第8章『東京戦・上』
(1957年)
渉が送られた場所は千葉県の浦安だった。浦安はまだ残っていた。しかし、ソ連軍は江戸川の対岸の市川を攻め落とそうとしている。この浦安が首都圏の防衛のための最重要都市であり、ここを守りきれなかったら、東京、新宿の二大中央都市を一直線に攻略することのできる最短ルートを明け渡すことになってしまう。
「いいか! 赤羽からの侵攻は、然程脅威ではない! ソ連が首都占領と言い張るには、東京城(江戸城。当時の皇居)と新宿の府庁舎双方を占領する必要がある。だから、赤羽からは新宿へ迫る部隊と東京へ迫る部隊を分けて進めるはずだ。赤羽が落ちても、新宿部隊は池袋で足止めされ、東京部隊は王子や日暮里で足止めをされる。だから然程脅威にならないのだ。だがな、それはあくまでこの浦安からの侵攻を許さなければの話だ。もしここが堕ちたのなら話は別だ! ソ連は東京部隊と新宿部隊を分ける必要が無くなる。そして目立って足止めできる場所も存在しない。ここが敵に堕ちたなら、戦況は一気に悪くなるぞ!」
新たに来た軍学生にそう云い放ったのは、日本陸軍に所属する山本和寿中尉であった。この浦安戦線で指揮官を務めている。つまり、渉の上司に位置する人間である。
彼はかつて大東亜戦争で、オーストラリアの北の島国、パプアニューギニアで戦っていたことがあった。周りでどんどんと死にゆく仲間を見ながら、自分はひたすらに戦い続け、そして生き残った実力者でもあった。
それもあって、渉は少し怯えていた。人を殺すことに容赦がないのではなかろうか。暴力を簡単に振るってくるんじゃなかろうか。大東亜戦争での軍人の横暴は酷いものだったと渉は聞いていた。特に、赤紙で徴収された者に対しては好き放題だったと云う。かねてより陸軍に所属していた山本が果たしてどんな人であるのか、渉には見当も付かないのである。
「まあ、実は今、ソ連からこの浦安への侵攻は無いのだ。江戸川の対岸の市川を攻略しない限り、こっちに攻め込んでくることはない。だからと云ってゆっくりはしていられない。だがまあ、まずはいつ攻め込んできても良いように、ゆっくりと身体を休めておけ」
山本はそう云って、小さなテントを指差した。
「お前らは二人一組になってあの小さくて狭いテントに入ってもらう。まずは相手を決めて、それからテントの組み立て方を学びなされ。そしてその後は俺と一人一人面談だ。ここで出会ったのも何かの縁。コミュニケーションは大切だからな」
そう云って、山本はテントに入っていった。
渉は山本のことを疑ったような目で見ていたが、そんなに警戒する必要もないのではなかろうかと思い始めていた。
「蔵本」
そう考えていた瞬間、背後から話しかけられた。振り返ると、そこには大柄な男が立っていた。
「どうした、三井」
そう渉が訊くと、
「一緒に組まないか?」と信之は云った。渉にはこれといって仲の良い奴はいなかったため、二つ返事で許可を出した。
(だがしかし、意外なこともあるもんだ。こいつと一緒に組むことになるとは)
渉はそう思いながら、信之とテントを組み立てた。
組み立てが終わって、二人はぼうっと組み上がったテントを見つめていた。すると、
「おお、早いな。お前らのところが四番目だ」と云う声がした。その声の主は、山本であった。
「山本中尉」
信之が一礼する。渉もそれに従って一礼する。
「ん」
山本はそうとだけ云って、信之をじっと見た。そして曖昧な顔で、
「お前……三井か?」と訊いた。
「はい、いかにも」
信之がそう答えると、
「だよな。父上様に似ておられる」と笑った。
「父を知っているのですか?」
信之がそう訊くと、
「大東亜戦争では、陸軍への資金供給を手伝ってくださったのでな。恩しか感じていないのだよ。ありがとうと帰ったら伝えてくれたまえ」と笑った。
「そんなことが……」
信之はそう云って、
「分かりました。手紙にでもそう載せておきます」と云った。山本はそれを聞いて、
