8話
「アンナ様」
シリルとイレーネ様のダンスをほほえましく見ていた私に声をかける男性が現れた。
黒髪に翡翠の瞳が美しい美丈夫、ルドルフ・エルトマン伯爵令息だった。
「御無沙汰しております、エルトマン様。ご活躍はかねがね伺っております」
ルドルフ・エルトマンは、22歳の若さで経済学者として有名で、王太子にも頼りにされているほど優秀な男性だ。アンナより5歳も年上で、落ち着いており、きりりとした目元に年齢相応の色気が漂っている。
ドレスの裾をつまんで、シンシアとともに淑女の礼を取った。
「アンナ嬢、私とダンスをお願いできますか」
「私でよろしければ」
差し出された手を取って、ダンスの輪の中に入った。
踊ってみると、リードも素晴らしく、腰に添えられた手で引き寄せられ、くるりとターンが決まると、すっかり楽しくなってしまった。
「婚約者のシリル・シュタイン殿が記憶喪失になられたと伺いました。それで、社交から遠ざかっておいでだったのですか」
「シリルは、私が落馬したところを助けたときに、頭を打ってしまって、記憶喪失になってしまったのですわ。体は大した怪我もなく、私もシリルのお陰で、元気にしております。ただ、シリルの記憶がまだ戻っていないものですから、落ち着くまで社交は控えておりました」
「それは、災難でしたね」
「ええ、シリルには悪いことをしてしまいました」
「ところで、シュタイン殿が、婚約者のあなたを差し置いて、他の女性とファーストダンスを踊るなんて、許してよろしいのですか」
ルドルフ・エルトマンが、ホールで踊るシリルとイレーネを見やった。
「シリルは、私の次にと断ったのですが、私がいいと許したのですわ」
ほほほ・・と、鷹揚に笑って見せた。
「随分と、寛容なのですね。・・・あのお二人は、同じ年でしたか・・・お似合いですね」
ルドルフが様子を窺うように、アンナの顔を見つめてきた。
「ええ、そうですわね。ほほえましいですわ」
にっこり、微笑み返すと、怪訝な顔をされた。
「シリル・シュタイン殿は、あなたに大層執着しているというのに、あなたはそうでもないのですね」
「シリルが私に執着?」
そんな筈はないと、また、ほほほ・・・と笑って見せる。
「いえいえ、私は、シュタイン殿やあなたとは、貴族としては下位ですし、そのことで、ずいぶん彼には牽制されたものです。ですが、どうやら、あなたはそうでもないらしい・・・しかも、シュタイン殿は記憶を無くされているという・・・・私にもチャンスがあるということでしょうか」
「・・・・・」
チャンスと言われ、びっくりしてしまって、反応に困ってしまい、うっかり、足を踏んでしまった。
「ご、ごめんなさい」
「ふっ、驚かせてしまいましたね。以前、私の書籍を読んだとおっしゃっていた、あなたのことは、前から気になっていたのです」
「経済学のすすめ、ですね。大変興味深い内容でしたわ。私のような経済に疎い者にもわかりやすい内容でした。需要と供給を見極めることこそが経済には必要、なのでしたかしら」
「経済学の本を読まれるご令嬢など、私の知る限り、あなただけだ。ただ、残念なことに、あなたにはすでに婚約者がいらっしゃいましたし、伯爵風情の私の手が届くはずもない高嶺の花だと諦めていたのですよ」
「・・・・そんな風に言っていただけるほどの者ではございません。シリルにはいつも物知らずと、罵られていたのですから」
「あなたが物知らずなんて、とんでもない。とても、理知的なご令嬢だと思いますよ」
「まあ、過分なお言葉痛み入ります」
シリルったら、物知らずなんて、馬鹿にしてたけど、こんな風にちゃんと分かってくださる方もいらっしゃるのだわ。誉め言葉に恥じらいながら、ルドルフを見ると、にこやかに笑ってくれた。大人の余裕を見せられたようで、また恥ずかしくなってしまって俯いてしまった。