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朝寝坊した日に・不老不死の薬を・使われていない倉庫で・少しばかり拝借しました。

 「妙薬といったら、若さだろうね」

 珍妙な物言いに、私は眉をひそめる。今隣にいる人間は、そんな物言いを口にするよう事はないと思っていたからだ。買いかぶっていたのかもしれない。結局他人など分からないと私は息を吐いた。老人の乾いた口は独特の臭さが歯列にも染みて、吐き出すとより臭い。目の前にいる若々しいバーテンダーが嫌な顔をしないかと伏し目で窺うが、若々しいバーテンダーは何も気にしない様子でグラスを磨いている。若い女性である。黒々した髪が何の油もつけていないのにつやつやと煌めいて、バーという薄暗い照明では小麦色の肌と少しだけ不釣り合いだけれど、ひっくるめて彼女は若いから許されている。若いというのは、全体の容姿のバランスが悪くても加点をし魅力を増させる。なるほど妙薬というのはなんとなく分かったが、それにしたって手に入れる物ではないだろうと、私はウイスキーを口に含んで息を吐いた。ウイスキーが喉を通っていく感覚がする。若い頃は水のように飲んだものだが、今はわずかでも水分を外部から摂取しないとならない年齢だ。隣の男は私よりも若いのだろうけれど、それは見た目が若作りしていることに起因していた。油を塗りたくってテカテカと固めるのがいいらしく、いつ見てもその髪は形を崩さない。その色は黒だ。若いための黒ではなく、不自然な黒なので、毛染めしていると見て分かる。たまにバーで出会う男なので、素性は知らぬが孤高の老人に話し相手を求めるような人間だ。だが他人を見下したり、老いを恐れる素振りはないので気兼ねはない。大抵、私もそうであったのでそう思うのだが、若い人間は年寄りをバカにするのが常だ。だがこの男にはその嫌みさが無いので、きっと若くはないのだろう。

 「しかしね、若さなんてどうやって薬にするんだ。まったく、始皇帝じゃあないんだから」

 「始皇帝は莫迦だった。エリザベート・バトリーの方がよっぽど賢いね。若い女の血を浴びれば若さが得られるという、当たり前のことをやってのけたんだから」

 「莫迦なもんかね。そのせいで誰かを犠牲にして、そんな妙薬なんざほしがる人間はいるだろうか」

 「それがいるんだよ。死が近い人間は余計にね」

にやにやと男は笑う。

 「くだらない、私はいらないね」

 「そうかいそうかい、じゃあ悔いの無い人生だね」

 「まあね。私たちの世代はいいとこ取りだよ。頑張れば金は手に入ったし、運良く長生き出来れば金ももらえる。それなのに横柄で、横暴なやつは多いね」

 「でも若い時には年寄りをバカにしただろう」

 「したさ、それは通過儀礼だもの。でも今の若者は礼儀正しいし、気持ちのいい子が多い気がする。失敗だ失敗作だと失礼だよ、おれが若い頃はもっと血気盛んで、道に唾吐いてたんだからな。あの頃は先進国だなんてよく外国に言えたもんだ」

 「やっと私からおれになったな。結構、結構」

 「ごめんなさいね、若いお嬢さんにはつまらない話で」

 「いいえ、興味深くお話うかがっておりました」

若いバーテンダーはにっこりと笑う。彼女は完璧なたたずまいで、バーテンダーとして完成された振る舞いをする。先ほど若さでその肌と髪が不釣り合いだと思ったのが嘘のように消し飛び、その笑顔に救われたような気分だ。確かに若さは妙薬だろう。だがそれを摂取することは出来ない。

 「ほらやっぱり。見せ物みたいに言うのは悪いけど、おれが若い時なら、こんな時に話しかけられても、むっすりとしたバーテンダー見習いばっかりだったよ。白髪交じりの年でようやく完成されるというのかな。今時の子は若い時から完成されていて、すばらしい」

 「ほらな、妙薬だ」

それを欲しているのだろうと言われたようで、私はむっとした。

 「欲しいなんて言っていないじゃないか」

 「そら、それが図星だ。誰だってその妙薬は欲しいもんなんだよ」

 「手に入らないから羨むんだ。でも誰だって持っていた。それに気付かずに老いただけ」

 「それを取り戻したいのが人間だ」

私が人間ではないと言わんばかりの口振りに、余計にむっとしてしまう。

 「じゃあ、それを認めてやってもいい。その妙薬とやらはどう手に入るんだ?無理なんじゃないかね。言ってみてくれ。きっと無理なんだろうから」

 「それじゃあ言うが、これが川端康成の『腕』という短編から影響を受けてんだな。あと『眠り姫』からも影響を受けている。若い女の美しい肘のくぼみに光が当たると、朝露のような美しい珠が出来てそれを飲むのさ。それをするには、動かないで意志を持たない女じゃなきゃならないんだ。『腕』は義肢だったが、その義肢は女とずっと暮らしているから女の一部である義肢なんだ。そんじょそこらの3Dプリンターで作った腕じゃあダメだ。そこで『眠り姫』さ。若い女が眠っていて、そこにたまる若い滴を」

 「待った、待った」

さすがに若いバーテンダーに聞かせるような話ではないと、私は男の熱弁を遮った。ノーベル賞作家の作品を持ち出しているが、それはすべて男の惨めで信仰先を誤った性欲の昇華方法のようで、若い女に聞かせて気分の良い話じゃないだろうと思った。第一、若い女は賢くなっているから、娼婦ではないにしても、腕だけ差し出して眠る女なんてする事はしないだろう。それが好いた若い男とならいざ知らず、老人と添い寝して好きなだけ肘をすすられるなんざおぞましい。

