三章 彼女がいない
「ふむ、面白い。そして、不可解だ」
粋は椅子の上で足を組んで、考え込むようにうーんと唸った。
英人が「なにが」と聞き返そうとした時、要が奥の部屋からやってきた。
「藤巻英人、杉野邸についての話はいいのか」
要は小さなテーブルに置いてあるコーヒーメイカーをとり、マグカップにコーヒーを注ぐ。
「ああ、そうだ。杉野雪っていう子の家の住所を聞いたから行ったんだよ」
「ふむ、藤巻にしてはいい判断だな」
「それ褒めてないよね……そんで、その家がまた大きくてさ、話によると結構な金持ちなんだってさ」
―――チャイムを押すと、しばらくしてから応答があった。
『はい』
「すいません、雪さんはいますか」
『えーと……今雪さんはいらっしゃいません。学校のご友人で?』
「え……ええそうです、また出直します」
「彼女の学校って、女子校じゃなかったっけ? 家政婦か何かかな……」
まったく杉野雪について把握していない雰囲気がインターホン越しに伝わって来た気がして、英人は深いため息をついた。
要はそんな英人を横目に、杉野邸二階の窓を見上げていた。
一つだけカーテンが閉まっている部屋には、ベランダがあり、ベランダの目立たない位置に何かが置いてあるのが見えた。
「……梯子か」
―――杉野邸の一室の窓から、外を見下ろす影があった。
長い黒髪が印象的なその少女は、カーテンの隙間から、見知らぬ訪問者を見下ろしている。
「雪……」
色の良い唇が少し動いた後、奥歯をかみ締めた。
「仕方が無い、仕方が無いのよ。私が悪いんだから、仕方が無い」
「要、その他に仕入れた情報は?」
要はコーヒーに砂糖を入れながら、粋の方を見た。
「杉野雪は養子だ。十四歳のころ児童養護施設から杉野家に引き取られている。杉野家は代々資産家で、色々な施設にも寄付をしている。児童が増えすぎて困っていたそこの小さな児童施設のために、杉野夫妻は少女を引きとったようだ」
要は五杯目の砂糖をコーヒーに入れた後、スプーンでコーヒーをかき混ぜた。
「施設の児童は十三人になり、何とかその施設は持ち直したそうだ」
「十三人……ね」
粋は開いていたノートパソコンを閉じた。
「ほい、どうぞ」
英人がカップにコーヒーを注いで粋に渡した。続いて自分の分も注ごうとしたが、コーヒーの量が足りなくてもう一度新たにコーヒーを落とすはめになってしまった。
英人は手持ち無沙汰に、カップの四分の一まで入ったコーヒーをくるくると回した。
「なあ粋、この間喫茶店で会ったときは、理子ちゃんに急用が入って、全然話聞けてないんだけど、彼女は一体何を依頼してきたんだ?」
「彼女の友人を探す事だ」
粋はコーヒーを一口すすると、英人にミルクを催促した。
「ただし、敷田理子はまだ本当のことを話してはいない気がする」
「ほんとうのこと……?」
粋は、呟きながらミルクの容器を手渡してきた英人の顔をじっと見返してから、すぐに自分のカップの中のコーヒーへと視線を向けた。
「……実に悲劇的な運命だ」
茶色の液体の中には自分の――幼い少年の顔が映っている。粋はそのカップの中の顔に、ペンキでも塗りたてるようにミルクを注いだ。
そのうち自分の顔は見えなくなった。
○ ○ ○
――波が、呼んでいる。
「ねえ、どうして急にまたここに来ることにしたの?」
私達が人目についてはいけないということを理解して、一人ずつ外出するようにしていたのに、『彼女』が突然海へ行くことを提案した。
懐かしい海。波の音が聞こえる。
海を見下ろせるこの崖の上は、私達のお気に入りの場所だ。
その崖の上は人目につかない位置でもあって、この世界には他に人なんていないんじゃないだろうかという錯覚を起こさせるほど閉鎖された、私達だけの世界だった。
「私達はこのままでいいんだろうか」
突然『彼女』はそんなことを口にした。目線は海に向けられたままだった。
「このままいても、私達に未来はあるんだろうか」
最近の『彼女』は様子が変だ。無口になったし、ほとんど笑わなくなった。それに、最近はずっと外へ出ようともしなかった。
「何を言って……」
そこまで言ったとき、『彼女』はその場から一歩前に出た。私が「危ない」と言葉で制するより先に、『彼女』は口を開いた。
「どうか許してほしい。これは、仕方の無いことだから」
「何の話?」
「仕方が無い、私達が二人で一人であることも、仕方が無い、私達が二人では生きていけないことも」
『彼女』はもう一歩、前に出た。『彼女』と海が重なって見えた。
「仕方が無い。仕方が無いのが、私の運命だった」
波がうねっていた。
ただ、大きな獣が喉の奥が見えるほど大きな口をぱっくりと開けて、こっちを見ていた。
