第2章
祖父の家に帰って来た。
「また来るとは。それに晴も一緒に。何か進展があったのかい?」
祖父がそう訊くと、伯父が言った。
「この『みつる』という人間、俺、一度だけ可憐姉さんから聞いたことがあったんだ」
「可憐が……?」
祖父が驚いた表情をした。俺は知らんのになぜあいつがと言ったようなことを思っているのだろう。目を細めて、斜め下を向いていた。
「可憐か。お前たち、あいつに会いたいのか?」
祖父は急に険しい顔をして、私たちを見た。見るというより睨むの方が正しいかもしれない。
「会いたいです」
私がそう答えると、祖父が唸った。
「……そうか。実はな、あいつは入院している」
「え、そうなの?」
母が驚きの声を上げた。
「ああ。半年くらい前に、交通事故で手足が動かなくなってしまったんだよ」
「そんなことが……」
全員が呆気に取られた。
「あんまり関わり無かったけど、そうか、可憐姉さんが……」
伯父がそう言って、ふと顔を上げた。
「でも話せるよな? 動かないのは手足なんだろ?」
「まあ、そうだな。話せるはずだ。俺も様子を見に行っていないから分からんが、そのはずだ」
祖父はそう言った。
「じゃあ行こう。遺書の『統』という男を見つけるための数少ない手がかりだ。お見舞いも兼ねてな」
と伯父が言い、祖父から入院先の病院名を聞き出した。祖父は最初こそ渋ったが、謎の男を見つけるためになるのならと、病院を私たちに教えた。
「んじゃあ行ってくる」
そう伯父が言って、私たちは車に乗り込んだ。祖母がいってらっしゃいと玄関から手を振った。祖父は私たちを見送らなかった。伯父は車を出して、病院に向けて出発した。
病院は遠かった。それは長野市にあり、松本からは高速道路で1時間程かかった。市の中心部にある、それまた大きな病院。受付で大叔母(祖父母の兄弟に当たる人のこと。ここでは可憐を指す。)の名前を出し、見舞いに来たと伝える。部屋を尋ねると、8階の23番にいることが分かった。私たちはその部屋を目指して歩き出した。
823号室は、一人部屋だった。ドアに『瀬谷可憐』と書かれた文字がある。蔵本で無いことから、すでに結婚をしていることが分かる。伯父がドアをゴンゴンと叩いた。
『はい』
と中から返事が聞こえた。そこで伯父が声を掛ける。
「可憐姉さん、晴です。お久しぶりです」
『晴くん!? え、ええ。入ってどうぞ』
中から驚いたような返事があったが、入っていいとの許可があったので入る。ドアを開けると、ベットの上に横になった女性がいた。美しさを残した顔に、細く浅い皺が入っている。伯父よりも幼顔の面影をどことなく残しているが、それでもやはり歳を感じた。そしてもう一つ、私はどこか見たことのあるような雰囲気も感じた。以前会ったことがあるのだろうか。記憶にない。
「あら、ほんとに晴くんだわ。久しぶりね」
その女性は、伯父を見てそう言った。そして母を見て、
「美咲ちゃんも、綺麗になってまぁ……」
と感嘆した。
「姉さんに会うなんて何年ぶりだろう? 前に会ったのは俺の結婚式以来か?」
伯父がそう尋ねると、大叔母が頷く。
「そのくらいね。今から20年も昔になるのね」
「そんな経つんですね」
母がそう言うと、
「美咲ちゃんともそれっきり会ってないものね。ということは、そちらはあの娘さんたち?」
と大叔母は返した。視線は母から私たち姉妹に移った。
「ええ。二人の娘です」
母がそう言ったものだから、私と姉は自己紹介をした。そして意外だったのは、姉はこの大叔母の存在を覚えていた。
「可憐さんを覚えてますよ。まあ10歳でしたしね。それなりに記憶もあるものですよ。話したのを覚えてます。流石にどんな話をしたかは覚えてませんけど」
そう言うと、
「しっかりしていたものね、あなたは。そっちのお嬢さんもだけどね。可愛く挨拶してくれて。今でも確かにあの可愛さは残ってるわね。立派になって。でも、流石にあたしのことは覚えていないんじゃ無いかしら?」
と大叔母は言った。私は小声で、
「すみません……」
