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雨音ウィーク

作者: 大和和樹



「俺が生きている必要なんてないんだ」

 いつからか、俺はそう言うようになった。


・月曜日

 事故に遭ったのは、先週の金曜日だった。

 詳しいことは、覚えていない。ただ、雨が激しく降っていたことは記憶している。

 なんの変哲もない、普通の平日だった。

 事故に遭った原因はたくさん考えられる。

 高校からの帰り道、補習で遅くなって、早足で歩いていたこと。雨で視界が効かなかったこと。近づいてくる車の音に気付かなかったこと。

 誰かの悲鳴とタイヤが地面と擦れる音が響き、跳ね上がった水しぶきと突き刺すようなヘッドライトの光を浴びた。

 気がついたら、水溜りの中で横たわっていた。

降り盛る雨で全身が水浸しになる、気持ち悪い感覚だけはよく覚えている。

 ……よく、どこも怪我しなかったものだ。

 自分の運の良さに感謝しながら、コンビニのビニール傘を広げる。梅雨真っ盛りの雨がたてる、パラパラという音を聞きながら、俺は歩きだす。

 一応病院に運ばれたもののどこにも異常は無いようで、あっさりと退院を認められた。

 歩きながら、寄り道しようか、と考える。部活に所属していないので、放課後は時間があるのだ。

 ゲーセンでも寄るか、と俺が思ったときだった。

「こんにちは」

突然声をかけられて、足を止めた。

 驚いて顔を上げると、ガードレールにもたれるようにして一人の男の人が立っている。

 大学生くらいだろうか。高一の俺よりも年上であることは確かだ。

 男は雨の中、傘も持たずに立っていた。

 襟にギリギリかからないくらいの茶髪。前髪は、目にかかるくらい長い。着ている服は、量販店で売っていそうな安物で、お金持ちではなさそうだった。人当たりの良さそうな笑みを浮かべて、俺の方を見ている。

 ……見られても困るんだが。

 無視して通り過ぎようとしても、彼は話しかけてくる。

「聞こえているのなら、返事してくれよ。天野開星くん」

 再び驚いて足を止める。

 なぜこいつは俺の名前を知っているんだ?

