008:マフィア
王都の東区。
その一角に、まるで時の流れから切り離されたような荘厳なる館が聳えていた。黒い石で築かれたその館は、高く積み上げられた石塀と鋭利な鉄柵に囲まれ、外界との交わりを拒むかのように、重く静かにその姿を横たえていた。石塀の内側には、無言のまま配置された傭兵たちが、まるで彫像のように佇んでいる。その手には槍、腰には剣。彼らの眼差しは鋭く、塀の外に潜むあらゆる影を監視していた。
馬車は静かに、館の前の石畳の上に現れ、正門で静止する。門の内側で、重厚な歯車が回り、鉄の門が内へ開いていった。
馬車が屋敷の玄関前へと止まると、馬車の扉が開き、黒の燕尾服に身を包んだ執事が降り立つ。続いて、黒い衣装に身を包んだ護衛の女が無言で続き、辺りを見回す。そして、最後に姿を見せたのは、ルヴェニュー男爵であった。
男爵は黒のマントを纏い、琥珀色の瞳で屋敷を見上げる。その瞳には警戒でも好奇でもなく、ただ蔑む色が宿っていた。
そして、屋敷の扉が静かに開かれる。そこから現れたのは、アフィア、ヴェルドーネ家の当主アンドレア・ヴェルドーネであった。年の頃は70に届くか届かぬか、しかしその立ち姿には歳月以上の重みが滲んでいた。
ヴェルドーネの左右には黒衣の側近たちが一糸乱れぬ間隔で並んだ。
「ようこそお越しくださいました、ルヴェニュー男爵」
ヴェルドーネは静かに微笑み、両手を胸の前で重ねながら、深く一礼する。その声音は柔らかく、それでいて底知れぬものを含んでいた。
ルヴェニュー男爵は、ヴェルドーネの礼に対し、一言だけを返す。
「ふむ」
すべての始まりは、数日前、ルヴェニュー男爵の館を襲った不穏な黒衣の者であった。
男爵はヴェルドーネへ苦言を呈した。
『屋敷の生け垣が、貴殿の者どもにより損なわれた』
対するヴェルドーネは、あくまでも優雅で、どこまでも社交的な仮面を被り、豪奢な晩餐への招待状、そして「お詫びの印」と称する贈り物である。それは選び抜かれたワイン、葉巻。どれも高貴な者でさえ口にできぬ代物ばかりであった。
『アンドレア・ヴェルドーネ』
爵位を持たぬその男は、王都においては雲上の存在であった。豪奢な屋敷、幾千の傭兵、金で織られた人脈と、影で支配する商業組織。街の乞食から貴族の子息に至るまで、その名を知らぬ者などいないとさえ言われる、マフィアのボスにして大富豪であった。
それでも、ルヴェニュー男爵はその名に微塵の敬意も抱いていなかった。男爵がヴェルドーネからの招待状を受け取ったとき、ただ、冷笑を漏らしたに過ぎない。
ヴェルドーネの屋敷の内部はまさに富と驕奢の権化であった。
厚く磨き上げられた扉が開かれ、ルヴェニュー男爵一行が足を踏み入れた先には、光と影の饗宴が広がっていた。
壁には金の枠に収められた高名な画家の絵画が幾枚も掛けられ、天井からは琥珀色の光を撒き散らす豪奢なシャンデリアが、蜘蛛の巣のごとく煌めきを垂らしていた。廊下の両脇には異国の壺や甲冑、宝石をちりばめた装飾品が所狭しと並べられ、それぞれが訪れる者を威圧するかのように鎮座していた。足元に敷かれた絨毯は深紅で毛足が長く、歩を進めるごとに沈む感触があった。
男爵たちが案内されたのは、晩餐のために設えられた広間。50人を余裕で収容できるであろう空間であった。その中央、重厚な長テーブルを挟んで対面に座す、ルヴェニュー男爵とヴェルドーネの2人。
テーブルには銀の燭台が七つ、妖しく揺らめく光を放ち、食器一つにしても純銀製。手鏡のように反射する皿の上には、分厚く焼かれた血のように赤い肉。男爵の好みを知り尽くした者による仕込みとしか思えぬ、完璧なミディアムレアであった。
「ふむ。なかなか心得ているではないか」
男爵が杯を傾ける。注がれたワインは、まるで凝縮された雫のような深紅で、口に含めば、舌の上を滑るようにして広がる芳醇な香り。長い熟成を経たワイン特有の重たく甘美な後味が喉を満たした。
「フランの北でしか採れぬ黒葡萄を使っております。口にする機会はなかなかございません」
そう語る、ヴェルドーネの声は、穏やかでありながら、何かを試すような色を帯びていた。だが、男爵は、何の感情も浮かべぬまま、瞳を細めて一言。
「食に毒を盛る趣味でもなければ、貴殿はなかなかの客人の扱いを心得ているようだ」
微笑むヴェルドーネの顔の影が、燭台の光に揺られ、壁に歪んだ輪郭を描いた。
晩餐の終幕は、静寂と煙とともに訪れる。
