1 ある日、森の中
東京都下、午後四時頃。
「はー、このスマホ使いづらいわー」
そんな事を呟きながら、俺は細い通学路を歩いていた。
高校からの帰り道は、夕方の買い出しに行く人と、帰宅する学生たちの姿が多く、普段通り賑やかだ。
行き交う車を横目で眺めつつ、俺は駅まで繋がる道の、人一人通れるぐらいの細い歩道を足早に進む。
街路樹の銀杏並木は、黄色に染まり、歩道や車道に、その色づいた葉を大量に降り積もらせている。
落ち葉は掃除される事もなく、ただただ風に吹かれて、またどこかへと飛び、そして人の足に踏まれていく。雨の日なんかは、それはそれは滑りやすくなるのだが、町の人は誰が転ぼうがお構いなし。勝手に飛んで、勝手に踏まれろとばかりに無関心だ。
俺は、左手にある、買い替えたばかりのスマホを見る。その画面は、友人との連絡用アプリの入力画面のまま、その動きを止めていた。
この時期は、手指が乾燥してきているのか、画面をタップしても反応がないか、触ってもいないところを触ったと、スマホが勘違いばかりする。
その動作が、たまに起きる程度であれば、俺も少しは我慢が出来るのだが、こうも頻繁に誤動作を繰り返していては、画面を壊したい衝動に駆られそうになる。
「せっかく、新機種にしたばかりだってのに」
俺は、電源ボタンを押し、スマホを無造作にポケットに押し込んだ。
駅前の交差点。
ここの信号は、呆れるほどに長い。
大通りが幾つも通っているせいか、歩行者と車が完全分離するよう、スクランブル交差式になっているからだ。
俺もここで立ち尽くしてから、だいぶ時間が過ぎている。
赤信号の目盛りは、なかなか減ろうとしない。
信号待ちの歩行者は、皆手持ちぶさたで、スマホをいじり始めたようだ。
「あっ」
その時、俺のポケットが震えた。
――メールかな?
そう思い、ポケットからスマホを取り出す。
電源ボタンを押し、ロックを解除する。
案の定、画面には、メールが届いた事を示すアイコンが出ている。
――誰からだろう。
お知らせ画面をタップして、メールアプリを起動させた。
――なんだ?
俺は、そこに表示された文字に、目が釘付けとなった。
『みつけた』
友人が、イタズラで送ったのかと、差出人を見ようとしたが、それは叶わなかった。
俺の意識は、そこで途絶えたからだ。
次に俺が目覚めたのは、真っ白な空間だった。
上を見ても、横を見ても、境目のない白が、延々と続いている。
「ここは……」
なんだか、全身が酷く痛む。身体が地面の上で横になっているようだが、その地面は、ふわふわと柔らかい感触がしている。
「おっ、気が付いたか」
聞き慣れない男の声が、した。
俺の視界の中に、その姿が見えた。
白髪の交じる、長い黒髪だが、その髪は非常にきついウェーブがかけられている。
しわの目立つ額の部分には、ヘアバンドとも言いづらい、細い紐が頭部を一周し、口にはタバコを咥えた、初老の男だ。
「なんだ、あんたは」
俺は、痛む身体を押して起き上がり、その不思議な男に、声をかけた。
「俺?俺は神だよ」
男は、そうのたまうと、口から白い煙をぷかりと吐いた。
「はあ?なんだそれ」
「ううん、信じてないな」
男が、俺の顔を覗き込んだ。
風呂に入っていないのだろうか、すえた臭いがする。
「信じろよぉ、俺はなんだって出来るんだぜぇ」
そう言って、男はタバコを手に取ると、俺の顔に煙を吐きかけた。
「うっ、くさっ」
反射的に、俺は顔をそむけた。
「なぁにが、臭いって?いい匂いだろうが」
男の口から放たれる煙は、タバコとは少し違う臭いがしている。
香ばしいような、甘いような、それは男の身体から発せられる体臭と混ざって、得も言われぬ悪臭だ。
「お前、頭が悪そうだから、教えてやるよ」
不愉快な事を言うジジイだと、俺は思った。
「死んだんだよ、お前」
ジジイが、笑っている。
口角が吊り上がり、肩が細かく震えていた。
「は……?」
