心しました。数字が高ければ絶対にうまくいくとは限らない。でも、高いに越したことはない。僕は制度を信頼しています。中にいるからこそ、このシステムがどれだけ誠実に設計されているか、知っているので」
その言葉に嘘はないように聞こえた。蓮の目は真っ直ぐで、声にも揺らぎがない。壁面のモニターは「発話者ストレス値:低」と表示している。
会話は滑らかに進んだ。好きな本の話になったとき、蓮が挙げた作家の名前に真白は驚いた。同じ作家が好きだった。しかもベストセラーではなく、静かな文体で世界の輪郭を描くタイプの、どちらかといえば地味な作家だ。「失われていくものを美しく書ける人ですよね」と蓮が言い、真白は頷いた。こんなに趣味が合う人がいるのかと思った。
料理の話になった。蓮は自炊をする男性だった。休日にはスーパーで食材を選ぶのが好きだという。得意料理はアクアパッツァ。「魚をまるごと一尾使うのが楽しいんです」と語る横顔に、少年のような無邪気さがあった。
休日の過ごし方も似ていた。カフェで本を読むか、美術館をゆっくり回るか。人混みが苦手なところも同じ。会話のテンポが合い、沈黙が苦にならない。蓮は真白の話をよく聞き、適切なタイミングで自分の話を差し挟んだ。支配的でもなく、受動的でもない。
——完璧だ。そう思わずにはいられなかった。
二時間の面談が終わる頃、壁面のモニターには「相互リラックス値:非常に良好」「会話テンポ適合度:96%」と緑色の数字が並んでいた。真白は立ち上がりながら、ふと思った。
この人と結婚すれば、たぶん幸せになれる。データがそう言っている。フィーリングも悪くない。両親のように、穏やかで安定した家庭を築けるだろう。制度が用意した「正解」に乗れば、間違いは起きない。
なのに。
帰り道、渋谷駅に向かう坂道を下りながら、真白は一つの違和感を抱えていた。蓮との会話は心地よかった。楽しかったと言ってもいい。だが、何かが——何かが足りない。
足りないものの正体がわからないまま、スマートフォンを取り出した。リストのアプリではなく、写真フォルダを開く。ずっと消さずにいた一枚の写真。大学三年の秋、井の頭公園のベンチで撮った写真。隣に座る陽が、カメラに向かって少し斜に構えた笑みを浮かべている。
蓮の笑顔は、温かかった。穏やかで、知的で、安心できる笑顔だった。
でも——安心は、ときめきとは違う。
真白はスマートフォンを鞄にしまい、冬の空を見上げた。ビルの隙間から覗く空は、残酷なほど澄んでいた。陽だったら、リストを見てどう思っただろう。あいつのリストに、自分の名前は——。
考えるのをやめた。考えても仕方がない。考えたところで、リストは変わらない。五位の欄は空白のまま、陽の名前はどこにもない。CUPID-AIは「合わない」と判定した。それが正しいのだ。正しいはずだ。
——適合度が高いほど幸せとは限りません。
あの台詞が、自分に返ってくる。
高いほど幸せとは限らない。では、低ければ——あるいは、リストにすら載らなければ——幸せにはなれないのだろうか。
答えは出ないまま、真白は人混みの中に消えていった。
三月末。蓮との二回目の面談を終えた翌週、真白は吉祥寺の書店にいた。
二回目の面談も、一回目と同じように穏やかだった。同じように会話が弾み、同じようにモニターが緑色の数字を並べ、同じように「相性が良い」とAIが太鼓判を押した。蓮は前回の面談で真白が話した美術展の感想を覚えていて、関連する画集を見つけたと話してくれた。気が利く人だと思った。嫌味のない気の利かせ方だった。
——なのに、帰り道に感じたのは、また同じ空洞だった。
何が足りないのか。真白にはまだわからない。わからないから、本を探しに来た。頭の中を整理するには、誰かの書いた言葉に没頭するのがいちばんだ。
文庫本の棚の前にしゃがんで背表紙を目で追っていたとき、頭上から声が降ってきた。
「——真白?」
聞き間違えるはずのない声だった。
見上げると、宮沢陽が立っていた。
