第10章『東京戦・下』
(1957年〜1958年)
その五週間後、凛に妊娠が確認された。統の読みは見事に当たった。それ以降、凛に対する三井家の態度が変わった。三井の人間は、それは凛と信之の間の子だと思い込んでいた。
「驚いたわ。あなたは妊娠ができない体質だとばかり思っていましたわ」
姑が凛にそう云う。凛は営業の笑みを浮かべて、
「私もそう思っておりました」とだけ云った。
「健康的な子を産みましょうね。そして信之が戦争から帰ってきたら、また同じように産むのです。頑張りましょう」
凛はそれに苦笑した。
年が明けた頃、戦線は押されていた。最初にいた江戸川のほとりから、だんだんと東京側に後退していき、ついには旧江戸川の辺りにまで下がった。つまりそこは、千葉県と東京府との境であり、その川を超えたのなら千葉県は完全にソ連に堕ちたことを意味していた。
この時、既にかなりの損害が出ていた。最初にいた五百人の中で生き残っていたのは百人前後。しかし、人が死んでは新たな人が入ってくるので人数的にはそれほど減っていない。浦安は東京を防御するに当たっての要所であるため、なんとしても守り抜く必要があるのだ。だからこそ、十倍という絶望的な戦力差があろうとも、人員の補充が為されてここまで耐えているのである。
「もう、潮時か」
しかし、ここにきて山本はそう呟いた。そして、
「退け! 旧江戸川を越えて東京にまで下がる! だが諦めるわけでは無い! 最後まで抵抗を続けよ。なんとしても都心へソ連を連れていってはならない!」と告げた。冬の川を渡り、対岸へと移動をする。その川の水は、渉の体を一気に冷やした。
「結局、守りきれなかったんだな」
川を越えながらそう信之が呟いた。
「そうだな。さすがソ連だ。勢いがある。大東亜戦争の時も、終戦後に二週間で樺太と千島を占領しただけある」
「確かにな」
信之はそう云って鼻で笑った。
ソ連軍を迎え撃つのは何も無い湿地帯である。山本がゲリラ戦を仕掛けようと試みたものの、そもそもとして身を隠す場所が無かったため断念。そのため敵から丸見えとなり、生存の確率が一気に下がった。
「次に身を隠せそうな場所は、もう都心周辺の市街地しか無い。今すぐにでも生存率の高い方へと逃げたいが、戦争である以上それは許されないだろうな」
誰かがそう呟いた。死にたく無い。まだ生きていたい。誰しもがそう願っているようだった。渉もそれに共感していた。鞄の中の人形を見つめて、ギュッと目を閉じた。
「甘ったれるな! いいか、これは戦争だ! そしてここは戦場だ! 生きた帰りたいと思っているとは思うが、その為には全力を尽くして戦え!」
山本はそう云って、軽戦車に弾込めを指示した。機関銃にも銃弾を入れ、戦闘の準備が着々と進められた。
その後、戦闘状態に陥った。怪我人や死人も出た。幸い、信之と渉は死ぬこと無く生き延びた。
夜になって、テントに入り信之が云った。
「蔵本。お前は家に帰りたいと思うか?」
「ああ、思うさ。こんなくだらん戦争は辞めて、さっさと家に帰って暮らしたいものだ。家族にも友人にも、出兵してから約四ヶ月会えていないからな。さっさと話したいところだ」
渉がそう返すと、
「もう、四ヶ月も経つのか」と信之は云った。
「どうだ? あっという間だったか?」
渉がそう訊くと、信之は鼻で笑った。
「命の危機をこんなに身近に感じた事は無い。ある意味新鮮で、最初のうちはあっという間に感じたさ」
そして渉を見ながら、
「今はもう、日常のようになってしまった。戦っている時も、なんだかんだで退屈だなと思いながら引き金を引いている瞬間すらある。お前もそうじゃないのか?」と云った。
「同感だ」
渉はそう答えた。そして、
「死にたくは無いが、これだけ身を隠す場所が無い中戦っていたら、いつかは全滅するだろうなと思う」と云った。それを聞いて、信之が云った。
「俺は死にたく無い。絶対に生きて帰ってやる。俺は今まで、かなりの悪事を働いた。自分でも分かるような悪事を、何度も」
「そうか」
渉がそう相槌を入れる。それには何も言わずに信之が云う。
