13 トラウマ
「久しぶりね、マドカ。それに縁も」
にこやかに話しかけてくる母の姿は、あの時のままだ。
「うう……」
あれは、本物の母じゃない。
妖怪が化けているだけの、偽者だと頭ではわかっているのだが、感情が追い付かずにマドカは凍りついていた。
「ご主人様……」
心配そうなシズクの声も、耳に届いていないのか、主からの返事はない。
そんな状況に、寂しそうな表情を見せながら、式神はこの場において最も成すべき事を成そうと、刀に手をかけた。
「ダメッ!」
しかし、マドカはそんなシズクの動きに待ったをかける。
「ご主人様……お気持ちはお察しいたしますが、アレは……」
「わかってる……わかってるけど……」
マドカは胸元を押さえ、苦しげに息を吐く。その姿は、先程までの余裕に溢れた女子高生陰陽師の物ではなく、トラウマに押し潰されそうになっている一人の少女でしかなかった。
「マドカちゃん……」
「無理もない……よりによって、マドカは庇ってくれた母さんが、息を引き取る瞬間まで間近で見てたんだ。そのトラウマは、俺達が思うより大きくてもおかしくない……」
マドカ程ではないにしろ、縁も冷たい汗をかいている。
そんな兄の言葉通り、マドカは歩を進めてくる母親の幻影に、茫然と立ち尽くしたままだ。
「お母さんは死んだ……お母さんはもう死んだんだから……」
青い顔をしながら、自分に言い聞かせるように、マドカはブツブツとかつての事実を口の中で繰り返す。
そんな彼女を見て、母はクスッと小さく笑った。
「そうね、私はもう死んでるわ……これのせいでね」
「え……?」
何でもない事のように言った母の胸元に、突然赤い花のような血の模様が浮かんだ。
さらに、鮮血は勢いを増して流れ落ち、身に付けていた白いワンピースを赤く染めていく。
それがあの日の光景と重なりあって、マドカはガタガタと震えだした。
「あ……ああ……」
「あなた達を庇って刺されたのよね……痛かったわぁ……」
ゴボッと水気を帯びた濁った声で嗤う母親の姿に、マドカの視界は涙で歪んでいく。
「だから……あなたもこの痛みを味わってみないぃ?」
マドカに向かって腕を伸ばす、血濡れた母親。
しかし、その片腕が神速の刃によって、音もなく切断された!
「ぎゃあぁっ!」
「それ以上、ご主人様に近づくことは許さない!」
待機を命じられたシズクであったが、さすがに主の危機とみなして斬りかかる!
「お母さん!」
「ちぃっ!」
しかし、母が斬られた姿に動揺するマドカへ、妖怪が抱きつく方が早かった!
そのままマドカを盾にするように、無理矢理に式神との間に挟ませる。
そうなると、主を守る式神としては止まらざるをえなかった。
「くっ……」
わずかにでも隙ができれば、瞬きの間に切り伏せられる。だが、妖怪もそれをわかっているから、式神から注意を切らない。
硬直状態に陥った現状に、わずかばかりの時間が流れていく。
そんな中、最初に動いたのは母親に化けた妖怪だった。
「マドカ……私はもう死んでる……」
「うう……」
「それじゃあ、私に化けているのは、なんなのかしら?」
「え……しゅ、朱の盆……」
答えがわかりきっている質問に、つい隙だらけとなったマドカが返答してしまう。
「まずい!」
縁の焦った声が漏れると同時に、母親の顔がグニャリと歪んだ!
「それはぁ、こんな顔だったかいぃ?」
みるみる間に、母は鬼の形相へと変化していく。
それが妖怪の術だと理解していても、優しかった母が鬼に変わっていく光景は、マドカにショックを与えた。
「う……ああ……」
途端、弱った心を蝕むような呪いが襲い、マドカの意識がぼやけ始める。
体が酷く熱を持ち、全身から力が抜けていった。
発動した呪いは、マドカから抵抗する力を全て奪い、正体を現した朱の盆はそれを確認してニンマリと笑う。
「ご主人様!」
シズクが吠える!