「……なんですか」

 不気味に思いつつも、俺は口を開いた。

 横断歩道の先で、歩行者信号機が点滅しているのが見える。

 この場所は、俺が事故に遭った交差点だった。

「どうして俺の名前を知ってるんですか?」

 信号が赤に変わった。

俺は諦めて、男の方を見る。

「さあ、どうしてだろうな」

 男は笑ったまま肩をすくめる。

 ……いや、答えになってないから。

「そう心配しなくてもいい。どうせ時間は限られているんだ。すぐにわかるさ」

「……はい?」

 俺が聞き返したとき、ちょうど信号が青になった。それでも男は動き出そうとせず、笑顔で俺に手を振った。

「じゃあな。また会おうか、天野くん」

「…………」

 言いたいことは色々あったけど、どうせまともな返答が得られるとも思えないので、俺は無言で歩き出した。

 激しくなった雨が、コンビニ傘を打つ。

 駅につく頃には、全身びしょ濡れになっていた。

時計に目をやると、午後四時半。

 駅前はちょっとした広場になっていて、カフェやコンビニなどがある。

 コンビニの横にある、屋根付きのベンチに目をやる。そこにあの人はいなかった。

 意外だ。雨が降ろうと槍が降ろうと、あの人はいつもそこにいたのに。珍しいこともあるもんだ、と思いながら改札を抜ける。

 ゲーセンで某太鼓を叩いている頃には、男の人に声をかけられたことも、彼がベンチにいなかったことも忘れてしまっていた。


・一か月前

 あの人、雨宮海音さんとあったのは、一か月ほど前の話だった。

 まだ梅雨に入る前、空は五月晴れだ。

 学校からの帰り道、足早に歩きながら俺はイライラしていた。

中間試験の結果が悪くて、担任に個別面談をされていたからだ。長々とお説教され、俺の機嫌はものすごく悪かった。

 こういう時は、ゲーセンで発散するに限る。俺は歩く速度を速めた。

「……あの」

 誰かが声をかけてくるが、気が立っている俺には届かない。

「あの、これ」

 なんだようるさいな、と思いつつ、定期券を取り出そうと鞄をあさるけど、定期券がない。落としたのか、と焦っていると、スッと目の前に定期券を差し出された。

「落とし物」

 顔を上げると、左手に閉じたノートパソコンを持った男の人が立っていた。

 ぼーっとした目で俺のことを見ている。その右手に握られているのは、俺の定期券だ。

「あっ……ありがとうございます」

 頭を下げると、男の人は無表情のまま「別に」と答えた。

 身長は平均値の俺よりだいぶ高い。羽織っている深緑色のジャンパーは安物っぽくて、無気力そうな表情と相まって、就活に失敗した大学生って印象を与える。

 そんな俺の視線を感じ取ったのか否か、彼は淡々とした口調で言った。

「俺は怪しいものじゃない。ちゃんと職に就いている」

「職って、何をしているんですか?」

 とてもじゃないけど、仕事帰りとは思えないいでたちだったから、俺は聞いた。

「小説家。雨宮海音って名前、聞いたことはないか?」

「あまみや、かいと?」

「海に音って書いて、海音。知らない?」

「知らないです」

 俺が答えると、海音さんはわずかに残念そうな表情を浮かべた。

 しかしすぐにもとの無表情に戻る。

「天野くんは、急いでるんだろ。あと三分で、次の電車が来る」

 チラリと腕時計を見ていった。

 そして、話は終わりというように、俺に背中を向ける。

「えっと……どうして俺が急いでるって思うんですか?あと、なんで俺の名前を知ってるんですか?そして、どうやって俺が乗る電車を知ったのですか?」

 それでも、俺が矢継ぎ早に質問をすると、立ち止まった。

「見たら、わかる」

 それで十分だろ、と言うように、そこで言葉を切った。

「答えになっていませんが」

「定期を落としたのに気づかないくらい早足で歩いてたら、誰だって急いでるって思うだろ。名前と行き先は定期券を見たらわかる」

 当然だろという口調で、海音さんは俺が持っている定期券を指差す。確かに、片仮名で利用区間と「アマノ カイセイ」と言う文字が書いてある。

「わざわざ、拾うときに見たんですか?」

「人間観察は職業柄、癖みたいなものだから」

 大して自慢するでもなくそう言った。

「そうこうしている間に、あと一分だ。走らないと間に合わないぞ」

 海音さんが言うとおり、電車の到着を知らせるブザーが聞こえる。

「もう、走っても間に合いませんよ。それに、そんなに急用があるわけでもないです」

 どうせ、電車に乗ったところで向かうのはゲーセンだ。それに、さっきまでの苛立ちは、いつの間にか収まっていた。

「俺のことより、海音さんはここで何をしているんですか?」

 とりあえず次の電車までの間暇になったので、海音さんに話しかける。変わった人だけど、俺の定期を拾ってくれるんだから、悪い人じゃないんだろう。

 彼は一瞬戸惑ったような顔をしたけど、すぐに答えてくれた。

「俺は小説家だって言っただろ。いつもはあそこのベンチで、小説を書いている」

 海音さんが指差す先には、コンビニの横にひっそりと設置されたベンチが置いてある。

「へえ……なんか、すごいですね」

「……ありがとう」

 俺が言うと、海音さんは少しだけ嬉しそうな表情になった。

 そのまま、黙り込んでしまう。何か言葉を探しているようだったので俺も黙って待つ。

 しばらくして、彼は躊躇いがちに口を開いた。

「……お前は、変わってるな」

「変わってるって、人間観察しながら小説書いてるような、一見就職浪人の海音さんに言われたくないんですけど」

「……ひどい言われようだな。俺の第一印象は就職浪人なのか?」

 言葉の割に、表情に変化はない。あまり、感情を表に出さない人なのだろう。

「確かに俺が変人なのは否定しない。長時間ここにいると、変な目で見られることも少なくないしな。……でも、こんな変人と話し込んでしまうようなお前も、大概だぞ」

「別に話し込んではいませんよ。次の電車までの時間つぶしです」

「それでも、だよ。今時、見知らぬ人間の素性なんて知ろうともしないだろ。ぱっと見就職浪人の俺みたいな人なら、なおさらだ」

 海音さん、就職浪人って言われたこと、根に持ってるな。

 一応、俺だって見知らぬ人誰とでも仲良くなってるわけではない。ただ、なんとなく、この人とは波長が合うような気がした。

 そう伝えると、彼は複雑そうな表情を浮かべた。

「そう言ってくれるのは、嬉しいけど……」

 視線を地面に落として、何かを考えているようにも見える。

「お前は、高校生だよな」

「……はい、そうですけど」

「放課後は、暇なのか?」

「暇すぎて困ってます」

「そうか……」

 ちらりと腕時計に視線をやり、一度俺の顔を見てから、海音さんは口を開いた。

「俺は毎日ここで小説を書いている。お前が暇なら、話し相手になってくれると嬉しい」 

 特に懇願するでもなく、淡々とした口調だった。それでも、真剣にそう思っているのは伝わった。

 ずっと一人で小説を書いているのも、寂しいんだろうな。

「そういうことなら、全然問題ないですよ」

 断る理由なんてない。俺だって一人暮らしなんだ。それに、短い時間だったけど、海音さんとは話していて楽しい。

「そろそろ電車の時間なので、もう行きますね。また明日、ここに来ます」

「……そうか」

 俺が歩き出すと、海音さんもそう言って踵を返した。

 またな、と言う声が俺の耳に届いた。


それ以来、俺は、気が向いたら海音さんと話すようになった。

 海音さんは、いつもベンチに座っていた。カタカタとパソコンを叩いていたり、通行人を眠そうな目で眺めていたりしていた。あと、いつも深緑のジャンパーを着ていた。

 俺が近づくのに気づくと、無言で隣を指さす。座れ、という意味だろう。

 海音さんは自分から口を開かないので、俺はその日学校であったことの話などをした。

 海音さんは無表情で俺の話を聞いていたが、時折観察するような目でじっと俺を見つめてきた。彼が何を考えているのか、俺には見当もつかない。

 その他にも、俺が海音さんについて知っていることは少なかった。小説家をしていると言っていたので、一度、近くの本屋さんに寄って見たことがある。

 本屋の隅々まで探して、本棚の隅にようやく彼の本を見つけることができた。俺の知らない名前の出版社で、その存在感は皆無と言っていいほどだった。

 お世辞にも売れっ子だとは言えない。

 そのことについて海音さんに聞くと、彼は無表情を崩さないまま、

「俺の本が売れないのは、読む側にそれを受け入れる感性がないからだ。俺は悪くない」

 と、何の感情を込めるでもなく言った。

「恋愛物とかファンタジーとか、世間で好まれるようなジャンルを書くことは、できないことはない。でも、書きたくないものを書いたって、俺が楽しくない。時間の無駄だ」

 そう言う海音さんは、強がっているようには見えなかった。

 多分、本気でそう思っているんだろう。

「でも、それで生きていけるんですか?」

「正直言って、ギリギリの暮らしだ。俺が毎日ここにいるのは、光熱費の節約のためだ」

 もしかして一日中ここにいるのだろうか。

「恋人とかは、いないんですか?」

「いると思う?」

俺が即座に首を横に振ると、海音さんは呆れたように「正解」と言った。

「お前の学校の近くに、アパートがあるだろ?そこに住んでる。一人暮らしだよ、お前と同じでな」

「……どうして知っているんですか?」

海音さんの鋭い観察眼には幾度となく驚かされてきたけど、それにしたって不思議だ。

「俺、一度もそんなことを言ってませんよね?なんで知っているんですか?」

