第4章『中学2年生』
(1954年)
二年生になって、瑠璃と凛、そして統は同じ組になった。
夏前の席替えで、瑠璃と凛が横の席になった。そして統が凛の後ろの席になった。三人が固まった席になったのだった。
瑠璃が登校すると、そこには既に凛がいた。瑠璃を見るなり、
「おはようございます」と丁寧に挨拶をした。
「おはよ、凛ちゃん」
同じ組になってから、二人は案外話すようになっていた。信之も組が離れてなかなか凛の元へ来なくなっていた。二人は一年前に比べて、かなり親しくなっていたと云えるだろう。
「そういえば覚えてますか?」
凛が瑠璃にそう訊いた。
「なにを?」
瑠璃がそう問い返すと、
「去年、私に鈴川さんが初めて話しかけて下さった日のことです」と返ってきた。その日こそ、例の事件の日であった。
「あぁ……ええ。忘れるはずがないじゃない。あんな印象的な日。痛かったわぁ……」
「その節はご迷惑をお掛けしました」
「いや、凛ちゃんが謝ることないじゃない。三井のことなのに……」
「いいえ。そもそもは私があの時に逃げずに答えていれば良かったのです」
凛はそう云って、瑠璃をジッと見つめた。
「あの、鈴川さん」
その童顔のお嬢様は、背が高く、長い茶髪の少女に真剣な眼差しでそう云った。
「ねえ、凛ちゃん。そこまで云うのを躊躇ったことを、今になって無理に云わなくても良いのよ?」
瑠璃がそう云って一旦落ち着かせたが、凛は止まらなかった。
「実は……」
そして少しだけ俯いて、頰を若干赤らめた。そしてスッと息を吸って、バッと顔を上げた。
「私、好きな人がいるんです……!」
そう告げて、凛は頬だけでなく耳の裏までも真っ赤に染めた。瑠璃は少し、拍子抜けした。その告白は、思っていた深刻な事態と大きく異なっていたからだ。
「えっと。……え? それは、三井じゃないのね?」
瑠璃がそう訊くと、凛はうんと頷いた。瑠璃は戸惑いを隠せなかった。それは凛には見て分かるほどのものであった。
「鈴川さんが戸惑うのも無理ありませんね。私は既に婚約者がいる身。それで以て、今好きな人がいるだなんて打ち明けるのは少々可笑しなお話です」
そう云って再び俯く凛。そして俯いて、小さな声で云った。
「でも、わたしだって恋をしたい。好きになっちゃったんだからしょうがない。昔から信之さんと結婚する未来が定められているのに、抗えないって分かってるのに、なのに、なのに……!」
最初は呟くように小さかった声だが、次第に大きくなっていった。とはいえ、以前の様に教室中に聞こえるような声ではない。周りにも生徒はいる。その人たちに聞こえるか聞こえないか。その程度である。
「つまり凛ちゃんは『恋できない状況なのに好きな人ができて困ってる』てこと?」
瑠璃がそう云うと、凛はコクリと小さく頷いた。真っ赤な顔で俯いている凛を見て瑠璃は微笑んだ。そして凛の頭に手を置いた。
「ほえ?」
凛は不思議そうな顔をして瑠璃を眺めた。その瑠璃は、凛の頭をゆっくりと撫でた。
「凛ちゃんも同じ女の子なんだね。あたしたちとは違う世界にいるものだとばかり思ってた」
「違う世界にはいません。わたしはずっと同じ世界にいます……」
少し口を尖らせたように凛が云う。それが面白くて瑠璃は笑った。
「なんですか。失礼ですよ……?」
凛にそう云われて、瑠璃が、
「ごめんごめん、悪気は無いの。可愛いなって思っただけだから」と答えた。それには凛は返さなかった。ずっと黙って、瑠璃の手の下で大人しくしていた。
「ところで、」
そう云って、瑠璃が凛の頭から手を退ける。そして、
「そのお相手は誰なの?」と訊いた。凛はまた少し赤くなって、
「それは……」
と云った。その直後、
「楽しそうだな。朝からお嬢様を犬みたいに扱って。瑠璃、お前は何様だ?」と云う声が聞こえた。その声は笑っていて、そしてどこか揶揄っているようにも思えた。そして鞄を凛の後ろの机に置いて、自分はどっかりと椅子に腰を下ろした。
「おはよ、統! いやあ、衝撃よ。実は凛ちゃんにね……」
「はうぅ! 鈴川さん、それはダメです! どうか内密にぃぃ!」
凛が、熱したヤカンの様に頭から湯気が出てきそうなほど顔を赤くして、手を瑠璃の前でバタバタと振った。