 「ごめんなさいね、気分の悪い話で」

 「いいえ」

さすがにバーテンダーも気の利いた返答が出来ずにいてその言葉は短いが、客商売なのだからにこにこと相好を崩さない。 

 「それが妙薬かい。呆れたなあ、それで生き返るんなら、医師会のお偉い先生に聞かせてやらなきゃならないな」

 私はうむむと腕組みをしてみせた。本気にしたわけではない態とらしい演技っぽい動作に、バーテンダーがくすりと笑った。そのか細く小さい吹き出した声に、私は少し得意げになった。お互いに男の話には辟易し、それをなんとか面白おかしくしようという心が通じ合った感覚がする。老いた身にはこの位の感覚が心地良いのだ。肉体を交わらせて愛を囁いて、というのがその感覚の延長線上にある。私は。その段階の感覚はもう必要のない体になっている。

 「そうだろう、そうだろう。じゃああんたにその秘密の場所を教えあげよう」

 「そんなら私じゃなく、医師会の先生に教えてさしあげなきゃなあ。ほら、コロナ対策でよくお偉いさんが出てたろう、あの先生なんかいいんじゃないかなあ」

 「それには及ばないね、だって医師会の先生方もよく行くんだよ、その秘密の場所に」

 「へええ、そうなんだ」

私の大仰な驚き方に、バーテンダーは声をひそめながらくすくすと笑っていた。私とバーテンダーは常連で顔を知っている程度の関係であるも、今この場では深くふかく繋がっている。それだけで私は今晩よく眠れそうだ。

 「興味が出たら、この名刺に電話してくれ。いつでも歓迎だよ」

 「そうかいそうかい、ありがとう」

老人らしい言い方で何度もお辞儀をすると、バーテンダーが口を必死に押さえながら少しだけ用事があるフリをして離れて笑っている。その声を背に聞いているだけで、若い時に愛撫で女を喜ばせた時よりも幸福感が、老人の身に降りてきた。これが妙薬なら納得するが、腕から吸った妙薬もどきなんてと内心で下に見ていながらも、たまに気がそぞろな冬の夜なんかに思い出してもいいだろう。そう考えて私は、あえてコートのポケットにしまった名刺を、家に帰ってから財布の中にしまったのだった。


 財布の中を整理した時に、その名刺を思い出したのは数ヶ月後の事だった。老人の朝は早く夜も早い。死に近付くにつれ、睡眠時間は削られるが活動時間も同様に削られていくのが老人の悲しいところである。体が重くてなかなかに動けないでいると、あっという間に太陽は高いところにあった。とにかく日中に何か熱中するものをしようと試みて、私は独身時代にやった料理を試みたり持ち物を整頓したりするのが日課であった。友人は死に看取られていくし、足が悪い者を引きずって介助する体力が私に無いので、次第に足が遠のいて、今は自分の家の中で日がな過ごしたりするようになった。若い頃は家にいられずに、用も無いのに飛び出していたものだ。人生の春は不安定で、私はその不安定の答えを外へと探しに出かけ、人生の夏には苛烈に周囲を巻き込んで過ごしていた。そんな私の人生は、既に秋を超えて冬にさしかかっている。人生の冬は、もう寝たきりなのかもしれない。そう考えると一抹の寂しさと猛烈な不安感が、冬将軍の吐息のように私の中に吹き荒ぶけれど、それは老いのせいだと納得させていた。それでも体は動くので、老いと老いを認めないの狭間にいるこの身が、たまに秋に行ったり冬に行ったりするのを自覚している上で、どうしようもないでいる。だから睡眠時間が削られるのもやむを得ないのだ。

 若さか。私の中にある若さはもう枯れているが、動くからだが残っている。男の若さは失われたが、人間のからだはまだ残っている。この持て余した体をどう動かして余生とやらを過ごすのかが皆目見当も付かないが、たまに酒を求めてバーに行ったり習い事のまねをしてみたりと、社会の用意した老人の輪の中に入るのがどうにも肌に合わない。だから私は不安なのかと思うが、この不安を解消させる話し相手も近くにはいないのだ。だからふと、名刺を思い出した。その電話番号にいつの間にか掛けていると、コール音が数回鳴った後に、相手は出た。あの男の声だった。

 「やあ。ようやく覚悟を決めたかね」

 「決めたと言うより、暇でね」

 「まあいいさ。じゃあ行こうじゃないか、私たちの秘密の場所へね。見た目は貸倉庫だから、心配する必要もないよ」

 「貸倉庫?」

 「換気はちゃんとされてる。まあ、少々の息苦しさはあるけれどね。感染が怖いなら、やめればいい」

 「うん。まあ、行ってみて決めようかな」

 「そうこなくちゃな」

あの顔でにたにたと笑っているのだろうな、と私は電話口の向こうの男を思い浮かべる。若さの妙薬。吸っても何の効果もないのだろうが、ふいにあのバーテンダーと私が寝たことを空想し、その若い肌とうねるような強烈な匂いがしたので私はついのけぞった。若い者と寝ることはもう出来ないのだ。だが、それでもどうしてもその肌に触れたいと願う悲しさと切なさが身を衝いて、この苦しみを消してくれるのであれば妙薬でなくともいい。そんな悲痛さに体を曲げて、私は秘密の場所への日時が待ち遠しく、カレンダーに大きな丸をつけた。


原典:一行作家

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