「覚えていないのか?お前は、信号待ちの交差点で、トラックに撥ねられたんだ」
俺の心臓が、ドクンと大きく脈打った。
いつもの、下校途中の駅前の交差点で、俺はそこにいた。
そこへ、誰かからのメールが来て、俺はスマホを取り出した。差出人は不明、本文も意味不明な言葉が、ただ一つのみ。
どういうことかと、顔を上げた。
もうその時には、こちらにハンドルを切る大型トラックの姿が、俺の目に入り込んでいた。
「う、嘘だ」
絞り出すように、声を出した。
――死んだ?俺が?でも、俺はここにいる。言葉も話せるじゃないか。
頭が、混乱している。
「お前には、本当に悪いことをしたと思っている。だから、お前にチャンスをやるよ」
ジジイが、またタバコを咥えた。
自分を神と言う割には、服装はそれらしくない。首回りが伸びきったTシャツに、人の顔がプリントされているし、ハーフパンツに、サンダル履きのラフすぎる格好だ。
うさんくさすぎる。
俺は、回る頭をなんとか制御して、ジジイを睨み付けた。
「そう睨むなって、生き返らせてやるからさ。マサオ」
不意に名前を呼ばれて、俺はドキリとした。
「なんで、俺の名前を――」
「俺は神だぜぇ?これぐらい、朝飯前だっつーの」
言葉を遮るように、ジジイはそう言い、またも白い煙を吐いた。
煙は大きく膨らんで、俺の身体を取り囲んだ。
尻が、浮いた感じがした。
「んじゃ、頑張れよ――」
ジジイの声が、遠くに聞こえる。
いつの間にか俺は、空中高く放り出されていた。
気が付いた時には、川のほとりに、俺はいた。
寝転んだまま、空を見上げる。まるで夕方のような赤い色あいだ。
「ここは、どこだ?」
俺はゆっくりと起きた。さっきまでの身体の痛みは、どこにも残っていない。
目の前には、水の濁った大きな川が流れている。
向こう岸が、霞んで見えている。結構な幅がありそうだ。
「多摩川……、じゃないよなぁ……」
辺りを見回すも、人の気配がない。俺のいる場所は、丸い石ばかりが転がる河原だった。
俺は石を一つ掴み、川へと投げ込んだ。
石は、放物線を描いて飛び、そのまま霞む川面に向かって消えた。
「あれ?」
おかしいと、思った。
水の音が、聞こえなかった。
聞き逃したのかと、俺は数度、石を投げた。
しかし、結果は全て同じ。石が水に落ちる音は、どれ一つとしてしなかった。
気味が悪かった。
そのうちに、俺は何かに見られてることに気が付いた。
川の濁り水の中に、光るものが見える。
光るものは、横に二つ並んで……いる。
「ひっ!」
俺は、それが何であるのか理解をし、川に背を向けて走り出した。
一刻も早く、ここから逃げ出さないといけないと思った。
水面を波立たせて姿を現わしたものは、人よりも巨大なワニだった。
俺は、当て所も無く彷徨わざるを得なかった。
あの川には、近づけない。
知らずに寝転んでいたとはいえ、命の危険があるような所には、二度と戻りたくなかった。
川の周囲には、森が広がっている。
上を見上げれば、木々が緑の葉を生い茂らせているせいか、日の光は僅かにしか地面に届かない。
だが、そのお陰で下草が生長せず、森の中は比較的歩きやすい状態だ。
「どうしたら、いいんだよぉ……」
歩き疲れた俺は、木の根に腰を下ろした。
「もう、家に帰りたい……」
泣きそうだった。
俺は、いつも通りに下校しているはずだった。
それなのに、今いる場所は、見慣れた東京の風景ではない。
川と森があるが、たまの帰省で行った、祖父母の田舎の風景とも違う、全く記憶にない場所だ。
動くのを止めた俺に、重い疲労感がのし掛かる。
「……あれ?」
その時、力なく遠くを見ていた俺の視界に、何かが見えた。
「ひ、人……?」
森の奥深くで、人影が動いている。
それは、こちらに気が付いたらしく、徐々に近づいてきた。
「どうしたの、あなた?」
心配そうな顔で、俺を見るそいつは、女の姿をしていた。




