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赤とんぼ

作者: 長光一寛


「赤とんぼ」


名曲「赤とんぼ」を歌ったり奏でたりするとき、思い浮かぶ風景がある。それは私のふるさと広島県三原の郊外のそれであり、これは、1950年生まれの私の記憶する三原にもまだ残っていた広い山野を遊んだ時に記憶した景色だ。すでに土地開発が始まりつつあったが、いたるところで水のきれいな場所がたくさんあった。川を隔てて小学校のそばを走る呉線の向こう側の沼地にまだ野鳥が生息していた。大きな水鳥が羽ばたきながら水面を切って葦の藪の中に入っていくのを見ることもできた。立ち入ることのできない別世界の光景として記憶した。学校は線路に行くことをもちろん禁じていた。


しかしぼくらは学校の壁を越えて、水辺に行った。浅いところで川を渡って線路側に行くこともあった。捕虫アミでとんぼを採ったり、釣りをするためだ。塩辛トンボが多くいた。第一目標は大きな鬼ヤンマだ。これをみつけると心が弾み、大きな声で、「やんまーだよ、とーどり」と叫びながらアミを振った。しかし私は一度もヤンマは捕獲できなかった。


このような景色を手掛かりに、もっと昔を空想してみる。


戦前、貧しい家庭の娘が、口減らしのために、裕福な家に子守りにやられるのはよくあったことのようだ。幼くして両親から離れ他所へやられるのは心細いことであったろう。五木の子守歌など、子守歌にそのような不運な少女たちの哀愁を謡ったものがあるのは、子守り娘が自分の哀れさを歌で紛らわせようとすることが多かったからだろうか。


名曲「赤とんぼ」は、また別の角度からこの風習の哀愁を誘う歌であると思う。これは私の考えでは初恋の歌である。少年の子守女に対する初恋。ここまでいうと、伊藤佐千夫の名作「野菊の墓」を記憶するひとならもう説明なくともこのあとは理解していただけるだろう。


幼児が物心のついたころ、そして成長する過程で自分に優しくしてくれる人に恋をすることは自然のなりゆきだ。歌を追ってみよう。


「夕焼小焼の、赤とんぼ 負われて見たのは、いつの日か」


この「負われて」は誰に背負われていたのだろう。その答えは3番の歌詞に出てくる。

「十五でねえやは、嫁に行き」とあり、この漢字のねえやは、実の姉ではなく、子守りの少女だ。彼はこの少女の背で夕焼けとともに赤とんぼを見たことを記憶した。


物心つき始めたころに、自分は姐やの温かい背中の上でまわりを飛んでいるたくさんの薄赤いものを見ている。そして姐やはしきりに何かを自分に言っている。その記憶がよみがえると、あれは赤とんぼだったのであろうか、それとも夕日に照らされたタンポポの綿毛の飛行を見たのだったろうか、と薄い思い出をたぐりよせようとする。姐やの背中の温もりにうとうとしていたので夢で見たものかもしれない。


「山の畑の、(くわ)の実を、こかごに摘んだは、まぼろしか」

 

しばらくして、記憶がもっとはっきりした思い出がよみがえる。モンペ姿で背にかごを負った姐やが自分の手を取ってゆるやかな坂道を登ってゆく。自分もかごを背に負っている。山の桑畑に実を摘みに行くのだ。姐やのかごには昼の二人分のおにぎりと水筒とおやつの夏みかんなどが入っていて重そうだ。そして自分のかごには手拭いが数本入っているだけ。早めに桑の実を摘んで、帰りに小川で水遊びをしようと二人で密かに決めたため余分に持ってきた。しかし定かではないのは、自分は実際その日桑の実を摘んで、その実をかごに入れたのだったろうか。帰りの自分のかごの中にはたくさんの桑の実が入っていて重たかったが、畑では仕事は全部姐やに任せて自分はちょうちょやバッタを追ったり、木に登ったり、はしゃいで姐やの仕事を邪魔したり、ただ遊んでいただけだったような・・・。


小川での水遊びは楽しかった。姐やの女友達二人がすでにきていて流れのない深みで泳いでいた。海辺で育った姐やは泳ぎが得意だった。自分も浅いところで泳ぐと三人は寄ってきて足を引っ張たりして、面白がって笑っていた。姐やがこんなに笑うのを見たのは初めてだった。