と返した。最初に見て思った『どこかで見たことがある』と感じたのは事実なようである。だがしかし、あれを覚えているに数えることはできないと私は判断した。
「いいのよ、気にしなくて。……でも、そうね。少し前は歩けたのに、今は自力じゃ歩くことができないんだものね。それだけじゃなくて、まだ上手く手も動かせないし。本を読むのだって難しいのよ? なかなか苦痛なものよね」
いきなり暗い話になって、私は困惑をした。
「でも、」
と大叔母は切り出した。
「最近じゃ小学二年生の孫が読み聞かせしてくれて、楽しんでるんだけどね」
その顔は笑っていた。
「リハビリとかは?」
姉が訊くと、週に三日ほどするわと返ってくる。曰く、もうだいぶ回復をしているとのこと。あと数ヶ月もすれば退院できるだろうと医者も言っているそうだ。
「良かったですね」
と、姉が大叔母に声をかけた。大叔母は笑って、
「ええ、ほんとに」
と言った。そして姉の左手の指を見て、
「ところであなた、結婚はしていないのかしら?」
と尋ねた。
「へ?」
姉は突然のことに面食らった。しかしすぐに、
「恥ずかしいですが……」
と答えた。
「何も恥ずかしがる必要はありませんよ」
大叔母がそう言って、伯父にリモコンを渡した。
「起こしてちょうだい」
大叔母は伯父にそう言って、ベットの電動体起こし機能を使って体を起こしてくれるように頼んだ。伯父がボタンを押すと、ベットの床が動き大叔母の体が起き上がった。
「あたしにはね、三人の子供がいるのよ」
大叔母がそんな話を始めた。
「一人目は女の子。もう結婚して子供もいるわ。35歳ね。二人目はその二歳下の女の子。彼女も結婚して子供がいるの。でもね、三人目の男の子はまだ結婚していないのよ。現在30歳。晴くんの結婚式の話をして思い出したの。あなたと彼が同い年で、式場でお喋りしてたことを。それで、独り身だったらもらってくれないかしら? 私から言わないと、多分いつまでも結婚しないから」
大叔母はそう姉に言った。
「えぇ!? いや、私は……」
姉はだいぶ困惑をしていた。突然舞い込んだ結婚話。しかし、その結婚は遠い親戚との結婚を指していた。大叔母の子ということは、従兄弟叔父との結婚になる。結婚ができないわけでは無いが、姉からしたらなんだか悩ましいものであったのかもしれない。もし私が姉と同じ立場であったなら、その結婚話は少し躊躇いを感じるであろう。
「一回会ってからで良いから、考えてちょうだい。なにせあいつには出会いがないもので。お願いします」
そう言われ、さすがの姉も断れなかった。はいと言って俯いた。
とは言っても、結婚の話は決して悪いことではない。
「良かったじゃん」
そう私がそう言うと、
「なにがよ……!」
と少しばかり強く反論される。しかし姉はすぐにまた俯いた。そして、
「……でも、あの子のこと覚えてるのよね。小学生だから血の繋がりなんて分からないでしょう? だから、なにも知らずに良い子だなぁと思ってたのよ……」
と呟いた。
「え、初恋なの?」
と私が冗談半分で煽ると、姉は顔を赤くして俯いた。このとき、私は焦りに駆られた。何か地雷を踏み抜いた気がしたのだ。触れてはならないものに触れた、というか、冗談が冗談で無くなった瞬間に遭遇してしまったのだ。私は逃げたくなった。必死に逃げ場を探して、見つけたのだった。
「お、伯父さん! ほ、本題に入りましょう? あの遺書、遺書のことですっ!」
すごく焦ったような声で私がそう言うものだから、母と伯父は不思議と言わんばかりの顔をした。
「どうしたの?」
と母に訊かれた。私は咳払いをして、
「大きな地雷を踏み抜いちゃった」
と答えた。すると母は、私の横で顔を真っ赤にして放心している姉を見て、
「ああ、そういうこと……」
と、意味深長に頷いた。そのやり取りを見ていた大叔母は、私と姉を交互に見ながら微笑んでいた。
「姉さん。俺たちがここに来たのには、お見舞い以外にも違う意図があるんです」
伯父がそう言うと、大叔母は、
「察していたわよ」
と言った。
