怖がり少女の壊すモノ
彼は、教師歴5年で初めて壁にぶつかっていた。どうしても好きになれない生徒がいたのだ。頭の良いその生徒は、教師である彼を心底バカにしていた。わざと揚げ足を取ったり、教師の間違いを、それはそれは楽しそうに指摘したりするのだ。
彼自身、内気な性格もあり教師に向いてないと思っていた時期があった。しかし、その生徒のせいでますます自信喪失していった。しだいに、その生徒に劣等感や嫉妬心をもつようになった。
そんな中、アレに出会ったのだ。アレを被ると彼は強くなった。
しかし、強くなりすぎてしまった。最近は、アレの外し方さえわからなくなってしまった。
彼は、アレに支配されそうになっていた。
灯は、真っ暗な夜道を歩いていた。周りは誰も歩いていない。まだ夜の9時過ぎなのに、誰も歩いていないのだ。
夜道を照らすのは電柱についている電灯のみで、灯のいる場所から少し離れている。
電灯は、その一つしかなかった。オレンジ色に仄かに光るそれは、時折点滅し、ついたり消えたりする。唯一の灯に、蛾が集まり、バチバチと体当たりしている。
おかしい、と灯は思った。こんな暗いはずはないのだ。灯は住宅地を歩いていたはずだった。住宅地なら、必ずどこかの家は電気がついているはずだ。
しかし、どこもかしこも真っ暗だった。
まるで、ここには灯しかいないかのようだった。
灯は恐ろしくなったと同時に寒気がして、身を震わせた。そして、気持ちを奮い立たせ、持っていた手提げ袋の中に手をつっこみ、ある物を顔に装着した。
ある物とは亀の着ぐるみキャップだ。顔全体を覆うことが出来て、安心感がある。実は、今日帰宅が遅くなったのは有名なテーマパークで遊んだ後の帰りだったからだ。この亀のキャラクターはそのテーマパークでもモブ的な存在だが、灯は大の亀好きなのでこれをチョイスした。つけたことで、気持ちが少しだけ落ち着いた。
そして点滅している電灯に、灯は近づいた。電灯が点いているときはあたりを見渡せるので、まだ恐怖感は薄れるのだが、消えた瞬間が真っ暗になるので、恐ろしさが倍増する。
点く。
消える。真っ暗だ。
点く。
消える。
点く。男が電灯の下に立っていた。
「ひぃっ!」灯は驚いて後ろに尻もちをつく。
消える。
点く。至近距離で男が灯を見下ろしていた。
消える。
点く。男が灯に手を伸ばそうとしていた。
「灯! チッ、とっとと消えろ!」
後ろから灯は呼ばれて、振り返ると兄がいた。兄が助けてくれた。
兄は灯に近づくと、腰を抜かしている灯をみてため息をついた。
「大丈夫だったか?」
「うん。なんだったのかな、あの男の人」
「さあ」
「不審者かな?」
「幽霊じゃないか?」
「えー!そんな冗談言うのやめてよ!けど、本当にお化けかと思った。まあ、お化けなら足ないよね。あの人足あったもんね」
灯がそういうと兄は黙り込んだ。
兄はしゃがみ込み、灯に「ほれ、乗れ」と言ってくれたので、灯は遠慮なく背中に乗り、おんぶしてもらうことにした。
「それよりも、お前なんなんだよ。その顔につけてるやつ」
「え?かわいいでしょ?」
「え?きもい」
「きもいぃ!?」
灯は兄に会えた安心感から、先程の真っ暗な夜道ではなく、いつもの住宅地に戻っていて夜道が明るいことには気づいていなかった。
そして翌日の学校の昼休み、灯は資料室にいた。1人ではない。灯が苦手な古文の教師と一緒だ。
灯がここでなにをしているのかというと、決して教師と生徒の逢引などといった甘酸っぱい理由ではない。
古文の教師に、この前の罰(鼻眼鏡ととんがり帽子とクラッカーを勝手に持ち込んで一人で騒いで逃げた罰)として、資料作りを手伝わされているのだ。
灯は、この古文の教師が苦手だった。理由は怖いからだ。前までは穏やかで優しくて好きな教師だったのに、何がきっかけかわからないが怖いと感じるようになってしまった。
資料室で、教師と2人きりの空間。そこで黙々と資料作りをするのは、灯にとってただただ苦痛だった。
「……先生、歌を歌っていいですか?」
「……なにをいってるんだ?」
「えっと、ほら。静かだから、BGMに私の歌でもどうかなぁって」
「……お前まで。
お前まで、先生をからかうのか?」
教師の顔つきが変わった。
それは、それは恐ろしい、顔つきに。
「なぁ、最近、古文の巽先生。殺気だってないか?」
「ああ。なんか、異様に強いよな。前はもっと優しかったのに」
「開きなおったんじゃね?優しいと、教師は続けられないだろ。うちらはバカだけど、他のクラスの優秀なやつは先生いじめするやつもいるらしいぜ」
「げぇ。巽先生かわいそう。なんか顔つきも変わったもんな。あんな顔だったっけ」
「それな。なんか怖いよな」
「そういや、バカリ、この前泣かされてたな。般若みたいな顔だったって」
「あいつまじうける。顔つき変わったけど泣くほど怖くないよな」
「バカリは怖がりだからな」
灯は、般若の顔の教師に、後ずさった。
友人達には般若って程の顔じゃないよ、と言われたが、灯からしたらどの角度から見ても般若にしか見えない。どす黒い顔に、睨みつけている黄金の瞳、そして角が二本あるようにみえる。
そして、徐々に近づく般若の手に、ある光るものがあることに気づいた。
包丁だ。包丁を持っている。
本物か?
