07 罠
◆
『やられた』
『やられおった』
闇の中で、ヒソヒソと話声がする。
暗すぎて、話している者達の姿は見えない。が、少なくとも十人以上はいるらしく、そこかしこから話す声と、クチャクチャと何かを咀嚼する音が響いていた。
『このままではいかんな』
『うむ、器に戻る前に、数が減るのはまずい』
『それにしても、憎きはかの術師よ』
『おおよ、奴がいなければ、こうして隠れて食わんでも良いものを……』
ブチブチと肉が裂けるような音と、ズルズルと液体を啜る音、そして再び咀嚼する音が辺りに届いていく。
『奴は許せぬ。しかし、奴は強い』
『そうよな、『入道』も『車』めも奴の式神に手も足も出なんだ』
『憎くてたまらぬ……しかし、奴は恐ろしい。恐ろしいのぉ……』
『なぁに、手はある』
不意に聞こえたその声に、怯えていた者達から戸惑うような気配が伝わってくる。
それを愉快と思ったのか、声の主は嘲笑うように言葉を続けた。
『いかに奴の式神が強かろうと、それを使役する本体はただの小娘。ならば、直接その娘を狙えば良い』
『なるほどな……』
『しかし、そんな真似ができるのか?』
『無論。私にいい考えがある……』
ケラケラと気味の悪い声で笑うと、『できる』と言った声の主は闇の中に沈んでいった。
◆
土曜日 PM10:45。
昼間の内に雑用を済ませ、マドカ達は縁が運転する車で、目的地に向かって進んでいた。
彼女等が住むA市と、県内でも一、二を争う大きなK市とのほぼ中間辺りに位置する、I苗代湖。
前回のT沢峠から目と鼻の先とも言えるその観光地が、今回の怪しい話の調査場所である。
連日となった調査に疲れもあるのかもしれないが、何となく焦りからくるような重い雰囲気を和らげようと、縁は車内ラジオをつけた。
明るいパーソナリティ達の掛け合いと、リスナーからのリクエスト曲などがかかり、ほんの少しだけ車内の空気が明るくなった気がする。
「こういう夜のドライブって、なにか良いですよね」
無邪気に笑うナオに対して、どことなく少し心配そうにマドカはため息を吐いた。
「……ねぇ、ナオ。本当に大丈夫なの?」
「もちろん、大丈夫だよ!ちゃんともう一日マドカちゃんの家にお世話になるってうちの親には伝えたし、マドカちゃんのお父さんもOKしてくれたじゃない」
「いや、そうじゃなくてさ……また、怖い目に会うかもしれないんだよ?」
神明り通りの時には実際に襲われたし、T沢峠の時には吐くほどの妖気に晒された。
妖怪大好きな縁ならともかく、普通ならかなりのトラウマなどを抱いてもおかしくはない。
協力は頼んだものの、これ以上ナオの身心に負担がかかっては……そう、マドカが危惧するのも当然であった。
しかし、当のナオ本人はケロリとした顔で、「マドカちゃんがいれば大丈夫だよ」などと言って笑う。
「むしろ、今度もマドカちゃんの勇姿をバッチリ残しておくからね!」
そう言って、カラカラと笑うナオの姿に、マドカはさらなる不安を募らせる。
嫌な思いや、怖い思いはアッサリと忘れてしまうのがナオの美点だが、そのせいで似たような失敗をやらかすのが彼女の欠点だ。
もちろん、マドカも全力で親友を守るつもりではいるが、もしもの時のために何かしら手を打っておいた方がいいかもしれないと、口には出さずに決意した。
「ところで、I苗代湖のどの浜に行ってみるんだ?」
そう縁に尋ねられて、マドカはつい「え?」と言葉を漏らした。
「おいおい、決めてなかったのかよ」
「だ、だってI苗代湖ってしか聞いてなかったし……情報を持ってきたおにいが、どっか目星をつけてるのかと……」
「ええ……俺はてっきり、近くに来たらお前が反応するのかとばかり……」
「そりゃあ、ある程度の範囲なら感じ取れるかもだけどさ。I苗代湖全域は、さすがに無理だよ」
「広いもんね、あの湖……」
呟くナオの言うとおり、I苗代湖は日本で四番目に広い湖である。
〇〇浜と呼ばれる、湖水浴やキャンプなどが可能な浜辺がいくつかあり、シーズンが来れば目的に合わせた県内外の人が訪れたりして、賑わいをみせるF県の観光名所の一つだ。
「うーん、どこの浜に『湖面から伸びる手』が出たかは、やっぱり書いてないなぁ……」
車を路肩に止め、縁が呟きながら匿名掲示板の書き込みをチェックしなおすが、やはりそこまで詳しい話は記されていなかった。
しかし、少しばかりガッカリした様子の兄妹を見て、ナオは明るく元気づける。
「まぁまぁ、こういう時は足で稼げですよ!まずは、国道沿いの浜を道なりに調べてみましょう!」
「……そうね。とりあえず、しらみ潰しに調べてみようか」
「だな。よし、それじゃあ、まずはN浜からだ!」
ひとまずの目標が定まり、縁の運転する軽自動車は、再び暗い国道をI苗代湖へと向けて加速していった。
◆
ザァ……ザァ……と、波が打ち寄せる音が、夜の駐車場に響く。
A市から向かって、国道沿いの最初にぶつかるN浜は、ある意味でI苗代湖をもっとも特徴付けている浜である。
春から秋にかけては湖水浴可能な浜辺に加え、白鳥や亀を模した遊覧船が発着し、県内外の観光客を楽しませている。
