第11章『東京市街戦・上』
(1958年)
一九五八年 一月廿七日
政府は東京市一帯に疎開指示を出した。これは、東京市一帯で大規模なゲリラ戦を行うことを政府が認めたことを示唆していた。しかし例外もあり、この戦争に多額の資金を送っている財閥などは疎開対象から除外されていた。
蔵本家は、疎開先を探して焦っていた。大東亜戦争の際に疎開しなかったため、今すぐに地方に行って暮らせる場所がないのである。
そんな時、瑠璃が蔵本家にやって来た。
「あら、瑠璃ちゃん。久しぶりね」
佳苗がそう云い、瑠璃を家に上げた。この頃、瑠璃のお腹には子供がいた。それは知っての通り、渉との間の子である。
「統も徴兵されたんですか」
「ええ、数日前に」
そして瑠璃にこう云った。
「変わった奴だったわよ。徴兵された時も、どこか旅行に行くかのような気を感じたわ」
そう。統が出兵した日、彼はとても気楽な感じに手を振って別れを告げた。一人一人に対するメッセージも無く、
「んじゃ、行ってくる」しか云わなかった。
「そうですか」
瑠璃はそう云って、少しだけ俯いた。
「そう云えば瑠璃ちゃん。どうしてここに来たの?」
佳澄がそう訊く。すると瑠璃が笑って云った。
「実は、数年前にあたしの両親がグアム島で亡くなった叔父の追悼に行ったんです。そしたら気に入ってしまって、
「疎開先にはグアムよねー」と云って、
「どうせなら移住しましょう」てなっちゃって。それで両親はグアム島に移住することを決めたんです」
「え、じゃあついて行けばいいじゃない」
佳苗がそう云うと、瑠璃は首を振った。
「あたしは渉が帰ってきたら結婚するって約束してるんですよ? だから、グアムなんかに移住しません。日本で帰りを待ちます」
「えっ」
佳澄と佳苗は初耳だった。
「渉のやつ、なんでそんな重要なことを話していかないのかしら……」
呆れたように佳澄が云った。
「え、渉ってそれ云ってなかったんですか!?」
瑠璃が驚いたようにそう云う。そしてその場にいる全員が呆れたようにため息をついた。そして同時に笑って、
「ま、渉らしいわね」と云った。
「それで、結局瑠璃ちゃんはどうしてここに来たの?」
佳澄がもう一度訊くと、瑠璃は云いにくそうに切り出して、
「一緒に暮らしていいですか?」と訊いた。
「なんでそんな云いにくそうなのよ? 良いに決まってるわ。渉のお嫁さんなんだから家族よ」
佳澄がそう云って笑った。瑠璃はそれを聞いて嬉しそうに微笑んだ。
「でもお姉ちゃん。疎開先、まだ決まってないよ?」
佳苗がそう佳澄に云った。
「そうなのよね……」
佳澄が、どうしようというような感じに呟いた。全員がうーんと唸ってしまった。
そんな時、外から更に声がする。小さく消えそうな声だったが、透き通っていて確かに聞こえる声だった。瑠璃にはその声に聞き覚えがあった。もう何年も会っていないし、昔は仲良かったが、最後はそれほど良くなくなってしまったお嬢様。
「凛ちゃん……?」
瑠璃がそう呟いて、重い体で立ち上がろうとした。
「ああ、いいのいいの。瑠璃ちゃんはそこにいて」
そう云って、佳澄が玄関に向かった。
佳澄が玄関に向かうと、そこには凛がいた。小さな体に子を宿していた。
「あら、あなた。いつぞやの統の連れ込んだ子じゃない」
「え、あ、はい。でも……申し訳ありません。私はあなた様を覚えていません……」
そう云って申し訳なさそうな顔をする凛に、佳澄がクスリと笑う。
「当たり前ね。あなた、ほぼ気を失っていたような状態で私と会っているんだもの」
「そう、でしたね」
それを聞いて、凛がふわりと笑った。
「ま、立ち話もあれだから上がりなよ。お客さんもいるけどねー」
そう云って、凛に上がるように促した。
部屋に入って凛が最初に目にしたのは瑠璃だった。
「鈴川さん……? なんで……」
「久しぶりね、凛ちゃん。ああ、安心して。あたしは統を奪えなかったから」
「違います! そうじゃないです。なんであなたがここにいるんですかと訊いているんです」
そう凛が訊くと、瑠璃はふふっと笑って、
「あたしは渉の妻……になる予定だからよ」と云いながら膨らんだお腹を撫でる。
「蔵本さんの……」
