非日常の始まり
「やっぱり駄目だ! ここも開かねえっ!!」
男子生徒はそう怒鳴り、力任せにドアを殴りつける。
非常口も含め、知りうる限りの出入り口は全て閉じられている。ノブを回そうが引き戸を引こうが扉は一向に動く気配を見せない。だがいざ外に出れたとしても何処に行けばいいのか?
【県立田園高校】この学校はいつの間にか理由も分からず自分達が知る世界より隔離された。
分かる事と言えば教室や廊下の窓から見える外の景色。何も見通せない延々と続く夜よりも遥かに深い闇。それと時折り現れる……
「お、おい、ヤバイ! またアレが来たぞ!!」
友が示す先にはゲル状の濁った塊が廊下の蛍光灯に照らされている。
ナメクジのようにぬらぬらと粘液の跡を残しこちらに近づいてくる内に、その塊に採り込まれた物が見えてきだす。
恐らくうちの生徒だった物だろう。今では男か女かも分からず、ただ溶けながら浮かんでいるだけだが。
「おい、こっちだ……って、うわっ!!」
走り出そうとする友の声が悲鳴に変わる。友の足元には虫と呼ぶにはあまりに大き過ぎる、見た事もない化け物がその鋭利な顎と足で喰らい付いている。
「た、助け――――!!」
悲鳴を聞きつけたかどうか理由は分からないが、瞬く間に多数の虫の化け物に群がられる友。喉を喰い破られ悲鳴を上げる事も儘ならぬ内に人の原型を留めぬモノに成り果てた。
腰を抜かし、尻もちをつきながらも這々の体でその場から逃げ出す男子生徒。
「何なんだよ……どうなってんだよコレ……」
一緒に逃げていた友の突然の死。いや、突然ではない。この僅かな時間の間だけで校舎内で幾度と無く見た風景だ。
そろそろ自分にも訪れるのだろう、次は自分の番だ。生き残った生徒は絶望に打ちのめされ涙を流し廊下に崩れ落ちる。
死を覚悟した男子生徒、そんな彼の耳に惨劇とはかけ離れた会話が入ってきた。
「それでさぁー、俺そいつに言ってやったんだ。『それは私のおいなりさんだ』ってな」
「そのシチュエーションに至るまでの出来事は絶対喋らなくていいからねー」
「私も興味なんか全っ然ないですねー(落ち着け私! 興味ありそうな顔したら、この二人に何言われるか分かんないから!!)」
『おい、そんな事より食堂はまだか?』
「もう少しの辛抱だ。俺はナベさんが我慢の出来る犬だと信じてるぜ」
『犬呼ばわりするな! この姿は貴様の所為だろうが!!』
たった数時間しか経ってないのに、遠い昔の事にすら感じる日常の会話。
今までの出来事は夢だったんじゃないか? しかし男子生徒の目に映る外の景色は暗い闇のまま。
「さっき、食堂誰もいないんじゃない? って誰か言ってなかった?」
「そ、そうですよ……早く体育館に避難したほうが……」
同学年では見覚えのない男子生徒一人と女子生徒二人、多分一年か二年の生徒だろう。
それと明らかに場違いな柴犬のような子犬。何か喋っていた気もするが……
「あっ! おい、お前ら、そっちは――」
口から言葉を振り絞った頃には既に遅く、まだ喰い足りないのか、多数の虫の化け物がその男子生徒に向け飛び掛っていた。
「おいおい、体育館は逆方向だぜ? この俺にUターンしろと? この過去を振り返らない男、白井に辿った軌跡を見つめ直せと?」
「いや、意味分かんないし」
「そ、それよりまた誰か襲われたみたいですね……血が凄い事に……」
白井と名乗った男子生徒は足に喰らい付こうとする虫がいれば踏み潰し、飛び掛る虫は叩き落とすか捕まえて遠くまで放り投げ、目の前の怪異に対し、さも当然の如く何事もなかったように廊下を進んで行く。
あれ? あの虫そんなに強くないのか?