また、冬には白鳥が飛来する場所としても有名で、時期になれば触れられるほどの距離で写真を撮ったりする事が可能だ。
さらには、皇族由来の保養地なども近くに有り、一年を通して楽しむ事ができる場所なのである。
そんなN浜の駐車場に車を止めて、マドカ達は車外へと降り立った。
春とはいえ、T沢峠よりも標高の高い場所の冷え込みは、結構なものがある。
加えて水辺という事もあって、吐いた息が白くなるほどの冷気に、マドカ達は身を震わせた。
「はぁ~、寒いねぇ……」
波の音すら寒さを助長するような気がして、ナオは我が身を抱くようにして腕を擦る。
「昼間はそうでもないんだが、やっぱり夜の山間部はな……」
「でも、こんなに寒いのに、駐車してる車は何台かあるんですね」
意味深な笑みを浮かべるナオの言うとおり、深夜の駐車場には週末という事もあってか、マドカ達の他にも数台の車が止められていた。
夜の山越えの休憩か、それとも夜のデート中か……少なくとも、妖怪を探しに来ているマドカ達よりは、まともな理由でここにいるのだろう。
そんな他の人を気にも止めずに、マドカは車を降りてからキョロキョロと周囲を見回していた。
「…………」
「どうなの、マドカちゃん?」
黙ったまま思案するマドカに、ナオは緊張した面持ちで尋ねる。
「……ナオ、おにいと一緒に車の中に」
怪訝そうな顔をしながらも、マドカの出した突然の退避指示に、ナオと縁は顔を見合わせた。
「い、居るのか!?」
「わからない……けど、嫌な予感がする」
ハッキリしないマドカの物言いが、余計に不安を煽る。
とにかく、彼女の邪魔をしてはいけないと、二人は車内に戻るとカメラを構えて様子を伺った。
マドカは、相変わらず周囲を警戒している。
そんな親友の姿を見ていたナオが、不意に有ることに気づいた。
「なんだか……静かじゃないですか?」
「え?」
「さっきまで波の音が聞こえてたのに、今は……」
そう指摘され、縁も周辺が静かすぎる事に遅れて気づく。
「これって……妖怪が出る時と同じですよね?」
「ああ……奴等の結界の中と、同じ雰囲気だ」
神明り通りの時しかり、T沢峠の時しかり。
自分達の縄張りに入った獲物を逃さないために、また余計な邪魔が入らないようにと、奴等が張り巡らせる空間と同種の圧力が辺りには漂っていた。
「まさか……この場にいる、全員が獲物だというのか?」
「ええっ!?で、でも、私達以外にもけっこう人がいますよ?」
「別に、俺達だけが特別に狙われているわけじゃないしな……大食漢の妖怪がいてもおかしくないだろ」
圧倒的な捕食者が、こちらを狙っているかもしれないと言う、緊張の混じった縁の言葉に、ナオの背筋をゾクリとする悪寒が這い上がってくる。
(マドカちゃん……気を付けてね!)
護られている車内と違って、あの恐怖感と悪意が渦巻く外で戦おうとしている親友の無事を祈り、ナオは震えが止まらないカメラを構えた手を押さえていた。
(……おかしいわね。なんだか、気配の出どころがハッキリしないわ)
この周辺に、怪しい結界が張られていることはわかる。
しかし、その結界を張っている者の気配が、薄ぼんやりとしか感じられないのだ。
まるで、わざと気配を消しているかのようだ。
今までの妖怪は、結界に捕らわれた人間を見つけると嬉々として姿を現し、食らいに来ていた。
そうやって、恐怖を煽ってからの襲い方が、奴等の共通る生態なのだ。
それだけに、気配を隠す今回の敵が不気味に思える。
(相手の正体がわからなければ、迂闊に式神は使えない……ならば、ここは……)
万が一に備えて、マドカは印を結び、符をかざす。
何処からでも来いと、やる気を誇示した彼女の耳に、ふとか細い声が届いた。
たす……けて……
音が消えたような静寂の世界にあって、その声は蚊の羽音のように儚くもハッキリと響く。
マドカが声の方向に顔を向けると、そこには先に駐車していた一台の乗用車があった。
しかし、よく見ればその車のドアは開かれ、まるで引きずり出されたような体勢で、足の方から水辺へと引き寄せられていく女性が一人。
必死で逃れようとしているのか、傷だらけの手をマドカに伸ばしながら、恐怖と痛みの入り交じった表情で訴えてきていた。
「た……助け……」
女は右手のみでアスファルトに爪を立て、引きずられまいと抵抗していたが、爪が割れて剥がれ落ち、無惨にも血に濡れた指先が地面に赤い筋をつける。
「っ!!!!」
その痛々しい姿を見たマドカは弾かれたように飛び出し、女性を引きずり込もうとしているモノへと術を放とうとした!
だが!
「えっ!?」
驚愕の声が、マドカの口から溢れる。
なぜなら、犠牲者である女性の体の陰に隠れて死角になっていた左腕が異様に長く、水面へと伸びていたからだ。
女性は何者かに引き寄せられていたのではなく、女性自らが湖面に引きずり込まれそうな振りをしていたのだ!
その事実から、「罠」という単語がマドカの頭に浮かんだと同時に、彼女の足首を女の右手が握りしめてくる!
「捕まえたあぁぁ」
怯えた表情から一転、グニャリと歪んだ笑みを浮かべた女は、左腕と同じように伸びた右腕を振るって、マドカの小柄な肉体を空中へと放り投げた。