「見たらわかるだろ」

 海音さんはいつも、それだけしか言わない。本人はそれで十分なのかもしれないけど、俺からしたら納得なんてできない。

「いや、わかりませんよ。教えてください」

「……なんとなくだ」

「それじゃ説明になっていませんよ」

「そう言われても、なんとなくだから仕方ないだろ」

 いつもは、俺が要求すると面倒くさそうに理由を教えてくれるんだけど、この時だけは、どれだけ頼んでも教えてくれなかった。

 俺は諦めて、もう一つ気になっていたことを聞く。

「小説が売れないのに、生活費なんて稼げるんですか?」

 失礼な質問だったかな、と一瞬後悔したけど、海音さんは気にする素振りも見せず、

「まあ、生きていくのには困らない。不便すぎる生活でも、やりたいことをやって生きていけるのなら、それ以上は望まないな」

 はっきりとそう言いきった。自分の言葉に自信を持っている者の口調だった。

 海音さんは、愛想は悪いけど、前向きで強い人だ。毎日会話する中で俺はそう思った。

 その強さが、少しうらやましくもあった。


・火曜日

 今日も補習で、学校を出るのが遅れた。

 鬱蒼と降り続く雨が、イライラを増長させるようで、俺は溜息をついた。靴の中に入ってくる水がとても不快だ。

 悪いことというのは重なるもので、俺が事故に遭った例の交差点で、昨日も話しかけてきた男が昨日と同じように立っていた。

「やあ、天野くん。調子はどうだ?」

 以前からの知り合いかのように、馴れ馴れしく話しかけてくる。

「少し顔色が悪いな。何かあったのか?」

「……なんなんですか、あなたは」

 俺が露骨に不愉快な顔をしているのを気にせず、そいつは軽薄な笑顔を浮かべている。

「以前に会ったことなんてないですよね。何でそんなに親しく話しかけてくるんですか」

「君が特殊な人間だからだよ」

 彼はチラリと交差点に目を向けた。

 通りかかる人たちが、俺たちを不思議そうな目で見ていく。

 ……ああもう、早く帰りたいのに……。

「言っている意味が分かりませんが」

「まあ、そのうち分かるさ」

「それ、昨日も聞きました。ひょっとして、明日もここにいるつもりですか」

「さあ……その時によるな」

 この人の返答は、まるで返答になっていない。こんな怪しい人に関わりたくもないが、何やら俺のことに詳しいので放っておくわけにもいかないだろう。

「それで?俺を呼び止めて何の用ですか?」

「今は秘密」

 彼は子供みたいな笑顔で言った。警戒姿勢を強めて、俺は聞く。

「いつからいるんですか?傘も持たずに」

 前回会った時と同様、彼は傘を持っていない。雨は本降りなのに、平然としている。

「さあ、いつからだろう?忘れちゃったな」

「真剣に質問に答える気、ありませんね?」

「そういうわけでもないさ。君が答えにくい質問ばかりしてくるからね」

 ……そんなに難しいことを聞いた覚えもないんだけどな。

「それに、これくらいの雨、平気だよ。濡れるのには慣れてるんだ」

「一体どうやったら、雨の中突っ立ってることに慣れるんですか。何か仕事はしてないんですか?」

「随分とストレートな質問だね……」

 彼は困ったような苦笑を浮かべる。そんな表情を見ると、少しだけ怪しさが消えた気がした。

「で、俺の仕事だっけ?うーん、なんて言えばいいかな……わかんないや」

「やっぱり無職なんですか?」

「……そうだね、そういうことにしておいてもらおうか」

 やっぱり、返事はいまいち要領を得ない。遠回しに誤魔化されている気もする。

「それにしても、君はさっきから質問ばかりで、俺の疑問には答えてもらってないよ」

「疑問って?」

「最初に聞いたじゃないか。よくないことでもあったのか?って」

 そういえば、そうだった。他の諸々の疑問のせいで完全に忘れていた。

 というか、なんでこの人はそんなことを聞いてきたんだ?不思議に思って聞くと、彼は得意そうな表情を浮かべた。

「君がイライラしているように見えたからね。心配になったわけだよ」

「なんで、俺の情緒をあなたに心配されないといけないんですか。話したところで状況は変わりませんし、そもそもよくないことが起こらない日の方が相当レアですよ」

 言いたいことをとりあえずまくしたてると、彼はきょとんとした顔になった。

 そのまましばらく、俺の顔を見ていたかと思うと、軽薄ではない、本当に楽しそうな笑顔を浮かべた。

「君は本当に面白い人だね。いまどき、見ず知らずの相手にここまで思い切った発言ができるとは……道理で、気に入られるはずだ」

「気に入られるって、何ですか?」

俺が聞くと、彼は言い過ぎたとでもいうようにそっぽを向いた。

「ほら、天野くん。早くしないと信号が変わっちゃうだろ。電車に間に合わないよ」

 その場から俺を追い払うように手を振る。

 そりゃ、俺だって早く帰りたいさ。

もやもやした気持ちを振り払うように、俺は足早にその場を立ち去った。

 また明日もこいつはここにいるんだろう、という確信に近い予感があった。だったら、今は焦らなくてもいい。

 そのまま駅までダッシュすると、何とか電車の時間に間に合った。

 雨でビショビショになった額を手の甲でぬぐいながら、俺は三つのことに気が付いた。

 今日も海音さんはベンチにいなかったこと。俺はまだ交差点にいた彼の名前を知らないこと。そして彼は、俺が電車で通学していることを知っていたこと。

 まあ、今更驚きはしないんだけどね。


・水曜日

 今日はいつにも増して補習が長引いてしまった。空が分厚い雲で覆われているので、外はすでに薄暗い。

 相変わらず、梅雨真っ盛りで、雨は止む気配をまったく見せない。そして、相変わらず、そいつは交差点に立っていて、当然という顔で、俺に声をかけてきた。

「やあ、天野くん。今日は遅かったね」

「……どうも」

 俺は目を合わせず小声で返事を返した。そして、昨日気づいたことを聞く。

「そう言えば、まだあなたの名前を聞いてませんでしたね。教えてもらえますか」

 まさか名前さえも教えてもらえないのか?

「名前?名前か……」

 しばらく考えた後、彼は笑って言った。

「教えてあげない」

「……でしょうね」

もはやこいつの個人情報を求めるのは諦めた方がよさそうだ。

「そんなに落ち込むなよ。君が聞きたいことがたくさんあるのはわかるけどさ、今はまだ、何も言えないんだ。今はね」

「いつか、教えてくれるんですか?」

「その時が来たらね」

 まあ、何を聞いても答える気はなさそうだし、教えてくれると言っているんだから、待てばいつか教えてくれるだろう、おそらく。信用してもいいのかは、定かではないが。

 俺が悩んでいる間に、彼はチラリと空を見上げて言った。

「ほら、もうこんな時間だ。早く帰らないと、家の人に心配されるよ」

「え……?」

 少し意外だった。てっきりこいつは、俺が一人暮らししていることも知っていると思っていたんだが、そうではないのか?

「どうした?」

「……いえ、なんでもないです」

 俺は口を閉ざした。あまり、家族のことには触れてほしくなかった。

 誰かに積極的に話せるようなことではない。俺の家族の事情を知っているのはおそらく一人、海音さんだけだ。

 そんな俺にかまわず、彼は続けた。

「そうか、なら早く帰りなさい。家族に心配をかけたらだめだよ」

 ……心配?心配って、なんだ?

 誰が俺のことなんて心配するっていうんだ?いや、駄目だ、落ち着け。ここで取り乱したって仕方がない。

 そんな俺の心情を見透かしたかのように、彼は言う。

「君の帰りが遅いと、親御さんは不安になるだろう。どこかで危険なことに巻き込まれているんじゃないか、ってね」

「…………」

 俺はこいつの表情を正面から見据える。そして、確信した。

 知っていやがる。

 どうやってかはどうでもいい。こいつは、俺の事情を知っている。挑発するような笑みを浮かべながら、彼は俺を見下ろしていた。

 でも、ここで挑発に乗ったら負けだ。

 俺が焦っているのを見て、彼は笑う。

 彼の笑顔は何度か見てきたけど、こんな人を馬鹿にするような表情は初めて見た。

「何を焦っているんだい?何か、間違ったことでも言ったかな、俺は」

「うるさい……あんたには、関係ない……」

 とっさのことに敬語を忘れた。

 極力感情を押し殺したつもりだったのに、声が震えてしまった。

「関係ないって言うけど、一体何が関係ないのかな?天野くん、君は何か隠しているね」

 この、野郎……!

 俺は思わず拳を固める。

 他人だからって、いや、他人だからこそ、俺の傷に触れるような真似は許されない。

 だいたい、一方的に話しかけてくるような奴が、俺の何を知ろうっていうんだ?

 頭に血が上ってしまった俺は、衝動的に拳を振り上げた。

 あとのことなんてどうでもいい。俺は勢いのままに彼に詰め寄って……

「危ない!」

「……っ!?」

 突然彼が叫んだので、俺は驚いて動きを止めた。体が冷たい。見下ろすと、服がびしょ濡れだ。

 目の前を、大型トラックが走っていく。

 状況を理解するのに、しばらく時間がかかった。俺の前に立っていたはずの彼は、いつの間にか俺の真後ろに立っている。

 確かにこいつを殴ろうとしたはずなのに、手のひらには何の感触もなかった。

 驚いている俺の前を、車が次々と走ってきては、水しぶきを立てながら通過していく。

「……危なかったな。俺が止めなかったら、君は道路に頭から突っ込んでいたよ」

「……そんな、はずは……」

 振り返ると、彼は険しい顔をしている。

 いつの間にそんなところに移動したんだ?

