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大家族  作者: ひらたまひろ
第2部『手書きの物語』
18/26

第12章『東京市街戦・下』

(1958年〜1959年)


 蔵本家が松本へ疎開をした三日後より、東京で本格的な市街戦が開始された。

 ソ連軍は首都攻略のために、池袋、日暮里、新木場に陣を張った。対するアメリカ軍は、東京の市街地の建物に隠れてゲリラ戦を展開する事を決定。いつソ連が攻めてきても良いような状態にまでしていた。

 そしてソ連が進軍してきたのがその日なのであった。

 開始後しばらくは順調にゲリラ戦が展開できていた。路地裏に誘い込んで包囲して殲滅したり、高層建築物の上部から射撃して殲滅したりした。ソ連軍には少しずつではあるものの、しかし確実に打撃を与えていた。


 市街戦の開戦から半年が経過した。戦いはほぼ泥沼化していた。

 この頃になると、ソ連も建物に攻め込んで立て篭る戦術を取るようになっていた。

「ソ連軍の秋田師団が立て篭り体制に入りました!」

 そんな声がしたのは、58年の10月の終わり頃であった。

「どこに立て籠もった?」

 立て篭るのは日常茶飯事になりつつあるため、いつもの如く山本中尉がそう尋ねると、報告してきた一等兵はこう答えた。

「上野の佐倉邸です!」

 それを聞いて、

「上野なら我々の守備範囲か。では攻撃に出るか。よぅし、これより佐倉邸の解放へ向かう! 気を引き締めろ!」と云い、部隊を率いて上野の佐倉邸を目指すのだった。

 上野の佐倉邸。そこは凛の一番上の兄の家族が住んでいた。詰まるところ、佐倉財閥の後継ぎの家である。彼らは疎開をせずに暮らしていた。

 山本に率いられて、統と渉が佐倉邸にやって来ると、そこには荒れた館が広がった。白い壁には無数の銃弾の跡があり、窓ガラスは割れ、家の扉は外れている。見た感じでは窓際などにソ連軍の姿はない。

「なんだこれは……」

 渉はそう呟いた。立て篭る場合、その建物の居住性、というか状態は良く保つことが多い。しかしこの場合は違った。良く保つどころか、その真逆。何かに向けて故意的に発砲をし、そして無理にこじ開けて占領した感が否めないのである。

 そんな時、統の視線が十数メートルほど先の地面に留まった。

「どうした?」

 渉が訊くと、その質問に統は答えず、スタスタと先へ歩いて行った。

「おい、待てよ!」

 渉がその後を追いかける。程なくすると、統は立ち止まってしゃがみ込んだ。そこには、髪の長い小さな少女がうつ伏せに倒れていた。

 統が少女の口許に手を当てる。

「息はある……」

 そう云い仰向けにして顔を見たとき、統と渉は固まった。

「なんだ、こいつ……」

 右に頰に深い傷。血が未だに垂れ続けている。しかし、顔の外傷はそれだけで、なんらおかしなところは無い。二人が驚いたのはもっと違うところにある。

「凛、では無いよな……?」

 渉がそう呟く。統がゆっくりと首を振る。そんなことは無いと云い聞かせるように、ゆっくりと。しかしその顔は、凛の顔に酷似していたのだ。髪の毛がもっと短ければ完全に凛である。