だが、熱病に犯されるマドカは全身に力が入らず、妖怪の腕から逃れる事ができなかった。
『ギャハハッ!元が凄腕の術師でも、小娘になっちまえば俺の術が効くみてぇだな』
勝ち誇り、ゲラゲラと笑う朱の盆。
そんな妖怪に捕まってしまった自分が情けない。
(くっ……こんな、間抜けな姿を、晒しちゃう……なんて……)
母の姿に狼狽え、いいようにされた悔しさが、熱で朦朧とする頭の中でグルグルと回る。
だが、何より自分を守ってくれた母を愚弄した妖怪に、反撃すら出来ない現状がマドカにとって一番の屈辱だった。
『ちょっと化けたら手も足も出ねえとはな!お前の母ちゃんも、お前みたいなカスを庇って死ぬなんて間抜けな奴だなぁ?』
わざわざ自分の顔の前にマドカを寄せて、朱の盆は腕を斬られたウサを晴らすため、ネチネチと煽りだす。
「だ、黙れ……」
マドカは朱の盆を睨み返すが、その瞳に力は乗っていない。
『いいや、黙らんね!俺は弱ってるカスを眺めるのが、何よりも好きなのさぁ!』
愉快そうに笑い、妖怪は呪いで弱ったマドカをねぶるように眺めていた。
「グウウ……」
主を小馬鹿にする妖怪に対して、シズクが猟犬のようなうなり声をあげている。
もしもマドカが一歩でも朱の盆が離れれば、すぐにでも飛びかかっていただろう。
そんなシズクに対して、何かを思い付いた妖怪が含み笑いを漏らした。
『いい事を思い付いたぜぇ……おい、式神。てめぇ、その場で腹を切れや』
「はぁ!? いきなり何を……」
『この場でヤバいのは、てめぇだけだからな。てめぇがちゃんと切腹できたら、この小娘は離してやろうじゃねぇか』
「何を……バカな事を……聞かなくていいわよ、シズク……」
自分を人質にした要求に、マドカは不快感を滲ませる。
だが、何よりも主を想う忠臣は小さくため息をついて、「そんな事ですか」と軽く答えた。
「シズク!?」
「大丈夫です、ご主人様。あなたのためなら、腹を切るくらいなんでもありません」
「いや、そうじゃ……あ」
止めようとしたマドカだったが、何かに気付いたように言葉を止めた。
しかし、朱の盆の方はそんな小さな違和感に気づくことなく、シズクの申し出にひとり盛り上がる。
『ヒャハハ、いいぞぉ!精々、派手に臓物をぶちまけてくれよなぁ!』
妖怪のリクエストには答えず、シズクは上着の前面をはだける。
さらしに巻かれた意外にも豊かな胸と、引き締まった白い肌の腹部が外気に触れて、わずかに紅潮していた。
「よおく目を見開いて、見ていなさい!」
刀の中程をつかみ、切っ先を自分の腹に充てながら、シズクは妖怪の注目を引き付ける。
そして、その狙い通り、朱の盆の視線はシズクの腹に集中していた。
「ふっ!」
気合いの息吹きと同時に、シズクの腹に刃が突き刺さる!
真っ赤な血が噴き出して、式神の耽美な顔が苦痛に歪んだ!
『うひょお!』
たまらなく嬉しそうな声をあげて、妖怪は上半身を乗り出した。
すると、
「隙だらけだな」
『あ?』
突然、背後からかけられた声に妖怪が振り替えると、その声の主が言う通り、隙だらけな顔面に棒による殴打が叩き込まれた!
『ぎゃっ!』
「はっはー!マドカと式神に気を取られすぎだぜ!」
「私の、親友を、泣かせるなっつーの!」
妖怪が式神の切腹に気を取られている間に、背後に回り込んで会心の一撃を見舞った縁と、親友を辱しめられて、呪いを忘れる程の怒りに燃えたナオが気炎を上げる!