「よろしく」とだけ答えた。そのあとに渉を見て、
「それでお前は誰だ?」と尋ねた。
「蔵本渉といいます」
渉はそう云うと、
「くらもと……」と目を細めた。そのあと、少し暗い顔をした。そして、
「どんな字だ?」と尋ねた。
「忠臣蔵の蔵に、本です」
渉がそう答えると、山本はコクコクと頷いた。そして、
「お前、二十歳離れた兄がいたか?」と訊いた。
「はい、一番上の兄とはちょうど二十歳離れています」
渉がそう答えると、
「その二つ下にも兄がいて、父親とは三十八ほど離れているよな?」と訊く。渉は首肯する。それを見て、山本は低く唸った。そしていきなり、
「申し訳なかった」と謝った。
「どうしたんですか?」
渉がそう訊くと、
「俺はお前の兄を、蔵本隼人一等兵を救えなかった……」と答えた。
「救う、とは?」
渉がそう訊くと、山本は云った。
「大東亜戦争の時、俺は蔵本と同じ戦場に居た。そこで俺は何人もの命が奪われるのを見た。蔵本もそのうちの一人だ。あいつは俺と仲が良かった。そしてあいつの死ぬ時、俺はあいつを救えたかもしれないんだ。もしあの時、俺の銃弾がほんの少し早く敵の胸元を貫いていたら、その敵は蔵本に当たる銃弾を発砲することなく死んだのに。俺はあいつを救えなかった」
「兄さんを……」
渉はそう呟いて、
「でも、それが戦争です」と知ったように云った。
「違う! そうやって割り切ってはならないのだ!」
それを聞いた途端に、山本が大きな声を張り上げた。
「戦争だから人の命を奪って良いとは誰が云った?」
山本はそう云って、渉に迫った。さらに続ける。
「戦争というものは、人権のできる前から存在する。従って人は戦争になると、その瞬間だけ旧来の法の元に心が帰るのだ。だがどうだ? 戦争の時は人権が無くなるか? 戦争の時は普段の法が役目を果たさないのか? そんなことはない。誰も云っていない。人権に例外は存在しないのなら、戦争という場においても人権があるはずなのだ。だから、戦争の時であっても、人を殺すことは極力してはならないものだと俺は思うのだ」
一通り云い終わって、山本は小さくため息を吐いた。そして、
「とはいえ、俺も人を殺した。偉そうなことを語ることなんかできやしないのだ。結局、戦争だからと云って許されてしまう。間違っているはずなのに、その一言だけで全て終わるのだ。終わってしまうのだ」と呟いた。しばらく、重く暗い空気に包まれた。
その空気を破るように、数秒後に山本は笑顔を作った。
「過去の話なんかしていたって暗くなるだけだ。とにかく、蔵本。よろしく頼むぞ。お前は兄と同じ運命を辿らせない。生きて帰す。俺が保証しよう」
そう云って、渉の肩に手を置いた。
「あ、ありがとうございます」
渉は困惑した。戦場で中尉がそんなことを云って良いのだろうか。気になったが、訊くのは辞めておいた。きっと山本の過去の未練が彼にあの言葉を云わせたのだろうと、渉はそう思うことにした。
「お前、兄を失っていたのだな」
信之が渉にそう云った。
「隼人兄さんだけじゃない。親父も、その下の兄も失った」
渉は信之にそう伝えた。
「苦労したろう?」
信之がそう訊くと、
「俺は苦労をかけた側だ」と答えた。そして渉は続けた。
「一番苦労したのは母だ。六人の子供を一人で育てなくてはならなくなったのだからな」
それを聞いた信之は、少しばかり同情の眼差しを向けた。
その日の夜、渉と信之はテントで並んで横になっていた。ランタンに灯った火がゆらゆらと揺れている。
「俺がお前と組んだことには訳がある」
信之が、ふとそんなことを云い出した。
「そうだろうな」
渉がそう云うと、
「なんだ、分かっていたのか?」と信之が笑った。
「分かったというか、察しただな」
渉の言葉に、信之はそうかいとだけ云った。
「それで、どんな訳があったんだ?」
渉が尋ねると、
「一昨日の夜、妻の寝言を聞いたのだ」と信之が答えた。
