33話
イレーヌ嬢に誘われて、王都の劇場に出かけると、向かいのボックス席に、アンナとルドルフ殿が連れ立って、観劇を楽しんでいた。
ルシアンは僕より5歳年上だったが、ルドルフ殿はそのさらに2歳上だ。
アンナとは5歳違いで、とても大人に見える。
女性の割には背が高くて、知識欲があり、読書家のアンナは、ルドルフ殿といても、きっと話も合うことだろう。
こうやって、遠目に見てもお似合いのカップルに見える。
「シリル様、あちらにいらっしゃるのは、アンナ様とルドルフ様ですわね」
「・・・ええ、そうですね」
「シリル様と婚約破棄なさって、どうなさるのかと案じておりましたが、ルドルフ様とご婚約なさるのでしょうか。お二人とも、落ち着きがあって、お似合いですわよね」
「・・・・・」
「そういえば、王太子殿下が、劇場の特別チケットを手配なさったと伺いました。ルドルフ様は王太子殿下の側近ですもの、きっと、ルドルフ様がアンナ様をお誘いするためでしたのね。王太子殿下もルドルフ様の恋を応援なさっているのでしょうね」
「王太子殿下が?」
「ええ、私、劇場のものに少しばかり伝手がございまして、王太子殿下がチケットをお求めになったと伺いましたのよ。てっきり、王太子殿下がどなたかといらっしゃると思っておりました」
「そうなのですか・・・」
ルドルフ殿がアンナに思いを寄せていることは王太子殿下もご存じで、二人の仲を取り持とうとなさっているなんて・・・・。
記憶を失っている間は、以前の僕がアンナに酷いことを言っていたと聞いて、何をやっていたのだと思ったが、記憶を取り戻してからは、卑小な自分がまた、アンナを傷つけるようなことをいうのではないかと、恐ろしくなった。
年下のこんな僕より、きっと、ルドルフ殿の方がアンナは幸せになれるに違いない。劣等感にまみれた僕は、アンナにはふさわしくないのだ。
眉間に刻むしわが険しくなって、話しかけてくれるイレーヌ嬢に無口になりながら、遠目に見えるボックス席から目が離せなかった。
観劇会の3日後、僕は睡眠不足のため、霞がかかったような頭で執務室で書類を眺めていた。
書類を見ているが、内容なんか入って来やしない。
「執務中失礼します」
「どうした」
シュタイン家の執事が、叩扉の後、おずおずと入室してきた。
「それが、シリル様に来客なのです」
「来客の予定などなかったはずだが」
「ええ、ルドルフ・エルトマンとおっしゃる方がおいでですが、何しろ来客の予定を伺っておりませんでしたので、屋敷内にお入れしてもよろしいでしょうか」
来客の予定がないので、アプローチで待たせているという。
劇場でアンナと連れ立っていた姿を思い出し、なぜ、ルドルフ殿が訪ねてきたのかと訝しんだが、とりあえず、会ってみるかと、応接室に通すように指示を出した。
「これは、ルドルフ殿、いったいどうなさいましたか」
応接室に行くと、ソファーから立ち上がったルドルフ殿が眉間にしわを寄せて、不機嫌な顔をしていた。
いつも、穏やかで、冷静なこの男が、こんな表情を見せるなんて、いったいどうしたのかと訝しく思った。
こんな、不穏な雰囲気を放っていては、執事も屋敷に入れるのをためらうはずである。
「・・・・どうなさいましたかだと・・・・シリル殿は、アンナ嬢とどうして婚約破棄なさったのか、伺いに来たのですよ。二人だけで、話がしたい」
低くうなるように、嫌悪を露わに婚約破棄の理由を聞かれた。
いきなりな物言いにこちらの表情も不穏な色が出る。
その様子に、心配そうに側近くに控えていた執事に、合図を送り、退出を促した。
ルドルフ殿は帯剣していなかったし、彼は文官で、僕はこれでも、鍛えている。何かあっても、抑えられると思った。
「シュタイン家とアウエルバッハ家の事情に、貴方は関係ないと思いますが」
「私は、アンナ様に求婚をしています。関係ないとは言わせません」
「もうすでに、婚約破棄した身です。アンナが、新たな婚約者を迎えようと、過去の婚約者である僕の事情はどうでもいいではありませんか」
視線をそらせながらそういうと、ルドルフ殿は、ずいっと僕に近づいて胸倉をつかんだ。
「はっきりした事情があればいいのです。しかし、アンナ様は、その事情を知らされていないそうですね。当事者であるアンナ様が知らないというのはどういうことですか」
「それも、アンナと僕のことで、貴方には関係ないでしょう」
睨み合ってそういうと、ルドルフ殿が拳を振り上げ、僕の左頬を殴りつけた。
ルドルフ殿は文官で、鍛えていそうもないが、随分強烈なパンチを放ち、僕は、どうっと後ろに倒れこんだ。
その倒れこんだところを、馬乗りになり、また胸倉をつかまれた。
「シリル殿がはっきりしないから、アンナ様は前に進めないのでしょう」
鬼気迫る表情で、抑え込まれてしまった。
いざとなれば、ルドルフ殿くらいどうとでもできると、思っていたが、ルドルフ殿の迫力に気圧されて、何の抵抗もできないまま、動けなくなってしまった。
アンナとの婚約がうまくいかないことを僕のせいにするなんて、ルドルフ殿はそんな男だったかと、困惑する。
あの、何事にも動じそうにないルドルフ殿はまやかしだったのか。
「アンナと婚約がうまく進まないことを僕のせいにするのですか。貴方らしくもない」
「アンナ殿は・・・・・シリル殿が忘れられないのです。シリル殿とまた偶然にも会うようなことに耐えられないと・・・」
そういって、辛そうに顔を歪め、僕の胸倉をつかんだ両手はかすかにふるえていた。
「王都を離れ、修道院に入ると・・・もう一生独り身で生きると・・・」
「なんだって」
修道院に入って、一生結婚しないと聞いて、顔色を変えた僕を見下ろして、ルドルフ殿はふっと口元を歪めた。
「アンナ様が誰と婚姻を結ぼうと、修道院で一生を過ごそうと、シリル殿には関係ありませんよね」
「それは、本当ですか」
「アンナ様の心を奪っておきながら、その恋情を終わらせることもできないまま、シリル殿はアンナ様にろくな説明も言い訳もなく、婚約破棄したのですよ。それが、わかっているのか」
ルドルフ殿は、今度は左の拳を振り上げ、僕の左の頬を殴りつけた。
どうやら、ルドルフ殿の利き腕は左だったようで、先ほどより強烈な一発が見舞われて、僕の口の中に鉄の味が広がり、口端から血が流れた。
殴られて、痛い思いをしたが、それどころではない。
アンナが修道院に入ってしまっては、遠目でも姿を見ることすらかなわなくなってしまうことに、ショックを受けた。
「アンナ様は、今日出発するとおっしゃっていた。私にはもう止める術がない。シリル殿、貴方はアンナ様を止めたいとは思いませんか・・・・。どうなのです」
自分が止めたいのにその役を、恋敵に譲らなければならないジレンマに顔を歪めて立ち上がり、僕に手を貸した。
「すまない。ルドルフ殿。僕はやっぱり、アンナが好きです。今から、追いかけます」
そういうと、どこか、ほっとしたように目を緩ませたルドルフ殿の手を両手で握りしめて、背中を向けて走り出した。