「まったく、気をつけてほしいね。交通事故なんてろくなことがないよ」

 茫然としている俺に向かって、彼は言う。

「せっかく拾った命、ここで捨てるわけにはいかねえだろ」

「……どうして、それを」

 言いかけてやめた。どうせ、教えてくれないに決まっている。

 彼は険しい表情を崩さないで続ける。

「君はまだ若いんだから、もっと命を大切にしなさい。一週間で二度も事故に遭うなんて、不注意だ」

「……余計な、お世話だ」

 その上から目線の物言いに、先ほど空振りした怒りが再びこみあげてくる。

「さっきも言ったが、あんたには関係ない。どうせ知ってんだろ、俺のことを心配する奴なんていないってさ」

 吐き捨てるような口調になってしまった。マズい、とも思ったけど、もう止まらない。

「いいじゃないか、俺がどこで死んだってさ。誰も困りはしない」

「……そう悲観的になる必要もないだろ。なんでそんなことを言うんだ?」

 彼はどこかいら立っているように見えた。そしてそれは、俺も同じだった。

「嫌なことを思い出させやがって……煽るような真似までして、何がしたいんだよ?あいにく俺はそんなに暇じゃないんだ、喧嘩がしたいならよそを当たれ」

 俺は彼に背中を向けた。こんな奴の相手をしていたって、時間の無駄だ。

 あの日のことがぐるぐると脳裏に浮かんでは消える。それがまた、俺をいら立たせる。

「どうせ、俺が生きている必要なんてないんだ」

 いつからか身についた口癖を吐き捨て、俺は振り返らずにその場を去った。

「……誰が――――だと思って……」

 彼の呟きは、雨音にかき消されて俺の耳には届かなかった。


ゲーセンに寄る気力も沸かず、そのままマンションに直帰する。高校生で一人暮らしができるのは贅沢なんだろう。たとえ、そうせざるを得ない事情があるとしても。

 鍵を開け、部屋に入って、鞄を乱暴に投げ出し、布団に寝転がって天井を見上げた。

 ぼーっとしていると、いろいろなことが頭をよぎる。特に浮かぶのが、名前の知らないあいつのことだ。

 なぜか、いきなり話しかけてきて、なぜか、俺の名前を知っていて、なぜか、俺の過去の話を知っていた。

 考えれば考えるほど、怪しいやつだ。

 あいつのせいで、あの日のことが頭に浮かんで消えない。決して痛かった記憶が、次々と蘇ってくる。

 俺が全てを失った日のことが。 


・二週間前

 ある日の駅前。海音さんは目を閉じていたが、俺が近づくとうっすらと目を開けた。

「ああ、天野くんか。……おはよう」

「……おはようって、今は夕方ですよ」

「……え?いつの間に……」

 不思議そうに目をこすっている。冷静そうな彼が慌てているのが面白くて、ぼーっとその様子を見ていると、海音さんは気まずそうにしながら隣に座るように促す。

「珍しいですね、海音さんが居眠りなんて」

「そうかな。でも、夜は八時間寝ているんだけど」

「そんなにですか?」

「夜遅くまで起きるのには電気代がいるだろ。それに俺は、なんだろう、病弱、というのは少し違うな。普通の人より、体力がない……とでもいうのか?そんなもんだ」

「へえ……」

 俺はなんて返事をしたらいいか悩む。

 大変ですね、という割には、海音さんは困ってなさそうだ。かといって、意外ですね、というのも違う。海音さんは活発そうには見えないし。

 俺が言葉を探していると、海音さんは、言いにくそうにしながら口を開いた。

「昨晩、母親から電話があって……。母親相手だと、俺は強くものを言えないんだ」

「それは、意外ですね」

 今度はさらっと感想が出てきた。

「だって、海音さんって、なんか、意思が強そうなイメージがあるのに」

「……まあ、いろいろあってな。それにいろいろあるのは、お前だって一緒だろ」

「はい……?」

 突然の彼の言葉に驚く俺をまっすぐに見て海音さんは言う。

「普通じゃないんだろ?お前の家庭は」

 海音さんの目は全てを見通すかのような光を宿していて、俺は誤魔化せない。

「以前言ったよな。お前が一人暮らししているって。理由はなんとなくだって」

「そういえばそうでしたね」

「その時から、うすうす感じてはいたんだが……お前のフリーすぎる行動といい、高校生のわりに大人びた態度といい……俺と波長が合う、なんて感じることといい」

「よく覚えていますね……」

「そんなことを言うのは、お前くらいだからな。本当に、変わったやつだって思ったよ。そしてそれは、事実なんだろ?」

 不思議な感覚だった。

 今まで、過去のこと、家族のことに触れられるのはそれだけで苦痛だったのに、今はそれを感じない。

 いや、むしろ聞いてほしい気もする。

「……海音さんの考えはあっていますよ。知りたいですか?」

「お前が苦にならないなら」

 俺の方を真剣な目で見て、海音さんは言った。それを聞いて俺の心は決まった。

「じゃあ、聞いてください。俺の昔話を」


・十年前

 俺は、恵まれた家庭に生まれた。

 父親は有名企業に勤めていて、収入は安定している。そのおかげか、母親は安心して俺を育てることができた。

 これは大きくなってから知った話だが、両親が出会ったのは、高校生のとき。大学へ進んでも、二人の交際は終わらず、すんなりと結婚も決まったそうだ。つまり、お見合いや婚活が流行っている中、二人は本当に愛し合っていたということ。

 それは俺も例外ではなく、何の出産トラブルもなく生まれた俺は、両親に手厚く育てられた。

 すくすくと育つ俺を、両親は自慢の息子だと言ってくれた。

 みんなに自慢できるような、幸せな家族だ。温かい家庭には、いつも笑いが満ちていた。そして、俺は、そんな生活がずっと続くと信じていた。

 でも、現実は甘くない。

俺が六歳の、ある日。雨が激しい日だ。

 俺は、窓に顔を張り付けるようにしてぼんやりと外を見ていた。パラパラという雨音が、子供心に好きだったんだ。

しばらくしていると、パラパラという雨の音に、プルルルル……という電子音が混ざっているのに気づいた。固定電話が鳴る音だ。

「……はい」

 母親の訝しげな声が聞こえる。

「はい、天野です……はい、……はい!?」

 母親の声が、突然裏返った。

 チラリと振り返ると、母親が受話器を手にしたまま、硬直している。

「すぐ行きます!」

 母親はそう叫び、ガチャン!と受話器を叩きつけるようにして置いた。

「どうしたの?」

「……開星はここにいてちょうだい。ママ、ちょっと出かけてくるわ」

「すぐ帰ってくる?」

「いいから、ここにいなさい」

 母親はそう言って、俺が口を挟む間も与えずにどこかへ行ってしまった。

 静まり返った部屋に雨音が響いていた。

 

母親が帰ってきたのは、その日の深夜だった。さらに親戚のおじさんも一緒だった。

「開星くん、ちょっとこっちにおいで」

 おじさんが俺を手招きする。言われるままに、俺とおじさんは子供部屋に入った。

 その間、母親はずっと、

「あなた……あなたぁ……」

 呪文のように呟きながら涙を流していた。

 

 父親が交通事故で死んだ。大雨でスリップした車に撥ねられたそうだ。

 おじさんが話してくれた内容を要約すると、この二文になる。

 それをおじさんは、一時間くらいかけて、何度も嗚咽を漏らしながら、俺に説明した。

 それを俺は、一週間くらいかけて、何度も泣き叫びながら、意味を理解した。そしてその時には、幸せな家庭はすでに崩壊しきっていた。

 特にひどかったのが、高校生のときからのパートナーだった母親。

 何度も何度も父親の名前を狂ったように叫びながら、そこらじゅうの物を破壊した。

 そのとばっちりを受けたのが、唯一の愛息子である俺。

 ぬいぐるみを壊されたり、ヒステリックに八つ当たりされたり。

 特にひどかったのは、「あなたを見ていると父親を思い出す」という理由で、殺されそうになったことだ。

 そして、それらの嵐が去ると今度は、俺は全く相手にされなくなった。

 そして、俺は、母親は俺より父親を愛していたということを知った。


 幸せな家庭なんてものは、とっくに過去の産物だった。愛する人を失った母親は、ことあるごとに俺に強く当たった。当然、愛情なんて、注がれたはずもない。

 死んだような目、半開きの唇、潤いのまるでない髪。俺の知らない母親の姿がそこにあった。

 俺が育った家庭が幸せに見えたのは、父親がいたから。母親が俺を大切にしたのも、父親がいたから。父親がいなくなったら、俺はどうでもいいということだろうか。

「俺が生きている必要なんてないんだ」

 その時から、それが俺の口癖となった。

 そして俺は、家を出た。 


・二週間前

 俺が話し終えると、辺りは突然の静寂に包まれた。駅前広場は賑わっているのに、俺と海音さんの周りだけ、時が止まったかのように静かだ。

 昔のことを思い出したことと、それを人に話したことによる、妙な気の重さがあって、俺は心苦しかった。

「……海音さん、何か言ってくださいよ」

 沈黙に耐えきれなくなって、俺は言った。

 海音さんは、一瞬俺の方を見て、ちらりと雑踏の方に目を向け、小さな声で言った。

「……はっきり言って、何を言えばいいのかわからないな。同情してやってもいいけど、下手なことを言ったって、傷をえぐるだけだろうし……なんて言って欲しいんだ?」

「……俺に聞かないでください。同情なんていらないですよ……理解してくれとも言わないです。嫌なら忘れてください」

「そんなこと言って、本当は理解してほしいんだろ?」

「え……」

 海音さんは気がつくと俺の方を見ていた。

 何もかも見透かすような、そんな目で俺を見ている。自分で気づかないようにしていた本心をあっさり言い当てられた気がして、俺は目がそらせない。

 海音さんは、うろたえている俺を見て、少し楽しそうに笑った。

「……どうしてそう思うんですか?」

「見ればわかる。お前が寂しそうな顔をしていることくらい」

 顔をのぞき込まれ、俺はビクッとする。

 俺、そんな表情していたっけ……?

「あー、そんなに焦るから、寂しそうな表情が消えちゃっただろ。お前のそんな顔なんて珍しいから、もっと見てたかったのに」

「なんですかそれは……大体、ほんとにそんな表情していました?」

「してたから言ってるんだろ。もう少しで泣き出すんじゃないかと思ったよ」

「絶対してませんよそんな表情!男のプライドにかけて、泣きそうになんてなっていませんよ!してないんですからね!?」

「焦りすぎだろ……ほんと面白いやつだな、お前は」

「馬鹿にしてるでしょそれ!海音さん、なんでそんなに楽しそうなんですか?」

「……さあ?」

 意地悪そうな表情を浮かべる海音さんを見て、俺はさっきまでの心苦しさが消えているのに気づいた。海音さんは、俺のそんな様子に気づいて、わざとあんなことを言ったのだろうか?