灯はそれを見て、冷や汗が出てきた。
徐々に灯に近づく教師。彼は何かをブツブツ言っている。異常な様子だった。
逃げ道を探すが、資料室の扉は教師の後ろにある。灯は後ずさることしか出来なかった。
教師がゆっくり距離を詰めてくる。灯は、後ろへ後ろへ後ずさる。
お尻に何かあたった。
机だ。
灯は逃げれなくなった。
灯は全身の血の気が引くのを感じた。
自分の早い鼓動が大きく聞こえる。
後ろをみると背後から刺されそうなので、教師の方を見ながら、後ろの机の上に手をやり、武器になりそうな抵抗できそうなものを手探りで探した。
教師が、いや般若が、灯の目の前まで来た。包丁を持った手を振り上げる。
灯は目をギュッとつぶり、咄嗟に掴んだものを、般若の方に向かって、闇雲に振りかぶった。
カツンッと硬いものを叩いたような音が聞こえた。その後に、パリンと割れ物が割れた音と、バサバサとプリントが床に落ちる音が聞こえた。
そして、教師が呻く声も。
灯は目をそっと開けた。
灯が持っていたのはコンパスだった。
床に落ちているのは真っ二つになった般若のお面、そしてコンパスをつかむ時に落としたのだろう、資料や書類や冊子。
灯は、その落ちている、書類を見てハッとする。
“ 演劇 鬼の住む処 ”と題名の台本だ。
もしや、と灯は、冷や汗をかく。この教師は、演劇部の顧問だったはずだ。
「せ、先生。大丈夫ですか…?お怪我はないでしょうか…?」
教師は、呻きながら顔を上げる。般若ではなく、優しい若い男教師の顔だ。彼の身体は微かに震えていた。
額から、ツゥと血が流れる。
「あああ!先生、血が!本当にすみません!演技だとは分からずに!すみません!」
慌てて灯もしゃがみこんで、ポケットに入れていたハンカチを呆然としている教師の額に当てる。
灯は自慢じゃないがO型だけど、ちゃんとハンカチは必ず持ち歩く。時々洗濯を忘れることがあり、このハンカチも2日目のものだがバレなきゃ問題ない。しょうがない、O型なんだから。
「先生も、いきなり演技始めないでくださいよぉ。なんで、ドッキリみたいに脅かすようなマネをするんですか?リアリティを演技に求めたかったんですか?私は演劇部員じゃないから、そんなリアリティさ求められても、本気で怯えることしかできないですよ。それとも、私を部員として勧誘しようとしてたんですか!?ええ、私が部員だったら、そりゃ、名演技になるでしょうね!!そもそも…」
「落ち着け…」
まだ震えている、そして涙目の教師の声にハッとする灯。
安心感から、多弁になってしまったらしい。
「先生、痛いの?額、痛いですか?」
灯がそう言うと、教師は首を横に振った。おそらく、大丈夫だという意味なのだろう。
「巽先生、本当にすみません。けど、おかしいなぁって前から思ってたんです。わたし、先生のこと優しくて大好きだったし、先生の授業はバカな私にもすごい分かりやすくて好きだったんですよ。私の友達も全員、先生の授業は好きって言ってました。
古文は本当に意味がわからないんです。あれは日本語じゃないと思います。けど、先生の古文なら、わかります。けど、最近は先生が般若の顔になって怖くなってしまって、いつもの先生じゃなくて、おかしいなぁって思っていたんです。
それが、リアリティを求めて、般若のお面をつけて演技してたんだと分かって、すごく安心しました」
教師は何も言わずに、灯の言葉を聞いている。
「それで、あの、先生のこと、大好きなんで……」
灯は言葉をそこで切り、もじもじしながら、再度言葉を続けた。
「般若のお面を壊してしまったのと怪我させてしまったのを、許してください!
