体育館の出来事
田園高校養護教諭【夢日理香】彼女は今、体育館内での現実を前に狼狽えていた。
少し前から起きている異常事態、校内放送と教職員の誘導による体育館への避難。喧騒に包まれる体育館の至るところで聞こえるすすり泣く声。年齢を重ねた教師でさえ動揺を隠せていない、大人に成りきれていない生徒達なら尚更だ。
夢日自身も校長の指示により体育館で負傷者の治療に当たっていた。
次々と運ばれてくる負傷者。まだ最初のうちは生徒同士の接触、転倒、かすり傷程度だったものが時間が経つにつれ決して浅くない裂傷、骨折などの重傷に変わっていく。経験などある訳ないが、さながら野戦病院の有り様だ。
そして現在では応急処置で賄える許容を超えている。
目の前で横たわる男子生徒の肘より少し上の箇所に棒を挟んだ状態で布を巻く。その棒を回す事で出血を止める止血帯法と呼ばれるもの。自分の腕時計を確認して布に時間を書く。
「13時30分、今から30分経ったら一度棒を緩めて血を循環させる。出血が止まってなかったらもう一回同じ事を繰り返して。私は次の人を診るから、後はお願いね!」
保健委員の女子生徒に後の処置を任せる。
いや、任せたんじゃない、私は逃げたんだ。
今、処置した生徒は今すぐにでも病院に連れて行かなければいけない状態だ。なんせ布を巻いた箇所の先に有るべき筈の腕がない。ここでどうこう出来る話じゃないんだ。
かれこれ3時間以上、外部との連絡が取れない状況が続いている。先ほどの男子生徒に限らず緊急を要する負傷者は他にもいる。助けてあげたいのはやまやまだけど手段がない。
顔を押さえて蹲る女子生徒を診る。顔の左半分が爛れ、眼球は白く濁っている。間違いなく見えていない、失明している。連れ添っている女子生徒に聞けば、得体の知れないゲル状のものに体液の様なものを浴びせられてこうなったと言う。
……言っている事の意味もわからなければ処置の仕方もわからない。とにかく患部を綺麗な水で流し、クーラーボックスから保冷剤を取り出す。
「これをタオルで包んで患部を冷やして。痛みが酷くなるようだったらまた声を掛けて」
また次の治療をするという体で女子生徒を後にする。
無理だ、応急処置にすらなっていない。すぐに病院で精密検査を受けなければいけないレベルだ。万が一毒があればどうにもならない。
もう嫌だ、逃げ出したい。
こんな気休め程度の治療を続けてどうしろと? こんなに痛みを堪えて苦しみ続けてまともな治療すら受けられない、さっきの子達も死んだほうがマシだったんじゃないか?
いや、この状況が続くようなら遅かれ早かれみんな、さっきの子達と同じになるだろう。
校舎内は化け物がうろついているとみんなが声を揃える。それに誰がこの体育館が安全だと言った?
体育館入口の扉が開き、二人の男が入ってくる。この学校の校長と教頭だ。二人は外部との連絡を取る為、いろいろと試みていたようだが巧くいったのだろうか?
数人の教職員が二人に話を伺う為に近づく。だが、声を掛ける前に二人の頭部は風船が破裂するように爆ぜた。何が起きたのか理解出来ず、付近の教職員も呆然と立ち尽くす。
「――さあ、選別の時間だ。抗えねえクズは死んじまえ」
体育館内の一箇所に距離を置いた人の輪が出来る。輪の中心には頭蓋や脳漿を撒き散らした頭部のない二人の男。
生徒の中には泣き出す者や嘔吐する者までいる。勿論、教職員を含め誰一人として輪の中心には近づかない。
生まれて初めて人間の死を間近で見た者も多いだろう。それ以前にこんな風景は普通に生きていれば、まず見る事はない。
それは夢日も同様だ。近しい者の死を看取った事はあっても惨殺の現場を目撃した記憶はない。周り同様に恐怖に足が竦む。この状況を前に平然と出来るのは“心が壊れている者”だけだ。
先ほどから付き纏う逃げ出したいという気持ちに、少しでも気を抜けば泣いて蹲っていたいという恐怖。だがそれを子供達の前では大人であれというプライドが凌駕させる。
とにかく、更なる混乱を招く前に「生徒の目の届かない場所へ」そう周りの教職員に声を掛けようとした時に、
「う、うわぁあああっ!!」
「何でっ! アレ生きてるのっ!?」
二人の遺体は何事もない様に立ち上がった。
得体の知れないものを前に蜘蛛の子を散らす様に崩れる人の輪。体育館の入口付近には血を撒き散らしながら立つ異常な二つの死骸と身動きの取れない重傷者だけが残された。
誰もが重傷者を気遣う様子がない。正確には皆、校長と教頭だったものしか見ていない。
出来の悪いB級ホラーならこのまま襲い掛かってくるところだろう。だが死骸は作り物の映画とは違い、そのままの姿で襲ってくる事はない。神様が『それじゃ面白くないだろ?』とでも言っているのだろうか。
校長だったものは体内に残る血を噴出しながら膨れていく。逆に教頭だったものは幾分スリムとなったが、体毛が伸び骨格も人間のそれとは変わっていく。
体育館に二匹の化け物が姿を現した。
「おう、お前ら生きてたか。食堂やってなかっただろうが」
化学準備室で捕獲した二名の女子生徒(仮)を体育館へ輸送する最中に見覚えのある男子生徒に声を掛けられる。
「誰?」
「1時間ぐらい前に廊下ですれ違った人ですよ? 親切に声掛けてくれたじゃないですか」
興味がないから憶えてないのか、単純に頭が悪いのか、古志が呆れ半分に白井に説明する。
「三年の芦原先輩ですね?」
「パイセンチーッス!」
吉良は知っているらしく、佐々は乗っかっただけだろう。
「そっちのおぶさってる奴、気を失ってるだけか。早く体育館連れてってやれ、夢日先生がいるはずだ。……いや、俺も一緒に行こう。男二人で五人守っていくのは流石にキツイだろ」
「男前だなパイセン!」
「カッケーなパイセン!」
「ぶん殴るぞ、お前ら」
古志と吉良の二人は安著した。彼が最近見た男の中では唯一まともだった事、気遣いが出来る人間であった事に。
「それから、まあ……何だ、その……ちょっと聞きてえんだが、それ何だ?」
芦原の視線は完全にビブロスに向いている。全員が慣れて完全に忘れきっていたが、他の人間はそうではない。ナベリウスは黙っていれば柴犬にしか見えないが、ビブロスはそうもいかない。
「不思議系ドッグのナベさんと料理長のビブロスだ。あとコレがみんなの玩具、バ会長の佐々だ」
「バ会長は知ってる。その豚も化け物なのか?」
『失敬な、あのような低俗な魔物如きと一緒にしないで頂きたい。我が名はビブロス、魔界の料理人です』
目を見開き、驚きを隠そうともしない芦原。まあ今までが秋田を含め異常だっただけでこれが普通の反応だろう。古志と吉良の二人はまたしても当たり前の反応に胸を撫で下ろした。
「やべえ、あんたそのフォルム、マジ気合入ってんな! おまけにそのナリで料理人やってるとか半端じゃねえよ、ビブロスさん!!」
やっぱり駄目だったかぁ。まあ、世の中そんなもんよね、と二人の心は一気に冷めきった。