 海音さんは、黙り込んでしまった俺を楽しそうな表情で見ている。

 弄ばれてばかりなのも気に食わないので、俺は反撃のつもりで聞いた。

「さっきから俺の話ばかりしていますけど、海音さんはどうなんですか。過去に何かあったのは、海音さんだって同じでしょ?」

 軽い気持ちで聞いたのだが、彼は一瞬で表情を曇らせた。

「……そうだけど」

 動揺を表情に出さないようにしているのは流石だと思うが、逃げ道を探すように宙を彷徨っている視線は誤魔化せていない。

「教えてくれないんですか?」

「教えない」

 即答だった。

 一切の追求を拒否するような雰囲気だ。

 あえて軽い口調で、俺は言う。

「冷たいですね。人のことは茶化しておいて、不平等ですよ」

「……黙れ」

 彼の声は、ゾッとするくらいに冷たかった。俺は思わず海音さんの方を見る。彼は不快感を隠そうともせずに俺のことを睨みつけていた。

 海音さんがここまで感情をあらわにするのも珍しく、不謹慎ながら面白い、と思った。

「……あの、海音さん」

「茶化したのは、悪かったと思ってる。誰にだって、触れられたくない部分があるのは、お前も同じだよな」

「えっと……」

 別に茶化されたことを怒っているわけでも何でもなかったので、そんな真剣な声で言われても、逆に戸惑ってしまう。

 俺が返事に困っていると、海音さんは大きく息を吐いて、口を開いた。

「……お前が苦労したってことは、話を聞いていてわかった。正直俺にできることなんて何にもないと思うけど、困ったことがあればいつでも言ってくれ。相談に乗るよ」

「あ、ありがとうございます」

 その様子からは、さっきのような威圧感を感じない。俺は肩の力を抜いた。いつの間にか、とても緊張していたようだ。

「……俺も、お前と同じで、母親に捨てられた身だから」

 海音さんは、力なく笑う。

「まあ、おたがいさまってことで」

 そう言って話を終わらせてしまった。

 その後、俺が家族の話をすることはなく、海音さんも一切それには触れなかった。


・木曜日

 今日は雨が降らなかった。

 快晴とは程遠いけど、空気はジメジメしているけど、それでも少し気持ちが軽い。

いつも通りの補習を終え、学校を出る。

 この日、いつもの交差点に、あいつはいなかった。ただの偶然か、それとも昨日の一件で、気を悪くしたのか……。まあ、どっちでもいいや。俺に関係した話ではない。

 俺は、足早にその場を立ち去った。


 その代わりとでもいうのか、駅前のベンチに海音さんがいた。

 いつもと同じ色のジャンパーを着て、いつもと同じベンチに座っていた。開いたノートパソコンの画面をぼんやりした目で見つめている。俺に気づいている様子はない。

 近づいて声をかけると、海音さんは一瞬ビクッと肩を震わせた。

「……なんだ、お前か」

「お久しぶりです、海音さん」

「……そうだな」

 海音さんはそう言ってパソコンを閉じた。俺もその隣に腰掛ける。そのまま何も言わないので、俺が口を開いた。

「そういえば、最近いませんでしたね。何をしていたんですか」

「…………」

 海音さんはうつむいたまま、何も言わない。

「どうしたんですか、具合でも悪いんですか?」

「いや……別に」

 彼の返事はどうも煮え切らない。

 数日ぶりに会うせいなのか、海音さんの様子がおかしい気がするのは気のせいなのか?

 いつもより口数が少ないし、表情も暗い。

 なんだか、別人のような雰囲気だ。

 そのまま無言の時間が流れる。気まずいことこの上ない。

沈み切った空気を変えようと、俺は話題を探す。

「海音さんがいない間、俺、変わった人に会ったんですよ」

「…………」

 返事はない。でも、チラリとこっちを見たから興味は持ってくれたんだろうか?どっちでもいいやと、俺は例のあいつの話をする。

「変わった人と言えば海音さんも十分変わってますけどね」

「……そうか?」

 海音さんはそう言ったきり、黙ってしまった。

 やっぱり変だ。どうしちゃったんだろう?

 俺がかける言葉を探していると、海音さんが躊躇いながら口を開いた。

「その、お前が会ったって人、名前は知らないのか?」

「知らないです。教えてくれませんでした。そのうち分かるって。変な話ですよね」

「特徴は?」

「よく覚えてませんよ、そんなの」

 思い出せる範囲でも、変な人だった、としか印象にない。言い換えればそれが最大の特徴であり、他に思い当たることはないのだ。

「お前も苦労したな。事故に遭ったんだろ」

「えっ……」

 海音さんが突然そう言うので俺は驚いた。

「どうしてそれを知っているんですか?」

 俺が聞いても、海音さんはぼんやりと何かを考えていた。かと思えば、突然、驚くようなことを言った。

「僕……その人、知ってるかもしれない」

「え……」

 びっくりして俺は言葉を失った。

 海音さんの方を見ると、何かに怯えるように視線を泳がせていて、取り乱しているように見えた。

 海音さんとあいつが知り合い?

 それに海音さん、今「僕」って言った?

「海音さん、どうしたんですか?」

「悪い、今日はもう、帰ってくれないか」

 そう言う海音さんはまるで別人のようだった。いや、正確に言うと彼が動揺している姿は一度見たことがある。家族のことを聞いた時だ。そのことと関係しているのだろうか。

「ごめん……僕、ちょっと混乱して……一人にしてくれないか」

 その声はあまりに弱々しくて、俺は助けになりたいと思うけど、俺にできることはなさそうだ。結局、海音さんに言われるままに退散することにした。

 俺がベンチを立っても、海音さんは宙に視線をやったまま、俺の方を見なかった。

 空はどんよりとした曇り空。明日はまた雨になるだろう。

 なんとなく、不吉な空模様だった。


・金曜日

「天野くん。君に頼みがあるんだ」

 あいつは俺の顔を見るなり、前置きもなしにそう言った。

「……話が全く見えないのですが」

 俺は足を止めて聞いた。当然のように今日は土砂降りで、傘が水を弾く音がうるさい。

 あいつはいつも通りの軽薄な笑顔で言う。

「何ですか、頼みって?」

 首をかしげつつ、海音さんの言葉を思い出した俺は目の前の男を観察する。

 背が高く、割と整った顔立ち。そしてなんでも見通すかのような眼。

 ……この人、海音さんに似ている。

 性格は違うけど、根本的なところがそっくりだ。

 ひょっとして、兄弟だろうか?

