5 川のほとりで
「……分、死亡を確認しました」
そう言って、白衣の男は、寝台で横たわる彼の顔に、白い布を被せた。
「うう、嘘よ、うそ、マサオ、マサオ!」
中年の女が、号泣している。
涙と鼻水が、顔を覆い化粧を崩していく。ぼさぼさに乱れた髪が、頭を動かすたびに揺れていた。
「先生、どうして、どうしてうちの子は、どうして!」
女は、白衣の男に取りすがった。
目の前の光景を信じたくないのであろうか、ただひたすらに答えを欲している。
「お母さん、落ち着いてください。それは後でご説明しますので」
「いやああーっ、マサオー!」
女の悲痛な叫びが、部屋に響いた。
東京都内にある、とある大きな病院。
この病院に数日前、一人の男の子が急患として運び込まれた。
時刻は夕方に近く、交通事故による骨折と内臓の損傷が疑われ、すぐさま緊急手術が行われて男の子は一命を取り留めた。
連絡を受けて、家族が駆けつけた。
その頃には、男の子は処置室を出て、緊急病棟へと運ばれていた。
不安そうに見守る彼らの目の先には、配線や管に繋がれた、痛々しい姿の男の子がいた。
医者は言った。
『息子さんは、助かりました。このまま安静にしていれば、すぐに良くなりますよ』と。
だが、それは覆された。
時間がいくら経っても、男の子は麻酔から目覚めなかった。
母親は、何度も声をかけた。
朝の、寝坊している我が子へ呼びかけるように、何度も何度も声をかけた。
それでも、反応は無かった。
ここへ来て、医者たちは慌てはじめた。
家族には、一言だけ伝えた。
『覚悟してください』と。
男の子には、厳戒態勢が取られた。
血圧、体温、心拍数、様々な数値を計測する機器が取り付けられた。
点滴の数が増えた。両腕には数本の管が繋がっている。
呼吸は、弱々しいがある。懸命に、生きようとしている呼吸だった。
医者が血圧を何度も測る。実測の数値と、機器が弾き出す数値とを、見比べている。
看護師たちが何かを話し合っている。
医者は、運び込まれた時からの血圧の数値を確認していた。その時だった。
男の子に繋がっている機器が、けたたましい音を鳴り響かせた。
看護師が、機器のモニターを確認した。
体温を示す数値が、有り得ない乱高下をしている。
三十七度を表示したかと思えば、次の瞬間には、ゼロになり、さらに二十度だの、本当にこの温度なのかと、疑うような数値が、モニターに映し出された。
ただちに、体温を計測する配線は切られた。
機器は、再び静穏を取り戻した。
しかし、今度は血圧の数値が異常を示した。
医者は、機器の数字を無視して、男の子の身体から直接血圧を測った。
そして首をひねった。
モニターの数字と、実測の数字に、尋常ではない差があったからだ。
医者は脈を診た。
脈は、無かった。
思わずモニターを見た。そこには、正常に心拍数を映す画面がある。
男の子の胸を手で触れ、医者は叫んだ。
病院の精算室に、テレビが置かれていた。
画面には、淡々と記事を読み上げるキャスターの姿が、映し出されている。
『――次のニュースです。○○日に、△△駅前で起きました交通事故で、警察は五人を死傷させた罪で、現行犯逮捕した自称神正義容疑者六十九歳を、危険運転致死傷罪で再逮捕することを決めました。調べによりますと、神容疑者は当日、危険ドラッグといわれる脱法ハーブを使用して、酩酊状態でトラックを運転していた疑いです。さらに容疑者の自宅を家宅捜索したところ、大麻を使用していた形跡が見つかり――』
「□□番の方、四番窓口へお進みください」
ニュースキャスターの言葉も途中に、番号が呼ばれた。
「あっ、はーい」
中年の女は、真っ赤に泣き腫らした顔を隠しつつ、指定の窓口にて精算手続きを進めていた。
ソファには、難しい顔の中年男が、スーツ姿のまま腰掛けている。
彼は、テレビから流れる一連の事件の報道に、顔をそむけていた。
「お父さん」
女が、精算を済ませて、男の隣に腰掛けた。
「お金、済みましたよ」
「うん」
男は、短い言葉しか発しなかった。
何かを堪えているのだろうか、肩が震えていた。
壁に掛けられた時計が、時を刻む音を出している。
一秒が二秒、三秒が四秒。時は変わらずに進み続けている。戻ることは、ない。
「もうじき、車が来るそうよ、それまで、あの子の側にいてあげましょうか」
