002:公営カジノ
王国公営カジノ「ブルノワール」に隣接する灰色の石造りの特務騎士団の詰所。そこは喧騒の中心にありながら、時の流れを拒むような沈黙に包まれていた。厚い壁と鉄の窓格子が、外の煌びやかさと内部の静謐を隔てていた。
その詰所の高窓よりカジノの出入り口を見下ろす女性騎士。名はセレス・イディア。夜闇の中でも冷たく光を反射する灰銀の髪を後ろでまとめた姿は、男たちの気後れを誘うほどの威厳を帯びていた。まだ20代後半という若さでありながら、特務騎士団の副団長を任される才覚と胆力は、王都でも一目置かれていた。
彼女の視線の先、カジノの貴族馬車停留所に異質な馬車が到着した。漆黒の馬に曳かれた黒い馬車は、闇と一体化したかのように静かで、不気味な存在感を放っていた。
セレスはわずかに眉をひそめる。
「黒い馬車。あの紋章・・・ルヴェニュー男爵か・・・」
呟いた声は、外のざわめきにも染まらぬ硬質さを帯びていた。
今宵、久ぶりにその男が現れた。彼が姿を見せる夜は、決まってどこかに波が立つ。ルヴェニュー男爵自身が騒動の渦中に立つことはない。常に優雅で、礼儀正しく、賭け事にも節度を持って臨む。
しかし、男爵が現れると、なぜか熱に浮かされたように騒ぐ者が現れ、酔いに任せて暴れる愚か者が続出するのだ。
「さて、今宵はどれほどの熱狂になるのか・・・」
セレスは窓から身を引くと詰所の扉へと向かった。
セレスはカジノの騎士団専用の通用口へと向かい扉を開け、薄暗い廊下を進み、カジノ場へと入っていく。
カジノ場は、天井が高く、黒大理石の柱が天蓋を支え、黄金のシャンデリアが数百の魔石灯を灯して夜を嘲笑うように煌めいている。床には深紅の絨毯が敷き詰められ、客たちの足音は柔らかく吸い込まれていった。空気にはワインと葉巻の匂い、そして金への欲望の熱が濃く混じり合っていた。
テーブルごとにディーラーが立ち、カードが切られる音、ルーレットの回る音、金貨が積み重ねられる音が交錯する。笑い声、歓声、ため息、罵声、全てが混沌の調べとなってカジノ場内を包んでいた。
その喧噪の中を、セレスはブーツで音を立てずに歩く。彼女の髪はわずかに揺れ、青と白を基調とした騎士服は絨毯をすべるように流れ、腰には銀の短剣が静かに寄り添っていた。
「・・・」
セレスの瞳は獲物を探す猛禽のごとく客を見渡していく。浮かれた男たちの視線が時折、セレスに向けられるが、彼らの多くは直ぐに目をそらす。
セレスは、階段を上がり貴族の特別室へと続く回廊へと向かう。特別室の扉の向こうでは、名のある貴族たちが密談を交えながら高額の賭けに興じていた。笑い声の奥には策略と侮蔑が潜み、負けた者には容赦のない視線が注がれていた。
セレスは特別室の喧騒を余所に立ち止まることなく回廊を進んだ。回廊に等間隔で立つ衛兵にセレスが小さく顎を動かすと、衛兵は即座に姿勢を正し、自身の配置を確認した。
セレスが回廊を巡回していると、貴族の控室の扉が開き、剣を携えた護衛が現れた。その後ろには黒のマントを纏ったルヴェニュー男爵。黒の夜会服に金の刺繍が夜の闇を彷彿とさせる。
胸元に飾られたルヴェニュー家の古い紋章のペンダント、手にも紋章の彫られた指輪。眼差しは鋭く、悠然とした足取りで回廊を歩く。そして口元には、葉巻の甘い煙が揺れている。
セレスの緑の瞳が、護衛の剣と男爵を一瞬捉えるが、直ぐに視線を外す。
すれ違う2人と1人。セレスは男爵に視線を合わせ簡単な目礼をする。男爵は、口元にわずかな笑みを湛えたまま通り過ぎていった。
セレスは回廊を見回りながら、特務騎士団団長の話を思い出す。
それは数日前の夜半、城壁近くの伯爵家の屋敷に侵入者があった。
歴史ある石造りの館は、塔を備え、昼間は誇り高き貴族の館として通りを睥睨していたが、その夜ばかりは沈黙のまま、見えざる影に侵されていた。
金庫室の鉄扉に破壊の痕はなく、鍵は丁寧に開けられていた。中に納められていた金貨、それも、かつて他国の王家から譲り受けたという稀少な刻印の金貨までも、全て姿を消していた。
金庫に中に金貨の代わりに置かれていたのは、光の加減でインクが煌めく1枚のカード「月夜に跳ねるウサギ」
数年前、王都を賑わせていた伝説の盗賊「怪盗バニー」が、再び現れたという噂は、翌朝には風のごとく市井に駆け巡った。
「また奴が現れたぞ」
「あの伯爵なら、盗られて当然だ」
路地裏の居酒屋でも、露店の前でも、老若男女が語るのはその話ばかりだった。この被害を受けた伯爵は、都民に評判が悪く、賭博で民の土地を巻き上げるなどの黒い噂が絶えなかった。
その騒ぎは、管轄は違えど同じ騎士団のセレスのもとにも届いていた。
「伯爵の金貨のうち、いくつかは特殊な作りで見分けがつく。カジノに流れる可能性がある」
特務騎士団団長より言われた言葉にセレスは静かに眉をひそめた。
「怪盗バニー・・・名だけは聞いたことがあるが、本当に動き出したのか?」
緑の瞳が窓外の景色を映し思案に沈んだ。
カジノ場の見回りを終えたセレスは、石造りの詰所の奥深くにある執務室の椅子へ腰を下ろし、ポットから紅茶を注いだカップを持ち上げた。紅茶から柔らかな香りが立ちのぼる。
「あの男爵と護衛は只者ではない・・・」
思い出すのは、回廊ですれ違ったルヴェニュー男爵と護衛の姿。冷えた琥珀の双眸でこちらを見据えてきた男。あの眼差しには、理屈ではなく本能に訴えかけてくるような威圧があった。得体の知れぬ闇の力に触れたような感覚だった。
そして、その背後に従っていた赤い眼をした護衛の女。
整った顔立ちに冷えた無表情。腰に帯びた細身の剣やナイフは飾りではない。彼女は殺気を隠しているが、真の使い手だ。セレス自身、剣に通じた騎士であったが、あの女と相対したならば、勝てぬかもしれぬ、と感じてしまった自分が、忌々しかった。
「私が怯むとは・・・」
セレスはカップを置き垂れてきた前髪を指で払った。