「寝言?」
渉が訊き返すと、信之は頷いた。そして、その時のことを語り出した。
「夜中、なんか唸るような声がして目を覚ました。すると横で妻がうなされていた。汗をかき、息が荒く、苦しそうにうなされていた。俺は心配になって、妻に声を掛けた。すると妻は、
「いしいさん」と急に云った。それは細い声で、俺にはあまり使わない声なんだ。甘えるというか、なんというか。まあそんな声だった。そしてその後に、
「助けて、助けてよぉ……」と云ったんだ。そして急に泣き出した。俺は困って、とにかく揺さぶって起こしたんだ。そしたら妻は目を開けて、
「……信之さん、わたし、わたし怖い夢見て……それで……」と云って、また寝たんだ。次の日の朝、妻にそれを確認してみるとな、妻はその夢と俺に云った言葉もなにもかも覚えていなかったのだ」
話し終えたら、信之は低い声で云った。
「だが、覚えていないのは嘘だと思っている。妻の気が俺に無いことはずっと前から知っていた。それが誰にあるかも知っていた。石井統だ。だがもう二年、三年と会っていないのだ。どうして今更思い出した? それが気がかりなのだ」
「つまりお前は、最近になってお嬢様と統の間に何かあったのではないかと踏んでいるのだな?」
渉がそう云うと、信之が頷いた。
「嫉妬か?」
渉が訊く。信之は渉をギッと睨んだ。
「悪いか?」
「いいや、なんにも」
そう訊かれて、渉はそう返した。そして寝返りを打って、信之に背を向けた。
「統も人妻に手を出すほど愚かではあるまい。自分の彼女を差し置いて奪おうなど、流石の奴でも考えまい」
渉はそう云ってみせたが、その顔は少し曇っていた。背を向けたのも、その顔を信之に見せないためだった。
「そうか」
信之はそう云って、
「分かった。おやすみ」と云って、ランタンの火を消した。テントは一気に暗くなった。
信之が寝た後も、渉は寝付けなかった。その脳裏には、ずっと統の気味の悪い笑顔が浮かんでいた。
(あいつのあの顔、一体何を企んでいる?)
渉は考えた。しかし、いくら考えたところで渉には答えの検討がつかない。
(ま、そんな深くは考えていないのかもしれないしな)
渉はそう思うことにして、睡眠を取ることにした。
しかし統のあの笑みは、彼にとってとても深い意味を持っていたのだった。
渉が家を去った翌日、統は八重を家に招いた。
「珍しいわね、あなたから私を誘うなんて」
八重はそう云って微笑んだ。
「まあな」
統はそう云って、急須でお茶を淹れた。そして八重に渡したあと、自分用に湯呑みに淹れた。
「それで、何の用?」
八重が湯呑みを手に持ったままそう訊いた。統はお茶を呑んで、そして湯呑みを机に置いた。そして、
「別れよう」と一言云った。それは何も躊躇いの無い、そして感情の篭らない声であった。
「えっ」
八重は耳を疑った。
「今、なんて……?」
「別れよう」
八重の訊き返しに、全く同じ口調でそう云う統。
「どうして……?」
八重は唇を震わせながらそう訊いた。
「どうして、か」
統がフッと鼻で笑った。そして云った。
「やりたいことができた。それをするにはお前と付き合っていてはダメなんだ。だから別れよう」
「そんなの……あんまりにも自分勝手じゃない……」
八重が俯いて統に云う。そして顔を上げた。その目から涙が垂れた。
「あなた、どれだけ自分勝手なのか分かっているの? 人を振る動機が『やりたいことができたからです』で通じると思ってるの?」
八重が高い声でそう云った。
「そうだな。自分勝手だ」
統がそう云って、またお茶を呑む。
「じゃあなんで……!」
八重がそう云いながら統に詰め寄る。八重の手に持った湯呑みが揺れて、お茶が少し跳ねて溢れた。
「とりあえず、お茶を置け。こぼしたら蔵本の家に迷惑がかかる」
統がそう云って八重にお茶を置くように指示した。八重は畳にお茶を置いた。統も机にお茶を置こうと口から湯呑みを離す。
