005:高利貸し
夜の帳が森を静かに包み込み、樹々のざわめきが館の石壁に響く頃。ルヴェニュー男爵の館では、重厚な扉の奥、魔石灯の光に照らされた晩餐の時が静かに始まった。
黒檀のテーブルには、銀食器が整然と並び、赤い絨毯の上には足音ひとつ響かない。
ルヴェニュー男爵は、深紅のベルベットに包まれた椅子にもたれ、手にしたワイングラスを傾けた。深いルビー色の液体が、グラスの内で艶やかに揺れ、芳醇な香りが静かに空気を満たしていた。
「このワイン、美味いな・・・」
男爵の低い声が、静寂の中に落とされた。すぐ傍らに控える執事は恭しく頭を下げる。
「はい、旦那様へと献上された品でございます」
「ほう?誰からだ?」
男爵の瞳がわずかに細められた。口元には、愉しむような、あるいは見透かすような笑みがあった。
「王都のワイルド商会より贈られました」
執事の言葉に、男爵はワイングラスを静かに置いた。そして、わずかに目を伏せ、呟くように言った。
「ワイルド・・・あぁ、あの、高利貸しか。マフィアの下働きだろ」
言葉の端に滲むのは、冷ややかな嘲りか、あるいは軽蔑か。
男爵の記憶には、絹の衣を纏いながらも、泥を踏みしめて歩くような、小太りの男の顔が浮かんでいた。
「はい、さようでございます。彼らは貿易商の顔を持ちながら、裏では高利で金を貸し、弱き者を喰らう輩にございます。そして、マフィア、ヴェルドーネが裏におります。贈り物は、おそらく・・・」
「自分の臭さをワインの香りで隠そうとでも思ったのか」
男爵の声は低く乾いていた。そして、ワインをもう一口。赤い液体が、まるで鮮血のように喉を潤してゆく。
王都の東区、その喧騒に紛れて佇む壮麗な商館。それが「ワイルド商会」で、ルチアーノ・ワイルドの居城であった。
正面には貿易商の看板が掲げられ、常に上等な酒と香辛料の香りが漂っていた。だが、目に見えるのは仮面に過ぎず、裏の世界に足を踏み入れた者で、ワイルド商会の「もう一つの顔」を知らぬ者はいない。
『高利貸し』
人の弱みに漬け込み、財を喰らう金の獣。返済に窮した者からは家も、名誉も、時には命さえも奪い取る。そして、その金は、地下に巣食う更なる闇、マフィアの元へと吸い上げられていく。
商館の裏手、広大な敷地の一角にポツンと建つ小屋がある。鉄の扉を開くと、階段が地の底へと続いていた。下りた先には、まるで貴族の私室を思わせるような豪奢な空間が広がっていた。煌々と灯る魔石灯が金と紅を交えた絨毯を照らし、壁には絵画が整然と飾られていた。
最奥の一室、黒塗りの机を前に、ルチアーノ・ワイルドは椅子に深く身を預けていた。その目は蛇のように細まり、机の向こうに並ぶ金貨の山を、獲物を見定めるように見つめていた。
「ワイルド様、今月の売り上げはこちらになります」
執事が恭しく差し出した帳簿と金貨の勘定。
ワイルドは帳簿に目を落とし、数字を静かに追い、指先で机を3度叩いた。
「・・・これじゃ、いつもより足りないだろ」
ワイルドの冷たい声が、部屋の温度を一段下げた。執事は一瞬、肩を強張らせながらも、平静を装い答えた。
「はい。幾人かが返済を渋っております。しかし、取り立て人は既に派遣しております。来月には遅れ分も・・・」
執事の言葉を遮り、ワイルドは、帳簿を閉じた。その顔には、焦燥の陰が差していた。
ここの売り上げは蓄財ではない。王都マフィアの頂点、アンドレア・ヴェルドーネへの上納であり、自身の忠誠の証でもあったのだ。
「ヴェルドーネ様が納得してくれれば良いが・・・」
帳簿と今月分の金貨を金庫に納めると、ワイルドは満足げに鼻を鳴らした。分厚い金属製の扉を閉じ、3重の鍵を順に掛けた。
「今月も無事に終えたな・・・」
ワイルドのポツリと洩らした言葉に、安堵と緊張が微かに混じっていた。ワイルドは部屋を後にする。その背を追って、執事が扉や魔石灯の確認を怠ることなく、最後に入り口の鉄製の扉を閉めた。