「えぇぇ? だって統じゃん。統なら何も心配する必要無いと思うけど?」
「そう云う問題じゃないのです! 私は、周りに広まるのが怖いのです。これがもし信之さんに知れたら、私、全身痣だらけになってしまいます!」
その反応を聞いて、統が、
「信之に聞かれたら全身痣だらけになるような話をしていたのか……? 一体どんな話だよ……」と呆れたように云う。すると瑠璃が、
「恋愛話よ、れ、ん、あ、い!」と答えた。凛は防ぎ用が無かった。瑠璃が云い終わってから、
「いやああああああああああ!」と叫ぶだけだった。
一方統は冷静だった。
「そうか。信之もざまぁみろって感じだな。いっそのこと佐倉の恋を応援してあの憎たらしい財閥野郎に絶望を……」
「ふふっ」
その言葉に瑠璃が笑った。
「そう簡単にあの信之がくたばるとも思わないけど。でももしそうなったら、頑張るのは凛ちゃんのお相手さんね」
「ああ」
統はそう云って、
「それでお相手さんは誰なんだ?」と訊いた。
「そうよ! それ、あんたのせいで聞けなかったのよ!」
そうして瑠璃が凛を見やる。しかしその凛は、魂が抜けたかのようにぐったりとしていた。
「凛ちゃん!?」
瑠璃が凛を揺さぶると、凛がぐったりとしたまま、
「なんでわたし、鈴川さんに話したんだろう……」と云った。そして瑠璃の肩をいきなりグッと掴んで、
「鈴川さんも……! 鈴川さんも恋愛話の一つや二つ、持ってるんじゃありませんか!?」と云ってグラグラと揺さぶり始めた。
「待って凛ちゃん! 酔っちゃう、酔っちゃうからぁ!」
それでも凛は瑠璃を揺さぶった。
「あるんでしょうー? ねえ、あるんでしょうー?」
と呪文のように唱え、グラングランと揺さぶった。
「佐倉。本気で瑠璃が酔うからやめてやれ。あと瑠璃はそんな色恋な話を持っていないと思うぞ。こいつ、佐倉のように乙女チックじゃないから」
統がそう云って凛にやめさせた。瑠璃は開放されて、気持ち悪さを必死に堪えながら統を睨んだ。
「なによぉ、乙女チックじゃないってぇ?」
まるで酔っ払いのおっさんのような口調で瑠璃が云う。
「ほら、そう云うところだ。それにお前は家事もろくにできんだろうが。料理、洗濯、掃除。今年中にはできるようにしろよ」
統が云う。それを見て凛が笑った。
「確かに、石井さんの云いたいことは分かりました。鈴川さんの面白い姿も見れたので勘弁してあげます。ふふふっ」
「もうぅ、二人して失礼すぎよぉ? あたしだって女の子なんだからぁ!」
瑠璃は二人にそう云った。二人は、
「はーい」と適当な返事を返して、その瑠璃をまともに相手にする事は無かった。
その会話はそれほどで終わったが、瑠璃はその凛の相手が気になって仕方がなかった。その後にいくら凛に訊いても、鈴川さんに教えたらロクなことになりそうにないですと云って教えてくれない。だったら自分で探るしかないんじゃなかろうか。そう考えて、瑠璃は翌日から凛を観察することにした。
凛の一日は早い。瑠璃が登校してくる朝七時半前後にはもう椅子に座っている。一体何時に家を出ているのだろうか。
「私はいつも七時頃に車を出して貰います。学校には十五分ほどで到着します」
凛はそう答えて、
「あ、車で来てるので速いだけです。帰りは徒歩ですので……そうですね、三十分前後かかってしまいます」と付け足した。帰りが迎えではないことに瑠璃は驚いた。一財閥のお嬢様である凛が歩いて帰っているところを瑠璃は見たことがない。それどころか、この小さな体を揺らしてでトコトコ歩いている凛を想像することも容易でなかった。
「それは方向が違うからでしょう。私の家は北東の方角に位置していますので、南東にある瑠璃さんたちの通学路とほぼ重複しないんです。私だって、ちゃんと歩いていますよ」
凛は笑いながらそう云った。瑠璃は、いつかの下校の時に尾行してみようと思うのだった。
数日が経った。凛の好きな人が未だ誰かは特定できないが、凛と関わりのある男児はそもそも少ない。学校では信之と統、それから数人の男児としか会話をしない。その数人の男児であるが、彼女との接点は席が近かったことがあるという程度のものである。