呆然と三人と一匹の後ろ姿を見送る。姿が見えなくなった頃には、また新たな虫の化け物が向かって来た。
友の敵討ちだ! 先ほどの下級生がやった事を真似て踏み潰すように足を振り下ろす。
しかし足の下にいる虫は潰れるどころか、逆にその鋭利な顎で男子生徒の足を食い千切る。
廊下に響く悲鳴。助けを求める声を挙げたが、その目に映ったものは助けではなく、廊下を這う多数の虫と、その向こうから飛んで来る羽虫の化け物だった。
何故このような惨劇が起きているのか? 校内にいる者は皆考えたが答えに至る者はいない。ではいつ自分達の日常が変わったのか?
話は今より少し遡る。時間で言えばちょうど三時限目の授業が始まった頃にこの学校は悲劇の舞台へと変わった。
「お前ら早く席に着けー」
授業で使う教材を持ったジャージ姿の教師、シャツの裾がいつも半分出てるこのクラスの担任小林先生、通称【コバセン】が教室に入ってくる。
いつも機嫌悪いか二日酔いでしんどそうな様子の男だが、今日はいつもに増して雰囲気がおかしい。
「コバセン、あいつ肩に何乗っけてんだ?」
「なにアレ、マジウケる。てか全っ然かわいくねーし」
クラスの生徒全員がコバセンの肩に注目する。それもその筈、彼の肩には奇妙な猿に似た生物が乗っていた。
当の本人はそれに気付いておらず、皆が何を騒いでいるのか不思議に思っている生徒もいる。全員にその奇妙な猿が見えている様子ではなかった。
「お前ら何見てんだ?」
コバセンは生徒の好奇の視線に晒され、多少イラついているようにも見える。そんな騒々しくなり始めた教室内に“ゴキッ”そんな不快な音が響く。
教壇には体は前を向いたまま不自然に首が捻じれ後頭部を見せるコバセン。その頭上には薄ら笑いを浮かべる奇妙な猿が座っている。
力なく膝から崩れ落ちるコバセン。奇妙な猿はコバセンが動かなくなった事を確認すると教卓前の女子生徒の机へ飛び移る。
未だに何が起きたのか状況判断が追いつかない生徒達。奇妙な猿は指から生える鋭利な爪で一閃、女子生徒の首を切り落とす。首が床に転がると同時に動脈から勢いよく舞う血飛沫。
「イヤァアアア――ッ!!」
一人の女生徒の絶叫と共にクラス中がパニックに陥る。日常からかけ離れた出来事に泣き叫ぶ者、事態を飲み込めず呆然とする者、我先にと教室から逃げ出す者。ものの一、二分の間に教室に生徒の姿は無くなった。
校舎のあちらこちらで聞こえる悲鳴。それは惨劇が自分達の周りだけでなく至る所で起きていると理解させた。
皆の願う先はひとつ、校舎からの脱出。昇降口から出ようとする者、窓を開け脱出を試みる者、その全てが徒労に終わる。外に通じる場所は施錠されていないはずなのに全て開かない。ならばとガラスを叩き割ろうとする者もいるが、椅子を叩きつけてもヒビどころかキズひとつ付かない。
外の景色は見えるのにそこに届かない恐怖、それらをさらに新たな恐怖が上塗りする。
夜の帳が下りるように自分達の見慣れた日常の景色が闇に包まれる。世界が闇に包まれたのか、この校舎だけが包まれたのか知る者はいない。誰かが点けた蛍光灯だけが廊下と立ち尽くす生徒を照らす。
そんな出来事も露知らず二階男子トイレの個室から姿を現す男【白井玄米】17歳
彼は3時限目が始まる直前に腹痛を覚え、級友に向かい『ウンコしてくる』とスタイリッシュに告げ、今に至る。
授業の開始を告げるチャイムはとっくに鳴り、トイレは人の気配が一切感じられない癒しの空間へと変わり始めた。
腹痛と便意も治まり優雅なひと時を迎え始めようとした頃、それらを全てブチ壊す悲鳴が響き渡る。
どこぞの馬鹿がエキセントリックな悪戯でもかましたのか? まあ、そんな事する馬鹿はウチの生徒会長ぐらいだろうけど。




