第8章
「それで、大月には可憐さんと行くことになりました」
私は祖父母の家に戻るとそう告げた。
「可憐さん、大丈夫なの? もう動いて」
「大丈夫みたいですよ。手すりを使ってましたが、座ることができてましたし」
「そう。分かったわ。いってらっしゃい」
祖母は私にそう言った。そして祖父の方を向いて、
「実秀さんも、いいでしょう?」
と訊いた。
「勝手にしろ」
祖父は不機嫌気味にそう言って、私と目を合わせなかった。私は少し気不味くなった。
「気にしなくていいわよ」
帰り際に、玄関で私に向かって祖母がそう言った。
「自分の嫌いな人と親しげにしているのが気に入らないだけなのよ」
小学生かよ。私は内心そう思ったが、顔では苦笑いをしておいた。
「でもまあ、行くなら気をつけてね。あと、さくらさんが分かったならあと少しね」
「ええ。ここまで来たら、なんとしても統さんを見つけます。と言っても、生きてる可能性は少ないですけど」
私と祖母はそう言葉を交わして別れた。私が帰るのに、祖父は顔すら見せてくれなかった。私は胸がキュッと締まるような気がした。
家に帰った私は、母と姉にさくらという存在が大叔母の旦那の親だと分かったことを報告した。
「凄いじゃない」
と母。
「あんた、私より万能ね」
と姉。
「そんな凄くは無いし、万能でも無いわよ。偶然に偶然が重なっただけだもの。世間が狭すぎるだけよ」
私はそう言って、冷蔵庫から麦茶を取り出して飲んだ。
「それは謙遜よ」
母の声が聞こえた。
「あなたがいなかったらこの結果にならなかったこともあるんじゃないかしら?」
私がいなかったら、この結果にならなかったこと……? 私にはそんな心当たりは全くなかった。どれも私がいなくても成り立つような気がする。物語だって私が見つけなくてもいずれ誰かが見つけただろうし、東都にだって私が行かなくたっていずれ誰かが行っただろう。私がいなくたっていずれは同じ結果に行き着くと思うのだ。だから。
「謙遜では無いと思う。私がいたからこの結果があるんじゃなくて、私が動いた先に既にこの結果があっただけ。つまり、この結果は最初からあったの。それを見つけたのが私なのか私じゃないのか。変わったのはそれだけだと思う」
「へえ。まあそうね。結婚とかでの人間関係はあなたがいてもいなくても変わらないものね。結局、さくらさんが可憐姉さんの旦那さんの母親っていう事実はとうの昔に形成されているものね」
母はそう言って笑った。そう。私がやったことだなんて、そんな大したことではない。凄くは無いし万能でも無いという言葉は、全く謙遜でもなんでもないのだ。
「でも、そうだとしても、今ここまで特定できたのはあなたの手柄よ。イフの世界線なんてもの、この世に存在しないんだから。だから『もしも美佳が動かなかったら』なんて世界線、存在していないのよ?」
姉にそう言われる。ここで「そんなわけないじゃん」などと言った瞬間に、私はそれこそ謙遜をすることになる。私は決して謙遜が好きなわけではない。それに、真実において自分の手柄であるならば、それは素直に受け取っておきたいと思っている。だからここは、
「そうだね、それは事実だよ」
と言って笑うことにした。
姉と母はそんな私を笑顔で見ていた。
4月になった。その4月の初日、すなわち4月1日に、私は大叔母と一緒に大月を訪れた。退院したけれど大叔母はまだ俊敏に動けるわけではない。それどころか、歩くことで精一杯なのだ。
「優さんの実家は駅から近いから、大月まで列車で行きましょう」
大叔母のその提案で、私たちは列車で行くことになった。
急行列車に揺られて塩尻、茅野、下諏訪、上諏訪、小淵沢、韮崎、甲府と停まっていく。甲府の次の停車駅が大月である。甲府を出たとき、私は大叔母に話を切り出した。
「ひとつ、訊いていいですか?」
「どうしたのかしら?」
「どうして可憐さんは、ひいジイのお葬式に出席しなかったのですか?」
私のその言葉を聞いて、大叔母は黙り込んだ。その反応を見て後悔を感じた。この質問は少し踏み込みすぎただろうか。もともと際どいとは思っていた。大叔母の過去に踏み込むだろうし、もしかしたら大叔母と曾祖父の関係は決して良いものではなかったのかもしれない。その可能性も考慮していたにも関わらず、私は質問をしてしまったのだ。
「美佳ちゃん」
大叔母の低い声が聞こえる。私に緊張が走った。まずい。その質問はタブーだったのだ。地雷みたいな、触れてはならないものに触れたと感じた。
「その話は、少し長くなるわよ?」
しかし、大叔母は私の思っていたような悪い方向に事を運ばなかった。