また、授業では常に無の表情を浮かべている。理解をしているのかしていないのか、正直解りかねる顔である。そしてたまに、開いてもいない教科書の表紙をぼうっと眺めて動かない瞬間すらも存在する。一体何を考えているのか検討すらつかない。
「佐倉っ!」
その日、四限の数学の授業で教師が大声で凛を呼んだ。この時の凛はまたぼうっとしていた。凛はさぞかし驚くだろうと瑠璃は思ったが、意外にも凛は驚きの表情を見せず、顔をゆっくりと上げた。
「因数分解の公式、云ってみろ!」
教師はそう云って凛に迫った。全員の視線が凛に集まる。因数分解はこの日初めて習った。習ったというより、先ほど教師が口で伝えたばかりだ。ぼうっとしていたのであれば云えない。この時代、塾や家庭教師などというものは今よりもずっと盛んでないため、教師の話こそが絶対的であった。尤も、財閥である凛の家は家庭教師くらい雇えるだろうけども。
「a^2+2ab+b^2=(a+b)^2です」
凛がさらっとそう答えた。そしてまた視線を下げ、閉じた教科書の表紙をジッと見つめる。その答え及び行動に、教師は少し面白くなくなった。聞いていないと思って当てたが、これでは知識になってしまう。一般の人間と違って、もしかしたら塾に行ったり家庭教師を雇ったりしているかもしれない財閥の子の授業参加を計るには、それでは物足りないことにようやっと気づいたのだ。
「じゃあ佐倉。俺がさっき授業で云ったことを云ってみろ」
再び凛は顔を上げて教師を見つめた。これなら知識ではない。授業参加を計るには丁度良いものである。
教師はその質問に凛が答えられるとは到底思っていなかった。それは瑠璃も同じ考えだった。凛は教師の話の時間中にずっと下を俯いていたのだ。そして何を考えているのか解らないような表情を浮かべていた。聞いているはずがないのだ。
「『これから因数分解たるものを学んでもらうが、それは前回までに学んだ展開の逆だ。今から俺が公式をひとつ云う。展開の逆であることを確認したまえ。「a^2+2ab+b^2=(a+b)^2」。まだ書かなくて良い。また後で黒板に書くからな。っとだがその前に。佐倉っ! 因数分解の公式、云ってみろ!』です」
しかし、意外や意外。凛は丸々教師が云ったことを云ってみせたのだ。一言一句違わずに答えた凛に、周りの生徒は、
「さすが佐倉さんだなぁ」と感嘆した。
「……ああ、そうだ。アタリだ。はあ、もういい。聞いてるんだったらしっかり教科書開け。あとぼうっとするな。授業に出席していないように見える」
教師は驚きを通り過ぎて呆れの境地に差し掛かっていた。たしかに面白くないが、そこで怒るのも理不尽なものであると考えたのかは知らないが、特に咎めることもなく注意で終わった。
「おい、佐倉。教科書使わないなら貸してくれ」
後ろから鉛筆の尻で凛の肩をツンツンと突いて統が云う。凛が振り返って、
「どうして?」と尋ねると、
「忘れたからだ」と統は答えた。
「忘れたなら他の組から借りればよかったのに。渉とか八重とかいるでしょ?」
瑠璃がそう云うと、
「借りようと思ったさ。だが、あいつらは今日数学が無かったんだ。だから借りようにも借りれなかった」
と統は答えた。瑠璃はこれ以上口を出さなかった。ふぅんと云って前を向く。
「良いですよ。あっても眺めるだけですし」
瑠璃と統の会話がひと段落着いたところで凛が統に教科書を手渡した。何のための教科書だ、と瑠璃は内心思っていた。
「ありがとう」
そう云って、統が教科書を受け取ろうと手を伸ばして教科書を掴む。が、凛はその教科書から手を離さない。
「?」
統は不思議に思う。
「離してほしいのだが……」
そう統が云うと、凛は、
「ちょっと、一旦回収させてください……」と云って、教科書をクイっと軽く引いた。統は手を離して凛に教科書を委ねた。すると凛は、何やら慌てたように教科書を開き、必死に消しゴムで頁という頁の余白を必死に擦り出した。そして一分ほどして、統に、
「おまたせしました」と云って手渡すのだった。手渡した後は、少し落ち着かない様子でその後の数学の時間を過ごしていた。
その日の下校の時、瑠璃は凛を尾行するという計画を実施しようとしていた。帰りの会が終わってしばらくは教室に残った凛。瑠璃は放課後に統と少しだけ会話をする。
