怖がり少女と絵の中のモノ
朝日が一つのキャンパスを照らしている。そのキャンパスの前には、男が無気力に座っていた。
長く伸びた髪の毛に、無精ひげ、うす汚れて痩せこけた頬と体。男は、キャンパスに描いた絵を、ただ眺めていた。
可愛らしいとは言えない容姿の男だが、よれよれの白いTシャツだけはカラフルな色で可愛らしく彩られていた。
「おはよう、バカリ。聞いてよ」
朝の挨拶をするなり、いきなり、そう切り出した友人の玲衣に灯は首を傾げる。
「おはよう、玲衣ちゃん。どうしたの?」
玲衣は辺りをキョロキョロ見渡すと、灯に顔を近づけ、灯の耳の近くで静かに言った。
「おばけ、みた」
玲衣のその言葉に、灯は青ざめた。
「それは、ある夜中でした」
玲衣はいきなり語り始めた。なんとか聞かないように、耳を手で塞ごうと慌てる灯だが、玲衣はその灯の手をつかんで阻止した。
「部活で遅くなった私は、早歩きで帰宅していました。肌寒く、辺りは真っ暗で、私はやだなぁ、やだなぁ、こわいなぁ、こわいなぁと思いながら歩いていました」
なんとなく聞き覚えのあるフレーズである。しかし、突っ込むほどの余裕は灯はなく、既に恐怖で震えていた。
「その時、私はふと何気なく、近くにあるアパートを見上げました」
そこで、意味深に区切る玲衣に灯は、息を飲み込んだ。
「すると、そこには!!女性が立っていたのです!!!」
いきなり、叫んだ玲衣に灯は涙目で「ひぃぃ!」と情けない声で叫ぶ。
「その白い服を着た女性は、長い黒髪を垂らしており、顔が全く見えない状態でした。その女性が、私を見下ろしていました。それだけなら私も不気味に感じるだけだったのですが、ある違和感を感じました。よく見ているうちに気づきました」
玲衣はまた静かに語り始めた。強弱をつけて話す玲衣の怪談話のテクニックに、盗み聞きしてるクラスメイトは脱帽している。
「その女性はアパートの2階部分の手すりより、かなり高い位置に腰がありました。女性にしてはありえない高身長です!つまり人ではなかったのです!!」
また叫びながら語る友人に、灯は腰は抜けそうになっていた。
「そこから、私はこの瞬足をいかして何とか逃げ切りました!!たいちょーーー!」
意味不明な敬礼をして灯に向かって叫ぶ友人に、灯はびっくりし過ぎて椅子ごと後ろに倒れた。そして腰が抜けたのか、イモムシみたいにもぞもぞ動いて、うずくまってしくしくと泣き始めた。
玲衣の隣の席の男子、相良が「お前、朝からうるせぇよ」と言って、玲衣の頭をはたいたことで、その場は収拾した。
ちなみに、このような灯と玲衣のやり取りは、小学校の頃からEクラスで度々見かける光景であるため、クラスメイト達は、欠伸したりゲームしたりと各々の朝の時間を過ごしていた。玲衣は灯を驚かすのが大好きなのだ。
唯一、編入生である平井だけ、号泣している灯をおろおろと心配そうに見つめていた。
「竜頭」
朝から泣くという醜態をクラスメイトに晒して(クラスメイトは全く気にしていない)、机の上に顔を隠すように伏せっていた灯は、頭上から聞こえる美声に顔を上げた。
そこには灯を心配そうに見つめる異様に顔が整ったイケメンがいた。灯は眩しすぎて目を細めた。
彼は、運悪くバカの集まるEクラスに入ってしまった頭の良いイケメン編入生の平井である。灯と席が近くないため、あまり話したこともなかった。
「これ」
言葉少なにそう言うと、彼は灯になにやら紙を差し出してきた。灯は首を傾げながら、その紙を見た。
『平井海 絵画展』と書かれた青いチケットだった。
「これさ、俺の叔父の絵画展なんだけど、一応有名な人なんだよ。なかなか手に入らないチケットらしい。俺はこういうの興味ないから。もし、竜頭が興味あるなら、これもらって」
いきなりチケットを渡してくるなんて、デートのお誘いなのか?もしやイケメンに誘われてる?