「生きて帰って、俺はすぐに伝えたい。ごめんなさいと、心から謝りたい。俺は自尊心だの何だので、謝った事はそんなにない。だがそれでも、この戦争から帰ったら伝えたいのだ。特に妻に。あいつには、本当に迷惑をかけたからな……」
その言葉を聞いて、
「じゃあ、死ぬわけにはいかないな」と渉は笑った。
「ああ」
信之はそうとだけ云って、寝袋を被った。
次の日、渉と信之は轟音によって目を覚ました。それは銃声であり、そしてかなり近くだった。
「敵襲だー!」
叫んだのは誰だか分からないが、間違いなく今の状況が自分たちに不利なことは瞬時に分かった。渉は銃剣を引っ掴み、テントを出た。もう敵はかなり近くまで来ていた。
「ったく、睡眠時間くらい取らせろ!」
渉は目をゴシゴシと擦り、そして銃剣を敵に向けて引き金を引く。そうして戦闘状態へと陥った。
一時間後のことだった。山本の元にある連絡が入る。
「なんだと! ……ああ。ああ。……ええ!? それでは……ああ。ああ……分かった。戦線を下げる」
そう云い電話を置く山本。そして云ったことは、
「ソ連軍に池袋が陥落した。さらに東京方の日暮里戦線も瓦解寸前とのことだ。もはや市街戦は避けられん。我々も撤退をして、兵力を東京の市街地に密集させろと。つまり上層部は、都心でゲリラ戦を行いたいようである。だから指示に従って、我々も戦線を下げる!」
そして伝える。
「撤退命令! 戦線を東京市街にまで下げる! 我々の防衛責務は果たされり! 撤退だ!」
兵士は列を乱して各自テントの撤収に取り掛かる。
「結局、俺たちが頑張ったところで意味は無いってか? 勘弁してくれよ」
渉がそう云う。信之が、
「全くだ」と呟いてテントを畳む。そしてシートを剥がそうと手を掛けた時だった。
スプンッ
そんな音を立てて、シートを丸い弾が貫いた。そこに血飛沫が舞う。そしてドサッという音を立てて信之が膝をついた。
「三井?」
渉が訊くが、返事は無い。そしてそのまま、渉が立つのと逆方向の地面に倒れた。瞬間に、信之の頭から血が流れ出る。
「三井っ!?」
渉が信之を揺さぶった。信之は目を開けたまま、額から血を流して倒れていた。そう、彼は頭を撃ち抜かれたのだった。もちろん、即死である。
「おい、早くしろ! 撤収だ!」
山本の声がする。渉は山本に向かって叫んだ。
「三井が……! 三井が撃たれました!」
すると山本が渉を見て、
「そうか。だからどうした?」と訊いた。
「だからって……仲間が倒れたんですよ?」
「そうだな。それだからどうした? 戦争なんだ。死人が出るのは毎日のことだ」
渉の言葉を、山本は重く受け止めなかった。そして渉に近づき、
「分かったか、蔵本。人はいとも簡単に死ぬ。今までも何人も死んでいる。その度に何人かは悲しむ。そして情を移す。だが、そいつと面識が無ければ誰一人として気にも止めない。お前はこの戦争で誰かの死を悔やんだか? お前は今まで、誰かが死んでも『ああ、死んだのか』程度にしか思わなかっただろう? 今の状況は、周りから見たら『ああ、死んだのか』という状況である。だがお前は違うだろう? 今までもそう思っていた奴はいた。それは毎日のようにいた。今回はたまたま、その役がお前だっただけだ」と云った。そして、
「だから、もう一度問おう。それがどうした?」と訊いた。渉には、山本が云わんとしていることが分かった。つまりそれは、
『日常茶飯事なのだから、その死なんかで作業を止めるな』と云いたいのであると。
「死体はそこに置いておけ。いつか土に還る」
山本がそう云い、信之の亡骸に向けて軽く手を合わせた。そして渉の前を去った。渉は右手を握りしめた。目からは涙が出て、どこにもやりようのない怒りが心を埋めた。
「クソが……!」
渉はそう云い、鋭い目で山本の背中を睨んだ。しかし、それは決して山本を恨んだからではない。その視線がただの当て付けであることは、渉が一番よく理解していた。
渉が本当に恨んだのは、この戦争というものが根本にあり、その上に形成されている世界そのものなのだから。
