第5章
売店でビールを買って、部屋に戻ろうと考えたが、心につっかえたイガイガを取り払いたいと思いフロントへ向かうことにした。
「あの、すみません」
フロントに着くと、私はフロント係の女性に話しかけた。
「なんでしょう?」
「ホテル名の下にある『佐倉溜』さんって誰ですか?」
「え、佐倉様ですか……?」
女性は私の質問に戸惑ったように見えた。まさかそんな質問をされるとは思わなかった、不意を突かれたと言ったような顔になる。私は佐倉という名前に引っかかっていた。曾祖母の苗字と同じであるその『佐倉』というのは、今や日本の財閥を代表する名の1つである。あんなところに堂々と書かれるということは……
「佐倉様はこのホテルを経営する株式会社『フォール』の筆頭株主でございます」
女性は私にそう言った。
「筆頭株主……」
「はい」
そうか。それなら納得だが、なぜ財閥名でなく個人名なのだろう。
「『佐倉』ということは佐倉財閥ですよね? なぜ個人名なんですか?」
「それは……」
私がそう訊くと、女性は少しだけ嫌な顔をした。……流石に知らないか。
「ああいえ、やっぱなんでもないです。すみません。答えていただきありがとうございました」
私はそう言って、フロントを後にした。
「え、ええ。おやすみなさいませ」
背中に女性の困惑したような声が届いた。
部屋に戻った。晴海はシャワーを浴びているようであった。冷蔵庫にビールを入れ、私はベットに座った。しばらく待つと晴海が出てきたから、入れ替わりで私はシャワーを浴びた。シャワーを浴び終わったら、冷蔵庫からビールを取り出して飲んだ。久々に飲む。私は決してアルコールに強いわけでは無い。そしてそんなに好きなわけでも無い。飲むことはあっても、寝る前に1缶だけ飲む程度である。今日も同じ。寝る前に1缶だけ飲んだ。苦くシュワシュワするだけの感覚が喉を通る。
「明日、6時半に起きるでいいですか?」
ベットに横になった晴海が私に言う。私がうんと頷くと、晴海は微笑んで、おやすみなさいと私に告げた。私もおやすみと返し、空き缶をゴミ箱に捨ててから布団に入り、電気を消した。
翌日、私たちは予定通り6時半に起きて朝食を取った。その後チェックアウトを済ませて上野の街へと足を踏み出した。
「やっぱり大きな街ですね。松本なんて比にならないんですね」
「そりゃそうでしょ。70年前まで首都だったんだよ?」
「それもそうですね」
私たちはそんな会話をしながら街を歩いた。しばらく歩いたところで、今まで歩いてきた駅から続く大通りを少し逸れて、かつて栄えていた通りへと曲がった。そしてその道を少し歩き、右手側に大きな建物が見えてきた。白く大きく、そして高く、立派な建物であった。敷地に入るための門の脇の金属製のプレートには『佐倉』と書かれている。
「ここが……」
晴海が目を見開いて建物を見つめた。
「ええ。さあ、入るわよ」
1週間ほど前に、今日来るという旨は伝えてある。私は正面にある門から入り、しばらく続く飛び石のような道を歩いて玄関に向かった。玄関に着いてインターフォンを押す。すると中から鍵が開き、1人の少女が顔を出した。淡い青色のワンピースを着ていて、年齢はおそらく晴海と同じくらい。そしてその顔は、どこか曾祖母を幼くしたような顔つきであった。ふと彼女の肘に目をやると、両手に青痣ができていた。転んだのだろうか?