灯がちょっとドキドキしていると、灯の目の前のイケメンが輝かしく笑った。
「竜頭、朝から羽金に苛められて泣いてだろう。それが、妹に苛められて泣いてるうちの小学生の弟みたいに見えてさ。こんなので、慰めになればいいけど」
そう言う優しいイケメンに、灯は遠くを見るように微笑んだ。小学生と弟というワードに心の中の灯はパンチされてボロボロになっていた。平井の好意を無碍にするのも心苦しく、そのチケットをもらうことにした。
自慢じゃないが、灯はO型である。自意識過剰な時がある。変な勘違いをして恥ずかしい思いをしたことが何度かある。しかし、これはO型だからしょうがないことなのである。
なるほど、どうやら本当に編入生の叔父さんは有名人かもしれない。灯は、そこにいる多くの人を見て、納得した。
灯は、早速その日の放課後に『平井海 絵画展』に行く事にした。都心より少し離れた場所にある一軒家を、絵画展として使っているようであった。そこは、夕方だというのに多くの人が訪れていた。
灯は飾られている絵画を入り口から順番に見ていた。
絵画についてあまり詳しくない灯であったが、とても上手なのはよくわかった。
例えば、1つの絵画は、リアルな一軒家が描かれていた。しかしその一軒家は海に沈んでいる。一軒家の周りには熱帯魚やウミガメが浮いているのだ。神秘的でとても美しく、魅入られる絵であった。
他の絵画も、このような生活感のある普段の光景が、空に浮いていたり、活火山の真上にあったり、と様々な場所で描かれていた。
パンフレットをみたら、写実とシュルレアリスムの融合らしい。もちろん灯はその単語の意味を知らない。しかし、そんな灯でも、とても楽しく見れるような綺麗で、面白い絵画ばかりであった。
一つ一つを自分のペースで見ながら、ゆっくりと移動する灯だったが、部屋のある一角で立ち止まり、絵画以外のものに着目した。
灯が見たのは白い扉だ。いや、正しくは白地の扉である。その白地の扉にはパステルカラーで、桜の花びらに向日葵、イルカにウミガメ、紫のパンプスなどが描かれていた。
その扉を見た灯は吸い込まれるように近づいていった。躊躇いもなくドアノブをひねり、灯は、静かにその扉の部屋の中に入った。その少女の姿に、気づく者はだれ一人いなかった。
白い扉から入った部屋には、真ん中に立つキャンパス以外何もなかった。
そのキャンパスに描かれている絵は、見覚えのあるものだった。白い雲に水色の海。その海の真ん中に、複雑ならせん状で描かれている黄緑色の建物がある。その建物には、窓が一つだけあった。
あ、これ、前に夢で見た光景だ。と灯が気付いて、手を伸ばすと、波のようなものが絵から出てきて灯の手首を掴むとそのまま絵の中に引き込んだ。
波の音が聞こえる。優しいさざ波の音だ。
灯は、そっと目を開いた。またパステルカラーの世界にいた。灯が立っていたのは、以前の夢でも立っていた白い円柱の上だった。水色の海がその円柱の周りを囲っていた。
水色の海の中からピンク色の通路が現れた。円柱とどこかを繋ぐ通路のようだ。灯はその通路を歩いてみることにした。ぽよん、ぽよんと柔らかくて不思議な踏み心地だった。灯はその踏む感触が面白くて、ゆっくり歩き出した。
しばらく歩いていると、黄緑色のらせん状の建物が見えてきた。灯は建物に近づくと、その建物を見上げた。夢と同じで窓が一つあった。しかし、夢とは違い、あの柔らかい雰囲気の美人がいない。
灯は、ここからどうしようかと悩んでいた。
すると、海の中から巨大な白い蛇が現れた。その白い蛇は、建物ににゅるにゅると絡みつく。蛇は、その一つだけの窓まで頭を持っていき、建物にらせん状に絡みついた後、灯の足元にしっぽを置いた。