「そうね。まず簡単に言うと、あたしはお葬式に呼ばれていないの」
「呼ばれていない? 娘なのに?」
「そうよ。生前に父から、
「お前は俺の葬式には来るな」
と言われていたの」
「どうして……」
「うん。じゃあその話をするわね」
大叔母はそう言って、ひとつ咳払いをした。
ーーーーーーーーーー
「事の発端は、母のお葬式の時だった。当時高校生だったあたしはね、母の死が受け入れられなくて、1週間部屋から出れなくなった。食欲も無くなって、全く何もできなくなった。1週間して、塞ぎ込んだあたしに父が言ったの。
「お前は瑠璃がいなくなったと感じた瞬間はいつだ?」
と。母が死んだことを受け入れていないあたしは、その質問に震えた声で、
「母さんはまだ生きてる」
て返したの。そしたら父は、あたしの腕を掴んでそのまま仏壇の前まで連れてきたの。それであたしに言った。
「瑠璃はもうこの世にいない。いい加減に認めろ」
てね。強い口調だったわ。それであたしはその真実と向き合った。初めて母の死を受け入れた。仏壇の前で泣き崩れて、当たり前にしていた呼吸の仕方も忘れたような感覚になった。そんなあたしに父は改めて訊いたわ。
「お前は瑠璃がいなくなったと感じた瞬間はいつだ?」
と。あたしは答えた。
「火葬場で骨を見たとき」
て。そしたら父は、
「もし俺が死んだ時、お前は同じように感じると思うか?」
てね。あたしは特別母が好きだったわけじゃない。両親は同じくらいに好きだった。だから、
「同じようになると思う」
て答えた。そしたら父は、
「そうか」
とだけ呟いて、あたしの肩に手を置いてこう言ったの。
「俺が死んだ時、お前は葬式に来るな。そんなに痩せ細って弱々しくなるんだったら、葬儀なんかに来なくていい。お前はお前らしく笑って生きればいいんだ。誰になんと言われても、非情だと軽蔑されても、お前はお前らしく可愛く愛想を振りまいていればいいんだ。お前には情がありすぎる。それは日常生活においてはプラスに働くが、時にマイナスに働く。今のお前の姿を見ているのは辛い。心底心配だ。お前が葬儀に来ることによって今の俺のように心配する人間が出るのであれば、俺はお前を自分の葬儀に誘わない」
て。それはあたしに対する父の精一杯の気遣いだった。それから約30年して、父は病に倒れた。回復の見込みはほとんど無いって医者から言われて、父はただ死を待つだけの人間になった。母の死から30年近く経っていて、あたしの心は成長していた。父の命が残り短いと知った時、あたしは父の死を受け入れる自身があった。だからお葬式に行こうと思ったの。そうしたら、死に際の父がこう言ったの。
「覚えているだろう? 瑠璃が死んだ後に俺がお前に言ったことを」
て。忘れるはずも無かったから、私は頷いたわ。そしたら、
「だったら来るな。最後の親孝行をしてくれ」
て言われたの。なんだそれって思った。でもね、親からしたら子供はいつまでも小さいの。だからきっと、父の中ではあたしは小さいままだったんでしょうね。だからあたしがお葬式に行かないことが、父からしたら親孝行だったんでしょう。でもあたしは、
「今のあたしなら受け入れられるよ?」
て言ってみた。そうしたら父はね、こうやって言ったの。
「信用ならん。お願いだ。頼むから来ないでくれ」
て。酷い人だなって思ったわ。でもあたしには前科があった。だから何も言い返さなかった。そして、それに従おうと決めたわ。父からの生前最後のお願いなのよ? 破ったら祟られそうだし。ということで、あたしは父のお葬式に行かなかったの」
ーーーーーーーーーー
大叔母は話を終えた。
「つまり、可憐さんがひいジイのお葬式に行かなかったのは、ひいジイからの頼みということですか?」
「そうなるわね」
クスッと笑いながら大叔母はそう告げた。
「それじゃあ、お爺ちゃんが毛嫌いする理由が……」
私は思わず口にしていた。すると大叔母がニヤリと笑った。
「あぁ、やっぱり目的はあたしと兄さんの関係にあったのね」
「……」
そういえば私は、大叔母に対して目的をはっきりさせていなかった。そんなに踏み込んでいいのか分からなかったからはっきりさせていなかったのだ。だが、少し気が緩んで感情が前面に出てしまった。
「気付いていましたか……?」
「そりゃ、そんなことを訊いて何になるか考えれば、そのくらいにしか繋がらないわよ」
「そうですか」
「それで、なんか訊きたいんでしょう?」
大叔母は私にそう言った。瞬間、列車がトンネルに入った。気圧の変動で耳がツーンとした。
「まあ、無いと言ったら嘘になりますね」
私はそう答えた。そこまで言ったのならもう思いっきり踏み込んでもいいだろう。私はそう判断して、大叔母に訊いた。