「とりあえず、止血をせねば」

 統がそう云い、鞄からガーゼを取り出した。そして彼女の頰に当てた。ガーゼは血を吸収し、だんだんと赤くなっていった。

「おい、統。左手見ろ」

 そう渉が云った。統は自分の左手をじっと見つめて、

「これがどうした?」と云った。

「違う。凛……じゃない。少女のだ」

 渉が統に云うと、統が少女の左手を見た。そして、

「渉、気付いた時に止血をしろよ」と言いながら、鞄からもう一枚ガーゼを取り出した。そして彼女の手を取り、傷口に当てた。

「だが、一体何があったと云うのだ?」

 統が渉に云う。

「全くだ」

 渉がそう答え、統に云った。

「まさか左手の親指が無いとはな」

 そう。この少女の左手の親指は、付け根から斬り落とされていたのであった。

 統は応急処置の後、彼女を背負って山本の元へ行った。

「石井、それは誰だ?」

「向こうで倒れていた少女です」

 山本の質問に統はそう答えた。山本は、その少女の全体をぐるりと見てこう云った。

「そいつ、後頭部を強く打っていないか?」

「えっ?」

 統が少女を下ろして確認をする。すると確かに、彼女には後頭部を酷く打ち付けたような跡があった。

「なぜ生きているのだ……」

 山本は呆れたといわんばかりの顔をした。

 その直後、一人の兵士が現れて山本に告げた。

「門の裏に死体が集められています! それも身体が分解された状態です。部位の数を数えたところ、五人の身体であることが確認できました!」

「顔の判別は?」

「ひどく潰されていて不可能です」

「男女の数は?」

「男が三人、女が二人です」

「そうか、ご苦労。突撃は可能そうか?」

「死体が片付けば可能かと」

「分かった。では片付けを頼む。向こうが応戦準備の整う前に突撃をしたい」

 山本とその兵士との会話はそれで終わった。兵士は走って門の方向へ消えていった。

「ソ連は、一体何がしたいのだろう」

 渉がそう呟いた瞬間、門の方から爆発音が聞こえた。

「どうした!?」

 山本がそう声を上げると、

「死体が爆発しました!」と云う声が聞こえた。

「……そういうことか」

 統がそう呟いた。

「どういうことだ?」

 渉が訊くと、

「ソ連はバラバラにした死体の山の中に爆弾を仕掛けておいたんだ。中に入るには死体の山を退かす必要があるからな。仮に退かさなくても、上を通った時に爆発させれば良い。つまり……」そう云い、統は館を睨んだ。

「ソ連は元より応戦体制だったという訳だ」

 その瞬間、館の窓や壁から無数の銃口が顔を出す。そしておびただしい数の銃弾が降り注いだ。

「ダメだ! 撤退!」

 山本がそう号令を掛けた。全員後に続いて退いた。統は少女を背負ったまま撤退をした。


 テントに戻った。統は自分のテントに少女を寝かせた。その光景を見て渉が云う。

「なんだか凄い背徳感だ」

「なんでだ?」

「いや、幼い頃のあのお嬢様をお前が寝かしているような錯覚に陥ってな。過去に行って誘拐してきたのではないかと思ってしまうのだ」

「そんなこと……」

 統はそう云って、少女に目を落とす。そしてまじまじと見つめて、

「だが、驚くほど似ているな」と云って、そのまましばらく彼女を眺めた。

 戦いは山本を中心に緻密ちみつに作戦が練られた。突撃は四日後に決まった。

 そして時が過ぎ、突撃の前日となった。

「ん……」

 ピクリと彼女の目蓋が動く。それと同時に喉が唸るような声がする。そして彼女が目を開けた。少女は三日の間眠っていたことになる。

「起きたか」

 統が少女に話しかけた。

「……だれ?」

 少女は統を見て云った。

「俺は石井統だ。第六学専高校に通っていた学生だが、もう半年以上軍人になっている」

「がくせんこうこう……」

 少女はぼんやりとそう呟いた。そんな彼女を気にせず、統は渉を指差した。

「そしてこっちは蔵本渉。同じく軍人だが、こいつは軍学生だ」

 統のその声を聞いて、彼女は訊いた。

「あなたたちはわたしの知り合いですか?」

「違うな」

「では誰ですか? わたし、知らない人にはついて行くなって昔から云われていた気がします」

「……」

 統は黙った。そして渉の方に視線を送った。その目がこう語っている。

(『気がします』ということは、こいつは確証が無いのか?)