灯が驚いて目をパチパチさせていると、瞬く間に、蛇は白いらせん状の階段へと変わった。
普段の灯なら躊躇しているはずだが、何かに誘われている気がして、その階段を上って行った。
階段の一番上まで登りきった灯は、その到着地である窓を、おずおずとのぞいた。
誰もいなかった。灯は、窓のふちに足をかけて、その部屋の中に入り込んだ。
そこには、いかにも女の子が好きそうなものがたくさん置かれている可愛らしい部屋があった。
水色の壁紙には、黄色の星や月と、桜の花びらが描かれている。クラゲのような形をした可愛らしい照明に、お姫様が寝ていそうなフリルのカーテンがついている天蓋ベッド。白い棚にはイルカとウミガメの置物が置かれている。猫足のテーブルと椅子は、クリーム色である。そのテーブルの上の花瓶には、向日葵の花が飾られていた。そして、床には、パープルのパンプスが置かれている。
亀に埋め尽くされた灯の部屋とは全く違う女子らしい部屋に、灯はキョロキョロと部屋を観察した。
すると、上からクスクスという笑い声が聞こえた。灯は、驚いて上を見上げるが、そこには何もいない。
灯が目線を元に戻すと、灯の目の前には、女性が立っていた。ヒッと、驚いて息を吸い込んだ灯に、その女性はくすくす笑う。ふわふわとウェーブしている長い茶髪に、白いワンピース。その足は、先ほどのパープルのパンプスを履いていた。
今にも消えてしまいそうな儚い雰囲気の美人である。そして、このパステルカラーに埋め尽くされた部屋に、いても違和感がない可愛らしく優しい笑顔を見せる人であった。
「いらっしゃい。待ってたのよ」
そう言った女性は、灯を椅子に座るように促した。灯は、素直に椅子に座った。
「ここは、夢?」
灯は、首を傾げながら、灯と対面に座る女性に聞いた。
女性は、ふわりと微笑んでこう言った。
「夢じゃないよ。ここは絵の中」
「平井先生、いつまで腑抜けてるんですか。いま、ここの下の階でファンが先生の絵を見に来てくれてるんですよ!」
そんな声とともに、身体を揺さぶられて彼は目を覚ました。彼はうつろな目で、彼を揺さぶった男を見た。ゆさぶった男は、眉をしかめている。そして、彼の腕を掴み、無理やり体を起こさせた。
「なんて面してるんですか。ご懇意にしていただいている方が来たので、少しでもいいから挨拶してきてください。とりあえず、まずはシャワーに浴びてきてください!」
そういって、彼を引っ張り、浴室に押し込んだ。
彼は、促されるままに浴室に入り、その空間を見渡した。
コップの中に2本ある歯ブラシに、花柄のタオル。鏡に貼られたイルカのシール。
それを見たとき、彼は初めて表情を顔に出した。眉をしかめて苦しそうな表情である。
そして、彼は、シャワーの蛇口をひねった。勢いよく出るシャワーの水は、彼の頭に振りかかった。
「なにしてるんですか!」
また、怒鳴り声が浴室に響き渡った。
「服ごと濡れるなんて!あ、これ、お湯じゃない!これ水ですよ!!バカじゃないですか!もう!こうなったら、僕が強制的に体を洗いますからね!!」
彼は怒られながら、男に服を脱がられそうになった彼は、初めて声を出した。
「いい」
その言葉に、男は疑うように彼を見つめる。
「本当に自分で出来ます?ちゃんと髪洗って、全身洗ってくださいよ!ひげもそってください!絶対ですからね!」
そう言う男に彼は頷いた。浴室から出て行く男を目で追うと、彼はようやく自主的に動き始めた。
身なりを整え、スーツを着て人前に出てきた彼を、ファン達が熱い眼差しで見つめている。彼は、絵が独特で人気な画家であるが、それ以外にも整った見た目もあり、カリスマ性がある人間だった。
彼は笑顔は見せないものの、懇意にしてくれる彼のファンの接待をした。