 考え込んでいる俺に、あいつは笑いかけた。相変わらず軽い笑顔だけど、逆らえないような雰囲気がある。

「君も分からないことだらけだろうけどさ、二度手間になるのもめんどくさいから、二人同時に説明したいな。というわけで、君に呼んできてほしい人がいるんだ」

「それって……」

「駅前のベンチにさ、就職浪人みたいな人がいるだろ?君もよく知っているはずだ」

「……海音さんのことですよね?」

「そうそう、それ。どんな手を使ってもいいから、ここに連れて来てほしいな。そうしないと話が始まらないから。頼むよ」

 頼む、と言っている割に、俺に拒否権はなさそうだった。もっとも、拒否するつもりなんて毛頭ないんだけど。

「わかりました。すぐ戻ります」

 俺はそう言って、いつもの駅前のベンチを目指した。


海音さんは、思ったよりあっさりと呼び出しに応じた。

「このままじゃ報われないから……僕も、あいつも」

 その意味はわからなかったが彼の覚悟を決めた瞳を見て俺は何も聞かないことにした。

海音さんを連れて交差点に向かう。

 相変わらず雨が降り続けているのに、あいつは相変わらず傘を持たずに俺たちを待っていた。

 あいつが俺を見る。しかし、その目は俺の後ろにいる海音さんを見ている。

「ありがとうな。天野くんなら連れて来てくれると信じていたよ」

 あいつはそう言って笑った。

 いや、口元は笑っているのに、目が笑ってない。ナイフみたいな鋭い眼光で、海音さんを見つめている。

 耐え切れなくなったのか、海音さんはうつむいてしまった。

「はじめまして、でいいのか?海音」

「……好きにしろ」

 海音さんの声は震えている。海音さんが彼に怯えていることは一目瞭然だった。

 俺は海音さんをかばうように前に出る。そして、ずっと聞きたかったことを聞いた。

「あなたは一体、誰なんですか?」

 あいつは突き刺すような視線を海音さんに向けたまま答える。

「俺の名前は雨宮風音。風の音って書いて『ふうと』って読む。そこの海音の、双子の兄だ」

「……双子?」

 海音さんの方を見ると、うつむいたまま、何も言わない。

「本当なんですか?彼の言っていることは」

 俺が聞くと、海音さんはゆっくりとした動作でうなずいた。

「……合ってる。彼は、僕の兄。でも……」

 海音さんは、恐る恐るといった様子であいつ――風音さんに近づいた。

 そっと右手を伸ばす。その手が風音さんの肩に触れた、と思った。その手は、するりと風音さんの体を通り抜ける。確かに彼はそこに立っているのに、触れることができない。

 俺は、息を呑んで、その様子を見ていた。

「でも、風音は、出産トラブルで……この世には、いないはず」

 海音さんが右手を引っ込めた。

 されるがままになっていた風音さんは、やれやれというように肩をすくめた。よく見ると、彼には存在感がない。ホログラムの映像を見ているような感覚だ。

「……つまり、ここにいる風音は」

 海音さんが言葉を切る。その先の言葉を言うのが怖い、というように。

 そして、それは俺も同じだった。

 俺たちが黙ってしまったのを見て、風音さんはおかしそうに笑った。

「ああ、そうだよ。……幽霊っていうのが一番近いかな」

 あっさりとした調子で言ってのけた。

「地縛霊って言うんだっけ?俺が行動できるのは、この交差点だけ。それも、雨の日限定みたいだ。死んだのが雨の日だったからかな」

 彼の言葉を、俺は不思議と冷静に聞いていた。現実離れした答えだけど、なぜか納得してしまっていた。

 だって、彼はいつも傘をさしていない。さす必要がないからだ。そして昨日彼がここにいなかったのは雨が降っていなかったから。

 ……でも、理解したのはここまでだ。聞きたいことは、たくさんある。

 そんな俺の思いを理解したのか、風音さんが言った。

「さて、どこから説明しようか?海音」

「……僕に聞くな」

 海音さんの声は、とても冷たい。いつぞや、家族のことを聞いた時と同じだ。それに対して風音さんは馴れ馴れしく話しかける。

「何だよ、冷たいな。君に関係することだろ?何なら、君から説明するか?」

「断る」

「そう言うと思ったよ。だって、君は認めたくないもんな?自分の過去をさ」

 海音さんは不愉快な顔を隠そうともしていない。そして風音さんは、それをまったく気にしていない。

「君は昔からずっとそうだ。嫌なことから逃れてばっかりで、俺に頼りっぱなしでさ。何も成長してないな」

「……黙れ。余計なことは言わなくていいから、さっさと説明しろ」

「余計なことかな?本当のことを言っているだけだけどな」

「うるさい。いいからさっさと……」

「はいはい、説明すればいいんだろ?じゃあ、教えてやるよ」

 風音さんは視線を俺に移した。

 雨が激しい。ずぶ濡れの制服が気持ち悪い。でも、そんなことは気にならない。

 俺の後ろで、海音さんが、怒りと焦りを堪えるかのように肩を震わせている。風音さんはそんな海音さんを嘲笑うように眺めて、口を開いた。

「まあ、聞いてあげてくれ。君も知りたかったんだろ?海音の昔話を」


「さっきも言った通り、俺は海音の双子の兄だ。……いや、正確に言うと、兄になるはずだったんだ」

 風音さんの口調は淡々としている。軽薄な笑顔も、そのままだ。

 俺に口を挟ませる間も与えずに、風音さんは続ける。

「だけど、出産トラブルが起こった。専門的なことは知らないが、俺か海音か、どちらか一人しか救えないことになった。つまり、どっちかを殺すってことだな。あとで聞いた話だが、母親の胎内で、俺と海音の様子は正反対だったらしい。活発に動き回る俺と、眠ったように動かない海音と、だ。当然、どっちかを選べって言われたら、どっちを選ぶか?答えは一目瞭然だろう」

「……でも、風音さんは……」

「まあ待て。聞きたいことはわかるよ。なんで俺じゃなく海音が選ばれたのかってな。実はそれ、母親の意志じゃないんだ」

「どういうことですか?」

「可愛い弟を犠牲にしてまで生まれたくなかったんだろうな、過去の俺は。手術をするって決めた時には、もうすでに俺の息はなかったらしい。結果、俺は海音を救う形で命を落としたんだが、ここで奇跡が起こったんだ。俺の身体は消えた。でも、俺の『意識』は、海音の身体に残ったんだ」

「……なんですかそれ。意味が分からないんですけど」

「俺としては不安だったんだろうよ。あるいは、少し未練があったか……。とにかく、俺の意識は海音の中に残った。陰ながら海音を支えてやっていたんだよ。そうじゃなかったら、今の海音はないね」

「……それは言わなくていいだろ」

 海音さんがいらついた声で言った。

 でも、風音さんが一瞥すると、すぐに口を閉じてしまう。文句があるなら自分で言えと風音さんの目が言っているからだ。

 海音さんが黙ったのを見て、風音さんは言う。

「とにかく、俺たちの両親は、海音を産むしかなくなった。そこで仕方なく、海音を出産した」

「……仕方なくじゃないだろ……」

 黙っていられなくなったのか、海音さんが口を挟む。

「否定できるのか?」

 それを、一言で風音さんは一蹴した。

「海音は生まれつき、体が弱かったんだ。無茶な出産をした、というのもあってね。天野くんにも、話したんじゃないかな」

 いつだったか、そんな話を聞いたことを思い出す。

「あまり動かない。あまり喋らない。感情表現も下手。体力がないから、すぐに疲れる。障害児ってほどでもないけど、海音は貧弱だった。そうだろ?海音」

「……そうだよ」

「両親は、さぞかしがっかりしただろうね。せっかく元気な風音が生まれてくると思っていたのに、生まれてきたのは弱々しくて活発性のかけらもない海音だ」

 海音さんが歯を食いしばるのがわかった。

 追い打ちをかけるように風音さんが笑う。

 でもそれは、とても非友好的な笑顔だ。

「失望した両親はどうしたか?それはもう、海音につらく当たることになったよ。元気のいい風音を返してってね。お前さえいなければ、風音と一緒に幸せになれたのにって。当然、愛情なんて注がれるはずもなかった。かわいそうな話だね」

 かわいそう、という割に、風音さんはそうなって当然、という顔をしている。

「……おかしいだろ」

 海音さんが絞り出すような声で言った。

「そんなの、おかしいだろ。僕だって両親の子供なのに……風音が元気に育つ確証だってなかったのに、なんでそんな扱いを受けないといけないんだ?」

「そうだね、俺もそう思うよ。だから、君を助けてやっていたんじゃないか」

「助けただと……?ふざけるんじゃない。僕がどんな思いで両親の罵倒を聞いていたか、お前は知らないだろ?」

「知ってるよ。俺も君と一緒に聞いてたんだから。それより、話を戻してもいいかな。いちいち口を挟まないでよ、怖いからってさ」

「なっ……」

 海音さんが言葉を詰まらせる。俺は、妙な緊張感を覚えながら、二人のやり取りを見ていた。

 風音さんの話は続く。

「まあ、両親は晩婚で、これ以上子供を産めないような年齢だったっていうのもあるかな。とにかく二人の罵倒はエスカレートしていった。さらに口汚い言葉を吐かれ、ついに暴力まで受けた」

