2 二人の男女
女が、俺の顔をじっと見ている。
「あなた、どこから来たの?」
そう言って、彼女の双眸が、俺の姿を上から下まで観察するように、動いていた。
俺は、疲労困憊なのと、正体も分からない女への恐怖感で何も話すことが出来ない。
ただただ、情けなく開いた口が、魚の如くぱくぱくと開閉していた。
「口がきけないの?」
女はそう聞いてきた。
「それとも、言葉が分からないの?」
そのどちらの問いにも、俺は返事をしなかった。
よく見れば、女の姿は長い黒髪に、薄手の着物を前会わせにした、まるで時代劇にでも出てきそうなものだった。
胸は、着物からはみださんばかりに、ぱつんぱつんと張っていて、動くたびに重たそうに揺れている。
俺の目線は、否が応でも目立つその部分に注がれたまま、離れはしなかった。
「もしかして、疲れているの?」
問いかけられて、俺はゆっくりと、そしてぎこちなく頷いた。
「ここにいたら危険よ、私と一緒に、町まで行きましょう」
ありがとうと言いたかったが、それは声にならなかった。
つっかえたように、うん、うん、と答えるだけだった。
俺たちは、森を歩いた。
頭上は無数の枝葉が密集しており、日光を遮られた草花は、思うような生長も出来ないらしく、足元は割と歩きやすい。
ただ、ふかふかの落ち葉と、枯れた枝に気をつければいいぐらいのものだった。
「わたし、ウファっていうの。あなたの名前は?」
突如、女は俺を振り返りながら、そう聞いてきた。
「えっ」
「名前よ、名前。あなたは名無しの権兵衛さんなの?」
「あっ、あの、俺、その」
俺はうろたえた。
初対面の女の子に名前を聞かれて、思わず動揺していた。
大体、俺は同級生の女の子とも、あまり話さない。
いや、あまりというか、全然話さないというのが正しいか。
高校での休憩時間や昼休みなんかは、気軽に話が出来る、男友達と一緒にいるのが、当たり前の世界だった。
女の子と話そうものなら、軟弱者だの、下心ありのドスケベ野郎と罵られるのがお決まりだからだ。
そんな状態だから、俺は、いつの間にか女の子と話すコミュニケーションすら、満足に取れなくなっていた事に気が付いていた。
ましてや、こんな森の中で二人きりで話すだなんて。
「もう、やっぱり言葉が通じていないのかしら」
「ち、違う、ちょっと待って」
「あら?」
「お、俺は、マサオ。言葉は、一応分かるよ」
多少、どもりながらも、俺は精一杯の笑顔を作って、そう言った。
笑顔でいれば、敵意がないのが通じるはず。
何かの漫画で見たのを思い出しつつ、俺の顔は彼女を見据えていた。
「なぁんだ」
彼女の口角が、吊り上がった。
唇の隙間から窺える、真っ赤な口と白い歯は、とても鮮やかで、そして印象的だった。
「言葉、分かるんじゃない」
そう言って、彼女――ウファは、くすくすと微笑んだ。
町は、割とすぐ近くにあった。
俺が思ってたほど森は深く無く、五分と歩かないうちに、俺の身体は日の当たる道らしきところに出た。そこから、あまり人通りがないだろう草の生えた砂利道を進み、岩の積み重なった丘を越えて、枯草の広がる荒野の中に、それはあった。
とはいっても、町というかは、村か、集落ぐらいの大きさではあったが。
俺は、ウファについて来いと言われて、村に足を踏み入れた。
村の周囲は、柵で仕切られていて、人が住んでいる建物自体は、とても現代のものとは思えない、みすぼらしい家ばかりだった。
田舎の、それも、超ド田舎にありそうな、茅葺き屋根の土壁で出来た、古民家と言う感じの、ボロ家が立ち並んでいて、東京育ちの俺には、ある種の異世界のようにも思えた。
「わたしの家は、こっちよ」
「え、え?」
「遠慮しないで、疲れているんでしょ?」
そうだった。
俺は、もう歩けないぐらいに疲れていて、へたり込んでいる所に、彼女と出会ったんだった。
すっかり、忘れていた。
「さあさあ、どうぞ入って」
ウファはとても嬉しそうに、俺を手招きしている。
彼女の家は、他のものと変わらない、茅葺き屋根の古民家で、重厚な屋根には、鳥の巣があるらしく、盛んに啼き声が聞こえていた。
「お邪魔します……」
少し照れながらも、そう言って中へと入る。
家の内部は、外観から想像できるような造りになっていて、土間に台所、少し上がって板の間に囲炉裏が見える。
「ただいま、誰かいるー?」