○ ○ ○
英人はクラスの自分の席に着くと、長いため息を吐いた。
「うわっ、めずらしっ。エイトがため息ついた」
隣の席にいる同級生が嫌そうに顔をしかめた。
――速水 総太。英人のクラスメイトだ。
白い肌、大きな瞳に長い睫。女の子のように可愛らしいその容姿は、一見大人しい美少女を思わせるのだが、彼を一言で表すとすれば、『毒舌な子犬』だ。
「やめろよ、エイトが辛気臭いと、雨どころか槍が降ってくるだろ」
可愛らしい顔に、悪戯っぽいニヤリとした笑みを浮かべる。
「あのなー、そーたぁ。俺だーって、悩む時だってあるんですよ?」
「そうだな、百年に一回くらいな」
「俺は妖怪ですかい」
英人が机に頬をつけてうなだれると、総太は訝しげに顔を覗き込んできた。
「んで、エイトくんは一体何に悩んでるんですかねー。まあ、何がらみかは大体分かるけど」
そう言って、意地悪そうにベッと舌を出す。
総太は学校の中で、要以外に唯一、英人が「粋」と関わっている事を知っている人物でもあった。
総太は英人が机に顔を伏せている間に、ちらりと窓側の席を見た。
窓側の席では、要がこっちを無表情に見ていた。
「そういう悩んでそうな顔は、エイトには似合わないよ」
総太は英人に視線を戻してポケットを探り、何かを取り出して英人の前髪に手を伸ばした。
「ほーら、バカっぽい」
英人の前髪は、小さな子供のようにピンで上に留められていた。
ピンには雪の形の飾りがついていて、いかにも女の子の好みそうなものだったが、ほとんど錆び付いていて輝きは失っていた。
「どうしたのさ、コレ」
英人は前髪を直す事もせずに目だけでピンを確認した。
「海辺の店で働いてるボクの伯父さんいるだろ? その伯父さんからもらったんだ。砂浜に打ち上げられてたんだとさ」
「ふーん」
「やるよ、それ。今日一日はずすなよ」
そう言って総太は不適に笑った。この目は何かたくらんでいる目なのだが、それが何なのか検討もつかなかった。
――放課後、眠い授業もやっと終えて、眠気を覚まそうかと屋上へ続く階段を上っている最中だった。
欠伸をしながら歩いている英人を、後ろから何者かの手が、がしりと掴む。
「うおわぁ!」
驚いて短く叫び声を上げてから後ろを振り向くと、眉間にシワを寄せた要が立っていた。
「な、なしたんですか、吉野さん」
英人が言うと、要はさらに怒ったようにピクリと表情を動かした。
英人はわけが分からずおろおろしていると、要はきょろきょろと周りを見渡した。放課後に屋上に用がある人などほとんどいないので、階段には他に誰もいない。
「……貴様は馬鹿か」
要がぽつりと呟く。聞き取れなかったので英人が聞き返すと、要は不機嫌そうな顔をさらにしかめて、はっきりと言い放った。
「貴様は馬鹿者かと言っている!」
そして英人の前髪を留めているピンを素早くとった。
「あ、それ、まだついてたんだっけか……」
英人が要の持つピンをまじまじと見つめると、要はそのピンをつきかえした。
「これはつけるな。そこまで強い『心残り』は感じないから、持つくらいならいいが、興味が無いものならすぐに捨てろ」
早口に言うと、英人の手にピンを握らせて、くるりと背を向け立ち去ってしまった。歩いていくうしろ姿は姿勢がピンと張っていて、今は武士というよりかは生真面目な軍人のような雰囲気を放っていた。
屋上には先客がいた。総太だ。子犬のような可愛らしい目を細めて、口元には笑みを浮かべている。
「もう取っちゃったのか」
何のこと……と聞くと、総太は自分の前髪をちょいちょいと指先でいじってみせた。
「あぁ、アレね。吉野さんがついさっき、何かつけちゃダメなようなこと言ってたから」
ポケットに入っている先程のピンを差し出すと、総太は首を振った。
「やるって言っただろ。持ってろよ」
そう言って笑うので、英人は頭上にクエスチョンマークでも浮かべそうな表情のままピンをポケットに戻した。
「その笑い方、ちょっと粋に似てる」
何の気なしに言うと、総太は予想以上に顔をしかめた。
「やめろよ、冗談だろ」
「そんな、粋に会ったこともないのに毛嫌いしなくても……」
総太は外面が良いタイプなので、こんなに人に対して拒否反応を示すことはあまり無いのだが……
「分かるさ、ボクのだーいじなエイトくんをこき使ってる様な性悪だろ」
総太には粋のことを話してはいるが、粋が小学生のような小さな子供であることはまだ言っていなかった。
「どっちかというと我儘な坊っちゃんって感じなんだけどな……」
「何か言った?」
丁度騒がしい風が吹いて、総太の耳には届かなかったようなので、英人は「なんでもない」とだけ返しておいた。