凛の妊娠は四ヶ月に迫っていた。だいぶ体に負担が大きくなってきて、それを見た姑が家事を全て引き受けてくれた。周りの人は、凛の妊娠が正確に何週間かというのは知らない。妊娠の発覚に時間差があったのは、ただ単に凛が気付くのに時間がかかったからであろうと考えていた。だからその子が信之との間の子であると信じて疑わなかった。
ある日、凛が自室に篭っていると、居間の方から姑の呼ぶ声が聞こえた。凛は重い体を起こして居間へ行った。すると居間では、珍しく三井家の人間が勢揃いしていた。その空気は重く、泣いている人もいる。
「どうしましたか?」
凛がそう云って入ると、姑はちゃぶ台に置いてある一通の手紙を指差して、震える声で云った。
「非常に悲しいお知らせです……」
凛はその内容を見る前に悟った。それはきっと、信之の死について書いてあるのだろうと。
手紙を実際に手に取り、内容を確認する。
『三井信之、東京戦にて戦死。享年十七。』
紙にはそれしか書いていなかった。筆跡は女のような丸いものであった。しかし、その中にも力強さが感じられ、きっとこれは男の人の字なのだなと思った。
「信之が……」
姑はワッと泣き出した。それにつられ、今まで泣いていなかった人も啜り泣く。
凛は黙ったままだった。彼女の心の中は、黒く澱んで曇っていた。それは渾沌と云っても過言ではないほどであった。沢山の恨みと怒り、その後に遅れてくる戦争への恐怖、恨みや怒りを本人にぶつけられない辛さ。そして最後に襲ってきた感情は、彼を失った悲しさと寂しさだった。
(あんなに憎んでいたのに、あんなに嫌っていたのに、わたしの心に嬉しさが込み上げないのはどうして……?)
凛は冷静に自分の感情を分析していた。信之を失っても、彼女にはそれだけの余裕があったのだった。それは根本、凛が信之のことを嫌っていたことが原因である。根本の理念は感情の表現に強く影響を及ぼし、根本として愛情を注いでいた三井家はこの死に耐えれなかった様子である。この瞬間、凛と三井家の者の間で明確な温度差が生まれていた。
「凛さん、あなたは悲しくないのですか?」
凛はそう姑に訊かれた。凛は俯いて、
「……悲しいですよ。悲しくないはずがないじゃないですか」と云った。それを聞いた姑は、
「あなたは強いのですね」と云って、更に泣いた。
凛はそれを黙って見ていたのだった。
戦争は悪化していく一方であった。いよいよ戦場が都心へと移ろうとしていて、人々の生活も困難を極めていた。物価の高騰から盗みや暴力的な略奪へと発展し治安が悪化。安易に外へも出歩けなくなっていた。
更にこの年、学徒出陣法が制定され、義務教育を終えた男子に出陣の命令が下された。それは学専高校に通っていても適用される、アメリカの統治下に置かれた全日本国民を巻き込んだ法律であった。
そしてある日、蔵本家に一通の手紙が届いた。統は自室でいつも通りお茶を啜っていた。そんな時に、佳澄から呼び出された。曰く、
「統宛に手紙よ」とのこと。しかし、その声には元気がなかった。その手紙の内容を知っていたからだ。それは統自身も察しがついていた。封を切って中を見る。するとそこには、予想通りこう書いてあった。
『東京学専高等学校三学年、石井統。陸軍省長官より、学徒出陣法に従いて出陣を命ずる。これより三日後、東京城前に召集の号令をかける。それまでに子孫を残し、未来の戦士を残せ。では当日、必ず来るように。』
統はそれを読んで、また一口お茶を啜った。その顔は、眉毛一つとしてピクリとも動いていなかった。
「なんでそう無反応でいれるのよ?」
佳苗がそう訊く。
「無反応ではない。内心『来ちまったぜこんちくしょう』と思っている。だがな、仕方あるまい。俺が今ここでどれだけ動揺して荒れたとしても、この出兵が消える訳ではない。であれば、大人しく自分の好きなように茶を啜るのが良いだろう? あと三日経てば、それすら叶わなくなる。それであれば、荒れ狂っている時間の方が勿体無い」
そう云って、急須から湯呑みにお茶を淹れた。ふぅっと息を吹きかけて少し冷まし、そして口へと持っていってまた啜る。