「お前、それは考え過ぎだ」

 渉は統が云いたいことを察してそう云った。統は少しため息を吐きながら少女を見た。そして訊く。

「知らない人か。じゃあ知り合ってしまえば問題は無いな。お前、名前はなんだ?」

 すると少女は俯いて黙り込んだ。数秒して顔を上げ、困ったように統に云った。

「分からない……」

「分からない?」

「はい。思い出そうとするとぼんやりと霞んだようになるんです。名前はあるはずなのに、わたし、どんな名前していたんだろうって」

 それを聞いて、統はため息混じりに云った。

「『佐倉』じゃないのか?」

 統は彼女に苗字であろう名を教えた。表向きは佐倉邸の近くで倒れていたからなんて単純な理由ではあったが、凛と似ていたから内心的な確証はほぼ間違いなく佐倉だろうと思っていた。

「さくら……」

 しかし彼女はその言葉を聞いても何一つ思い出せない模様。挙げ句の果てに、

「わたしの名前は『さくら』と云うのですか?」などと訊いてきた。統は面倒に思い、

「ああ、そうだ。お前は『さくら』だ。いいな?」と彼女に云った。すると彼女は嬉しそうに頷いて、

「さくら。まあ、なんていい名前なのでしょう」と云った。渉と統はその余りにものんびりとした返しに二人して呆れたのであった。

 その直後だった。三人のいるテントの入り口が開いて、顔を出した者がいた。

「石井、蔵本。少し良いか?」

 それは山本であった。二人は挙ってテントを出て、山本の後に続いた。

 しばらく歩いて、大きなケヤキの木の下で山本は統と渉にこう告げた。

「いきなりですまないな。あの少女について話がしたい」

「あいつですか」

 統がそう云うと、山本は頷いた。そしてこう云った。

「占拠された時の様子を彼女なら知っているであろう? それを聞き出して欲しいのだ」

「中尉、それは不可能だと思われます」

 即座に渉が返した。

「なんでだ?」

 山本がそう渉に問うと、

「彼女は自分の名前も覚えていないほどの記憶喪失なのです」と渉は答えた。

「ふむ……」

 それを聞いて山本は唸った。

「家の間取りとかはどうだ?」

 山本はそう質問する。

「さあ。流石にそこまでは……」

 渉がそう云うと、

「では訊く価値はありそうだな」と山本が云い、

「俺が直接訊こう」と渉と統に告げてテントへ向かった。

「……無駄なことを」

 統がため息混じりで山本に聞こえないくらいの小さい声で呟いたのを、渉は聞き逃さなかった。


 山本がテントに入る。その少女(以後『さくら』と記載)と目が合う。

「あなたは誰ですか?」

 途端、さくらは山本にそう訊いた。

「山本和寿。陸軍で中尉の位についている」

「ちゅうい? それって偉いんですか?」

 さくらはそう山本に訊いた。

「偉いといえば偉いのだろうが、俺は自分が偉いとは思わない。思ってしまったらそこまでだろうからな」

 山本はそうさくらに云った。さくらは何も理解していないように軽く頷いた。

「それよりお前」

 山本がさくらに云った。

「なんでしょう?」

 さくらはそう云って首を傾げた。

「住んでいた館の間取りを教えて欲しい」

 山本がそう訊くと、さくらは考えるように右手の人差し指を顎に持っていき上を向いた。そしてまたも困ったように笑い、

「すみません。わたしってどんな家に住んでいましたか?」と尋ねた。

「白くて立派な豪邸だ」

 山本がそう答えると、さくらは再度考えるような仕草をする。しかしまた、

「すみません。やっぱり身に覚えがありません」と答えた。

「そうか」

 山本はそう云って立ち上がり、

「迷惑をかけたな」とだけ云ってテントを後にした。