「自分勝手という表現をしたな?」
統はお茶を置きながら八重にそう云った。そして八重を見て、
「だったらお前も自分勝手だ」と云った。
「私のどこが!」
八重がそう云って統に迫った。
「告白からしてそうだろう」
迫ってくる八重を冷たく遇らってそう云う統。
「こく、はく……?」
八重は思い返した。そして思い出した途端に統が云い出した。
「お前は自分が俺と付き合えるように色々俺に云った。瑠璃より自分が優れている点。凛にはない自分の手軽さ。そんな感じのことを云って、まあ云い方は悪いが自分を売り込んだよな?」
「……」
八重はその言葉に黙り込んだ。統は続けた。
「確かにそれは嘘じゃない。その通りだった。だがな、悪いところだってあるんだ。それをしっかり見つめたのか? 治そうとしたのか?」
八重が視線を逸らした。
「していないだろう。この二年、いや、小学校の頃から、治そうとしているところを見たことが無いからな。その点瑠璃は違ったさ。俺が治したほうがいいと云った弱点を徹底的に治そうと努力した。だがまあ、最後までそれは治らず拙かったが、俺はああいう方がグッとくる。頑張っているんだなと、精一杯の努力が見えて嬉しくなる。応援したくなる。でも、お前はそれが無かった」
「そんなの、あなたも同じじゃない」
八重がそう云った。すると統が笑って、
「最後に云おうとしていたことを取らないで欲しかったが、まあそうだ。結局は俺も同じなんだ。お前から治せと云われたことは治さないし、自分の利益の為に人を振り回すし、全くお前と同じなんだ」と云った。
八重は俯いて、小さな手をギュッと握りしめた。それを見て、統は少しだけ重い雰囲気を漂わせながら口を開いた。
「お前の自己中心的な考えから始まったこの付き合いは、俺の自己中心的な考えで終わらせてもらう。俺は最初お前のその自己中心的な願いを受け入れた。だからお前は最後俺の自己中心的な願いを受け入れろ」
統のその言葉に、八重はもう限界だった。統をキッと睨み、畳の上に置いた湯呑みを掴んで中身のお茶を統に吹っかけた。
ビシャッと紫吹が立つ。統の服が濡れて、畳も、統の後ろにある机も濡れた。そして最後に、八重は空っぽになった湯呑みを雑に畳に置いた。
「バカ! もう知らないっ!」
八重はそう叫んでから立ち上がり、家から飛び出して行った。統が最後に見た八重の顔は、涙でぐしゃぐしゃに濡れた、それはそれは酷い顔であった。
以後、蔵本家の者で八重を見かけた者は一人もいなかった。
「振ったのね」
お茶に塗れた統に声をかけたのは佳澄だった。
「はい」
統がそう答えると、
「スッキリしたような顔をしてるわね」と佳澄が云った。
「そうですか?」
と統が訊くと、
「そうよ」と佳澄が云う。そして、
「好きな子でもできたの?」と訊いた。すると統がフッと笑って、
「いいえ。ようやく答えが出たって感じです」と答えた。佳澄はあははと笑って、
「好きなようにすればいいじゃない」と云ったのだった。統は頷いて、それから雑巾でお茶を丁寧に拭き始めた。
それから数日後。統は学校から家への帰路を辿っていた。その途中、大きな家の前で足を止めた。そしてその家の門の前で、ごめんくださいと声をかけた。するとすぐに門がガラリと空いて、中から背の低く、幼い顔つきをした女が出てきた。それは紛れもなく凛だった。
「石井さん……!」
凛は目を見開いた。そしていきなりトトトと駆けて、勢い良く統の胸に飛び込んだ。統は二歩ほど後ろへ下がったが、倒れはしなかった。それほどに凛は軽いのだった。
「よお、久々だな」
統がそう声を掛けると、凛は統の胸の中で軽く頷いた。
統がこの瞬間に凛に対して抱いた印象は、やけに甘えてくるなというものであった。ギュッと統の学生服を握りしめ、小さな身体でそれなりの力を使って統に抱きついていた。
「どうした、そんなに甘えて」