「んま」
そう云って、少し頬を緩ませた。
「……変わった人ね。ここまで落ち着かれると、私たちが悲しんでいたのが馬鹿馬鹿しく思えてくるじゃない」
佳澄がそう云い、統の正面へ行った。そして統に、
「ねえ、この三日間であなたは自分がすべきことを理解しているの?」と尋ねた。
「知らんな。あっても俺に得が無ければする気は無い」
統はそう云って、またお茶を飲む。佳澄はため息を吐いて、
「子供、作りなさいよ?」と云った。統はそれを鼻で笑い、
「やなこった。誰のためにもならないのに子を残すのか? そんな生産性の無いことするんだったら、本でも読んでた方が良い」と答えた。
「でも国からよ?」
「はっ」
その言葉に、よりあからさまに鼻で笑う。そしてこう云った。
「確かに書いてある。『未来の戦士を残せ』と。だがどうだ? どうせそいつも、待ち受ける未来は戦死さ。そいつの人生ってなんだ? そいつはなんのために生まれたんだ? この不毛な戦争を辞めることもできない無能でずぼらな国が、前途有望な未来ある子供を育てられると思うか? そいつは期待できやしない。そんな運命に自分の子が晒されるのを見る気は無い。だったら子供なんぞ作らない。好きなことをやって三日間過ごした方が有意義だ。政府の云いなりにしかなれないのならそれは人間じゃない。そんなのは、ただの猿か犬、いや、それ以下だ」
この言葉を放った彼は落ち着いていたが、言葉自体は宙を暴れ回っていた。聞いていた人の頭や心へ入り込み、辺りをグサグサと刺して回った。
「統、前からずっと思っていたけど」
そう佳澄が切り出してから云った。
「あなた、相当な変人よ」
その言葉に統は笑った。そして、
「人からどう思われようがいい。俺は俺がやりたいように生きる」と云い、湯呑みのお茶の残りを全て飲み干した。そしてまた急須から淹れて、湯呑みに口をつけてお茶を飲むのだった。
その晩、統は便所の為に起きた。
(畜生、落ち着こうと思って昼間にお茶を飲みすぎたのが原因か? 馬鹿だった。選択を明かに間違えたな)
統はそう思いながら、夜の暗い廊下を歩いた。そして便所の前に立って、その電気が灯っていることに気がついた。
「……嘘だろ」
統はそう云って、しょうがないから外で待つことにした。
一分が経った。何も出てくる気配はない。
三分が経った。残念だが全く変わらない。
五分が経った。中から音すら聞こえない。
統は不審に思い、戸に近寄って声を掛けた。
「誰かいるかー?」
すると中からは返事が無い。ジッと耳を凝らすと、そこから聞こえたのは、
「スー、スー……」という音だった。
(寝息!? いや冗談じゃない! 俺は何のために五分も待ったんだよ! ってか誰だ? こんな夜中に便所で寝てる奴! 頭おかしいだろう!)
そして統は意を決して戸に手を掛けた。そして横に引くと、戸は簡単に開いた。そして、目の前で横に倒れていたのは佳沙里であった。お花を摘んだ後にそのまま寝たようで、下半身にズボンを履いていなかった。統はまず自分の用事を済ませて、そのあとで佳沙里を起こすことにした。
「おい、おい、佳沙里!」
そう呼びかけ、ペシペシと頬を叩いてみる。すると佳沙里は、
「うー」と唸りながら細く目を開けた。そして、
「統兄ちゃん……? どうしたの?」と尋ねた。しかし直後、ここが便所であることに気づき、
「うそっ!」と目を丸くして云う。そして下半身を確認し、カァッと真っ赤に染まった。
「風邪ひくぞ。早く戻って寝ろ」
統がそう云って、便所を後にしようとすると、佳沙里は統の服を掴んだ。
「どうした?」
統が訊くと、顔を真っ赤にして目に涙を浮かべた佳沙里が云う。
「内緒にして? 絶対、内緒にしといて?」
「そんなことか。云わねえよ、んなこと」
統はそう云って笑った。そして歩き出す。しかし、佳沙里はその服を離さなかった。
「まだなんか用か?」
統が再び振り返って訊くと、
「ちょっと、こっち」と佳沙里は居間まで統を引っ張った。統はそのまま佳沙里について行った。