絵画展の閉館時間となり、会場から人やスタッフが一人もいなくなる。彼は、会場を見渡し、会場のある一角に目を留めた。
真っ黒な扉である。以前、あの扉は白色で、絵が描かれていた。しかし、それを彼が最近黒のペンキで塗りつぶしたのだ。
矛盾している、と彼は思った。
彼女の痕跡を消してしまい気持ちと、残しておきたい気持ち。彼の中には、彼女がいなくなった時から、この矛盾した気持ちがあった。
そして、彼はその扉に近づいて、その黒い扉の表面をそっと撫でた。そのとき、扉の中から、カタンッと小さな物音が聞こえた。
中には、アレしかないはずだ。アレが倒れたのだろうか。彼はそう思うと、扉を開けて、その部屋の中に入って行った。
「え、絵の中?」
カッと目を見開く灯に、女性は笑って頷く。
「なんで?」
「さあ。私もここに人が入ってくるのは初めてだから、よく分からないの」
静かな優しい口調で、そう言う女性。
どうしよう、と考える灯は、ふとある疑問が思い浮かんだ。
「お姉さんは、なんで、ここにいるの?」
「私はね、閉じ込められちゃったみたい」
テヘッとお茶目に笑う美人に、灯はとりあえず、どんな反応をするべきか迷ったあげく、無難に「そうなんだー」と相槌を打った。
「で、私もどうやってここに出たらいいかわからないの」
「そっか。でもどうして、閉じこめられたの?」
「それもわからないの。気が付いたらここにいて。本当なら、もうお空の上にいるはずだったのに」
「え!お空の上にいるはずだったの?」
「うん。お空の上で、今頃、わたあめ美味しいって言って食べてたはずなのに」
「お空の上ってわたあめあるの?」
着目点が違う灯であるが、誰もここに突っ込む者はいなかった。
「雲ってふわふわして、わたあめみたいで美味しそうじゃない?」
「いわれてみれば、そうかも。私も食べてみたいなあ」
「うふふ。いつか食べれると思うよ。きっと」
「やったあ~」
灯は、たくさんあるわたあめを食べる幸せな想像をして、涎を垂らしそうになった。
その部屋に、唯一置いているイーゼルに載せたキャンパスが倒れ、床に落ちていた。
窓も開けていないのに、おかしい。
そう思いながら、彼は近づいてそのキャンパスを持ち上げた。そして、彼の目にキャンパスの絵が映る。
これは誰にも見せるつもりはない絵だ。納得がいかずに、何度も何度も描き直した絵。彼女のことを思いながら描いた絵である。この前、つい油断して人に見られ、テレビにうつされてしまったが、これは誰にも渡さないと彼は考えている。
彼は無感動にその絵を見つめた。しかし、その絵のあるところを見て、大きく目を見開いた。
絵の中心にある、黄緑色の建物。これは、旧約聖書に出てくるバベルの塔をイメージしたものである。この建物には、窓を一つだけ描いていた。
この窓の中には何も描いていないはずであった。
しかし、そこには笑顔の彼女と、見たことない制服姿の少女が描かれていた。
「あら、あの人がこっち見てるみたい」
女性が嬉しそうにそう言って、灯の背後を見た。灯の背後には、灯がこの部屋に入ってきた窓があったはずだ。
灯は窓の方に振り返った。そして、椅子ごと倒れた。何故、灯がそこまで驚いたかというと。
巨人が窓を覗いていたのだ。
その巨人が、窓に指を入れてきた。灯は、その指から逃げようとするが、既に遅かった。制服の背中の部分を掴まれてしまった。
「お姉さん!助けて~!」
鼻水と涙を垂れ流しながら、女性の方に手を伸ばす灯。
「あら、大変」
全然、大変そうな様子を見せていない女性は、灯の腕を掴んだ。
しかし、相手は巨人。力で敵うはずもなく。
灯達2人とも、窓の外に引っ張り出された。灯は、目をギュッと閉じた。
灯は勢いよく、ドスンと床に尻もちをついた。その衝撃とお尻の痛みに驚いて、灯は目を開く。すると、そこは絵の中に入る前の部屋だった。