「どうでした?」

 渉が訊くと、

「ダメだ。何も覚えていないような仕草をしていた。演技には見えん」と山本が云った。その声はとても不満気で、そして梅干しを食べたような酸っぱい顔をしていた。

「でしょうね」

 統がそう云って、テントへと戻っていった。

「完全な記憶喪失だな」

 山本がそう呟いた。

「あの後頭部の打撃のせいですかね?」

 渉がそう云うと、おそらくなと山本が云う。

「しかし」

 山本がそう云って、困ったように目を閉じた。

「どうしました?」

 渉が訊くと、

「あいつから家の間取りが聞き出せれば、もっと細かな作戦が立てられるものを……」と云う。

「それで家の間取りですか」

 渉が云うと、山本は頷いた。

「そのために存在を許していたようなものだったのだが、それができないとなるとあいつは今では足手纏いになりかねん。あいつがいると撤退は素早くできないだろうし、庇いながら戦うのも馬鹿馬鹿しい。そして何より、軍の上層部からの許可が降りないだろう」

 山本はそう渉に云って目を開けた。そしてやむを得ないといわんばかりにため息を吐き、直後にいきなり軍人の目をして、

「蔵本。今夜中に少女の始末を命令する」と云った。渉はそれに頷くことしかできなかった。

 テントに戻った渉は、少女をジッと見つめた。少女はその視線に気付いて無邪気な笑みを浮かべた。その顔は凛に似ていて、渉は思わず目を逸らした。

「どうした?」

 統が渉に訊く。

「いいや、どうもしていない」

 渉がそう返すと、統はうたぐりの眼差しを向けながらも、

「ふーん」とだけ云って後は何も云わなかった。

 そしてそのまま日が暮れて夜になった。

「あの、統さんたちはどうして戦争をしているんですか?」

 統の寝袋に包まったさくらがそう訊いた。

「どうして、か。なんでだろうな」

 床に寝転がった統が云う。

「分からないのに戦うんですか?」

 さくらにそう訊かれ、渉が云う。

「正直、これは俺たち日本人の意思として戦っているわけではない。米ソの国家間の争いに巻き込まれているだけだからな」

「全くだ」

 統がそう肯定をして、

「俺たちは上からの命令のままに動いているのだ。やれ東京を守れだの、やれ立て篭りを解放しろだの、そういったものは全て陸軍の命令だ。雑魚兵は戦争の意味を知らないでただ駒として戦わされているだけだ」と付け足した。

「難しいのですね」

 さくらはそう云って頭を寝袋にうずめた。

 それからはしばらく沈黙が続いた。何分という単位なのか、十何分という単位なのか、はたまた何十分という単位なのかは分からないが、その沈黙の間にさくらの静かな寝息が聞こえてきた。

 それを確認して、渉が口を開いた。

「統、起きているか?」

「ああ」

 低い声が返ってくる。渉はそれを聞いてから、

「一つ、訊きたいことがある」と云った。

「ああ」

 さっきと変わらない声が聞こえる。渉は一つ深呼吸をして、重々しく云った。

「山本中尉に、さくらを処分するように云われた」

「そうだろうな」

 その重々しさに比べたらだいぶ軽めな返事が返ってきた。

「知っていたのか?」

 渉が訊くと、

「それくらい予想できるさ」と返ってきた。そして統が続けた。

「お前、テントに戻ってきた時にさくらの笑顔から目を背けただろ?」

「ああ」

「それでだ」

「なんでそれで分かるんだ?」

「そんなの、何か重いことを告げられたことと察せられるだろう。それに中尉の声は明らか不満気だった。今後の処遇が良いようには考えられまい。そこで、軽くて追放、重くて殺処分だろうなと勘ぐった」