「えっと……どちら様でしょうか?」
彼女はそう言い、私たちを少し警戒したような目で見た。そんな目で見られると、少し話しにくい。私は少し緊張した。
「ええっと……長野県松本市から来ました、小出美佳と言います。そしてこっちが従妹の蔵本晴海です。本日こちらに伺うと1週間ほど前に連絡を入れてあるのですが……」
「松本市の小出様でよろしいですか?」
その少女は、そこまで聞いて表情ひとつ変えず、少し無愛想にそう訊いた。
「は、はい」
私は緊張しながら返事をした。少女はそんな私を少し軽蔑するかのような目で見ながら言う。
「わかりました。兄に話してきます。少々こちらでお待ちく……」
「これ、凉! お客人を外で待たせるなと何度言えば分かる? それに無愛想に接するでない!」
しかしその声は、家の中からの大声によって途切れた。
「お父様……」
その少女(凉という)は室内に目をやると、そう小さく呟いた。
「お前が笑顔が下手なことも、元より愛想の無いことも、人との付き合いが苦手なことも、俺は全部知っている。それを知った上で接客をやらせているのだ。その意図が何か、もう言わなくても分かるよな? 何度も言っていることだから」
「はい。すみません……」
少女は小さな声で俯いた。
「あと、今は家督が流にあるが、こちらのお二方は俺へのお客人だ。あとは俺がやる。お前は下がれ」
奥から聞こえたその声で、少女は私たちに一礼し、家の中へと消えていった。そしてその少女と入れ替わるように姿を現したのは、眼鏡を掛けたおばあさんであった。
「えっ……と……」
私と晴海は驚いた。さっきまでの声の主は男である。ではこの人は別人なのか? いや、でも……
「どうかしました?」
私たちがそんな思いに苛まれていた時、さっきまでと同じ男性的な声がその人から聞こえた。
「……」
そうか、この人は男性だったのか。あまりにおばあさんのような顔をしているから、てっきり女性かと思ってしまった。
「まあ良いのだ。きっと、俺を女だと勘違いしていたのだろう?」
「えっと……も、申し訳ありません」
「あっははは。良いのだよ。よく言われる。」
その男はそう告げて、私たちに家に上がるよう促した。私たちは家に上がった。
長い階段を上り、5階にまでやってきた。
「すまないね、遠くて。疲れただろう?」
「ええ、まあ。少し」
私がそう答えると、
「驚いた。俺に謙遜をしないとは初めてだ」
と言われた。なんだこのじじい、自分が神のように偉いと言わんばかりの態度ではないか、などと思ったことは死んでも言わないでおこう。
「まあ無理もないか」
その男は微笑みながらそう言う。
「自己紹介が遅れてしまったな。俺はこういう者だ」
男はそう言い、私と晴海に名刺を差し出した。私はその名刺を受け取る。そこには『佐倉溜』と書かれていた。
「さくら、りゅう……」
その文字が私の脳に入った瞬間、昨日のホテルのフロントの光景が蘇る。株式会社『フォール』の筆頭株主『佐倉溜』。なぜか財閥でなく、個人名という、あの『佐倉溜』。
「初めまして。官有佐倉資金機構……いや、失礼。そんな社会主義的な名称よりも、“財閥”などと言うほうが西側からお越しの方々には伝わりやすいか。佐倉財閥の元管理人の佐倉溜だ。今は、個人で主に元東日本の会社の半数以上の経営を支えている。だからまあ、東日本で俺の名を知らない人間は、知っている人間よりも少ないはずだ」
「個人で……」
「半数以上……」
私と晴海は驚きのあまりその場から動けなくなった。なんだ、このおっさん。化け物か? 女性とも見えるような見かけで、今まで何もオーラを発していなかったのに、この瞬間すごく威圧的に感じる。本当になんなんだ? 只者ではない。そう言えば、昨夜フロントの女性に訊いた時、彼女は質問を予想していなかったような表情をした。さらに深く訊くと嫌な顔をした。しかし答えは言いかけていた。つまり答えは分かっていたのだ。ということは、もしや『この人物を知っているということは質問にならないほどの常識である』ということか? であれば、私はあの場で自分が知らぬ間に大恥を晒していたことになる。そうやって考えた途端、私の心を羞恥の念が覆った。