ウファが、奥の間に向けて声をかけた。
「上にあがるときは、足を拭いてね」
彼女は履き物の草履を脱ぎ、汚いボロ布で、埃まみれの足を拭いている。
こんな、ぺたんこの、クッションも何もない、サンダルとも言えないもので、あの石だらけの悪路を平然と歩いていたのかと、俺は衝撃を受けていた。
それに、今使っている布なんか、雑巾とも言いがたい、穴あきのぺらぺらのものだ。
今時、貧乏な家の子ですら、こんな生活などしていはいない。
ここは、本当にどこの世界なんだと、目眩がしてくる。
「足、拭かないの?」
ウファが、ボロ布を俺に差し出してきた。
正直、汚すぎて触りたくない。バイ菌だらけに決まってる。
俺がどうしようか、迷っていると、奥の間から、男が一人出てきていた。
「ウファ、おかえり」
男は、笑顔だった。
長い黒髪を後ろで団子にまとめている。衣服はウファと同じく、薄手の前合わせの着物だ。そして、胸元からちらりと見える筋肉が、異様にムキムキだった。
「ただいま」
ウファが板間に上がった。
そしてそのまま男の側で、何やら話している。
「こちらの方は、どなたかな?また、あれなのか?」
「そうよ、あれよ」
「では、また我らの出番なんだな」
二人は話を続けながら、時折こっちを見てくる。
「今度のは、かなり若そうだが、上手くいくのか」
「まあ、若いと失敗も多いけれど、きっと成功するわ」
ウファが、任せろとばかりに、自分の胸を叩き、そして豊かな胸が震えた。
それを目の前で見ていたはずの男は、胸など気にもとめず、真っ直ぐに俺に向き直った。
「私は、ケンメという名です。あなたのお名前を伺いたい」
男が正座の形で座り、そのまま頭をゆっくりと、深く下げてきた。
その横には、ウファも正座している。
「お、俺、マサオです」
俺は少し怯みながらも、正直に答えた。
「マサオ、ですね。はじめまして」
「あっ、はい、はじめまして」
頭を上げたケンメの顔には、笑顔が見えていた。
「ケンメ、マサオは疲れているそうよ、休ませてあげて」
「ああそうなのか、じゃあ床の用意をしてくるよ」
ケンメが、奥の間へと消えていった。
「マサオ、上がってちょうだい。寝間着を出してあげるから、着替えて休んでね」
俺は靴を脱いで板の間へと上がる。
家の中は、囲炉裏がずっと焚かれているせいか、妙に香ばしい臭いでいっぱいだ。
天井に見える梁や、部屋を支える柱なども、煙で燻されて、黒く変色してしまっている。
「はい、マサオ」
部屋の様子をきょろきょろと見ていると、ウファが俺に声をかけてきた。
「ん、なにこれ」
「なにって、寝間着よ。休むなら必要でしょう?」
彼女は、俺にその寝間着とやらを押しつけた。
しかしそれは、俺の知っているような服ではなく、今ウファが着ているような、ペラペラの着物のようなもので、さらに汚れとしわがついている。
「着ないの?もしかして、着方が分からないのかしら。わたしが手伝ってあげるわよ」
ウファが俺を見つめている。
胸に抱えた寝間着に押し上げられて、その豊かなものが寄せて上がっている。
俺は、顔が赤くなっているのを、ハッキリと自覚していた。
「い、いいよ、手伝わなくて。服は後で着替えるから、ありがとうっ」
とりあえず、礼だけは言い、俺は彼女から着替えを受け取った。
「ほんとうにいいの?遠慮しているの?」
ウファの吐く息が、熱っぽく、そして色を帯びているように見受けられる。
彼女の胸は、俺から見ても、とても魅力的だった。
そしてお尻も丸く、何故かくっきりと線が浮き出て見える。
これ以上、迫られたら、俺の理性は飛んでしまいそうだ。
ウファの口が、笑っている。
彼女の足が、一歩、俺へと近づいた。背筋に、言いようのない悪寒が走る。
その時だった。
「ウファ、用意できたよ、マサオをお通ししてくれ」
「あっ、はーい」
間一髪。
ケンメが声をかけてくれなかったら、俺はどうなっていたか、分からない。
あと少しで、俺は我を忘れるところだった。
俺は二人に礼を言い、そそくさと奥の間に入り、着替えをすること無く、敷かれた布団の中へと潜り込んだ。
床は板敷きで、布団もふわふわではなく、ぺったんこのせんべい布団だが、それでも何も無いよりかはマシだと、自分に言い聞かせて眠りにつくことにした。
隣の部屋からは、ウファとケンメ、二人の声が、聞こえていた。