少し痩せていた。頬の輪郭が以前より鋭くなり、髪が伸びて襟足が首筋にかかっている。だが目の光は変わらない。少しだけ挑戦的で、それでいてその奥にやわらかさを隠しているような目。棚の上の方に手を伸ばしたまま、陽はこちらを見下ろしていた。
「……久しぶり」
真白は立ち上がった。一年と三ヶ月ぶりに向かい合う。記憶の中の陽と目の前の陽が重なって、一瞬だけ時間の前後がわからなくなる。
「元気だった?」
「まあ、それなりに」
陽はそう言って、以前と同じように少し斜に構えた笑みを見せた。でもその笑みの温度が、前とは違っていた。余裕があるように見せて、その下に何かを押し込めている——そういう顔だ。
「お前は?リスト、来ただろ」
「うん。来た」
「どうだった」
「……一位は98.7%。すごく良い人だった」
「へえ」
陽の視線がほんの一瞬だけ揺れた。すぐに棚のほうに目を戻す。
「じゃあ、順調なんだな」
「そうだね。順調だと思う」
嘘ではない。客観的に見れば順調だ。適合度98.7%の相手と面談を重ね、AIの評価も良好。制度が想定する理想的なプロセスを歩んでいる。
でも「順調」という言葉を口にした瞬間、胸の奥がきしんだ。
「陽は?リスト、どうだった」
「俺?」陽は肩をすくめた。「五人。知らない名前が五つ並んでた。いちばん高いので83%」
「面談は」
「まだ一回も行ってない」
真白は眉をひそめた。もう三月だ。面談推奨期間に入って一ヶ月以上経っている。
「……行かないの?」
「行かなきゃいけないのはわかってる」陽は本棚にもたれかかった。「でも、なんていうか——知らない人間の名前を見て、この中から選べって言われても、ピンとこないんだよな。83%です、遺伝子が合ってますって。それで何がわかる?」
「たくさんのことがわかるよ。健康リスクの相互補完、性格の適合性、価値観の——」
「いま、仕事のときの顔してるだろ」
真白は口をつぐんだ。陽はこちらを見て、ほんの少しだけ笑った。悪意のない笑みだ。ただ、見抜いている。
「お前がそういう台詞を本気で信じてるなら、こんなとこで一人で本なんか探してないよ。98.7%の相手と楽しくお茶してるはずだ」
返す言葉がなかった。
しばらく二人とも黙っていた。書店のBGMが小さく流れている。棚の向こうで誰かが本を抜き取る音がする。
「なあ、真白」
「うん」
「お前のリスト、五人だったか」
「——四人」
真白は自分でも意外なほど素直にそう答えていた。「五位が空欄だった」
陽は少し目を見開き、それからゆっくりと視線を落とした。何かを飲み込むような間があった。
「そうか」
それだけだった。それだけしか言わなかった。
でもその「そうか」の中に、真白は多くのものを聞いた。俺の名前はなかったんだな、という確認。そうだろうな、という諦め。そして——ほんのわずかな、痛み。
書店を出ると、桜がほころび始めていた。三分咲き。花見客はまだまばらで、午後の日差しが歩道に淡い影を落としている。
「また——会える?」
真白がそう言ったのは、考えてからではなかった。口が勝手に動いていた。
陽は少し驚いた顔をして、それから穏やかに笑った。大学時代に何度も見た、ふざけていない方の笑み。
「いつでも」
翌週、真白は職場で一つの禁忌を犯した。
婚姻準備支援センターの職員は、業務用端末からCUPID-AIのデータベースにアクセスできる。対象者の相談対応のために、適合度の詳細レポートや過去の面談記録を閲覧する権限がある。ただし、アクセスできるのは担当案件のデータに限られ、私的な目的での利用は服務規程で厳しく禁じられている。
昼休み。同僚たちが食堂に消えた後、真白はデスクに残った。端末を操作し、自分のIDを入力する。対象者としての自分のデータにはアクセスできる。それは規程違反ではない。自分のリストの詳細を確認する——それだけなら。
問題は、その次だった。
真白は適合度の個別照会画面を開いた。自分の遺伝子IDと、もうひとつのIDを入力する。宮沢陽の遺伝子ID。大学時代に陽が冗談半分で見せてくれた健康手帳に書かれていた十六桁の番号を、真白はなぜか覚えていた。
エンターキーを押す指が、わずかに震えた。
画面に数字が表示された。
適合度:71.2%。
