一章 粋という名の少年は
どこからか、真っ赤な紅葉がひらひらと落ちてきた。
乾いた音をたてながら黄色のイチョウと織り交ざって、秋の色を奏でる。
落ち葉をかさかさと踏み鳴らしながら、一人の青年が歩いてきた。
細身で身長は標準より少し高いくらい。髪の色は茶色がかっていて、色素は薄めだった。
制服の上にダッフルコートを着て、赤いマフラーを巻いている。
青年は、住宅街から少し離れたところにある廃屋の玄関口に立った。
今はもう寂れて見えるその建物は、表の看板から『元歯科医院』であることが伺えたが、現在はひっそりと静まり返っていた。
青年は冷たい風に身を縮めたあと、その廃屋の扉を開け、中へと入っていった。
青年が廃屋の中の一室に足を踏み入れると、
「ああ、来たか、藤巻」
皮張りの大きな椅子に座った小学生ほどの少年が、大きなデスクの上に置かれた黒いパソコンを見ていた顔を上げ、その容姿にそぐわぬ大人びた表情で不敵に笑った。
一章、粋という名の少年は
「常世には掟がある。常世に存在する以上はその掟に従わなければならないし、掟を犯す者があってはならない。掟を破った瞬間、その存在は常世では認められなくなり、常世に認められなければその存在は肯定されない。つまり掟は永遠に守られ続ける」
埃っぽい空気が鼻をくすぐる。
薄暗い室内に、閉じられたカーテンの隙間から入ってくる日光が淡い光線のように差し込む。
その光の下で、小学生ほどの少年が難解な書物に視線を落とした。
「……え、えーっと粋さん、悪いんすけど、もうちょっと噛み砕いて言ってくれます?」
藤巻英人【ふじまき えいと】は注ぎ損ねそうになった紅茶に気を配りながら、この「粋【いき】」という少年に言った。
粋は低い身長のせいで椅子に腰掛けても足が床に着かず、足をぶらぶらと空中に彷徨わせている。
「君の脳みそはこんにゃくかね? はたまたガンモか、いやいや餅巾も捨てがたいか」
粋が書物を閉じて椅子から飛び降りると、何かを考える風に口元に手を当てながら、英人が入れた紅茶のあるテーブルの元へと歩み寄った。
「最近のお気に入りはおでんってか……」
ころころと変わる粋の『お気に入り』の事を考えながらも、英人は自分の脳みそがこんにゃくである様子を想像してみた。
「……せめてハンペンがいいな」
英人は持ってきたパンを袋から取り出すと、白い陶器の皿に並べた。
自分の家の店のパンではあるが、この、空腹でもない人すら誘い込むような芳ばしい香りといい、思わず手を伸ばしたくなるほど艶良く焼けた姿といい、完璧と言わざるをえない。
「つまりはだね、この世には掟――すなわちルールがある。この世に存在する限りはそのルールに従わなくてはいけないし、従わされてもいる。……あぁ、いい香りだ」
粋は陶器の皿からクロワッサンを一つとって自分の皿に置いた。
同じく陶器の瓶に入ったジャムとバターを交互に見つめる。
「そのルールって何?」
「まあ細かく言ってしまえば無限とも言えるほどに存在するが、簡単なのを言ってみると、『同一の存在を認めない』事。うーん、マーマレードか。イチゴは?」
「『同一の存在を認めない』? あー、イチゴジャムはこの間無くなった」
結局そのまま食べる事を選択したらしく、粋はそのまま豪快にクロワッサンにかぶりついた。
「人間はこの世界に大量に存在する。しかし同じ顔が存在しないのはなぜだ? 何十万人と生きているのだから、一人くらい同じパーツを持つ人間が存在してもいいだろう?
しかし、それはあり得ない。『似て』はいても、『同じ』はあり得ない。何故だか分かるか、藤巻」
英人は口に含んでいたバターパンを急いで飲み込むと、思考をめぐらせ、少し間を置いてから答えた。
「……分かりません」
「それこそが『同一の存在を認めない』なのだよ。これは生物だけの話ではない、この大量生産の時代でも同一の物は存在しない」
「え、でも、例えば同じ人形とか、あと文房具とか、服とかあるだろ?」
英人は子供の玩具や流行の洋服を考えた。色々な店で同じ商品がずらりと並んでいるところがありありと浮かぶ。
「藤巻、物は何故破損するのだと思う? 洋服が綻ぶのは何故だと思う?」
粋は二つ目のパンに手を伸ばそうとして、そのまま手が空中で彷徨っている。
どうやらバターパンかメロンパンかで迷っているらしい。
「それは物ですら常世のルールを守るからだよ。大量生産されていて、傍目では同じ物かもしれない。しかし、服であれば服自身がその身を綻ばせて他との変化を作る。
お前が言った人形もそうだ、例えば彩色の違い、多少の欠陥、それによってその固体は『同一』ではなくなる」
「なーるほど……あ、今日のおすすめはバターパン」
「ドッペルゲンガーという言葉を聞いたことはあるか、藤巻」
粋はバターパンを頬張った。
「あるよ、ドッペルゲンガーに会ったら死んじゃうってやつ」
「まあ本来『ドッペルゲンガー』とは自己像幻視であり、実在しないと考えるのが一般的ではあるが、ドッペルゲンガー現象を体験するのは『寿命が尽きる寸前の証』という民間伝承もある。ようはお前の言った『会うと死んでしまう』というヤツだな。ならば、なぜ会うと自らの命を失わなくてはならないか。それは常世が同一の存在を認めないからだ」
粋は多少湯気を失った紅茶をすすると、パンとは別の皿に入れられていた林檎をフォークで刺し、ウサギの形に切られたそれをくるくると回した。