すみません!般若のお面のかわりにこれを差し上げます。是非使ってください!」
灯は鞄から、亀の着ぐるみキャップを出した。テーマパークに行ったのをみんなに自慢したくて持ってきたのだ。
フッ、と笑う声が聞こえて、見ると教師が泣きながら笑っていた。
着ぐるみキャップはいらないと断られたが、許してもらえた灯は、その後、落ちたものを教師と一緒に片付けた。片付け終わり、資料室に出る時に、ありがとう、と教師に言われた。
廊下を歩きながら灯は考えた。あの包丁、随分リアルだったなぁと。
廊下ですれ違った男子生徒に、後ろから声をかけられた。
「なぁ、あの時の奴?」
言われて振り返ると、氷室拓真だった。
「あ、氷の王子様だ」
灯がそう言うと、拓真はしかめっ面をした。
「あんた、クラッカー鳴らしてきた奴だろ」
拓真は、灯の色素の薄い髪の毛と瞳を覚えていた。色々聞きたいことがあった。姉のロケットペンダントをなぜ持っていたのか、あの伝言はいったいなんなのか、どこのだれなのか。
「名前は―」拓真が言いかけた。
「バカリ―!!大丈夫だったかぁ??」
派手な女子高生が、灯の背後から抱きついた。灯の友人である多田真白である。あだ名はましゅだ。ましろとマシュマロをかけて、略してましゅと呼ばれている。
「真白ー!最初怖かったけど、いつもの優しい先生に戻ったよー。許してもらえた!」
「おーよかったなぁーよしよし」
灯と真白がしばらく戯れていると、真白が拓真に気づいた。
「お、氷の王子様じゃん。やっばイケメン。どした?」
真白がそういうと、ギャルに馴染みのない拓真はタジタジになり、「なんでもない」と言って去って行った。
灯と真白は2人で首を傾げたが、一緒に帰ることにした。
彼は生徒にコンパスでつけられた額の傷を撫でながら、般若のお面を初めて見た時の事を思い出していた。
彼は演劇部の顧問であった。それで演劇で必要となった、鬼のお面を探していた。しかし、これがなかなかない。
そして調べて、骨董品がいっぱい売ってあるという骨董市に足を運んでみた。
そこで、この般若のお面を見つけたのだ。黒を基調とした石膏像で黄金の瞳を見つめていると吸い込まれそうな感覚に陥った。
なかなかの値段だったが、この般若が頭から離れず、購入に踏み切った。
演劇でお面を使うのはまた先なので、彼は自分の家に持ち帰って保管することにした。それからは、買ったことすら忘れて生活していた。
ある日、頭のいい生徒に教師いじめと言っても過言ではないことをされて、落ち込んで家に帰ってきた。
そして、何故か、般若のお面を思い出した。般若が彼を呼んでいるように感じた。彼は、それを取り出して、吸い込まれるようにお面をつけた。
弱々しくなっていた自分の心がふいに強くなった。そして、生徒に対する嫉妬、怒り、殺意が芽生える。慌てて外した。今のは何だったのだろう、と考えながら。
心が弱る日が続いた。
彼は般若のお面をつけるのが習慣になった。それを繰り返していたら、ある日、お面が取れなくなった。文字通りである。外そうとしても外れなくなった。
どうしたものかと般若のお面をつけたまま、外に出てみた。しかし、誰も指摘はしないし、視線を感じることはない。般若のお面は普通の人には見えないようだった。
彼はそのまま生活した。
この般若のお面をつけることで、彼はどんどん心が強くなっているのを実感した。
あの頭の良い生徒に何か言われたら、嫉妬、怒り、殺意は芽生え、睨みつける。すると、強くなった彼に、生徒は気づいたのか、口答えしなくなるようになった。他の生徒も従順に、彼の言うことを聞くようになった。
彼は、般若のお面と共にあるのに違和感を感じなくなった。それと同時に生徒への殺意が日に日に増していった。
いつしか鞄に包丁を入れ、持ち歩くことが習慣になった。理由は、生徒にいつ反抗されても殺せるように、だ。
ある日、ふざけたバカな女子生徒と2人きりになった。その彼女にからかわれた、と彼は思い、彼女を包丁で殺そうとした。