凛は何か納得したように頷いた。
「それであなたはなんでここに来たの?」
今度は瑠璃が訊く。すると凛が弱々しい笑って、
「家を追い出されたからです」と云った。
「追い出されたってあなた……」
瑠璃がそう云うと、
「実はですね、信之さんが亡くなってから、三井家とは離縁したんです。そのあとに上野の佐倉家、えっと、私の一番上の兄のところに居たんですが、その佐倉家は疎開をしないと決めたんです。それで、子供がいる私は疎開をするように云われて、今から疎開先に向かうところなんです」と答えた。
「じゃあなんでここに来たのよ」
そう訊くと、
「統さんに会いに来たんです」と云った。そして、
「統さんはどこにいるんですか?」と佳澄に訊いた。佳澄は気不味そうに、
「出兵したわよ」と答えた。
「……」
凛の顔が曇る。瑠璃がため息をつく。
「諦めなさい。亡き夫との子を宿しながら昔に好いた人に会おうだなんて、あなた欲張りにも程があるわよ?」
その言葉を聞いて、凛が顔を上げる。その顔は目を細め、どこか悪戯っ子のような笑みを浮かべ、でもその裏には微かな怒りが宿っているように思えた。
「この子は信之さんの子ではないんです。信之さんとの間には子供ができなかったんですよ。というか、あの人は子供が作れない人だったんですよ」
「じゃあその子は誰との子なのよ?」
瑠璃の質問に、凛はふふっと笑った。そして少し嬉しそうに、
「統さんですよ」と云った。瑠璃は硬直した。
「いつ、どうやって……?」
「いつって……」
凛はそう云って顔を赤くした。そしてお腹をさすりながら、
「五ヶ月くらい前です」と云った。
「はぁ……」
瑠璃はため息を吐いた。
「驚いた。あなたに全く隙が無いことは理解していたけど、まさかここまでなんて……」
その声は驚きというより呆れであった。そんな瑠璃を見て、凛が笑いながら云う。
「ありがとうございます」
「いや褒めてないわよ」
速攻で瑠璃が返す。その会話に佳澄が割り込んだ。
「でも、統も凄かったのよ?
「こいつが不良品であるはずがない!」
とか云い切って、そのあと真面目な顔になって、
「俺が証明してやる」みたいなこと云うんだもん。感動したわぁ」
それを聞いた凛の顔に焦りが見えた。
「……どうして、その言葉を知ってるんですか……?」
そう。その『証明してやる』という言葉は、統が凛と二人きりの時に云った言葉なのだ。知っているということはつまり……
「あ、ごっめーん。盗み聞きしてたっ!」
佳澄がニッコリと笑みを浮かべて凛に云った。そして続けて、
「一部始終ね」と付け足す。瞬間、凛の顔が真っ赤に染まった。
「い、一部始終!? それじゃあ、わ、わたしと統さんの……」
「ええ。何とは云わないけど全部聞いたわよ?」
その答えを聞いて、凛はその場で悶絶した。それを見て瑠璃が、
「ほんと、災難だったわね」と笑った。しかしそれは、どこか愉快そうな声であった。
それから数分。凛は立ち直った。そして一つ咳払いをして、こう告げた。
「ところで、皆さんは疎開先が決まっているのですか?」
「いいえ。今の今までそれで頭を抱えていたところよ」
佳澄がそう答えると、凛がくしゃっと笑った。そして、
「松本に佐倉財閥の第三別荘があります。先の戦争の時に私が疎開していた場所ですが、よろしければ一緒に住みませんか?」と云った。
「え、いいの?」
佳澄がそう訊くと、
「私ひとりでは広すぎますし、お腹の子もいますし……」と云った。そして、
「こちらからもお願いしたいくらいです」と付け足した。
「文句なしよ! 私たちは行く場所が無かったんだから感謝よ!」
佳澄がそう云い、母親を呼んだ。すると母親が姿を現した。
事を説明すると、母親は申し訳なさそうに凛に感謝を述べた。そうして蔵本家の疎開先が決定したのだった。
疎開をするために、汽車の切符を買わなくてはならない。東京が戦場になる前に切符を買っておかなくてはならないので、事は急いでいた。
「佳沙里、佳沙芽。お使いを頼んでいいかしら?」
母親が妹二人に頼んだお使い。それはもちろん切符を買うことである。佳沙里と佳沙芽は元気に頷き、母から預かったお金を持って松本への汽車の切符を買いに家を出た。