真白は画面を凝視した。71.2%。リスト掲載基準の70%を超えている。わずか1.2ポイントとはいえ、超えている。
——なのに、リストに載っていなかった。
適合度が70%以上であれば、自動的にリストの候補に入る。候補者の中から上位五名が選ばれてリストになる。真白のリストは四名しかいなかった。71.2%の陽が候補に入っていれば、五位に入るはずだ。四名しかいないということは、71.2%が候補から除外されたということだ。
適合度の数値以外の理由で、CUPID-AIが候補を除外することがあるのか。
真白はヘルプ画面を開いた。業務用のFAQには、リスト生成アルゴリズムの概要が記載されている。何度も読んだことがあるページだ。
「リスト候補は遺伝子適合度70%以上の対象者から自動選出されます。ただし、社会的安定性指標が一定基準を下回る場合、候補から除外される場合があります」
——社会的安定性指標。
真白はその一文を、以前も読んだはずだった。しかし、今まで意識したことがなかった。対象者からの質問もなかった。ほとんどの人は、リストに載っている名前にしか関心がない。載っていない名前のことを尋ねる人は——いない。
社会的安定性指標。それが何を意味するのか、FAQにはそれ以上の説明はなかった。
真白は画面を閉じた。手のひらが汗ばんでいる。
71.2%。その数字が網膜に焼きついている。陽と自分は「合わない」のではなかった。CUPID-AIの遺伝子適合度は基準を超えていた。にもかかわらず、別の理由で——「社会的安定性」という、真白には中身のわからない基準で——陽は弾かれていた。
制度は「合わない」と言ったのではない。「合うけれど、別の理由で選ばせない」と言ったのだ。
その違いは、大きかった。
四月。蓮との三回目の面談を終えた夕方、真白は井の頭公園にいた。
陽と会うのは、書店での再会から三度目だった。連絡先を交換し、何度かメッセージをやりとりした。他愛のない会話。最近読んだ本のこと、仕事のこと、天気のこと。大学時代と同じ温度の会話。ただし、以前のように話題を選ぶ必要はなかった。もう避けるべき未来はない。未来はすでに、今になっていた。
桜は満開を過ぎて散り始めていた。花びらが池の水面を覆い、風が吹くたびに薄桃色の波紋が広がる。ベンチに並んで座ると、陽は缶コーヒーを差し出してきた。ブラック。真白の好みを覚えている。
「面談、どう?」蓮のことだ。
「順調だよ。三回目も良かった。モニターの数値も毎回良好で、AIが『理想的な進捗です』って」
「そりゃよかった」
「……うそ」
「うそって?」
「よかった、って思ってないでしょ」
陽は缶コーヒーを一口飲んで、ふっと笑った。
「思ってないよ。でもそう言うしかないだろ」
桜の花びらが風に巻かれて、二人の間を通り抜けた。
「なあ、真白。一個聞いていいか」
「うん」
「そいつのこと、好きか」
真白は缶コーヒーを両手で包んだ。アルミの冷たさが指先に伝わる。
「……嫌いじゃない。良い人だと思う。話していて心地いい。趣味も合うし、価値観も近い。たぶん結婚したら、穏やかな生活ができる」
「聞いたことに答えてないぞ」
真白は黙った。陽はいつもこうだ。核心を突いてくる。データやロジックで武装した言葉の裏を、一言で剥がしてくる。
「……わからない。好きってどういう感情なのか、わからなくなった」
「制度を頼ると、そうなるよな」
陽は空を見上げた。
「好きって感情を、数字で裏付けてもらわないと信じられなくなる。98.7%です、って言われたら安心するけど、数字がなかったら自分の気持ちが正しいかどうかもわからない」
「陽は——わかるの?自分の気持ち」
陽はしばらく黙っていた。池の鯉が水面を割った。花びらが揺れる。
「わかるよ」
静かな声だった。
「俺のリストにお前の名前はなかった。お前のリストにも俺の名前はない。CUPID-AIは俺たちを選ばなかった。データ的に合わないのか、別の理由があるのかは知らない。でも——」
陽は真白を見た。