先ほどの不思議な世界は夢だったのか。灯はそう思ったが、灯の右腕を何かが掴んでいる。腕を見ると、あの女性がいた。夢ではなかったのだなと灯は思い直す。
そうなると、今、灯の制服の背中の部分を引っ張っているのは、あの巨人なのか。
灯は恐怖に慄きながら、ゆっくりと自分の背中の方へ振り返った。
すると、そこにいたのは巨人ではなく、普通の男性がいた。いや、普通といっては語弊がある。とても格好いい男性が、そこにはいた。灯のクラスの編入生とどことなく似ているイケメンだ。
灯の背中を掴む男性と、灯の腕を掴む女性が、灯を挟んで見つめ合っていた。
長い間(といっても灯の感覚なので、数分かもしれない)、見つめ合っていた2人に灯は痺れをきらして、口を開いた。
「あの?」
その声に、男性がハッと目を覚ましたように、灯を掴んでいるで手を離した。
「君は?」
そう男性に問われて、灯は焦った。展示場とは明らかに違うこの空間に、勝手に入ってしまった。つまりは、不法侵入をしたのではないか、と今更になって気づいたのだ。まだ、若いのに、監獄の中で麦飯を食べるなんてまっぴら御免である。
そう思った灯は、無い頭をフル回転して、言い訳をとっさに口に出した。
「迷子です!」
そういうと、男性が首を傾げた。
やばい、疑われているのか。はやいところ、脱出しなければ。
そう思った灯は、灯の腕を掴む美人さんの手を外して、その手を握り、ぶんぶんと上下に振った。
「お姉さんがわたあめの話をするから食べたくなっちゃった。よしっ、帰ろうかなぁ」
灯はその手を離して、扉に早足で向かって、2人に手を振った。
「じゃあ、後はお若い2人で~。失礼しました!」
そう言うと、そそくさとその部屋から出て行った。
海は昔から、建物や自然、芸術にしか興味がなく、人間には無関心だった。そのため、コミュニケーションも自ら積極的に取ろうとしたことがない。そのため、親からは発達障害かと疑われているほどであった。
しかし、海は周囲がなんて言おうが、関係なかった。彼は他人の評価をもらうより、美しい建築物や自然の風景などを眺め、自分で絵を描くだけで、満足していたのだ。
そんな海が、初めて人間に興味を持ったのは、中学1年生の冬であった。いつも、教室の廊下側の最後尾の机。その机に座る者は誰もいなかった。そのことに関して、海は何も疑問に思わなかったのだが、その寂しげな机を見るのが海は好きだった。
その机に、ある日、見知らぬ少女が座ったのだ。
そのイレギュラーな存在に、海は不快に思った。滅多にしゃべらない寡黙な海が立ち上がり、その少女に近づいて、こう言った。
「なんで、そこに座っている?」と、至極不機嫌そうな表情で。
その海に、少女は首を傾げて、しばらく考えたのち、こう言った。
「時々座ってあげないと、机と椅子がかわいそうだなあって思ったから」
そう言ったあと、彼女は自分の発言に満足そうに笑った。これが、海に初めて人間に興味を持った時だった。
その机の彼女は、数日学校に来て、また消えた。海は、また寂しげにぽつんとただそこにあるだけの机を眺める日々に戻った。
桜が咲く季節になり、クラス替えがあっても、海はその一人ぼっちの机と同じクラスだった。
しかし、桜が散り始めた頃、彼女はまた思い出したように、その席にいた。
「入院していたクラスメイトの佐倉空音さんです。佐倉さん、皆に挨拶して」
そう担任に呼ばれた彼女は、担任に促されるままに、立ち上がって挨拶をした。
「佐倉空音です。ずっと入院しててやっと退院できました。よろしくお願いします」
少し緊張した面持ちでそう言った彼女の横顔は、とても白かったが、頬だけ薄紅色に染まっていた。