「まあ、ドッペルゲンガーはまた別の話でもあるから、これを例に出すのは多少の語弊を生むかもしれないな。あれはオカルトの類か、はたまた生物学的な脳の作用の類か、確定はしないし」
粋は椅子からぴょいと飛び降りると、自分のデスクに置いてあるノートパソコンを弄り始めた。黒光りするパソコンのキーボードを何度か叩いたかと思えば、
「ほお……」
興味深そうな呟きを洩らした。
英人はぎくりとして、ティーカップを片付けていた手を止めた。
「さ、さあて、俺そろそろ帰――」
「藤巻、プラムだ。プラムという喫茶店へ行ってこい!」
「やっぱり! いや、俺これから用事が――」
「ああそうだ、要も連れて行ったらいい。場所は要に聞けば分かる」
好奇心で目を爛々と輝かせた粋は、英人に向かってびしりと指をさした。
もはや有無も言わさぬ雰囲気である。
そんなこんなで藤巻英人は、粋の『おつかい』を果たすため、隣町へと足を運んでいた。
しかし、その英人を取り巻く空気は、この場だけ重力が二倍になったかのように重く息苦しい。
なにせ英人の隣にいる吉野 要という少女は、無表情・無関心を決め込んでいたのだから。
吉野要は藤巻英人のクラスメイトでもあり、『粋の元に通う』という行動に関する仲間でもある。
まあ、吉野要本人は英人を『仲間』として見ているかと言われると、肯定は出来ない。
……いや、全力で否定できる。
簡単に彼女の容姿を説明すると、『日本人形に洋服を着せた感じ』が一番適当だった。
代々続く小さな博物館の奥でひっそりと息づく、職人が魂を込めて作り上げた少女の姿の日本人形。それに、今時の高校生が着る制服を着せた感じだ。
まあしかし、彼女の口調や放つ雰囲気は『しとやかな人形』というよりは『武士』といったほうが納得できるのだが……
「あの、吉野さん? せっかくの遠出なんですから楽しく行きません?」
遠出といっても隣町にしかすぎないのだが、「人生楽しんでなんぼ!」がモットーである英人は、いつも眉間にシワを寄せているような吉野要と何とか会話を成立させるべく、努力していたのである。
「着いたぞ、『プラム』だ」
やっと言葉を発したかと思えば、すでに目的地に到着していた。
要はさくさくと一人で歩き出し、喫茶店へと入ってしまう。英人は出遅れつつもその後を追いかけるしかなかった。
「えーっと、待ち合わせなんですけど……」
英人が言うと、店員は愛想よく奥の席に案内してくれた。
奥の席には、学校の制服を着たままの少女が一人座っていた。
長い前髪を、シンプルな花のモチーフがついたピンで留めている。
髪はセミロングで、どこにでもいるようなごく一般の高校生ではあったが、テーブルに置かれたティーカップにはまったく手をつけず、何か思いつめた表情でずっと自分の膝を見つめている様子からしても、彼女が『依頼主』であることは見当がついた。
英人はその少女に近づくと、少女の顔を覗き込むようにしながら尋ねた。
「初めまして。君、『ATLAS』にメール送ったよね」
――この世のどこかに、『 ATLAS 』というサイトがある。
それはふわふわと漂う奇妙なサイトだ。
そのサイトには何故か奇妙な『問題』を抱える依頼主達が集まってくる。
そのサイトの管理人である粋は、その奇妙な問題たちに目が無い。
―― そして今回もまた、一通のメールが届いた。
少女ははっとして俯いていた顔を上げたが、すぐに表情は驚きに変わった。
「学生があのサイトの管理人……?」
訝しげに言うので、英人が慌てて弁解しようとすると、要が少女の斜め向かいの椅子に座りながら無興味に言った。
「我々は代理だ。それに、能力と年齢は比例するものではない」
要の反論も許さない物言いに、少女は言葉を失った。
「俺は藤巻英人。君の名前は?」
英人はタイミングを見計らって着席してから、にっこりと笑って尋ねた。
「私は……リコ、敷田 理子です」
依頼主――理子は、そう言ってはにかんだ。
「実は……」
メニューを聞きに来た店員に英人が軽い注文をして下がらせたのを確認してから、理子は話し始めた。
「友達を探して欲しいんです」
「友達って……同じクラスの子とか?」
「そうです、名前は『杉野 雪』萩山女子高等学校1年4組」
「探すって……行方不明になったって事?」
英人が驚いて聞くと、理子は首を振った。
「いいえ……彼女は毎日学校に登校しています」
理子の静かな物言いに、英人は首をかしげた。
「登校してる……って、それじゃあ探す必要ないんじゃ……」
もしかするとこの依頼主の方が学校に登校できない状況にあるという可能性も考えたが、この目の前に座っている少女が制服姿であることから、その仮説は自分の中ですぐさま否定された。
「私が探して欲しい友達は彼女ではありません」
「は?」
隣で、ウエイトレスによって運ばれたコーヒーをすする音が聞こえた。
要のテーブルの上には使われた砂糖のスティックが何本も散らばっている。
「甘そ……じゃなくて! えーっと、ちょっと混乱してきたぞ……」
英人が頭を抱えていると、携帯電話のバイブレーションの音が聞こえた。
理子は驚いて自分の携帯電話を開くと、謝罪した。
「すみません、申し訳ないんですが、学校の委員会を抜け出してきているので……本当にすみません」
理子は自分の鞄を掴むと、自分の分の代金をテーブルに置き、頭を一度下げてから慌てて出て行ってしまった。
『いいえ、彼女は毎日学校に登校しています』
物静かに言った彼女の言葉が妙に耳に残って、頭の中で響いた。