生者の条件
分かっていたことだったが、その日は突然やって来た。
「さらぞう…?」
ある日、やって来た笑の様子でオレはピンと来たね。
“ああ、今日だったのか”と。
オレは、いつものように水からは上がらずに、初めて会ったときのように「けけけ!」と水面から顔だけ出して、笑に話しかけた。
「よう、こんばんは。笑」
「さらぞう。ごめんなさい。私、今日は体調悪いみたい」
「違うよ。そうじゃないんだ。今日が、そうだったんだ」
「笑…おまえ、オレが“怖い”んだろ?」
「!」
「ごめんなさい。今まで、何ともなかったのに…。本当よ。本当に今まで何ともなかったの」
「ああ、分かっている。分かっているよ。そういうことさ。そうなんだよ」
「今日突然にオレが怖くなった。そうなんだろ?」
「ええ…。でも、どうして?本当に、今まで何ともなかったのよ?」
オレは、別れの挨拶代わりに、種明かしを披露することにした。
「オレ達はな、怪異とか妖怪とか言われるものだ。人間じゃない」
「うん。知ってる」
こんな時でも、笑の奴は真面目に頷いてきた。
おれは、思わず「けけけ!」と笑い出しそうになるのをグッとこらえて、続けた。
「端境って分かるか?つまり、この世とあの世の間にある境界に住まう住人っていうのが、オレ達だ。オレと笑は、同じ場所で過ごしているように見えて、鏡合わせみたいに立っている場所が違うんだよ」
「…」
「向こう側とこっち側が重なるのには、幾つか条件がある。ひとつは、その人間が子供の場合だ。“七つまでは神のうち”って言うだろ?昔の子供はとにかく死にやすく、あの世とこの世どっちつかずで、この世ならざる者と交わりやすい年齢っていうのがあったんだよ。そういう連中は、ただそこに居るだけで向こう側をのぞいてしまっている。まあ、オレ達の逸話には子供と遊んでいた話が多い理由も、その辺りだ。ま、今どきの、死ぬ様子もない長寿の約束された餓鬼どもには…関係ない話かな?」
コクコクと、真剣になってオレの話を聞く笑…。
いかんいかん、シリアスをぶち壊しちまいそうだ。
「ふたつめは、時間帯だな。逢魔が時、つまりは黄昏時のことだ。夕闇の中、陰と陽の境界が混ざり合う時間帯に、オレ達はひょっこり人間と出遭ってしまうことがある。単純に、まだ明るくて人間の目にオレ達が写り易いって話だけじゃなく、そういう混ざりやすい時間帯が毎日のように普段からあるんだ。夜になればオレ達の時間だが、人間は家に引きこもって朝を待つのが普通だし、夜目が利かなければオレ達は見えない。しかも、今どきの人工照明は明るすぎてオレ達の姿を掻き消してしまうから、人間が夜になってオレ達と出会う可能性は、やっぱり少ない」
なんだろうな、この真剣な表情。
いや…今日で最後だ、真面目にやれ。
「みっつめは、ある種のインチキだな。この世には、あの世と繋がっていることになっている場所がある。そういう場所に立つと、オレ達が近くに居れば、お互いを認識出来るって寸法だ。幸か不幸か、そんな場所は殆ど残っていないからな。黄昏時にひょっこりその辺でオレ達に出遭う方が、まだ可能性があるんじゃないかな?ああ、御札とかで結界を作るとオレ達が見えるように成るっていうの、アレは嘘な。そんなに都合良く、境界は崩せない」
オレは、メモでも取り始めそうな真剣な笑の顔を見ながら、結論を告げた。
「よっつめは──その人間が、死にかけていた場合だ。もちろん、病気や怪我でだけの話じゃない」
はっと、笑が息を飲んだのが分かった。
「そう…。そっか…」
「そういう生者がオレ達の方に近付いて来るとな、ごく自然に、境界は重なり合う。それがカラクリだ」
「笑、おまえはな。死にかけていたんだよ。心当たりがあるだろう?」
「笑、今のおまえはもう“生きている”。だから、境界の向こう側に居るオレを受け入れられなくなったんだ」
実際のところ、今の笑は片足向こう側に戻り始めただけなんだが、オレは親切な河童じゃあない。
このまま、押し通させてもらうぜ?
「分かるか?おまえ達、現世の人間からしてみたら、オレという存在は、棺桶の中から如何にもソレと分かる死人が起き出してきて自分に話しかけているようなものなんだ──ソンナモノ、気持ち悪いに決まっているだろ?」
「でも…。今まで、本当に何ともなかったのよ。それが突然…!」
「ああ、いいんだ。混乱するのは分かる」
「それで良いんだ。人間なんて、突然死にたくなってみたり、逆に生きていたくなったりするものなんだ。それでいい。そうでなくちゃいけないんだ」
意を決したように、笑はオレに聞いてきた。
「さらぞうは、知っていたの?」
「いいや。何も知らないよ?」
期待、嫌悪、安心…そんなところか?
笑の表情は、一瞬でそれほど変わった。
誰にだって、黙っておきたいことはある。
──お互いに、知らないならその方が良いことは、いくらだってある。
「オレが見えても、嫌悪の情を抱いて忌避するのが、真っ当な生きている人間の反応だ」
「それは、正常な生きている人間が死者に対して抱く感情と同じだ」
「異論はあるかもしれないが、身内以外には総じてそういう生理的な嫌悪感が強く現れ、穢れを忌み嫌う…それでこその生者だ」
「死者と戯れる生者なんて、どっかのホラー映画くらいなものさ」
「…」
「初めて会ったとき、笑はオレという怪異を怪異と認識しながら、嫌悪の情を持たなかった」
「異形云々以前に、反応が無かったと言ってもいいだろう」
「見たところ、笑には怪我や病気で肉体的に何らかの問題を抱えている様子が無かった」
「それはつまり──心の方が死にかけていたということだ」
笑は無言だった。
いや、一つ一つ、オレの言った言葉を反芻する為に、しばし無言に成ったと言うべきか。
やがて、笑は口を開いた。
「そっか…私、“生き返った”ってことなんだね?」
「ああ…そうだ。おめでとう、笑」
「馬鹿ね!ちっとも、おめでたいことじゃないわよ。それ、異常が普通になっただけでしょ?」
「うん、そうだよね」
「私、病気だった」
「それだけ分かっていれば、十分だ。もう、明日からはここに来るな」
「うん…。ありがとう、さらぞう」
「無理するな。笑顔が引きつってるぞ?」
「…馬鹿ね!」
そう言って、笑の奴は去って行った。
オレは、あいつの表情を見なかった。
こういう物に説得力を持たせるには、作者の筆力が要る。
改めて読み直してみると、足りない。