「では話が早い。婆ちゃんが亡くなったときに俺に話してくれた、あの『婆ちゃんの初恋』の話について詳しく教えてくれ」
伯父がそう問うと、大叔母は困ったような笑顔を浮かべた。
「晴くん。お見舞い以外にも何かあることは察していたけど、用件までは察していないの。だから、順を追って説明してちょうだい。その話は、後でゆっくり話すから」
そう言って、伯父に説明を促した。
「あ、ごめんなさい」
伯父はそう言って、大叔母に説明を始めた。
説明の最初は、曾祖母が死んだというところからだった。
「そう。あの凛さんがね……」
大叔母はそう言って、遠くを眺めた。
「それで可憐姉さん。そのおばあちゃんの遺書を読んで欲しいの」
母がそう言うと、
「紙をめくってくれるならね」
と大叔母が言った。母は頷いて、鞄から遺書を取り出した。そして、大叔母の前の譜面台のような机に置く。大叔母の次という声で母が紙をめくり、遺書を最後まで読んでもらった。
読み終えて大叔母が言う。
「だいたい分かったわ。この『統さん』て人を探してるんでしょ?」
「そう。まさにその通り」
伯父が言うと、大叔母は不審な笑みを浮かべた。
「晴くん、あたしがあの時言ったこと覚えてたのね? 凄いねぇ」
「いいや、それほどでも無い。姉さんの制服姿が印象に残っただけだ」
伯父がそう返すと、大叔母は、
「じゃあ、あたしの恋も覚えてるのかしら?」
と訊いた。
「いいや、そこは覚えてないんだ」
伯父のその言葉に、大叔母は少し笑った。
「覚えてて欲しかったような、覚えてて欲しくなかったような。まあいいわ」
そう言って、大叔母は笑顔を作った。
「あたしがあの時、なんで晴くんに両親の出会いの話をしたかはね、あの時のあたしが置かれていた状況が、母親と全く同じだったからよ。好きな子を親友に取られて、あたしは落ち込んでいた。だから慰めてほしかったんだ。身勝手な話よ。女子高校生の諸事情に小学生を巻き込んでさ。ま、なんで晴くんに言ったかは分かんないんだけどね」
そう言った後、
「このままじゃ話が逸れるわね。じゃあ私が知っている、この『統さん』という人物について話すわね」
と言った。私たちは無言になった。大叔母からの次の声を、ただひたすらに待ち続けた。
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「統さんという人物を知ったのは、私が中学生の頃よ。母親の部屋に勝手に入り込んで、日記を見つけたの。当時からして25年くらい前のだったから……そうね、大日本戦争の頃のものになるわね。それより前の日記は見当たらなかった。一番古いのを読んだわ。そこには、あたしの父と統って人が戦争に行ったことが書かれていたわ。でも徴兵の場面は無くて、疎開して佐倉財閥の所有する第三別荘に住み始めた辺りからだったわ。
統さんの記述はそれからしばらく無くて、それから先にあったのは、戦争中の子育ての大変さだったかしら。自分の子供、まああたしのお兄さんと、凛さんの子供の面倒を同時に見なきゃいけなくて、特にあたしのお兄さんはヤンチャな子供だったみたいで、毎日が疲れとの戦いだって書いてあった。……ええ、そうよ。凛さんの子供。……そうね。紀薇さんは養子って聞いてるから、おそらく違う子ね。……分からないわ。その子の名前と性別は書いてないの。そして誰との間の子かも分からないわ。もしかしたら、違う人の子供で、凛さんが預かって世話してるって可能性も否定できない。つまり、それが紀薇さんなのかも。
話が逸れているわね。次に統さんの記述があったのは確か終戦後よ。父親が戦争から帰ってきたから統さんについて尋ねたというものだったと思うわ。でも父親は、彼とは逸れたと言うだけで、その安否は不明なまま。帰りを待ち続ける日々が続いていたわ。でも、戦後に生まれたあたしの子育てもあって、本当に多忙な生活をしていたみたい。