佐倉空音。桜と空。海は、その名前を無意識に心の中で反芻していた。
「きれいだね」
そう言って、空音は海の描いた絵を見て、優しく笑った。空音は美術部に入ったため、こうやって海と話すようになった。
「そう言うあんたの絵は、いつも同じ色使いだ」
海はそう答えて、空音の描く絵を横目でちらりと見た。桜色、水色、藤色と、彼女の描く絵は、いつも原色に白を混ぜた淡い色を使っていた。
「パステルカラーが好きなの。ほら、私の名前って桜に空でしょ?ピンクに水色って私のイメージカラーなの。あ、そういえば、海君の名前も私と同じだね」
海は首を傾げた。
「平井海。桜の花びらひらひらに、海。ピンクに水色。おそろい」
そう言って嬉しそうに笑う空音に、海は「無理やりすぎる」と言ってため息をついた。
気が付いたら、いつも2人で一緒にいた。
蝉が合唱して、入道雲が泣いて、向日葵が笑う夏の日も。
紅葉が色づき、丸い月がこちらを見る秋の日も。
息が白くなり、りんごみたいに頬を赤くしている彼女と、気が付いたら、手を繋いで一緒に歩いていた。
海が藝大を出て画家になった時も、空音は彼のそばにいて、彼の隣でパステルカラーの絵を書いていた。
ある日、海が街中を一人で歩いていると、あるものに目がついた。
空音が好きそうなパープルのパンプスだ。これを買って、彼女に渡すとひどく喜んだ。
「私の大好きなものが増えた」
空音はそのパンプスを抱きしめてそう言った。
「他に何が大好きなんだ?」
「桜、青い空、イルカ、ウミガメ、向日葵、パープルのパンプスに海君」
そう言うと、空音は幸せそうにはにかんだ。
海の日常は、空音がいることが当然となっていた。
そして、ある日、唐突に思ったのだ。彼女といることがこんなにも楽しいのなら、家族が増えたらもっと楽しいのではないだろうか、と。
この自分勝手な考えが、空音を失う原因になることは、海は知るよしもなかった。
海の絵にファンがつくようになり、売れるようになってきた。それをきっかけとして、海は空音にずっといて欲しい、とプロポーズをした。空音は涙目で頷いた。
そのときから、流れるように時間が過ぎていく。
籍を入れて、彼女が『平井空音』になり、「桜の花びらひらひら、青い空になった」と彼女は嬉しそうに言った。
都心より少し離れた場所に、家を建てた。その家の2人の寝室の白い扉に、空音は鼻歌を歌いながら、彼女の大好きの物を描いていた。
そうやって、2人の時間が過ぎていくうちに、空音のお腹に命が宿った。
幸せだった。今思えば、初恋の彼女を手に入れて浮かれあがって、その上、貪欲に幸せを求め続けていた。
空音を失ったのは、彼女のこともよく知ろうとしていなかったくせに様々なことを求め続けた罰である、と彼は思っている。
空音のお腹が大きくなり、お腹の中の女の子は元気よく動き回っていた。
「お前似の女の子がいいな」
なんて海が言うと、空音は少し息苦しそうに笑って「私は海君似の子がいい」と言った。
早朝にそれは起きた。海が徹夜で絵を描いていた時だった。暗かった空が白み始めた頃に、海はようやく寝ようと、2人の寝室に行った。
ベッドには、ハアハアと息苦しそうに喘ぐ空音がいた。お産が始まったと勘違いした海は、慌ててかかりつけ医の病院に電話した。
指示されるままに、救急車を呼び、の手を握り続ける。彼女は、酸素マスクをつけられながら、荒い息をしていた。
やっとかかりつけ医に着き、医師の診察を待っていると、診察室から看護師が慌ただしく出て行く。
何かが起きたのか、と全身が凍るような感覚に陥った。診察室から出てきた医師に、廊下で説明をされる。
「奥さんの持病が悪化したようで、一刻も争う事態となっています。奥さんを今から、大学病院に搬送します」
持病?一刻も争う事態?