 統はそうとだけ云って黙った。しばらく沈黙が二人を襲う。キィンという耳鳴りに、さくらの小さな寝息が混ざって居心地の悪さを誘う。

「では訊くが……」

 渉が沈黙を破ってそう切り出す。統はぼうっと天井を見つめていた。

「俺が今からさくらを殺すと云ったらお前はどうする?」

「お前を殺す」

 即答だった。まるでその質問を予期していたかのような速さだった。

「俺を殺して、どうすんだ?」

 渉が訊くと、

「さくらを連れて逃げる」と統は答えた。

「なぜそこまでしてさくらを守る? こいつに守るだけの価値を見出しているのか?」

 渉がそう問うと、

「いいや、見出していない」と統が云った。

「じゃあなんだ、お嬢様に似ているからか?」

 渉の言葉に統はひとつ小さなため息を吐いた。それは質問に対する呆れや不快感ではない。統自身が自分の思いに対する呆れであった。そして、

「違うと分かっていてもな、こいつがどうしても凛に見えてしまうのだ」と云った。それを聞いて渉は鼻で笑う。

「なんだお前。さくらに価値を見出してるじゃないか」

「……」

 統は何も云わなかった。

「俺もな、同感なんだ」

 渉がそう云った。

「同感?」

 統が訊き返す。渉は頷いて、

「俺も、違うと分かっていながらもお嬢様と重ねてしまうんだ。これが凛では無いことを知っていても、どうしても凛をなぞってしまう。だから、山本中尉に処分しろと云われた時、俺はおぞましい恐怖を感じたのだ。そして躊躇いと拒否。かれこれ一年も戦って、人を殺すことには全くの抵抗を感じなくなった今、俺は久々に抵抗を感じたんだ。普通なら愛着も湧かない少女一人にな」と云った。

「そうか」

 統はそう云った。そしてガバッと起き上がり、渉を見つめた。

「それではお前は殺す気は無いのだな?」

「ああ。全く以て無い」

 渉の返事に首を二、三回軽く振り、

「でも我々は、こいつを処分しなくてはならないのか」と云う。

「そうだな。そうなる」

 渉が云うと、

「では、こうしよう」と統が云った。

「どうするのだ?」

 渉が訊くと、

「俺がさくらを連れて逃げる。お前が殺そうとしたら抵抗したという設定にしてな。それでどうだ?」と云った。

「つまり、俺がさくらを殺そうとしたら、お前がそれを庇って連れ去ったということにするってことか?」

 渉が確認すると、統は首を縦に振った。

「それでは、お前も一緒に逃亡するということだな?」

 渉がそう訊くと、

「ああ」と統が云った。その瞬間、渉は若干の怒りを覚えた。統が戦場という場から解放されることに対する嫉妬に近いものであった。

 渉は意を決した。

 横に置いてあった銃剣を手に取り、そして統に向かって、

「自分だけ戦争から逃げようと思いやがって!」と叫びながら刃を振った。統はそれを回避して、自分の銃剣を手に取って振り回し、渉の頰に浅く傷をつけた。その傷口から血が垂れる。