「数字がなくても、お前のことが好きだってことはわかる。ずっとわかってた。卒業の日にお前が『終わりにしよう』って言ったときも。リストを開いてお前の名前がなかったときも。今ここでこうして隣に座ってるときも。ずっと同じだ」
風が止まった。桜の花びらが空中で一瞬だけ静止したように見えた。
「それはAIには測れない。適合度にも出ない。でも確かにある。ここに」
陽は自分の胸を拳で軽く叩いた。ぶっきらぼうな仕草。不器用で、飾り気がなくて、だからこそ——。
真白の目から、涙がこぼれた。
自分でも驚いた。泣くつもりはなかった。蓮との面談で泣いたことは一度もない。モニターに映る自分のバイタルデータがどれだけ穏やかでも、こんなふうに胸が震えたことはなかった。
「……ずるい」
「何が」
「こういうの、データに残らないじゃん」
陽は笑った。今度は斜に構えた笑みではなく、少し困ったような、でも温かい笑みだった。
「残るわけないだろ、ここにしかないんだから」
陽はそう言って自分の胸に手をあてた。
池の上を風が渡り、花びらが舞い上がった。二人の間に言葉はなく、ただ春の空気が流れていた。
——71.2%。
あの数字が、真白の頭の中で静かに光っている。制度自身が、二人は基準を超えていると認めた数字だ。それなのに、陽の名前はリストになかった。数字とは別の力が、二人の間に線を引いていた。
適合度が高いほど幸せとは限らない。
それを、真白はようやく——台詞としてではなく——理解し始めていた。
六月。梅雨の雨が街を灰色に染める頃、真白は蓮との四回目の面談に臨んでいた。
面談専用カフェ「コンパス」の半個室。壁面のモニターにはいつも通りバイタルデータが表示されている。真白の心拍数がやや高いことを、AIが黄色い注意マークで示していた。蓮はそれに気づいているはずだが、何も言わない。コーヒーを一口飲んで、静かに真白を見ている。
「蓮さん。今日は、少しだけ仕事の話をしてもいいですか」
「もちろん」
「遺伝子情報管理センターにお勤めですよね。CUPID-AIのデータ分析をされている」
「ええ」
「リストの生成アルゴリズムについて、一つ教えてほしいことがあります」
蓮の表情が、ほんのわずかに変わった。穏やかさは消えていないが、その奥に警戒とも覚悟ともつかないものが灯ったように見えた。
「『社会的安定性指標』って、何ですか」
沈黙が落ちた。モニターが蓮の心拍数の微上昇を検知し、画面の隅で小さなグラフが波打った。
「……どこでその言葉を」
「業務用端末のFAQです。『社会的安定性指標が一定基準を下回る場合、候補から除外される場合があります』と書いてあった。でもそれ以上の説明はなかった」
蓮はカップをソーサーに戻した。かすかな陶器の音。それから、長い息を吐いた。
「柊さん——真白さん。その質問に答える前に、一つ確認させてください。これは面談の話ですか。それとも——個人的な話ですか」
「両方です」
蓮は頷いた。それから壁面のモニターに目をやり、少し考えるような間を置いてから、静かに言った。
「モニターを切ってもいいですか」
真白は驚いた。その言葉は、自分が言おうとしていたものだった。
「……はい」
蓮がタブレットを操作すると、壁面の数値表示が消えた。脈拍も、瞳孔径も、ストレス値も——すべてが消え、ただの白い壁になった。部屋が急に広くなったように感じた。数字に囲まれていると、その狭さに気づかない。
「社会的安定性指標は、CUPID-AIの中でも限られた人間しかアクセスできない層に組み込まれています」蓮は静かに話し始めた。「正式名称は『制度適応予測スコア』。対象者が婚姻制度に対してどの程度順応するか——あるいは、どの程度抵抗するかを予測する指標です」
「予測?何のデータから?」
「あらゆるものからです。学生時代の行動記録、SNSの発言傾向、交友関係の分析、消費パターン、移動履歴。18歳以降の年次検査で取得される生体データの中にも、ストレス反応や権威への態度を推定できるパラメータがあります。それらを総合して、CUPID-AIは各個人の『制度適応予測スコア』を算出しています」
真白は息を詰めた。