統がそう云った瞬間、後ろの門がガタンと閉まる。家からは完全に遮断された。それを待っていたかのように、直後凛が統の胸に埋めていた顔を上げて云った。凛と統の目が合う。凛の目には、たくさんの涙が溜まっていた。
「助けて。お願い、わたしを助けて……」
凛の声は震えていた。そして身体もガクガクと震えている。痩せ細り、身長や胸の大きさは、中学の頃から変わっていないように思えた。統はさっきまでの楽観的な考えを捨て、事を深刻に捉えた。渉から又聞きしただけの情報で、信之が嘘を云っているかもしれないと疑っていた情報。しかし、それは本当なのかもしれないと、統はこの時思った。
「お前、時間あるか? ちょっと散歩にでも行かんか?」
統がそう訊くと、
「許可が降りれば……」と消えそうな声で返ってくる。
「許可?」
「はい……」
凛は統にくっつくのをやめて少し離れ、俯いて云った。
「お義母様から外出の許可を頂かない限り、私は外に出ることができないのです。でも私はあのお方から嫌われていますので……」
「ふむ……」
統は顎に手を置き考えた。一体どうしたものか。正直、散歩に行けないのであれば八重を振った意味は無いのであった。統がやりたいこと。それは、二年越しの凛の告白の返答なのだから。
悩んでいると、門の向こうから声がする。
「凛さーん、どこにおりますのー?」
その声に、凛は肩を竦めた。しかしすぐにゴシゴシと袖で目を擦って涙を拭き取り、営業の笑顔を作り、
「こちらです」と云って、門を開けて顔を出した。そして手で統に隠れていてと合図をした。統はその指示に従って、学生鞄からノートを取り出し、道の向かいの側溝の前にしゃがみ込み、そこに咲いている彼岸花のスケッチを始めた。統は学校帰りで、学専高等学校の学生服を着ている。側から見たら、学専生が彼岸花をスケッチしているように見えるだけだ。怪しまれる要素は何一つとして無いのだった。
しかし、別に彼岸花のスケッチが宿題であるわけではない。統は描くふりをして、背後で行われている会話に耳を凝らした。
「凛さん、私は庭のお手入れを頼みましたわよね? それを放棄して何をなさっているのですか?」
「すみません……」
「本当に使えない人ですねぇ。子供も出来ず、云われたことも出来ず、おまけにいつも謝ることしかしない。今までは可愛いだけで許されたかもしれませんが、もうそれでは通用しないのですよ? お分かり?」
「すみません……」
「仕方がありませんね。もうお庭はようござんす。あなたには今から夕食の買い出しへ行ってもらいます」
そう云って、姑は凛に何やら手渡した。凛が黙ってそれを受け取る。そして次の瞬間、困ったようにこう云った。
「お義母様、この金額ではおそらく足りません。もう少し貰えませんか?」
すると姑は凛に云い放った。
「足りない? 何をおっしゃいますの。足りないならそれで足りるようにすればいいのですよ」
「足りるようにとおっしゃいましても……食材の量を減らせば良いのでしょうか?」
その凛の言葉に姑は鼻で笑って、
「バカなことを吐かしますわね」と云った。
「私はぴったり一人分の食費を抜いてあるのでございますよ? 仕事のできない人に食わせる飯があるはずないでしょう?」
そう云って門を閉じて、自分は家へと入っていく。凛は門の外に、締め出されるような形で残された。
統はそんな凛に近づいた。それに気付いて、凛が暗い表情で統を見た。
「またやってしまいました。わたし、ほんとにバカですね……」
その凛の言葉には、統は何も云わなかった。
「一緒に行ってやる」
統がそう云って、凛の手を取った。凛は驚いて顔を上げた。
「でも……」
凛が顔を赤くしながらそう云う。嬉しそうな表情と、困った表情が入り混じっていた。
「買い出しってことは外出許可も同然だろ? ついでと云ってはいけないが、散歩という俺の目的も果たせる」
統がそう云い、そのまま凛の手を引いた。凛は少し俯いて、一回だけコクリと小さく頷いた後、統に引かれるがままに歩いた。