だが、女子生徒はコンパスでお面を壊された。
彼は途端に正気に戻った。生徒を、殺そうとした。その事実に自分が恐ろしくなった。
ひどく動揺した。
しかし、女子生徒が彼以上に気が動転していて、その姿を見たら、彼は少し落ちついてきた。
しまいには女子生徒は謝り、そして、亀の被り物を彼に差し出した。
その意味不明な行動に笑ってしまった。
謝らないといけないのは、彼のほうだ。彼が彼女にしたことは立派な殺人未遂なのに、彼女は彼の行いを演技だと勘違いしているようだった。
彼はそれを訂正するかどうか、悩んだ。確かに殺人未遂をしたのだが、あれは彼の意思ではなかったような気がするからだ。まるで誰かに操られていたような感じだった。
とりあえず、女子生徒を帰して、警察に自首するか否か考えてみることにした。
翌日に休みをとり、壊れた般若のお面を供養してもらおうと、ある寺に行った。
そうして、和尚に般若のお面を見せるとひどく驚いていた。その理由を聞くと、強い嫉妬に狂った女の霊が宿っている、という。
何も知らずに買ってしまった彼を和尚さんは、「大変だったでしょう」と心配してくれた。
これは、とても強い霊だったから、どんなに強い人でも支配されるだろう、とも言った。
どうやってこれを壊したのか、聞かれ、正直に全てを言うと、「なるほど」と和尚さんは面白そうに笑った。
そして、彼は和尚さんに、「警察に自首をして、教師を辞めようと思っている」とこぼした。
彼は生徒を殺そうとしたのだ。教師の資格なんて、ない。そう思ったからだ。
しかし、和尚さんは優しく笑って、首を横に振った。そして、こう言った。
生徒に殺意を芽生えたのは、このお面のせいだ。どうしても辞めたいなら別だが教師の中でも君にしかできないことはあるんじゃないか、と。
彼は、そこでお面を壊したバカリというあだ名の女子生徒のことが脳裏に浮かんだ。
あの女子生徒は素直なのだが、色々と問題児で、他の教師も手を焼いていた。
なにが問題かというと、バカなのだ。
しかし、古文のテストだけは、ずば抜けていい。
彼はテストを簡単にはしていないし、彼の授業を彼女が理解しているのだと自信を持っていいのだろう。
彼女も言っていたではないか。“先生の古文なら、わかります”と。
彼は元々頭が良かったわけではない。しかし、弟に勉強を教えた時にわかりやすい、と言われた。
それが、教師になるきっかけだった。
わからない生徒に、わかりやすく説明をしてあげる。これは彼が教師をする理由だ。
彼が辞めてしまい、他の教師が古文を生徒に教えたらどうなるのだろうか。
あのバカな女子生徒は、ただでさえ他の教科のテストの点数は常に赤点なのに、さらに古文も理解が出来なくなり、破滅へと一途を辿るのではないか?
そう考えたら、自分がいなければ、と使命感に燃えてきた。
彼は和尚にお礼を言った。
そして、また彼は翌日から学校に通勤し、辞めずに今も教師を続けている。わからない生徒に、わかりやすく説明して、優しく、笑顔で。
色んな生徒がいるけれど、せっかく教員試験に合格したのだ。頑張る決心をした。
真白と一緒に寄り道しながら、家に帰宅した灯は、リビングのソファで寝そべる兄に今日の出来事を話した。
兄はその話を聞いて、起き上がり、しかめっ面になった。
「怪我はないのか?」
心配してくる兄に灯はむず痒くなる感じになりながらも答えた。
「怪我してないけど、逆に巽先生のおでこをコンパスで傷つけちゃったし、高そうなお面を壊しちゃった。先生に謝ったけど、いいって言われたけど本当に弁償とかしなくていいのかなぁ」
「いいってその教師が言ったんならいいんだろ。気にすんな」
兄にそう言われて安心する灯であった。
そんな灯の不審者と般若教師にビビった2日間の話であった。
to be continued
般若:嫉妬や恨みで鬼となった女性を表すとされる。怒りの中に深い悲しみを表すお面もある。