「どうして、可憐さんはお爺ちゃんにそれを伝えないんですか?」
「ふふっ」
大叔母は笑って私から目線を外した。真っ直ぐ前を見て、前の座席に付いている簡易テーブルを見つめて言った。
「兄さんはね、頑固なのよ。美佳ちゃんもよく知っているんじゃ無いかしら? 自分の思っていること意外を信じないような人。あたしからしたらそんな印象よ。あたしとは10歳離れてて、あたしが物心ついた時にはもう大人だったわ。遊んでもくれないし、話してもくれない。兄妹だけど、赤の他人。そんな感じだった。そんな兄さんにあたしが今更なんか言っても聞く耳を持ってくれると思う? あたしは思わない。それに、あたしも今更言う気は無いの。なんか言い訳みたいになっちゃって嫌でしょう? だったら、もうこのままでいいでしょって思うの。それがあたしが兄さんにこれを話さない理由よ」
大叔母が話し終えたと同時に、列車はトンネルを抜けた。私はひとつ欠伸をして、耳のツーンとする感覚を治した。その後で、私は大叔母にこう言った。
「確かにお爺ちゃんは頑固で、自分の信じたものだけが真実だとしたがる感じがあります。でも、ダメ元で言ってみてはどうですか? もしかしたら、なんてこともあるじゃないですか」
すると大叔母は目を細めて、
「あたしの話、ちゃんと聞いてた?」
と告げた。私は咄嗟に謝っていた。そしてもう一度列車はトンネルに入る。暗い窓に、私の謝る姿が映し出された。
「謝る必要は無いわ。疑っているわけでも無いし、美佳ちゃんが言ったのは意見だからね。でもあたしはね、さっきも言った通り、今更言う気は無いのよ。言い訳みたいになるじゃない? それが嫌なのよ。兄さんも頑固だけど、あたしも大概頑固なのかもしれないわ。血は争えない。結果はそうなのかもね。父があたしに言った最後のお願いだって、結局は頑固だった結果とも言えなくないしね」
その話を聞いて思い出した。大叔母は祖父の妹だということを。さっきまでも、頭の中では理解をしていたのだろう。しかしそれを実感していたかと問われると違うだろう。理屈で理解していても、実際に感じているかは別の話であるのだ。さっきまでの私は、理屈でのみその事実を理解していたが実感はしていなかった。しかしその言葉で、兄妹であることを実感したというわけだ。
「ま、そういうこと。あたしはもういいのよ。兄さんになんて思われていたって、どうでも。父にも言われたしね」
「『誰になんと言われても、可愛く愛想を振りまいていればいい』でしたっけ?」
「そうよ」
そして大叔母が笑いながら言った。
「でも、可愛さも愛想も、今になっては何一つ無いけどね」
その笑顔に釣られて、私も笑った。失礼なのかもしれないが、大叔母自身気にしていないようだったのでそこは大目に見てもらおう。私は謙遜が嫌いだ。同時に嘘も嫌いなのだ。だから心にも無いことは言えないし、面白い時に笑わないのだって嫌だ。
「今の可憐さんは、可愛いとは違いますよね」
長いトンネルを抜けて、列車がキーと車輪を鳴らして左にカーブを取った。そして窓の外を小さな駅が流れていく。そんな中、私はそう切り出した。大叔母は私を横目で見た。
「可愛いではなく……」
そう言おうとした瞬間、
「おっと、それ以上は言わないでね」
と大叔母が言った。困惑する私に大叔母はこう告げた。
「真実は心の中だけに留めておきなさい」
と。そしてニッコリ笑って、網棚から鞄を下ろした。
「まだ早いんじゃ……」
と私が言うと、
「いいや、そろそろよ」
と大叔母が言った。その瞬間、車内放送のチャイムが鳴り響いた。
「ほらね?」
と大叔母は笑った。
「すごいですね……」
私がそう言うと、大叔母は笑いながら、
「若い頃の通勤ルートよ。伊達に大月まで通っていたわけじゃ無いのよ?」
と言われた。
「え、松本から?」
「違うわよ」
笑いながら否定される。
「甲府からよ。東西統一と同時に、あたしは新世界をみたいと思って甲府に出たの。それで山梨県の教育事業者になって、最初の勤務先が大月だったってわけ。いつも乗る電車は各駅停車だから、さっき通過した笹子や、次に通過する初狩にも停まるのだけど、急行列車はこのタイミングで放送が掛かるのよ」
「へぇ……」
感心しながら。私は自分の鞄を手に取った。列車は何度も左右にカーブをしながらだんだんと市街地に入っていく。そしてついに速度を落として、大月の駅に入っていくのだった。
「さあ、降りましょう」
大叔母にそう言われて、私は席を立ち上がった。窓の景色は動くことなく『大月』という駅名標を映し出していた。