この時二人が向かったのが日暮里駅で無かったら、あんな悲劇は起こらなかったかもしれない。
戦場へ派遣される渉と統のいる部隊。彼らが任されたのは、東京から上野の一帯であった。つまり、東京城のお膝元ということである。
「渉。佳沙里がくれた人形はあるのか?」
統がそう訊くと、渉は鞄からそれを取り出した。
「この通り、しっかりあるぞ。若干ほつれてるけど」
統はその人形を渉の手から取って、じっくりそれを眺めた。そして、
「縁起悪いな。首がほつれているとは。それに腹のとこから綿が出ているし」と云う。
「しょうがない。まあ所詮人形だ」
渉はそう云って、統に向けて右手を広げた。統は何も云わずその手に人形を置いた。
「日暮里では日夜激しい戦闘が続くという。ソ連の優勢で、既に戦線が崩壊しかかっているそうだ。そろそろ来るぞ。そして、だ。いよいよ東京市街戦が幕を開けるぞ。市街地では建物に隠れながらゲリラ戦が展開できる。土地勘のある我らが有利なのは間違いない。絶対に守り抜くぞ!」
その直後、山本がそう云った。全員が、おー! と声を上げた時だった。正面からフラフラと歩いてくる人影が見えた。
「誰だっ!」
部隊全員が銃をその人影に向けた。しかしその人影は立ち止まらず、まだフラフラと歩いている。意識が有るか無いか。それすらも分からない。そしてだんだんとはっきりその姿が見えるようになって、山本が叫んだ。
「銃を下ろせ! 少女だ!」
その声で全員が銃を下ろした。渉と統もその目の前から迫る少女を見る。
全身に深い傷があり、服はボロボロになってはだけて、寒空の下、ほとんど上裸に近い姿だった。至る所から血が垂れて、小さな身体は真っ赤に染まり、左脚をズルズルと引きずって、今にも倒れそうな足取りで歩いている。
しかし、その姿には見覚えがあった。渉はその少女を見て、反射的に駆け出していた。そして近づき、その少女を抱きしめた。
「佳沙里っ!」
そう、それは佳沙里だった。統も駆け寄る。
「どうした!? 何があった!? 教えろ!」
渉が焦ったように訊く。佳沙里はヒクヒクと震えながら、涙で顔を濡らして細く掠れた声で云う。
「ソ連……もう、日暮里、に偵察、イる……メェ、佳沙芽……殺さレちャっタ……こレ、きっぷ……家に、届ケ……て…………お、お願ィ……」
そう云って、握り締めていた硬い紙の束を渉に渡した。渉はそれを受け取った。日暮里から松本までの片道乗車券が七枚。それには血がべったりと付いていた。
「佳沙里。約束、覚えてるよな?」
統が血塗れの佳沙里の頰をハンカチで押さえながら訊く。統のハンカチがだんだんと赤く染まっていく。
「統にいサ……ごメ……そレ……ワタシ……」
そう云って、目から涙を流した。泣き声は苦しそうなもので、たまに咳込みながらウグウグと喉に詰まるようなものであった。その声はだんだんと小さくなっていき、そしてついに、呼吸が止まった。
「佳沙里!」
渉が佳沙里を揺さぶると、佳沙里の腕が力なく地面に落ちた。その腕を伝って血が流れていく。
「かさり……?」
渉が震えた声で訊く。返事は無い。
「かさり?」
もう一度揺さぶりながら訊く。今度は首がそっぽを向いてだるんと垂れた。やはり返事は無い。
「かさり……」
渉は佳沙里が死んだ事を知った。切符を手放し、佳沙里の小さな身体を抱きしめて思いきり泣いた。統の目からも涙が垂れた。
「……約束なんて、意味がない。賭けても何も意味はない」
統がそう呟いて、佳沙里の亡骸を渉から強引に奪い取る。
「なにすんだ!?」
渉が統を思いきり睨む。そんなのを気にせず統は佳沙里の亡骸の肩を揺さぶりながら叫んだ。
「お前、自分から約束して死ぬとか頭悪すぎかよ! 生きて会うって約束したのお前だろうが! お前が今ここで死んだらその約束は無くなるぜ? 果たせない約束を自分から結び、それに俺を巻き込んだ事を詫びろ! 全身を尽くして、地に頭を伏して、俺の拳骨を受けて泣き叫べよ!」
「かーえーせーよー!」
統が佳沙里の身体をひたすらに揺らしていたところから、渉が佳沙里の身体を無理やり奪う。そして抱きしめて泣いた。
「……家族なのか?」
後ろから山本の声がする。統が叫びすぎて枯れた声で云う。