「あっははは。そんなに硬くなって。別に良いのだよ? 資本主義経済になった今、ただ有り余るほどの金に物を言わせているような人生を送る『愚民』も同然であるからな。敬意を示される筋合いはどこにもない。気楽によろしく」
「……」
しかし、本人はそうであっても、私たち平民からしたらそんな人間には頭が上がらない。
「こうしていても話は始まらないだろう? 早く用件をいってもらえると助かるのだが」
その声でやっと私たちは目線を名刺から上げた。
「そ、そうですね。すみません」
「謝る必要などない。それで、何の用だ?」
そう訊かれて、私と晴海は目を合わせる。そしてお互いに頷いて、
「人を捜しているんです」
「協力していただけませんか?」
と言った。溜さんは目を細めて、
「面白いね。聞こうじゃないか」
と言った。
私はまず曾祖母『佐倉凛』の話をした。
「そうか、おばさんが亡くなったか。かなり長生きだったんだな」
と、溜さんは言った。
「ひいバアを知っているのですか?」
と私が訊くと、
「知っているさ。東西統一を祝って佐倉一族で集まったことがあったからな。あと紀薇さんも知っているぞ? あのとき出席していたと思うからな。たしか本を糺せば三井の流れも汲むとか何とか」
と答えた。祖母のことも知っているとは。驚きである。
溜さんは、棚から古いアルバムを取り出してきて私たちに見せた。1990年代の不器用にインクばかり濃い写真たちの中で、若き日の曾祖母や溜さん、また祖母たちが宴会場で豪勢な食事を囲み、笑いあっていた。
「当時、西に残されていた松本佐倉財閥との合流は、東西統一の象徴みたいなものだからね。こっちは社会主義で、財閥なんて許されなかったわけだし。だから国家保有の財産を預かって、その金を使って色々な団体に資金をやりくりする官有資金機構なんて名前に姿を変えていたんだ。だが、そんな状況からの財閥の復活は、東日本にとってみれば社会主義の終焉を可視化したようなものなのだよ」
なるほど、国民みんな平等を謳っていた社会主義下では、富の象徴であった財閥は官有資金機構という名前に改めざるを得なかったというわけか。それで、東西統一の際に、形だけ残っていた西側の佐倉財閥、すなわち曾祖母から財閥の本家筋を譲り受けることで、官有佐倉資金機構は佐倉財閥へと戻ったのだろう。
「だがまあ、もう40年近く前の話だ。2人の姿は写真で見ることができるが、声は一切思い出せない。紀薇さんは元気かい?」
「はい、元気です。ですが……」
晴海がそう言い、言葉に詰まる。
「どうした?」
「最近少し衝撃的な事実が分かって、少しショックを受けているんです」
「ほう。それはどんな?」
「それは……」
私はそう言ってから、遺書と手書きの物語の話をした。そして当然、私たちが捜す2人についても。話をしていくうちに、祖母のショックの話はいつの間にか忘れ去られていた。
「占領事件のことなら知っている。伯父の一家が全員死んでいるからな。昔に父から聞いたよ」
溜さんの言葉に、私たちは期待の眼差しを向けた。
「父の兄弟は、父と伯父以外に男はいなかった。伯父が亡くなったのなら、後継は必然的に父になる。当時学専生だった父は跡を継ぐ気などさらさら無かったらしい。めちゃくちゃ戸惑ったみたいだよ。だから父は、子供である俺たちには小さい頃から経営について勉強させ、高校生になったら実際に接客をさせた。万が一のことを備えて、いつ誰が継いでもいいように。俺はその習慣を引き継いだ。自分の五人の子供にも同じようにやらせたよ」
「じゃあ、最初の女の子は……」
「ああ。あれは末っ子の凉だ。無愛想でね、笑いもしないんだ。いつも一人だし、家族にも胸の内を明かすことをしてくれないんだ。昔はそうでも無かったのだが、俺の妻が死んでからあんな調子になってしまったのだ。妻にはよく懐いていてね、昔は勉強をよく教わっていたよ。妻は教師だったからな」
「そう、ですか……」
話がすごく逸れている。しかし、戻す気にはなれなかった。もしかしたら、占領事件については話したくなくて、わざと話題を逸らしている可能性があるからだ。そんな意図を汲み取らず、無責任に自分勝手なことを言って怒らせてしまってはいけないだろう。