「……うん」
男の目から、光る何かが一粒落ちた。
病院の裏手にある、隔離された建物の一室に、二人はいた。
何も無い、がらんどうの部屋に、線香の置かれた台がある。
部屋の真ん中には、白い布で包まれた、少し前まで人だったものが横たわっていた。
その側には、男と女が、寄り添うように座っていた。
「お父さん」
「なんだ」
「あの子――マサオはね、特異体質だったって、お医者の先生に言われたのよ」
女は、カバンから封筒を取り出し、中の書類を広げて見せた。
「特異体質?」
「そうなの、一万人に一人、いえ、もっと少ない確率でいる特別な子だって」
医者が言うには、二人の息子である、マサオは、体質が普通の人と違っていたというのだ。
マサオは、異様に静電気を帯びやすく、また身体に溜め込みやすい性質で、それによって、医療機器や薬が、正常に作用しなかったという。
産まれてから今までの生活の中で、おかしな事は起きなかったか。
例えば、パソコンや家電が、壊れやすくはなかったか。スマートフォンは皆と同じように使えていたか、冬場のドアノブを恐れてはいなかったか。
医者から発行される、様々な書類を受け取る際に、女はそう説明を受けていた。
「そういえば――」
男は、思い当たりがあった。
息子が、スマートフォンを持ち始めた最初の時に、壊れただのなんだのと、大騒ぎをしていた事があった。
あの時は、初期不良だったらしく、基盤が故障していたのだが、それも今思えば、静電気のせいで壊れていたのではと。
「とても珍しい症例だって、私たちのマサオは」
「マサオ……」
表で、車の止まる音がした。
崩れ去った白い建物がある。
そこを囲む形で川が流れており、その丸い石だらけの河原で、マサオは何者かに馬乗りにされていた。
マサオは、服を着ていない。下着すらもつけていない、全裸の状態だ。
「あーははは!やっとワシの仕事ができるわい」
マサオに乗っているのは、みすぼらしい、ボロの着物をまとった、ざんばら髪の老婆だった。
そいつが、山芋状に垂れた乳房をマサオの顔にぶつけている。
「おい、ウファ……っと、違う、奪衣婆、マサオの着物をよこせ」
老婆の横に、同じくボロ布を身体に巻き付けた、鬼のような角を生やした爺が、棍棒を手にして笑っている。
「ひゃひゃ、ほらよ」
老婆は、笑いながら、マサオから剥ぎ取った服を渡した。
爺は受け取った服を、葉のついていない、枯れ木の枝に引っかけた。
枝が、服の重みで大きくしなった。今にも地面につきそうなほどに、枝は曲がっている。
「おー、ようしなるな、ケンメ……じゃない、懸衣翁」
老婆が、驚いた声で言った。
「この若さで、この曲がりっぷり。こいつは相当の悪人じゃな」
爺は棍棒でマサオの身体をつついた。
だが、白目を剥いたマサオは、ピクリとも動かない。
「マサオは動きゃしないよ、ワシがたんまりと搾り取ったからねぇ」
老婆が腰を上げた。肉の無い、皮のたるんだしわだらけの股間からは、白い液体が流れ落ちている。
「奪衣婆も悪趣味だな、この小僧がそんなに気に入ったか」
「ああ、気に入ったよ。久しぶりの若い男じゃ、とことんまで可愛がって、ワシ専用の男娼にしてやるかの」
老婆が、マサオの頭を引っつかんで、彼の口に吸い付いた。
そして、力なく半開きだった唇をこじ開けて、音を立てて舌をねぶった。
じゅるじゅると、気味の悪い音が、爺の耳に入った。
「仕方が無いか、マサオも奪衣婆の乳を吸うていたし、おあいこじゃ」
呆れたように、爺は息を吐いた。
「さあさあ、マサオ、ワシの乳はうまいじゃろう?」
老婆が、しわしわの山芋状の乳房を、マサオの口にねじりこんだ。
そこまでされても、マサオは起きようともしない。行為の最中に、突如老婆へと変身したウファを見て、心が完全に折れていた。
「マサオ、可愛いのう、マサオ」
しわだらけの手が、マサオの頬を撫でている。
ここは、三途の川を越えたところにある、奪衣婆と懸衣翁の領域だ。
二人は、死者の衣服を奪い、衣領樹という木にそれを掛けることで、死者の生前の罪の重さを量るという。
マサオの現世の肉体は、既に荼毘に付された。
これから彼は、七日ごとに十王の裁きを受け、八大地獄のいずれかに行くことが決まっている。
マサオの虚ろな両目には、上空を飛ぶ、二羽のサラメーヤの鳩が映し込まれていた。