海は混乱して、医師の言葉を上手く理解することができなかった。
医師に促されるまま、海は、彼女の乗る救急車に乗り込んだ。唇を青くして、荒い息をする彼女の手を握り、呆然としている海に医師が詳しい説明を行った。
空音は、拡張型心筋症という心臓の病気を持っていた。入院をしていたりしたが、軽症だったため、退院した後は普通の人と同じ生活をすることが出来ていた。しかし、この病気は例え軽症であっても、妊娠後期になると重症の心不全に陥ることがある病気である。そのため、何か症状があったら、悪化しないうちに、すぐに病院に連絡をすること。そして、緊急時はすぐに大学病院に搬送すること。この旨を彼女に医師は説明していたという。
彼女からは全く聞いていなかった海は、ひどく混乱をした。混乱しているうちに、彼女の目が薄らと開き、海を見た。そして、青い唇を微かに動かして、何かを言おうとしている。
「空音?」
唇がゆっくり動いた。
わたしの、だいすきなもの
彼女はそう呟くと、眠るように全身の力を抜いた。耳障りな高い機械音が鳴り続けている。医師が必死に彼女の胸に手を当てて、強く押している。
その光景を、海はただ、呆然と眺めているだけだった。
大学病院に着き、搬送される彼女を見送った海は、手術室の前の椅子に座っていた。
そして、出てきた医師に、告げられた。
「奥さんも、お子さんも助けることができませんでした」と。
それ以降からは、海は、ほとんど記憶がない。
空音の親族は、彼に彼女とその胎児の遺骨を預けた。胎児の遺骨は、海に散骨することにしたが、空音の遺骨はそのときに一緒に散骨出来なかった。
寝室の白い扉に描かれた空音の大好きなものを黒いペンキで消したり、彼女の痕跡が強く残る寝室のものは全て処分した。
そして、彼がやり始めたのは、絵を描くことだった。
空音の好きなパステルカラーの世界。
そこに、空音を閉じ込めようと思った。
彼女の遺骨を、絵の具に混ぜて、彼は狂ったように絵を描いた。
何故、気づいてやれなかった。
何故、彼女のことを知ろうとしなかった。
何故、彼女以外の家族を求めようとした。
何故、何故、何故
鬼気せまった表情でキャンパスに向かう彼は、飲食もせず、ただ絵を描いていた。ついに、力尽き、キャンパスの前で座って動けなくなっていたところを、知人に発見されて、生かされて、現在に至る。
絵の中に描いたはずのないモノがいることに気付いた彼は、それが良く見たら、動いていることに気付いた。
黄緑の建物の窓の中で、幸せそうに笑う彼女と制服姿の少女。笑う彼女と、海が目が合った。
これは一体どんな夢なんだ。海はキャンパスに触れると、キャンパスに指が入った。窓に指を入れてみると何かを掴むことができた。
海はそれを引っ張ってみた。
すると現れた、少女と空音。
空音だ。彼女を呆然と見ていると、彼女も海を見つめ返してきた。少女が何やら言って、部屋から出て行ったが、海は彼女しか眼中に移していなかった。
見つめ合う海と、空音。
空音が近づいて、海の手にそっと触れる。それに、海は体をビクッと震わせた。
空音は、海の手を両手で握りしめると、海を見上げて微笑んだ。そして、その海の手を自分の頬に当てると、こう言った。
「私の大好きなもの」
海は、初めて涙をそこで流した。涙が止まらなかった。空音の体をギュッと抱きしめる。
「ごめん。ごめん。ごめん」
海は空音の体を強く抱きしめて、謝罪を繰り返す。空音は、海の体を抱きしめ返して、こう言った。
「なにを謝っているの?」
その言葉に、海は、涙で顔をくしゃくしゃにして答えた。
「お前との子供が、欲しいって思ったこと。今より、もっと幸せになりたいって思ったこと。俺のわがままでお前は」
海がそこまで言うと、空音は「ああ、それね」と軽い口調で言った。
「海君、実は内緒にしてたんだけど。あのとき、私もわがままをしていたの」
その言葉に、海はようやく、空音の顔をみた。