『お、おのれ……』
油断しまくっていたとはいえ、朱の盆も鬼である以上はたいしたダメージは受けていない。
だが、顔面への不意打ちは妖怪を怯ませるのに十分な効果を発揮していた!
「……やっぱり、某妖怪アニメの「間抜けな小間使い」ってイメージも反映されてたんだな」
『訳のわからん事を言うなぁ!』
縁がひとりで納得していた言葉に、自分がバカにされた事を感じ取った朱の盆は、捕まえていたマドカを投げ出して、ナオ達に襲いかかろうとする!
「私の……親友と家族に、手を出してんじゃないわよ!」
そんな妖怪がナオ達に矛先を向けたのを見て、マドカも高熱を忘れて自分に背を向けた妖怪の背中に呪符を叩きつけた!
『ぐ、ぐえぇっっ!こ、この死に損ないがぁ!』
完全に逆上した朱の盆は、マドカとナオ達、どちらから先に殺してやろうか迷い、一瞬だけ動きを止める。
「凪・払い!」
そんなわずかな、隙とも言えない隙。
そこに滑り込むように、静かな式神の声と一際大きい鍔鳴りの音が周囲に響いた!
『あ……え?』
不意に、朱の盆の視界がグラリと揺れて、音も無く斬り落とされた頭が地面に落ちる。
『!?』
何が起こったのか理解が追いつかないまま、ゴロリと地面を転がった頭部が、刀の間合いの外で魔方陣のような術式を展開してほくそ笑むシズクの姿を捉えた。
『て、てめぇ!? な、なんで……』
「クスクス……私は式神ですよ?腹を切ったくらいで、戦闘不能になる訳がないじゃないですか」
『そ、そんな……』
「そうそう、あなたは私のご主人様を苛めてくれましたね……これはそのお返しです」
唐突に、シズクの体が陽炎のようにブレると、鍔鳴りの音が何度か重なる!
その音が響く度に朱の盆の頭は寸断され、最後には細切れの肉片だけが地面に残されていた。
やがて、妖怪の体と肉片は崩れ落ち、黒い霧となって、マドカの黒い本に吸収されていく。
その全てが飲み込まれるのと同時に、ナオとマドカは自分達を苦しめていた呪いが消滅するのを感じていた。
「……マドカちゃん、大丈夫?」
「……今回は、ナオとおにいに助けられちゃったね」
顔をあげて、力なくマドカは笑う。
そんな彼女達から少し離れた所で、式神が自分も褒めてもらいたいと言わんばかりに、ソワソワと落ち着かない様子でマドカを見ていた。
ナオから目配せされて、シズクの様子に気付いたマドカが彼女を褒めて頭を撫でる。
すると、この上ない上機嫌で、式神は主の影の中へと戻っていった。
「シズクさん、怪我は大丈夫だったのかな……」
「自分でも言ってた通り、命に別状はないし、しばらく休んでれば復活するわよ」
「そっか……」
「……改めて、ありがとうねナオ。おにいとナオの二人が不意打ちしてくれなかったら、私は負けてたかもしれないわ」
マドカからの謝辞に、ナオは「それほどでも!」と豪快に照れながらブンブンと手を振った。
そんな親友の姿に微笑んでいたマドカだったが、不意に涙がポロリと溢れ落ちる。
「あ、あれ……変だな……」
自分でも制御できない感情の乱れに戸惑っていたマドカだったが、やがてそれはボロボロと大粒の涙へと変わっていった。
今回、古いトラウマを抉られて、想像以上にマドカの精神的ダメージは大きかったのだろう……弱々しい友人を見て、ナオはソッと彼女を抱き寄せる。
「ナ、ナオ……」
「いいよ、マドカちゃん……」
情けない姿を優しく受け入れてくれる親友の胸の中で、マドカは再び涙が溢れるのを止められなかった。
幼子のように、持たれかかってすすり泣く彼女を愛しげに抱き止めながら、ナオはマドカが泣き止むまで、優しく背中や頭を撫でてあげるのだった。