「渉の妹です。俺からしても、実質的に妹みたいな存在です」
「そうか……」
山本がそう云って、渉の足元に散る切符を拾い上げた。
「これを、家に届ければ良いのだな?」
「……はい」
統はそう云い、
「あの、佳沙里の亡骸はどうするんですか?」と訊いた。
「うーむ。兵隊と同じところに埋めることになるだろうな。上野に陸軍の霊園があるから、相談を持ちかけてみよう」
山本がそう云う。それを聞いて、統は少し俯いた。
「どうした?」
そう山本が訊くと、
「家族の元には、帰れないんだなと思いまして」と答えた。
「残念だが、運べない」
山本がそう云い、渉の元へ歩いていった。そして渉に、
「妹はもう死んだのだ。受け入れろ」と云った。そして強引に佳沙里の身体を取り上げた。渉は佳沙里にしがみつこうと必死に足掻いた。その渉の目の前で、山本は銃剣を掴んだ。そして、その銃口を佳沙里の亡骸の胸に当てた。
「おまっ!」
渉が山本に叫んだ。山本はそれを気にも止めず、そのまま引き金を引いた。
バァンと音を立てて銃弾は発射された。そして佳沙里の小さな胸を貫いた。しかし、それだけだった。亡骸からは呻き声の一つも出ない。
渉は怒りに満ちた顔をした。統は諦めたようにため息を吐いた。
「佳沙里を殺すな! 人殺し!」
渉がそう叫んで山本の胸ぐらを掴んだ。
「これで分かっただろう? 諦めろ。妹は死んだんだ」
山本はそれしか云わなかった。しかし渉はずっと揺さぶり続けた。
そんな時だった。渉の首筋に激痛が走った。そしてあっという間に気を失った。
「悪いな、渉。少し頭を冷やせ」
それは統が銃剣の銃身で首筋を殴ったからであった。倒れた渉の手から、血をべったりと吸い取ったほつれた人形が転がった。
「山本中尉。家に宛てて手紙を書きます」
統がそう云うと、山本は統に許可を出した。統は家に向けて手紙を書き始めたのだった。
「石井。その手紙は陸軍の速達で届ける。書き終わったら俺に渡してくれないか?」
山本がそう云うと、統は頷いた。
佳沙芽と佳沙里が切符を買いに行ってから十二時間が経った。蔵本家は一同心配をしていた。それもそのはず。こんなに時間がかかることはありえないのだから。
そんな中、手紙が届いた。それは陸軍の急便で届けられた。
「統の字だわ」
佳澄がそう云うと、全員がそれを覗き込んだ。統の草書じみた文字が紙に載っている。
その独特な、見方によっては雑な文字でこう書いてあった。
『上野にて陣を張ってゐる。そろ/\ソ連の攻撃あらむとて、中尉、我らに警戒せしめたる時、正面より傷だらけの佳沙里の姿見ゆ。彼女、日暮里にて佳沙芽が殺されし旨を伝達す。然して渉の腕の中で死す。埋葬は陸軍形式で行ひて、陸軍上野の霊園に葬る。佳沙芽の遺体は回収不可。
東京は間も無く戦場と化す。彼女らの残しゝ切符にて急ぎ疎開せよ。渉と我は対戦に全力を尽くす也。然様なら。
石井統』
封筒の中には、日暮里から松本までの片道乗車券が七枚入っていた。それは血塗れだった。
「かさり……かさめ……」
一同が言葉に詰まった。あまりに残酷な事態になってしまった。
「私が、お使いなんかを頼んだせいで……」
母親がそう云って壁に額を強くぶつけた。
「母さん、やめてよ!」
佳苗が止めた。しかし母親は頭を壁にぶつけ続け、ついには額から血を流し始めた。佳苗は母親を力尽くで壁から離し、落ち着かせた。しかしその佳苗もまた、泣いていた。
「なんで、死んだんだろ……」
佳澄が俯いて云った。(書いている今も詳細は謎のままであるが、当時の日暮里は激しい戦闘渦にあったため、何らかの形で巻き込まれたと思われる。)
「疎開、しますか……?」
凛がそう訊いた。すると佳澄が切符を握り締めて云う。
「当たり前じゃない。佳沙里と佳沙芽が命がけで手に入れた切符よ? 使わなくて何になるの? 努力を無駄にするわけにはいかないわ」
そして立ち上がって、
「行くわよ! 落ち込んでいても戦争は待ってくれない。さっさと東京を出て身の安全を確保すべきよ。だから支度するわよ」と云った。全員涙を拭いて頷いた。非情だと声を上げる者はいなかった。
そうして蔵本家は、二人の犠牲を出しながらも東京から松本へ疎開を始めた。