「おっと、話が逸れてしまったな」
しかし、そんな気遣いも無用だったようだ。
「伯父の一家がバラバラ死体で見つかったと聞き、その写真を父は山本中尉から受け取った。父からその話を聞いた時、写真も見せてもらった。見たいか?」
ニヤリとした笑みで私たちにそう問う。怖いもの見たさと理性的な判断が私の中でぶつかる。見たい。やめておけ。そういう念がずっと私の中を交互に巡る。
「ちなみに俺は吐いた」
その言葉を聞いた瞬間、私は見る気を失くした。
「そんなに、アレなんですか?」
晴海がそう問うと、
「まあ、そうだな。顔面が潰され、手足が斬られて、腸が飛び出して。まあとにかく、見ないに越したことは無いな」
と返ってくる。
「想像しただけで気持ち悪いですね」
私がそう言うと、溜さんは笑ってこう言った。
「俺たちの身体も、斬ったり潰したりすれば同じようになるんだけどな」
恐ろしいことを言う人だ。私はその言葉に苦笑いを返した。
「だがまあ、これには一つ不可解なことがあってな」
溜さんがそう続けた。
「不可解と言うと?」
晴海がそう訊く。すると、
「一人失踪しているのだよ」
と返ってくる。
「しかしまあ、」
溜さんはそう言い、
「君たちはもう、全貌を知っているのだろうけどね」
と笑った。
「失踪しているのは長女の『佐倉奏』13歳。彼女の左手の親指だけが見つかっているのだが、身体自体は見つかっていない。彼女が君たちの捜す『さくら』である可能性は大きいだろう」
溜さんはそう言って立ち上がり、窓をガラッと開けた。そして元いた場所に座り、シャツの胸ポケットからタバコを取り出して火をつけた。咥えて吸って、息を吐く。煙が室内に漂い、特有の匂いが蔓延する。すると晴海が咳き込んだ。
「おっと、すまない。お嬢さんはタバコに慣れていないのか」
などと言って、灰皿でタバコを消した。
「ごめんなさい。家族でタバコを吸う人がいなくて……」
晴海が咳き込みながらそう言う。
「いいや、こっちも気を遣えなくて申し訳ない。凉に何度も言われるのだ。
「副流煙を私に吸わせるな」
ってな。そう言われないために、いつもここで吸っているものだから、つい」
そう言い微笑んだ。天下太平な男性だ。私はひとつ咳払いをして話を切り出した。
「それで、その奏さんがどこにいるのか、手がかりはありますか?」
「その前に、ひとつ聞かせてくれ」
私の質問は遮られた。そして溜さんは火の消えたタバコを持ったまま私をピシッと指差した。消えたばかりのタバコからは煙が微かに立っていた。
「捜しているのは、石井統という人なのだな?」
「はい、そうです」
私はそう答えた。すると、意外な言葉が帰ってきた。
「それなら手がかりはあるぞ」
「えっ?」
「石井統というやつの名を、どこかで見たことがあるのだ。自慢では無いが、人の名前を覚えるのは得意でね。かつて見て不思議に思ったことはなんでも覚えているような性なのだ。そして石井統という名の入った手紙をかつて見た気がするのだ」
気がする? 確証は無いというのだろうか。
「すまない。少し書庫を漁ってくる。君たちは1階に降りて現在の財閥管理人の『佐倉流』に挨拶してくるといい。流は俺の長男だがな。あぁ、いなければ彼の妻の菜々くんでもいいがな」
「は、はあ……」
呆気にとられた。協力してくれるのはありがたいが、なんだろう、すごく一方的に物事が進んでいる気がする。まるで、世界の中心は自分なのだと言わんばかりの勢いで溜さんは行動する。
『ただ有り余るほどの金にものを言わせているような人生を送る『愚民』も同然であるからな』
不意に先程の言葉が脳裏を過ぎる。愚民。愚かなわけではなかろうに。
「なるほど急いで見つける。ではまた後で」
そう言って、この部屋を後にして行った。
「変わった人ですね」
「そうね。変な人」
残された私たちは、そんな会話を交わした。
「さて、行きましょうか。1階で挨拶を済ませましょう」
私はそう言って、晴海を率いて一階にまで降りるのだった。