「どうして統は残るの?」
瑠璃が尋ねると、
「人の多い中下校するのが少々苦手でな。目が回る」と統が答えた。
「あなた、どうして東京に生まれてきてしまったの?」
瑠璃が笑いながら訊くと、
「せめて八王子とかに生まれたかったよな」と統が云う。そして鞄を掴んで、
「じゃ、先帰る。じゃあな」と統は教室を出て行った。
それから間もなくして、凛も教室を出て行った。
凛が教室を出て行ったその後で、瑠璃は背後からコソコソと付けた。すると、瑠璃を抜かしていく大柄な男がいた。彼は小さな凛の肩に手を乱暴に置き、
「よぉ」とだけ云った。凛は彼に営業じみた笑顔を浮かべてみせた。
「今日俺の家に来ないか?」
その男、三井信之は凛にそう告げた。
「……ごめんなさい。今日は私、帰りに用事があるのです」
少し目を逸らしながら信之に凛がそう告げる。信之は不満を露わにして、凛の肩に置いた手に力を入れた。凛の肩に信之の大きな指が食い込んでいく。凛の表情が苦しそうになっていく。
「来るよな?」
信之がその状態で凛に訊く。凛は信之に鋭い目線を向けながら、
「行けません」と答えた。
「断ることが許されると思ってるか?」
信之がそう訊くと、凛は少し暗い顔をする。
「……また、痛い目に遭いたいか?」
低い声で信之が凛に向けて呟いた。凛は下唇を噛んで、
「この前の痣、お姉様に見つかりました。あなたの仕業とはまだ云っていませんが、これ以上私を引き止めるのであればバラします。お姉様だけでなく、家族……いえ。一族全員に知らせます。そして婚約を打ち切らせていただく覚悟です」と云う。その視線は、信之を貫くほどに鋭く尖っていた。信之は手を離して、
「女のくせに、偉そうに」と舌打ち混じりに云い放ち、凛の前から去った。凛は信之の背中が見えなくなるまで立ち尽くし、見えなくなってから歩き出した。
昇降口で靴を履き、トコトコと足を進めていく。北東に向かうなら北門を出るのだが、北門の方に行きかけて凛は足を止めた。そして方向を真逆に変え、瑠璃たちがいつも下校する南門の方へと歩き出した。瑠璃は北門を見て納得した。そこにはそれほど遠くないところに信之が見えたのだ。凛は信之を避けたのだと、直感的にそう感じた。
瑠璃による凛の尾行は続く。門を出てしばらく南に向かって歩く凛。しかし、その視線はキョロキョロしていた。どうやらいつもと違う門から出て、見慣れない風景に目移りしているのだろう。しかし、あるところに目を止めて、いきなり走り出した。そして前方にいる男児の左腕を後ろからツンツンと突いた。その男児は振り返り、凛を見つめた。そしていつもの調子で、
「佐倉か」と云う。凛はコクリと笑顔で頷いた。さっきの営業じみた笑顔ではなく、それは心からの笑顔に思えた。瑠璃はそれを羨むような目で見た。
「お前って歩きだったんだな」
統がそう凛に訊くと、凛は微笑みながら、
「いつもは北門から出るんですけど、今日は少しこちらから帰りたい気分でして。それに、一人で帰るより石井さんと帰った方が楽しいですしね」と答えた。統はそれには何も言わず、凛の顔を見つめていた。
「……どうしました? 私、なにか顔に付いているでしょうか……」
凛が不安そうにそう尋ねると、統が首を横に振って、
「別になんでもない。ただ少し、他の奴らの気を知ったような錯覚に陥った」とだけ云い、さっきよりも速い速度で歩き出した。凛は困惑を浮かべながら、その背中を慌てて追いかけた。
しかし、瑠璃にはその統の意味が分かった。自分も一度、その錯覚を体験したことがあったからだ。凛の笑顔。それは、人の心を動かす力がある。動かすというよりも、掴み取るという方が正しい気もする。瑠璃はその笑顔で彼女に対する苦手意識が消え去った。数々の男児はその笑顔に堕ちた。凛が心からの笑顔を向けた瞬間、その対象は彼女の手中へと収まっていくのだ。それは統でも例外でないのだとしたら……。瑠璃に悪い予感が走った。
しかし、統の気持ちまでは分からなかった。その後凛がいきなり立ち止まるものだから、瑠璃は近くの家の垣根の裏に身を隠した。塀の穴越しに見やると、統も凛の横で立ち止まっていた。