帰り道、雷が鳴り、夕立が降り始めた。姐やと雨宿りに駆け込んだ神社の回廊で心細い時間を過ごした。薄暗くなると、まだ雨が降っていたが、家の人たちが心配しているだろうと、二人は手拭いを頭に巻いて、小走りで家に帰った。その後イノシシが現れたといううわさが出たので、ふたりきりで桑畑に行くことはその時限りとなった。


「十五で(ねえ)やは、嫁に行きお里の便りも絶え果てた」


自分が小学校に入ってしばらくして、姐やは実家から手紙が来るたびに見せてくれるようになり、なんて書いてあるか読んでくれた。自分もひらがなやカタカナや易しい漢字を覚え始めていたので、姐やの小部屋でいっしょになって読んだ。わからない漢字の読みも教えてくれた。そして返事を書くときには手伝った、というよりは邪魔をしたようだった。それがまたおもしろかった。しかし年月がたつにつれ、学校に行っていた自分のほうが読み書きにすぐれるようになり、次第に自分はそれに興味を失い、姐やも手紙を見せてくれなくなった。


私が中学生になると姐やは、自分を小部屋に入れることはなくなった。


一通の手紙が姐やの実家から届いた。見合いをしてもらうので何月何日にお暇をもらうようにとあった。姐やはそれを自分の両親に見せた後に、久しぶりに自分にも見せてくれたのだ。その意味を深く考えなかった自分は、数日後姐やが実家に戻っていっても、またすぐいつものようにこちらに戻ってくるものと思っていた。しかしそれが彼女との別れであった。姐やのおいていったものを彼女の兄弟がやってきて運び去ると、自分の心に大きな穴が開いたような寂しさに襲われた。


太宰治の「思い出」の中に次のような記載がある。これはのちに「津軽」の中でも引用された: たけはいつのまにかいなくなっていた。ある漁村へ嫁に行ったのであるが、私がその後を追うだろうという懸念からか、私には何も言わずに突然いなくなった。


「夕焼小焼の、赤とんぼ とまっているよ 竿の先」


この寂しさは今も実家に帰るたびに襲ってくる寂しさだ。だから故郷の家に長くいたくない。会おうと思えば峠一つ越えれば行けるところに姐やはいるのだが、実家ならともかく、やはり嫁ぎ先を訪ねるのははばかられる。姐やは十五歳で嫁いでいったが、自分は今、あの頃の姐やの2倍の年を二つ過ぎ、まだ独身でいるのがはずかしい。あのころは姐やは自分よりもずっと年上の人のように思っていたが、たった二歳と少しだけしか違わなかったことをかわいそうにも思う。


家のそばの小川でひとりふな釣りをしてすごす。その小川に沿った道を姐やはよく自分を連れて歩いた。おんぶしてくれとせがむと、自分の手をぎゅっとにぎって、男の子ならあの鳥居までがまんしなさい、などと言う。自分は駄々をこねる。二人の我慢比べが始まる。こういう時の姐やは怖い。べそをかきながらおいて行かれないように後を追う。


「つれてますか?」釣りをしている人がいると姐やは声をかける。「あっ、竿の先に赤とんぼがとまってるねい」姐やは、にぎっている自分の手を引き上げトンボのほうを差した。すると、赤とんぼは舞い上がる。やはりあの夕焼けで見たたくさんの薄赤いものは赤とんぼだったのだと思う。そして姐やは寝ぼけまなこの自分に「赤とんぼがたくさん飛んでるよ」と大きな声で言ってくれていたのにちがいない。 


西日が陰り始めた。自分の竿にはとうとうとんぼは止まってくれない。蒸気機関車の汽笛の音が林の向こうから聞こえてくる。明日はまた東京だ。こんど戻って来た時には姐やを訪ねてみよう。


夕焼小焼の、赤とんぼ

負われて見たのは、いつの日か


山の畑の、(くわ)の実を

こかごに摘んだは、まぼろしか


十五で(ねえ)やは、嫁に行き

お里の便りも絶え果てた


夕焼小焼の、赤とんぼ

とまっているよ竿の先


作詞:三木露風

 



 



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