3話
シリルがシュタイン公爵邸に戻って、1か月が過ぎたころ、何かのきっかけで記憶が戻るかもしれないので、普段と変わらぬ生活をすることが大切だと医者に言われたため、シリルは、アンナに会うためアウエルバッハの屋敷を訪れていた。
アンナに突っかかってばかりいたが、週に1度は訪問していたので、記憶をなくす前の印象深い事物に触れさせるようにと医者からも言い渡されていた。
「こんにちは、シリル。具合はどう?・・痛いところはない?・・・」
「アンナさん、ご心配頂いてすみません。体の方は大丈夫です。相変わらず記憶の方は戻ってなくて、家族だという人の誰も思い出せなくて・・・それどころか、自分のことも・・・・」
以前の高慢ちきな態度ばかりのシリルとはうって変わって、丁寧な言葉遣いに、頼りない笑みを浮かべるシリルは儚げで、自分を庇ってこんな状態になったという罪悪感も手伝って庇護欲が湧いてきた。
「ごめんなさい。私を庇ったために、こんなことになって・・・」
「アンナさん、起こってしまったことは仕方ありませんよ。僕は記憶以外は大した怪我もありませんし、なにより、あなたが無事でよかった」
自分の記憶のことより、アンナの無事を喜んでくれるシリルに、申し訳なさと、優しさに対する感動で、胸がいっぱいになる。
思えば、こんなにアンナのことを気遣ってくれるシリルは、幼いころぶりだ。
天使のように可愛かったシリルは、アンナのことを実の姉のように慕ってくれて、一緒に庭や森を駆けずり回って、二人してお腹を抱えて笑い合うほど仲が良かったのだ。
ああ、あの頃のシリルが戻ってきてくれたのだわ。
記憶をなくして、どんなに心細い思いをしているのだろうと心配しているのに、シリルの変化に、目を潤ませるほどうれしさが湧いてきた。
「・・・・ありがとう」
いつの間にかアンナの身長を上回った、シリルを見上げながら、お礼を言えば、うっと息をのむシリルが、顔を赤くした。
「ねえ、シリル。私たちは幼いころより、婚約者同士なのよ。そんな丁寧な言葉づかいでなくとも大丈夫だわ。普通に話してくれるかしら」
「・・・・以前の僕がどんなだったのかわかりませんが、慣れてきたらということでお願いします」
「なんだか他人行儀でさみしいけど、分かったわ。記憶が戻ればいいのだし、好きなようにお話ししてね」
「今日は、馬車に乗って、湖に行きましょう。ほら、シリルの好きなハムや野菜、卵を挟んだサンドイッチを持っていくわよ」
昼食が入った籠を持ち上げ、シリルの手を取って馬車に向かって歩いた。
初夏のまぶしい日差しの中、木陰に敷物を敷いて隣に座る婚約者に目をやる。
長めのプラチナブロンドの髪が湖面から吹いてくる涼しい風にもてあそばれ、揺れている。
碧眼が湖面を写し取ったようにきらめき、揺れるさまは、どんな宝石より美しいと思う。
以前は蔑みできつくしかめられていたそれは、優し気に見つめ返してくる。
記憶を失ったのは、お気の毒だけど、私は今のシリルの方がいいわ。
「ねえ、シリル。今日はいい陽気で、少し熱いわね。湖に足を浸さない?きっと、気持ちいいわよ」
「そうですね、いいですよ」
早速、靴を脱いで、靴下を脱ごうと、ガータベルトに手を掛けた。
「アンナさん、そこまで捲らなくても・・・・」
シリルは、片手で目を覆い、制止しようと、もう一方の手を突き出した。
「だって、靴下を脱ぐにはガータベルトを外さないとだし」
「じゃあ、そこの茂みに入ってやってください。僕の従者も目のやり場に困っています」
「別に下着まで見えるわけじゃないのだから、気にしなくてもいいのに」
「僕は気にします」
「もう、わかったわよ」
赤い顔をしたシリルと、背中を向けたシリルの従者を残し、草むらに入って、靴下を脱いだ。
スカートを捲って、膝まで出して水につかり、気持ちいいねと言うと、赤い顔を背け、閉口しているシリルがなんだかおかしくて、水を片手で掬って、掛けた。
「わ、冷たい」
「あははは・・・・・冷たくていい気持ち」
もう少し深みに入ろうと足を進めると、少し大きな石に苔がついていて、ぬるりと滑った。
「危ない」
シリルが、手を引いて胸に抱きとめてくれて、転んで、びしょぬれにならずに済んだ。
「あ、ありがとう」
後ろから抱きしめてくる幼馴染の婚約者の胸の中に、自分の体がすっぽり納まってしまって、弟のように幼かった婚約者が知らない男の人のように思えて、お礼の言葉も、つぶやくようにか細くなってしまった。