居間で座布団に座って、佳沙里と統は向かい合った。
「戦争、行くんだっけ?」
佳沙里がそう訊く。
「ああ」
統がそう答えた。
「もう、会えない?」
「どうだかな。俺は死ぬ気なんて全く無いけど」
「じゃあ会える?」
「いいや、知らない。死ぬ気は無くても死ぬ時は死ぬからな。運次第だな」
その言葉に、佳沙里は俯いた。そして云った。
「もっと、一緒にいたいよ……」
そして統に抱きついた。
「……」
統は何も云わずに、佳沙里を抱き返した。
「もっと一緒に、楽しいことして遊びたいよ。もっと一緒に、お勉強したいよ。もっと一緒に、いろんなお話したいよ」
「もっと一緒に、か」
統がそう繰り返した。佳沙里は顔を上げた。佳沙里の目を見て、統が云う。
「残念だが、あと二日だ。『もっと一緒に』は戦後の楽しみにしよう」
その言葉に、佳沙里は満足しなかった。
「嫌だ」
ただそれだけを云って俯いた。
「どうしてだ?」
統が訊くと、
「……なんか、お兄ちゃんの時は無かった胸騒ぎがするの」と云った。
「どんな風に感じるんだ?」
「分かんない。分かんないけど、もう会えないんじゃないかって……」
そう云って、統を上目遣いで見上げた。
「わたし、そんなの嫌だ。もう会えないなんて嫌だ。だから約束して? ちゃんとここに帰ってくるって。そしてわたしと会うって。何があっても、その約束は守って? そう約束して?」
統は終始真顔だった。
「約束ねえ。好きだな、この家の人は約束が」
統がそう云って立ち上がった。くっついていた佳沙里も一緒に立ち上がった。
(正直、この約束には意味なんてない。戦争で生き残るなんてただの運だ)
統はそう思った。しかし再び思考を巡らす。
(だが、その運に任せて乗り切るのも面白いかもな。どうせ俺のことだ。やりたいことが無いと戦争だろうがなんだろうがしないだろう。じゃあこれを一つの目的にしてしまえば……)
そこまで考えて、統は微笑みを浮かべた。それは気味の悪い笑みであった。しかし、辺りの暗さに紛れてそれは消えていく。
「いいだろう。その約束、乗った」
統がそう云う。その声に、佳沙里は顔を明るくした。そして嬉しそうに、今よりも少し強く統の身体を抱きしめた。
「約束だよ?」
そう統に確認を取る。
「ああ、良いだろう。約束だ」
二人はこの夜が永遠に続くような錯覚に陥っていた。そんな二人を置いていくように、夜は時を巡って数時間後に朝を連れてくるのだった。
統は本当に自分がしたいことだけをして三日間を過ごした。
そして彼は、ついに皇居の前へとやってきた。そこには一つの部隊がいた。泥に塗れた服を着て、疲れ切ったような顔をしている。数台の軽戦車があり、全員が銃剣を携えている。
(なんだこいつら。沼地で戦ってきたのか? というか、俺はここに配属になるってことだよな?)
そう思い、少しキョロキョロと辺りを見る。すると、一人の男が前から歩いてきた。そしてその男は、統の前で立ち止まった。
「お前が石井か」
そう訊かれ、統は真顔で云う。
「違うと云ったら?」
するとその男は書類を漁り始めた。そしてある紙で止まり、それを統の顔の前に差し出した。
「同じ顔をしていて、違うことがあるか?」
「生き別れの双子という可能性は?」
「それならそいつも徴兵されている」
「ごもっともで。失礼、いかにも俺が石井統であります。東京第六学専高校三年。以後、何卒よしなに」
男の提示をそう受け流し、丁寧に礼をした統。
「やれやれ。これは変な奴が来たな……」
その男はそう溢し、
「失敬。俺はこの部隊を率いる指揮官、陸軍中尉の山本和寿だ」と云った。そして最後に、
「お前のような変わり者、嫌いじゃない。以後、疾く励めよ」と付け足した。そして山本は、ここで一種の奇跡を発動した。
「蔵本! お前、三井の空きの分の補いとして石井を使え!」
そう云って、統の扱いを全部渉に一任したのだ。渉はそれを聞き入れ、手を挙げて統に自分がどこにいるかを知らせた。統はその手を頼りに歩いた。
この時が、幼き頃からの渉と統の兄弟さながらの生活の終わりの始まりだった。