「渉。すまない」

 そう統が云う。それに対して渉が返す。

「許すはずがなかろう」

 その直後に、渉が統を目掛けてもう一度刃を振るう。統はそれを自分の銃剣で受け止める。二人はつば迫り合いのような状態になる。

「渉、三つ約束しろ」

 統が低い声で云う。

「約束なんて意味がないんじゃなかったか?」

 渉がそう云うと、

「それを知った上での約束だ」と云う。渉は銃剣を更に強く力を込めて統に迫る。

「云ってみろ」

 そう渉が云うと、統がニヤッと笑う。

「一つ。俺がいなくなった後、俺の所在や安否を探るな。

 一つ。蔵本の家の者や凛には俺の生死を不明にしろ。

 そして一つ。……もう二度と会うな」

 そう云われて、渉は笑った。

「いいだろう、それに乗る。だがな、」

 渉はそう云って、銃剣に力を込めて後ろへ飛び、統から距離を取った。

「それは約束じゃない。命令だ」

「そうかよ」

 統はそう返した。

「なに、してるんですか?」

 その瞬間、細い声がした。さくらが目を覚ましたのだ。

「もう、これくらいでよかろう」

 統がそう云い、さくらの腕を強引に掴んだ。

「ちょっと、なに……」

 さくらは全く以てなにが起きているか把握できていなかった。

「少し大人しくしてろ」

 統がそうさくらに云った。その直後、渉がさくらの首筋を銃身で加減して殴った。さくらは気を失った。

「渉」

 さくらを背負った統がそう渉に云う。

「なんだ」

 渉がそう訊くと、統は振り返らずに、

「長い間、世話になった。ありがとう」とだけ云った。そして銃剣でテントを裂き、右足を外に踏み出した。

「上手くやれよ」

 渉は統にそう声をかけた。統は鼻で笑い、

「お前もな」と云った。そしてテントを潜り、闇の中へと消えていった。

 これが蔵本渉と石井統の最後の別れであった。


 統が逃亡した翌日、渉は山本に謝った。さくらを殺せなかったこと。統が逃走したこと。それを聞いた山本は、二、三回軽く頷いた。そして、

「分かった」と云って渉を見た。しかしその後、こう訊いた。

「それで、本当はどうなんだ?」

「……」

 山本は全てを知っているかのような目をしていた。

「なあに、怒りはしない。石井もお前も、あの少女を殺せる人間だとは思っていないからな」

「じゃあなんで……!」

 渉は山本に迫った。

「上からの命令だ。表向きはお前の報告通りのことを載せる。だがな、俺には真実を話せ。それによって、俺は石井統という逃亡兵を探して処分するかしないかを判断するのだ。もし本当に逃亡なのであれば、俺は探し出して奴を殺さねばならない。しかし、もし少女を逃すために闇夜に消えたのであれば戦死と報告する。捜すこともしないでな」

「……」

 渉はその言葉に黙った。そして静かに、昨日の夜になにがあったかを話した。山本はふむふむと全てを聞き、

「それでは死亡届は軍の上層部にのみ届け、家には届けないものとしよう」と云った。

「何故ですか?」

 渉が訊くと、

「生死不明にしなくてはならないのだろう? 死亡届を送りつけたのならば、生死不明は成り立たないではないか」と山本が云う。

「でも……できるんですか?」

 渉がそう云うと、

「やってやる」と山本は云った。

「ありがとうございます……!」

 渉は頭を下げた。山本はそれを柔らかな微笑みを浮かべて見ていた。

 その日の午後、いよいよ館の解放に向かった。結論から云うと、解放は失敗に終わった。そのまま館は陣取られ、こちらは死傷者を出しただけだった。

 この日からアメリカ軍の衰退が始まった。まずは東京城周辺が落とされ、だんだんと新宿の方へと押されて行った。

 渉の次の戦場は新宿だった。これで新宿まで落ちたのであれば、首都はソ連の手に落ちたことになる。それは防がなくてはならないのだが、新宿は二ヶ月も保たずに落ちてしまった。

 その後次々と恵比寿、品川と落ちて、東京市街戦が始まって一年と少し、ついに東京がソ連の手に落ちたのだった。東京市街戦はここに集結を迎えた。


 東京市街戦が収束してしばらく経った頃、松本では瑠璃と凛による子育てが行われていた。瑠璃の子は男で、名を実秀と云う。凛の子は女で、名を紀薇と云う。しかし紀薇は、戸籍上で信之と凛の間に産まれていた。そして苗字が三井のままであった。凛はそれを嫌った。そして見つけた打開策。それは……

「紀薇を私の養子にします」

 そう。凛は自分の子である紀薇を三井家の子として扱い、その子を佐倉の籍、つまりは自分の子にするために、養子という扱いにしたのだった。

「いいの? 養子にしたら、その子との血縁関係は無いって見られるけど」

 瑠璃が凛に訊くと、

「それでも三井の籍よりはマシです」と答えた。

「そう」

 瑠璃はそう云い、紀薇を凛の養子とすることを止めなかった。それは蔵本家の者の誰もがそうで、

「凛ちゃんがそれで良いなら」と云い、紀薇を養子として扱うことが決まったのだった。

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