「適合度が70%以上であっても、このスコアが一定基準を下回る人間は、リスト候補から自動的に除外されます。理由は単純です。制度に対して反抗的な傾向を持つ人間をリストに含めると、婚姻の成功率が下がる。離婚率が上がる。出生率の回復が鈍化する。——制度が誇るあの数字を維持するために、最初から"合わない人間"を弾いているんです」
「合わない、というのは——」
「遺伝子的に合わない、ではありません。制度に合わない、という意味です」
真白の頭の中で、パズルのピースが嵌まった。
陽がリストに載らなかった理由。適合度71.2%で基準を超えていたのに、五位の欄が空白だった理由。それは陽の遺伝子が真白に合わないからではなかった。陽という人間が——制度に対して疑問を持ち、面談を回避し、数字よりも自分の感情を信じようとする人間が——CUPID-AIにとって「不適格」だったのだ。
「離婚率2.3%——」真白は呟いた。
「ええ。あの数字は本物です。嘘ではない。でも、制度に反発する可能性のある人間を最初からマッチングの対象外にした上での2.3%です。つまり——従順な人間だけを集めて計算した成功率です」
蓮の声には感情が混じっていなかった。データ分析官としての口調。事実を事実として述べる声。でもその目は、モニターが消えた部屋の中で、どこか疲れたように見えた。
「蓮さんは——それを知っていて、制度を信頼していると言ったんですか」
「信頼しています。今でも」
蓮の答えは迷いなく返ってきた。真白は面食らった。
「この制度がなければ、出生率は0.6を割っていたでしょう。経済は崩壊し、社会保障は破綻し、この国は立ち行かなくなっていた。フィルタリングは——倫理的に問題がある。それは認めます。でも、制度全体を否定する根拠にはならない。不完全な制度が、完全な崩壊よりましだった。僕はそう信じています」
正しい。論理的に正しい。真白が三年間カウンターの内側で信じてきたことと、蓮が言っていることは同じだ。制度は完璧ではない。でも制度がなければ、もっと悪い結果になっていた。
——でも。
「じゃあ、弾かれた人はどうなるんですか」
「……対象外になった人にも、リストは届きます。ただし、相手のリストには反映されない。一方通行のリストです。本人は気づきません。自分のリストに相手の名前があっても、相手のリストに自分がいない——それは珍しいことではないので」
真白は目を閉じた。
陽のリストには、真白の名前があったかもしれない。でも真白のリストには陽がいなかった。陽はそれを「そうか」と受け入れた。制度がそう判定したのだと。自分たちは合わないのだと。
でも本当は、制度が合わないと判定したのは二人の遺伝子ではなかった。陽の人間性だった。自分の心で人を好きになろうとする、その姿勢そのものを、制度は排除したのだ。
「真白さん」
蓮の声で、真白は目を開けた。
「僕がこの話をしたのは——あなたに誠実でいたかったからです。98.7%という数字は本物です。操作はされていません。僕とあなたの遺伝子は、CUPID-AIの基準においては高い適合性がある。でも——」
蓮は言葉を切り、窓の外の雨を見つめた。
「この数字だけで、あなたに僕を選んでほしくはない。フィルタリングのことを知った上で、それでも僕を選ぶなら——そのときは数字ではなく、あなた自身の気持ちで選んでほしい」
真白は蓮の横顔を見つめた。穏やかで、知的で、誠実な人。制度の内側にいて、制度の欠陥を知りながら、それでも制度を支えようとしている人。その矛盾を抱えたまま、嘘をつかずに目の前に座っている。
この人は悪い人ではない。この人もまた、制度の中で懸命に正しくあろうとしている。
「蓮さん。一つだけ——聞いてもいいですか」
「なんでも」
「あなたは、私を好きですか」
蓮は少し驚いたように目を瞬いた。それから、モニターのない部屋で、数値の裏付けのない言葉を探すように、ゆっくりと口を開いた。
「……わからない。正直に言えば、わからないんです。あなたと話していると心地いい。もっと知りたいと思う。でもそれが、好きという感情なのか、適合度98.7%という数字に安心しているだけなのか——僕には区別がつかない」