いずれ統さんのことは書かれなくなったわ。そして当時の日記にまで追いついたあたしは、母親の部屋から出た。……ああ、思い出した。その日記で詩織として使われていた鉄道の切符があるんだけど、それが血塗れで気味が悪かったわ。『日暮里→松本』と書かれた切符だった気がするわ。……どうでも良いわね。
それから数年後、あたしが高校に入学してしばらくしてからじゃなかったかしら。ある晩に、あたしが喉が乾いて飲み物を求めて居間に降りたときだった。飲み物を飲んで居間から部屋に戻ろうとしていたんだけど、両親の寝室から話し声が聞こえたの。眠る気も無かったから、私はそのまま襖越しに会話を聞くことにしたの。そしたら驚き。母親が泣いている声が聞こえたの。初めてだった。母が泣いているところになんか出会わなかったから。それがあたしの興味をさらに刺激して、あたしはずっとそこで聞くことにしたの。すると母親はね、
「もうあたし、長く無いみたいね」
なんて言い出すの。驚いたわ。父親も何か低い声で慰めていたようだったけど、あたしにはショックが大きくて聞き取れなかった。そのうち母親が語り始めて、
「出会いは統さんがきっかけだったわね」
ていうの。それについては父親も短く肯定したみたい。その後に母親が笑いながら、
「覚えてる? あたし、統さんを取られたことが悔しくて君に泣きついたんだよ?」
と言ったのよ。その後に父親がなんて言ったかは聞き取れなくて、でもそれを聞いて母親は笑ったわ。
ここまで聞いたあたしは、もう頭の中が真っ白だったわ。母親の命が残り少ないことが衝撃だったのか、母親の涙が衝撃だったのかは分からない。でも、とにかくこれ以上聞くのをやめようと思ったのね。だからあたしは自分の部屋へと戻ったわ。でもその日は眠れなかった。次の日からは散々な日だったわね。寝不足だし、好きな人と親友は付き合い出すし。好きな人を取られたことは、もしかしたらあの夜あの話を聞いたからでは、なんて思ったわね。
……母親が死んだのは、それから2週間後のことだったの。
はい、これがあたしの知っている統という人のことよ」
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大叔母はそう言って、話をやめた。
「そうか。ありがとう姉さん」
伯父がそう言った。
「いえ、いいのよ。でもどう? 全く以って参考にならない話じゃ無いかしら?」
大叔母の言葉に、私はこう返した。
「いいえ。今の話から、統さんという人が戦争に行って帰ってこなかったことが分かりました。それと、ひいバアの子供についても気になります」
「そうね。あと、蔵本のひいバアの日記があることも分かったわね」
いつの間にか復活をした姉が横から言う。
「母親の日記は……あるかしらね。分からないわ。あるとしたら旧家かしら」
大叔母がそう言う。
「その日記って、戦前の日記は無いんですか?」
私がそう訊くと、
「さあ。当時のあたしの探し方が悪かっただけであるかもしれないわ」
と大叔母は答えた。
「じゃあ、その日記を探すことが無難か?」
伯父がそう言うと、母が言った。
「でも、そんなに書いてないんでしょう? それだったら、一緒に戦地へ行ったおじいちゃんの日記を探すべきなんじゃないかしら?」
「あるかどうかも分からないのに探すのか?」
伯父の突っ込みに母は俯いた。
「だったら、どっちも探してみようよ」
姉がそう言うと、
「探すなら、兄さんに旧家へ連れて行ってもらいなさい。兄さんも統さんを探すのに協力的なのであれば、その旧家は必ず訪れるはずよ。だから旧家へ行くの」
と大叔母が言った。ここで差す兄さんとは、大叔母からした兄さん。つまり、祖父のことである。
「可憐さん。旧家ってなんですか?」
私は正直分からなかったから、思い切ってそう聞いてみることにした。
「旧家はあたしの両親が住んでいた家よ。簡単に言うと佐倉の第三別荘の離れよ。兄さんもあたしも、結婚して家庭を持つまでそこに住んでいたわ。今から十七年前に父親が死んでからは、ほぼ手付かずの状態で放置されているはずだけど」
そう聞いて、私たちはそこへ行くことを決意した。