 風音さんはそう言って海音さんを見た。

「海音はいつもジャンパーを着てるだろ。なんでか知ってるか?」

「え……」

 嫌な予感がして海音さんを見る。海音さんはビクッと体を震わせた。

「見せてやれよ、海音。口で言うよりわかりやすいからさ」

 風音さんの言葉に、海音さんはじっと俺を見て、何度も躊躇ったあと、ジャンパーを脱いだ。

 俺は、言葉を失った。

 火傷の痕。鋭利なもので切り刻まれた痕。赤黒い痣は殴られた痕だろうか。

しかも、二の腕の傷は、まだ完治していない。数週間前くらいのものだ。

「見たか?右腕だけじゃない。全身、こんな感じだ。最初に殴られたのが五歳の時。最新ではつい二週間前、母親が酔った勢いで、鋏で刺したんだ」

「何ですかそれ……酔った勢いって?」

「最初、海音を殴ったとき、母親の目は完全に狂っていた。元気な子供を諦めた両親は、海音を虐げることに快楽を見出したんだ。それからは嫌なことがあるたびに、ずっとずっと、痛めつけられてきた」

 海音さんがその時を思い出したのか、泣きそうな表情になる。

 俺は心が痛んだが、それより怖いのは、それでもなお笑っている風音さんだ。

「俺はそんな海音をずっと支えてきた。海音の身体の中で、ずっとね。海音は弱いから、すぐ泣き出しちゃって、まあそれが逆に両親を刺激したんだけど、ただ泣くばかりで、弱虫だから、そんなときは、俺が壊れそうな海音の意識を支えてやってたんだ。そうでもしないと、海音はとっくに自殺して、幽霊にでもなってたんじゃねえか?」

「……風音」

 ジャンパーを着直した海音さんが、風音さんを睨む。

 風音さんはまだ笑っていた。

「結局、海音が自分の話をしたくないのは、これが嫌なんだよ。自分が弱いって認めるのが怖い。ただ泣いてばかりで何もできない自分から逃げているんだ」

「……違う」

「違わないだろ。この際、ちゃんと教えてやるよ、海音。君は弱い。自分の力で生きることができない、臆病者だ」

「……違う!」

「もっと言ってやろうか。両親から愛されなかった自分が嫌い。そんな自分を受け入れない周りも嫌い。ちゃんと愛されて育ったことを悲惨気に語った天野くんも、大嫌いだ」

「ちが、う……」

「天野くんの昔の話を聞いて、海音は狂いそうだったよ。自分はそもそも、愛されて育つってことを知らない。天野くんが妬ましくて憎い。このままじゃ大変だから、俺が変わってやったんだ」

「……余計なことをしやがって」

「助けたと言ってほしいね。とっさの機転で、その場は丸く収まったんだから。なのにちょっと目を離したすきに、君が暴走するから……。天野くん、怖がってたじゃないか」

 海音さんに昔の話をしたことを思い出す。

 海音さんが珍しく感情を露わにしていた。

 俺を茶化す真似をして、重い空気を振り払ったのは、風音さんの強さ。

傷口に触れられたとたん、逃げるように俺を突き放したのは、海音さんの弱さだった。

 俺が普段感じていた海音さんの強さは、風音さんのものだったんだ。

 確かに俺の知っている海音さんは、風音さんほど明るくなく、今の彼ほど暗くもない。

 風音さんが海音さんを支えていた、という意味が分かった気がした。

「とにかく、海音は天野くんのことが羨ましくもあり、妬ましくもあったんだ。彼は誰かから愛されるということを知らない。ずっと、自分の人生に価値を見いだせずにいた」

 海音さんは、もう否定しない。

「当然、海音はまともに就職なんてできない。高校を出て、気まぐれで書いた小説が新人賞を受賞して作家デビューしたけど、売れるはずもない。なんでか分かるか?」

「以前、読者が自分の小説を受け入れる感性がないからって言っていましたけど」

「そんなのは後付の言い訳。海音が書く小説は中身が暗すぎて、とても読めたもんじゃないんだ。明るい話を書くのが辛いんだとさ。情けない話だろ?」

「……風音」

「まだあるぜ。早々にアパートに移り住んだはいいが、部屋にいると殴られたことを思い出して怖くなるんだ。だから現実逃避のために、いつも駅前にいる」

「風音!」

 その表情は、悔しそうに歪んでいる。心の中をズバリ言い当てられたとき、人はそんな表情をする。

 それに構わず、風音さんは言う。

「そうだな、こんなところか。昔の話は。なんか付け足すことあるか?海音」

「……ない」

「だよな。君のことは俺が一番知っているわけだし」

 海音さんの反応を待たず、風音さんは言った。

「じゃあ、今の話をしようか。俺がどうしてここにいるのか。なんで海音の体から離脱したのか。それは、先週の金曜の事故にあるんだ」

「それって、俺が巻き込まれた……?」

「そう。天野くんは不思議に思わなかったかな?あの事故で、全く怪我しなかったこと」

「……そういえば、そうでした」

 俺の答えに風音さんは満足そうに頷いた。

 その隣で、海音さんはそっぽを向く。

「海音さんが俺を助けてくれたんですか?」

「正確に言ってほしいな。海音ではなく、俺だ」

 風音さんはそう言って得意気に笑う。

「詳しく説明しようか。その日、天野くんは補習で遅くなったんだっけ?」

「そうですけど……」

「天野くんを待つのは諦めて、海音はさっさと帰ることにしたんだ。海音のアパートが君の学校の近くだってのは知ってるね?」

「……はい」

「全くの偶然だったんだけどね。天野くんが交差点を渡っているのが見えたんだ。ついでにトラックが猛スピードで突っ込んで来ていることにもね」

 あの時の降り注ぐ雨の冷たさと濡れた体の気持ち悪さを思い出した。つい先週のことなのに、もう随分前のことのような気がする。

「で、このままでは天野くんが危ない!ということになったわけだが。そこで助けに飛び出す勇気なんて、この海音にあったと思う?」

 俺は黙って首を横に振った。

 風音さんは「正解」と言って楽しそうに笑った。海音さんの表情を見る勇気は、流石になかった。

「まったく、情けないにも程があるな。天野くんは唯一自分に安らぎをくれる存在だったのに、こんなときでさえ自分を守りたがる」

 ……さっき、海音さんは俺のことが嫌いだって言わなかったか?

もう何が何だかわからなくなった。

「しょうがないから、俺が代わってやった。兄として、海音に教えてやらないといけないと思ったんだ。動けなくなった海音にしびれを切らして、俺は海音の身体を使って、交差点に飛び出したというわけだ」

「……それで、どうなったんですか?」

「人の体ってのは、思ってるより丈夫なんだな。あれだけの衝撃を受けながら、五日もありゃ動けるようになるんだから」

 えーと、それはつまり。

 俺が事故に遭ってからしばらく、海音さんの姿を見なかった。

 それは、つまり……。

「海音さん、怪我……してたんですか?」

「……ああ。幸い骨は折れなかったから、少し安静にしてたら動けるようになった。でも、まだ体はズキズキするし、激しく動くことはできない」

「まあ、激しく動くことなんてしないんだから、いいじゃないか」

 風音さんが馬鹿にしたように笑う。

 海音さんは怒気のこもった目で、風音さんを睨みつけた。

「お前、さっきからなんなんだ?ことあるごとに僕のことを馬鹿にして何が言いたい?」

 思わず身震いするような冷たい声。

 そして、風音さんは唇を歪めて笑う。でも、その目は冷たく光っていて、まったく笑ってない。

「まだわからないのか?俺がどうしてここにいるのか。地縛霊として、この世に残っているのか」

 風音さんが、一歩海音さんとの距離を詰める。ユラリ、と彼の身体は揺れた。まるでホログラムの映像を見ているかのように実体がない。

「事故の衝撃に、海音の身体は耐えた。でも、俺の意識はそういうわけにはいかなかったんだ。俺が海音の代わりに天野くんを突き飛ばして、トラックの前に体を投げ出したとたん、世界が反転するような眩暈を覚えた。視界が戻った時には、倒れている天野くんと海音を見下ろしていたよ。どうやら、俺の意識が海音の身体から抜け出してしまったらしい。それでも、俺は体を失っても、消えることが出来なかった。この世に未練があったんだよ。それが何か、言わなくてもわかるだろ?」