凛は統に少しだけ悲しそうな表情でこう云った。
「私、あんまり人に心から笑いたくないんです」
統はそれを横目で見て、
「なんでだ。お前が笑えば友達増えるぞ?」と云った。しかし凛は首を横に振る。そして、
「この笑顔は、ほんとに親しくなりたいって思える人にしか向けられないんです。不特定多数にばら撒くと、一部からは迫られ、一部からは妬まれます。そうしてだんだん居場所を失い、いつかは逃げ場を失うと思うのです」と云った。
「逃げ場作りのために笑うのか?」
統が凛に問いかけたら、凛は困ったように笑って、
「それはまた違います」と云った。さらにこう添加した。
「私だって笑いたいんですよ。でもそれはできないんです。友達が増えると云いましたよね。あれの根拠ってなんですか?」
「あ? 根拠は……さっき笑顔で心がなんか掴まれたように感じたから、だな」
統が答えると凛はふふっと笑った。そして、
「私、自分で言うのもあれなんですが、笑顔で人の心を動かしてしまうことが多々あるんです。期待させたり、嫉妬させたり。狙ってできるものでは無いのですが」と云う。
「つまり、無駄な期待や無意味な嫉妬を防ぎたいから笑わないのか?」
統がそう云うと、正解ですと凛が云って笑った。その笑顔も、さっきと同様、心からの笑顔だった。
「でもお前、今……」
統がそう云うと、私の話聞いてましたかと凛が云う。
「不特定多数には向けたくありませんが、特定の人になら向けますよ。それも、周りに人がいないのなら尚更。無駄な期待や無意味な嫉妬は、第三者がいるから成り立つのです。今この周辺には私たちしかいないのですから、この笑顔を誰かに見られることもありません」
凛がそう云って、統の顔を見つめる。この瞬間、凛の心に大きな変化が現れていた。それは、誰にでも平等に接するという今までの彼女のモットーは崩れていたのだ。それは彼女がそれでは前に進めないと思ったからであり、前に進める覚悟ができたことも示しているのであった。
「だが、万が一俺が期待をすることもあるとは考えないのか?」
統がそう尋ねると、凛は統から視線を逸らす。そして、
「期待、するんですか?」と訊いた。
「さあな。信之とは関わり合いになりたく無いからお前を取ろうとは思わんな。それこそ無駄な期待だ」
統がそう答えて歩き出した。しばらく凛はそこに立ち止まっていた。そしてバッと顔を上げて、その場から、
「石井さんっ!」と結構大きい声で云った。統は振り返った。その統の顔を正面から見て、凛が何かを云おうとした。しかし、凛はため息を吐いて、不思議そうに微笑み、さらにまた表情を営業じみた笑みに変えて、
「また明日。さよなら」と云い、胸の前で小さく手を振った。統はそれを困惑しながら眺めて、その後に手を振ってから歩き出した。
残された凛は、俯いてその場に立ち尽くした。しばらくして顔を上げると、今度は向きを学校側に変えて歩き出した。瑠璃が隠れる垣根の横にまで来て、なにを思ったか凛はふとその垣根を見た。刹那、瑠璃と目が合う。しばらく二人は、お互いに予期せぬことで言葉が出なくなった。
「……全部、見てたの? 鈴川さん……」
凛が目を見開いて、信じられないと言わんばかりの顔をして瑠璃に問う。瑠璃は何も言えなかった。
「わたしと石井さんの会話、全部聞いたの……?」
同じ表情で質問をしてくる凛。それにも瑠璃は答えない。
「わたしの気持ち、あなたはどこまで知っているの……?」
またも同じように凛が訊く。そこでようやく、瑠璃が云う。しかし、それはどの質問の答えでもなかった。
「……ごめん、凛ちゃん」
それだけ云って、瑠璃は凛の横を走り去った。俯いて、目を合わせずに。目を合わせたのなら、瑠璃の心に沸いた感情が全部ぶつかってしまうから。
瑠璃は後悔した。深く踏み込んではならないところに踏み込んだと。深入りをするなと云われたのに。自分は愚かだった。面白がって凛の想い人など探さなければ良かったと。それと同時に、抑えきれない感情が芽生え出した。モヤモヤと黒い影が瑠璃の心を覆う。そしてそれは、心を強く痛めつけ、怒りの矛先を自分の意思に反してある人に向けようとするのだった。
そう。それは、凛に対する嫉妬以外の何者でもなかったのだ。