「葬式の時に気付いたかと思うけど、私、家族いないの。生活費とか入院費とかは、親戚のおじさんおばさんに援助してもらってやっと生きてるような子だった」
そんな空音の好きなものといったら、病室から見える桜の花びらや向日葵、そして空。あとは、看護師さんやお医者さんからもらったイルカとウミガメのぬいぐるみだけだった。
そんな生活をしていた空音だったが、一時的に退院できることになり、学校に行ったときに海と出会った。
「みんな、私の病気のこと知ってて、変に気をつかってくる中、海君が気を遣わないで話しかけてくれたの。『なんでそこに座っているの』って。そのとき、海君って面白いなって思った」
結局また入院することになった空音だったが、あの面白くて恰好良いクラスメイトにまた会いたいと思い、入院生活を頑張るようになった。そして、ようやく退院することができ、海のクラスメイトとなり、友人になり、恋人になることができたのだ。
プロポーズされた時は、ああ、神様、私今なら死んでもいい!と思ったそうだ。実際、本当に死んでしまうとは思わなかったけど。
「それで、海君と一緒に生活するうちに、子ども欲しいなあって思ってくるようになったんだ。子どもできれば、家族がふえて、もっと楽しくなるんじゃないかって」
けど、妊娠したのはいいものの、赤ちゃんがお腹の中で育つたび、病気が悪化してきているのを実感するようになった。しかし、空音は、医師や海には隠し通そうと思ったのだ。もし、病気が悪化しているとなれば、子どもを諦めなければいけなくなる可能性が高い。大事な、お腹の中の家族を、空音はどうしても産みたかったのだ。
「結局、産めなくて、赤ちゃんにはかわいそうなことをした。けど、これは私の自業自得なの。だから、謝るのは私のほう。
海君、ごめんなさい。私のわがままで、いっぱい悲しませちゃって。本当にごめんなさい」
涙を流す海の頬を撫でて、空音は瞳に涙をためて、そう言った。
しばらく抱き合っていた2人だが、空音が思い出したように言った。
「私の赤ちゃんは、海にいるんでしょ?迎えにいって、お空に行って、一緒にわたあめを食べたいの」
「……わたあめ?」
「うん。雲のふわふわの。甘いわたあめ。絶対美味しいと思うの。だから、お空の上に行かなきゃ」
そういう空音に、海は久々に微笑んだ。
彼は崖の上にいた。下には、透き通った美しい青い海が広がっている。
海の手の中には、彼女を思って描いたキャンパスを燃やして出来た灰があった。
彼女との赤ちゃんの遺骨をまいた海に向かって、その灰を振り撒いた。
その灰は、風に乗りながらも、海の方へ吸い込まれるように、姿を消していく。
すると、強い風が吹く。
その風には、彼の目には色がついているように見えた。彼女の好きなパステルカラーである。風は、上へ上へと昇っていく。
「またね」という彼女の声と、赤ん坊が嬉しそうに笑う声が、聞こえた気がした。
足早に絵画展から去った灯は、何ごともなく、いつも通りの生活をしていた。
本当に絵の中に入っていたのか、夢なのかなんなのか全く分からない。
しかし、こういうちょっと不思議な出来事は彼女は幼いころからよくあることなので、本人は対して気にしていない。
ただ、少しだけ気になったことがある。
桜並木を歩いていたら、上から「わたあめ、美味しかったよ」と言う女性の声が聞こえたのだ。しかし、上には誰もいなかった。
灯が会ったあの女性だろうか。
そうか、雲のわたあめは美味しいのか。
いつか食べたいものである。灯は、じゅるりと涎を垂らしそうになった。
そんな灯が友人の怖い話と美人なお姉さんと巨人にビビった1日の話であった。
「一度も抱っこできなくて、ごめんね。私の赤ちゃん。お空の上で、いっぱい抱っこしてあげるから」
空音は小さい赤ちゃんを抱きしめて、その小さい手を触りながら、そう言った。小さい赤ちゃんは、空音の指をギュッと掴んで笑ったような気がした。