ルヴェニュー男爵はグラスを小さく傾け、杯の中のワインを喉に流し込むと、ゆるやかに右手を持ち上げた。その仕草に応じるように、背後に控えていたシルクが、前へと出る。手には銀細工が施された優美なシガレットケース。そして、まるで舞うようにして蓋を開けた。
男爵は無言のまま、そこから1本の葉巻を選び取り、軽く鼻先で香りを確かめる。シルクが指先に火を灯すと、ゆらりと立ち上る紫煙が、豪奢な広間に広がっていく。
葉巻の先に火をともしたまま、男爵は椅子にもたれ、しばし愉しげに煙を吐いた。
そして、葉巻を灰皿に押しつけつつ、ふと呟いた。
「さて、そろそろ、お暇しようか」
男爵のその言葉と同時に、広間の空気が凍りつく。
執事のシーサと護衛のシルクが、素早く、無音で動いた。2人は一瞬にして宙を蹴り、壁際に控えていたヴェルドーネの護衛たちの喉元へと鋭く剣を走らせる。血飛沫が壁に花のように咲き、豪奢な広間に断末魔の声が響いた。
だが、ヴェルドーネは怯まなかった。ルヴェニュー男爵の行動など、初めから計算に入っていたのだ。
ヴェルドーネは椅子の肘掛けにそっと指を伸ばすと指先で小さなボタンを押し込んだ。
すると、扉の外の廊下に控えていた傭兵たちが、狂犬のような足音を響かせてなだれ込んで来た。扉が開かれた瞬間、剣と怒号が広間に広がる。傭兵たちは数に物を言わせて攻めかかるが、シーサとシルクは一歩も退かず、舞うような剣戟で傭兵を迎え撃つ。
ヴェルドーネは冷ややかな笑みを浮かべたまま、再び椅子の肘掛けにそっと手を添えた。その指先が別のボタンを押し込むと、壁面の絵が音もなく開き、そこから唸るような音とともに、鋭利な円盤状の刃が飛び出す。その刃は、空気を切り裂き、一直線に男爵の首元へと飛来した。
瞬間、ルヴェニュー男爵の首が舞い、床の上を転がり、絨毯に転々と血の花を咲かせた。
「フハハハハハハ!」
ヴェルドーネの勝ち誇った哄笑が、広間の天井に反響する。ヴァルドーネの目には愉悦の光が宿り、声はまるで劇場の役者のように響いた。
「どうした?それで終わりか、ヴェルドーネ?」
それは、飛ばされたはずの首が、ルヴェニュー男爵の声で喋った。血に濡れた男爵の頭部が、床の上から冷ややかにヴェルドーネを見上げていた。男爵の瞳には怒りも驚きもなく、ただ愉しげな嘲笑だけが浮かんでいた。
「ば・・・な、な、何だと!?」
ルヴェニュー男爵を見たヴェルドーネは、膝から力が抜け、椅子に崩れ落ちるように腰を下ろす。その視線の先には、ありえない光景がさらに広がる。頭部を失ったはずの男爵の体が、まるで操り人形が糸に導かれるように立ち上がり、そして自らの頭部を拾い上げると、首の上にあてがう。すると、皮膚と肉が軋んだ音を立てて結合し、縫い目のような傷が瞬く間に消えていった。
「ば、ば、化け物が!!」
ヴェルドーネは、恐怖に顔を引きつらせ、椅子から立ち上がろうとするが、彼の体は不自然な恰好のまま椅子に縛り付けられた。
ルヴェニュー男爵が左手をゆるやかに掲げ、古い言語で何かを呟いていた。
ヴェルドーネは、もがこうとも動かず、口を開こうとも声は出なかった。
「さて、ヴェルドーネ?」
重々しい沈黙を破ったのは、ヴェルドーネの傍らに悠然と立つルヴェニュー男爵の声だった。
「我の首を落とした詫びに金でも貰って行こうか。金庫は、どこだ?」
椅子に縛り付けられたヴェルドーネの口元は震え、瞳は恐怖の混じった色で男爵を見ていた。そして、ヴェルドーネの意志に反して右手がぴくりと動く。指先が操り人形のように背後の本棚の一角を指し示した。
「ふむ、そちらか」
ルヴェニュー男爵が楽しげに呟くと、執事のシーサが本棚に歩み寄る。本棚に近づき調べ、一冊の赤革の装丁本を指先でなぞり、引き抜いた。
『ガコン・・・』
鈍い音と共に本棚がゆっくりと左右に割れるように開いた。その奥には、金庫が鎮座していた。
ルヴェニュー男爵が金庫に近づき、表面に手を添えると、金庫が男爵に従っているように、金庫のダイアルがひとりでに回り始める。そして、金庫の扉が開いた。金庫の中には、魔石灯の光に照らされて輝く無数の金貨が山積みされていた。
シーサとシルクは鞄を取り出し、無言のまま金貨を詰め始める。
やがて、シーサが静かに主へと声をかけた。
「旦那様、終わりました」
男爵はわずかに頷いた。
「ふむ。そうか」
ルベニュー男爵はヴェルドーネにゆっくりと視線を向ける。
「ヴェルドーネ。もう会うこともあるまいが、達者でな」
その言葉を残し、男爵は背を向けて歩き出す。その直後、シルクが音もなく動き、剣が一閃する。
ヴェルドーネの首が、熟れすぎた果実のように落ち、絨毯の上を転がった。
そして、広間は夜の静寂になった。