 風音さんは、まっすぐこちらに近づいてきて、海音さん――ではなく、俺に言った。

「天野くん。ちょっとおいで」

「……はい?」

 俺は、彼に言われるままにあとを追いかける。

 彼が立ち止まったのは、横断歩道のど真ん中だった。数メートル先で、青信号が点灯している。

 たとえようのないような嫌な予感がした。

「……風音、お前、何を考えて……」

「すぐにわかるさ」

 感情の欠落した声で、風音さんは言った。

 彼の表情を見て、俺の背中に冷たいものが駆け抜ける。

 あれは、俺の母親の表情だ。

『開星って本当にパパに似てるわぁ』といいながら俺を殺そうとした、狂気的な笑顔だ。

「少し試したいことがあってね。天野くんは何もしなくていいよ、そこに立っているだけで。ああでも、逃げ出されると困るな」

 これは、自分のためならなんだってする笑顔だ。

「少しの間、じっとしててくれないかな?」

 風音さんが、軽く俺の肩を叩く。

 その瞬間、金縛りにあったかのように全身が動かなくなった。指先が動かせない。足が、地面から離れない。ただ、全身が雨で冷たくなっていくだけだ。

 固定された視界の端で、青信号が点滅を始めるのが見えた。

「風音、何をしている!早く天野くんを解放しろ!」

 海音さんが叫ぶ。でも、彼はそこから動いていない。いや、動けないんだろう。彼が風音さんを恐れているのは明らかだ。

「俺はさ、失望しているんだよ、海音。生まれてきた時からずっと、君を支えてやっているというのに、君は何も成長しちゃいない。弱いままだ。だから、俺は試したいんだ」

 風音さんが、声を上げて笑った。その場から動けない海音さんを嘲笑っているように見えた。

「君が、守ってやるのに値した人間なのかどうか、をね」

「てめえ……」

 海音さんの声は明らかに震えていた。

 信号が赤に変わる。

「ほら、どうした?何震えちゃってんだ?やっぱり、怖いのかな?」

「…………」

 海音さんの声が途切れた。俺は、何もできずに突っ立っているだけだ。

「俺に助けを求めても無駄だよ。もう、君を救ってやることはできない。助ける気もしないな。あの日俺がそうしたように、天野くんを守ってみろよ。弱くないっていうならさ」

 反対車線の信号が青になる。

「……早く決断しろ、海音。俺がいなくたって生きられることを、自分が弱くないってことを、証明してみろよ」

 水しぶきを上げて、トラックが迫る。

 俺は、確実に近づいてくる水しぶきの音を、どことなくぼんやりと聞いていた。

 思い返せば、父親が死んだのも、雨の日だった。そして、その日から、俺は壊れていったんだ。別に、今さらここで車に轢かれることに後悔なんてない。

 どうせ、俺が生きている必要なんて、ないんだから……。

 そんな俺の思考をぶち破るように、風音さんの大声が響いた。

「君もそうだ、天野開星!」

 え……?

 声は出ない。でも、俺が心のなかで上げた驚きの声に答えるように風音さんは言う。

「そうやってずっと、逃げてきたんだろう?父親が死んだことを認めたくないからって、後ろ向きな言葉だけ吐いて、自分に価値がないなんて言って、本当はどう思ってんだ?」

 トラックはもう、すぐ後ろまで迫っているようだ。運転手がブレーキを踏んだのか、タイヤと地面の擦れる音がする。

 そんな中、風音さんの声だけが、鮮明に聞こえた。

「ご両親が自分を愛していたことも、忘れてしまったのか?もう一度母親から愛されることを諦めたのか?」

 ブレーキを踏んだからといって、車はすぐに止まれない。大きな車体が、急接近する。

「君のそんなところが、海音に似ているんだ。なぜ気づけない?愛される努力もせずに嘆いているだけの君たちに、何ができる?そんな君を、俺は――」

 風音さんの声を最後まで聞くことはできなかった。跳ね上がる水しぶきと、ヘッドライトの光を浴びる。

「…………!!」

 甲高いブレーキ音と、海音さんの悲鳴が聞こえる。激しい衝撃がして、俺の体が地面に叩きつけられた。

 ブレーキ音が止む。

「そんな君を、俺はずっと救ってやりたかった。気づいて欲しかった。自分の価値にね。過去にとらわれず、前を向いて欲しいんだ」

 雨音に紛れて風音さんの声は聞こえない。

「どうか、もう『生きる必要がない』なんて、言わないでほしいな」

 ガシャン、という金属音が鳴り響く。

 それでも、彼が何を言っているのかは、なんとなく理解できた。


 俺は、水たまりの中に横たわっていた。

 雨で服が濡れて、気持ち悪い。でも、今はそんなことを言っている場合じゃない。

「海音さん、海音さん?」

 俺はゆっくりと体を起こす。幸い、何処も怪我していない。

 もちろん、これは運が良かったのではない。

「怪我してないようで、なによりだ」

 聞き覚えのある声がした。

 俺のよく知っている、海音さんの声だ。

「海音さん!怪我はありませんか?」

「大丈夫。それより、離れたほうが良さそうだ」

 海音さんが、俺の手を引っ張る。急停止したトラックの運転手が、不審そうな目で俺たちを見ていた。

 確かに、早く退散するのが得策だ。

 大人しく引っ張られながら、俺はもう一度事故現場を見た。

 そこに風音さんの姿はなかった。


「風音さんは、どこに行ったんですか?」

 駅までの道を歩きながら、俺は聞いた。

 海音さんは、いつもの、俺がよく知っている淡々とした口調で答える。

「あいつなら、消えた。昇天した、っていうのが正しいのか?」

 全身びしょ濡れなのは海音さんも同じだけど、気にしているようには見えない。

「『やればできるじゃないか』って、嬉しそうに笑っていたよ。『流石、俺の弟だ』だって。今まで、僕を褒めたことなんてなかったのに、変な話だろ」

 そういう海音さんだって、心なしか嬉しそうだ。憑き物が落ちたような、スッキリした表情をしている。

「僕の母親は、ずっと風音の名前を呼んでいた。『あんたじゃなくて風音が生まれたら良かったのに』って。それを風音は、僕の中で聞いていた。だから風音は、自分の名前を知っていたんだ。そして、風音も傷ついていたんだ」

 海音さんが、雨の弱まった空を見上げる。

「俺の弟がバカにされているのを、どんな思いで聞いていたと思うんだ――最後の最後に、そう言っていたよ。だから、僕も、バカにされないように、強くならないといけないんだろうな」

「……そうですね」

 俺は、風音さんに言われたことを反芻する。

 俺は逃げていた。父親が死んだということを認めたくないから。愛されて育ったのに、そのことを忘れてしまっていた。

 母親を……母さんを愛さなかったのは、俺の方だった。

どれだけおかしくなってしまっても一緒にいてやるべきじゃなかったのか。

それができたのは、俺だけだったのに。

「俺、母さんに電話してみようと思います。長い間、口を利くことも避けていたから、寂しがっているかもしれません」

 もう一度、向き合ってみよう。

 また幸せな家庭を築けるように。自分が生きている必要があると自分で思えるように。

 曇っていた心が、スッキリと晴れていくのを感じる。

 そして俺は、さっきから気になっていたことを聞いた。

「海音さん、本当は、俺のこと、どう思っているんですか?」

 風音さんは、大嫌いだと言った。その後に、安らぎをくれる存在だとも言っていた。

 だから、ちゃんとした答えを本人から聞きたかった。

 海音さんは笑みを浮かべて答える。

「教えない」

 いつか見たような楽しそうな表情だった。

 俺はそれ以上何も言わずに空を見上げた。

 雨は、いつの間にか降り止んでいた。




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