そして全てが夜の静寂へと沈んでいった。
その数時間後。
王都の夜に冷気が降り始める頃、誰にも気づかず、1台の黒い馬車がワイルド商会の裏手、石塀の脇へと止まった。
やがて、馬車の扉が静かに開いた。そこから降り立つ2つの影。1人は黒衣を纏い、顔を仮面で覆った男。もう1人は痩身ながらも鋭い気配を纏う女だった。
2人は石塀を軽やかに越え、ポツンと佇む小屋の扉へと近づいていく。女が懐から器具を取り出し、鍵を開けていく。そして扉は、最初から開かれていたかのように静かに戸口を開いた。
暗い階段を2人は音もなく下っていく。廊下に並ぶ魔石灯はまだほのかに灯っており、床に2人の影を微かに落としていた。
彼らは迷いなく最奥の部屋へと辿り着くと、男が金庫の鍵に指先を添えた。カチリ、カチリと、金属の囁きが静かに響く。第1の鍵、第2の鍵、そして第3の鍵が順に解かれていった。
金庫の鉄の扉が開かれる。中には、金貨がずらりと積み上げられており、まるで宝の洞窟のようであった。女は持参した鞄を床に置き、丁寧に金貨を詰めていく。音を立てぬよう静かに金貨は鞄の中へと吸い込まれていった。
男は、金貨のなくなった金庫に1枚のカードを置いて金庫を閉めた。そして2人は来た時とは逆に鍵を掛け、扉を閉めて馬車へと戻っていった。
灰色の朝靄が王都を包むなか、ワイルド商会の地下深く、ルチアーノ・ワイルドは、重い足取りで金庫室へと向かっていた。その顔には、ボスへの「上納」の準備を整えねばならぬという表情が刻まれていた。
金庫の3重の鍵を慎重に開けていく。ひとつ、ふたつ、みっつ。最後の鍵が外れ、重い鉄の扉が開いた瞬間、彼の目は金貨の輝きを探した。
だが、金貨は、影も形もなく消えていた。
金貨の代わりに置かれていたのは1枚のカード。濃紺のカードに銀のインクで描かれた「月夜に跳ねるウサギ」
それを目にした瞬間、ワイルドの顔から血の気が引いた。視線が定まらず、口がわななき、ワイルドは腰の力が抜け膝から崩れ落ちた。
「ウ、ウサギが・・・奴が!」
主の様子に驚いた執事が慌てて駆け寄った。そしてワイルドが指さしたカードを目にした途端、彼もまた、息を呑み、顔色を失った。
「こ、これは・・・あの、怪盗・・・!」
執事は震える声を押し殺して後退った。
「ボ、ボスに・・・ヴェルドーネ様に報告を!」
執事は、ワイルドの声に背を押されるように階段を駆け上っていった。
鈍く冷たい空気が地下室に澱んでいた。重く閉ざされた扉が開かれ、靴の音が階段を打ち鳴らす。しばしの静寂ののち、幾つもの影が豪華な部屋へと足を踏み入れた。
黒衣の男たちの中で、ひときわ威圧を纏う1人の男。名をダミアン・フィレッティといい、マフィアの執行人として名を馳せていた。
沈黙を破ったのは、ワイルドの執事のかすれた声だった。
「こちらにウサギのカードが・・・」
ダミアンは無言のまま、金庫の中央に置かれたカードに近づいた。革手袋をはめた手でそれをつまみ上げ、目を細めて見つめる。「月夜に跳ねるウサギ」のカード。
ワイルドは脂汗を額に浮かべながら、震える声でダミアンに言い訳を紡ぐ。
「ダ、ダミアン様・・・昨日の夜までは、確かに金貨は・・・この目で確認して仕舞ったのです・・・し、しかし、今朝になったら、こ、このカードに・・・」
彼の声は掠れかすれで喉の奥で潰えた。ダミアンの眼差しが、まるで冷たい刃のようにワイルドを射貫いていた。
「ウサギか・・・」
ダミアンの低い声が地下の空間に響いた。次の瞬間、ダミアンは机にカードを叩きつけた。
「ワイルドさんよ!ウサギは誰だ?誰がこんな真似をしやがった?俺がブチ殺してやる!」
ワイルドの体は恐怖で硬直し、次第に小刻みに震え始めた。唇は引きつり、言葉にならぬ呻き声が漏れ出す。ワイルドはダミアンの威圧に膝を折り、首をブルブルと振るばかりだった。