その言葉は、蓮がこれまで見せたどの言葉よりも、不完全で、不格好で——だからこそ、誠実だった。
「ありがとうございます」
真白は静かに言った。
「蓮さんに会えてよかったです。本当に」
蓮は黙って頷いた。その目が少しだけ潤んでいるように見えたのは、雨の反射のせいかもしれなかった。
翌日。真白は婚姻準備支援センターの所長室にいた。
辞表を提出した。
所長は困惑した顔で引き止めたが、真白の意思は変わらなかった。この場所で「適合度が高いほど幸せとは限りません」と言い続ける仕事は、もうできない。あの言葉が嘘だからではない。あの言葉では足りないと知ってしまったからだ。
デスクの私物をダンボールに詰めながら、真白は業務用端末を最後にもう一度開いた。自分のリストの詳細画面。一位から四位までの名前と数字が並んでいる。五位は空欄のまま。
真白はその空欄を、しばらく見つめていた。
空白の向こう側に、一つの数字がある。71.2%。制度がリストに載せなかった数字。でも真白が自分の手で見つけた数字。
CUPID-AIは陽を「制度に適さない人間」と判定した。自分の心で人を好きになり、数字よりも感情を信じ、制度に疑問を持つ人間を。だがその判定が意味しているのは、陽が人間として欠陥があるということではない。陽が——人間であるということだ。不確かで、非合理で、データに収まらないものを抱えて生きているということだ。
そしてそれは、真白自身もそうだった。
三年間、カウンターの内側で制度を信じてきた。数字を読み上げ、対象者たちに微笑み、「大切なのは、ここから二人で何を築いていくかです」と繰り返してきた。でも本当に大切なことを、真白はずっと見ないふりをしていた。
——誰かを好きだという気持ちは、制度の許可を待たない。
端末を閉じた。画面が暗くなり、数字が消えた。
七月一日。退職してから初日の朝、真白は自分のマンションのベランダに立っていた。梅雨明けの光が、東京の街を白く洗っている。会社のビルの中からは見えなかった空が、ここからは広い。
スマートフォンが鳴った。メッセージ。
陽からだった。
『今日から無職?』
真白は少し笑った。
『そう。自由の身です』
『おめでとう。祝い何がいい?』
『缶コーヒー。ブラック』
『了解。井の頭公園、三時。いつものベンチ』
真白はスマートフォンを置いて、もう一度空を見上げた。雲が一つもない。七月の空は高くて、どこまでも青い。
CUPID-AIのアプリを開いた。リストが表示される。一位、氷室蓮、98.7%。五位の欄は空白。十二月三十一日のタイムリミットまで、あと半年。
真白はアプリを閉じた。
閉じて、アプリのアイコンを長押しした。「削除しますか?」という確認が表示される。
——まだ、押さなかった。
制度を完全に拒絶する覚悟は、まだない。蓮の言葉が頭に残っている。不完全な制度が、完全な崩壊よりましだった。それは事実だろう。この制度が多くの人を救ったことも、たぶん事実だ。
でも、救われなかった人がいる。弾かれた人がいる。数字の外側で、声を上げることもできずに、「そうか」と呟いて受け入れた人がいる。
真白はスマートフォンをポケットにしまった。
答えはまだ出ていない。十二月三十一日までに出さなければならない答えが、まだ。
でも一つだけ、確かなことがある。
今日の午後三時に、真白は井の頭公園に行く。いつものベンチに座って、缶コーヒーを受け取る。桜の季節は終わったけれど、夏の木漏れ日の下で、リストにない人間と——制度が「選ばせない」と決めた人間と——ただ隣に座る。
それは適合度71.2%の、数字には残らない午後になるだろう。
でも真白は知っている。数字に残らないものの中にこそ、消えないものがあることを。
最後までお読みいただきありがとうございます。
本作は短編として構成していますが、読者の皆さまの反応次第では長編としてリメイクすることも検討しています。
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作者はわりと単純なので、すぐその気になります。




