王国
ここは王国の国都であるハイファウム。人口百二十万を抱えるこの都市は、世界最大の規模を誇る巨大都市だ。
王国領の南北ほぼ中央から東に位置し、西の魔国領、南の連合王国領から遠く距離を開けている。
故に防衛に適したこの城は住民、いや王族の安全と引き換えに、魔国、連合王国との疎遠に拍車を掛けていた。
街の中央に王城を構えるハイファウムは、方形に広がる高さ十メートルの城壁に四方を囲まれるが、その堅固さは世界屈指を誇り、城壁一片の長さは三kmにも達している。
この安全な城壁の内側には中央区と呼ばる高級住宅街が広がっており、威厳と城門が精神的に、物理的に平民の入城を悉く阻んでいた。
中央区の東西南北に据えられた鉄製の門は高さ五メートル、幅五メートルもあり、その重厚な居住まいが王城の荘厳さ、中央区の華やかさを一層引き立たせる。
更に城壁の外には幅五メートルの水路に囲まれた、王城を中心に半径十kmにも及ぶ居住区、商業区が立ち並び、それぞれ北東の第一区から北西の第四区まで分けられている。
そして水路の外には、半径二十kmに達する農業区が広がり、その外周は高さ三メートルの防壁が作物と家畜の安全を申し訳程度に守っていた。
この人間の国を治めるのはバルタザール・ケーニヒ ・フォン・ラスカ=シューラ、バルタザール三世国王だ。
人相は厳つく鍛え上げた体は六十歳の衰えを一切見せない。彼はその苛烈な本性を温厚という名の仮面の下に隠し、見た目以上の厳しさを表に出すことはなかった。
玉座の間でその象徴である玉座に座す国王が、眼前に立つ宰相、セバスティアン・フュルスト・フォン・メレンドルフに語り掛ける。
「そろそろ朝貢の時期だな……宰相よ」
「準備は出来ております。陛下……」
セバスティアンは国王を憐れむ。決して口には出せないが、僅か二つしか違わない陛下がまるで年嵩の、それも大分離れた老人のように見えるのだ。
山積する問題への心労は察して余りあるものがあり、国王の眉間に刻み込まれた消えない皺がその苦悩を如実に物語っていた。
王国はバルタザール三世の祖父、そして父が興した新興国だ。
百年前の群雄割拠の時代、祖父のバルタザール一世はハイファウムより東の、山に囲まれた辺境にある小国、ドゥーインスの王であった。
当時はハイファウム、ルージュスパ、ロンゲル、ブレノーアイの各国が鎬を削る戦国の世であったが、辺境の王であるバルタザール一世はハイファウムへの忠誠を誓うことでその命脈を細々と繋いでいた。
時は流れ今から六十年前、父であるバルタザール二世が第一子、つまり現国王を授かった時、そしてバルタザール一世の妻である祖母が亡くなった丁度その時、バルタザール一世は突如として軍を進める。
だが軍勢は千にも満たず誰からも集団自殺と蔑まれた進軍は、寡兵の鎧さえも揃えられぬ惨めなものであった。
しかしバルタザール一世は世間の予想を大きく覆すことになる。
バルタザール一世が何処からともなく連れて来た一人の男が、当時一重の城壁しかなかったハイファウムをごく少数の精鋭で急襲すると、堅固と思われていた城を瞬く間に攻め落としたのだ。
幸運にも祖父の軍勢は地の利を得ていた。
東の端の山間を拠点としていたドゥーインス。更なる東に広がるのは広大な海であり、背後を突かれる心配は皆無であった。
だがバルタザール一世は不幸にも、ハイファウム落城の直後に一命を落とす。
死因は未だに不明ではあるが、当時の側近の話ではその死に顔には醜悪な笑みが浮かんでいたという。
次いでハイファウムを拠点とした子であるバルタザール二世だが、父の喪も開けぬうちにその身に厄災が降りかかることに。
突然の電撃戦に危機感を募らせた三国、ルージュスパ、ロンゲル、ブレノーアイの各国が、連合を組みハイファウムを目指して雪崩れ込んできたのだ。
だがバルタザール二世は襲来の報に接し、一時消息を絶つ。主不在の状況に騒然となる城内。ある者は信じ、ある者は構え、そしてある者は呪詛を吐きながら逃げた。
しかしバルタザール二世は、それから三日後に帰ってくる。一人ではなく、ハイファウム戦の功労者であったあの男と共に。
帰還したバルタザール二世は玉座に腰を下ろすと、降伏を受け入れ軟禁していた元ハイファウム国王、王妃の処刑を即断。バルタザール二世は二人の最後を静かに口の端を吊り上げながら、あの男と共にその光景を見守るのであった。
そしてその直後にバルタザール二世の妻であった母も亡くなる。
不幸が立て続けに降りかかるバルタザール二世。だが彼は妃の喪も開けぬうちに、更なる戦火に新生ハイファウム軍を晒すしかなかった。
攻め寄せる連合軍は総勢三十万にも上り、その威容は見る者全ての肝を冷やし足を竦ませた。
対して迎え撃つ新生ハイファウム軍は降伏兵を纏めたばかりでその数は五万にも満たない。
ブレノーアイ軍十万は連合軍の先陣となる形で即座に南から軍を進めたが、ルージュスパ軍は西から合流してくるロンゲル軍十万を待ち、南東のハイファウムに向け十万の軍を進める構えだけを見せていた。
迎え撃つハイファウム軍は二万の兵でハイファウムの守りを固めると、ハイファウムの真西に位置し一重の城壁で守りを固めるツェーロに向けて残り三万の軍を進める。
つまりは、南からの進軍を放置し、拠点での籠城戦を選んだのだ。
然したる抵抗もなく北上するブレノーアイ軍。その進軍は類を見ない速度に達し、正に無人の野を行くが如しであった。
ルージュスパ、ロンゲル両軍は合流したばかりで、まだツェーロにすら達していない。誰もがブレノーアイ軍の単独での一方的な勝利を信じて疑わなかった。
だが皆の確信は裏切られる。
ブレノーアイの王都に突如出現したハイファウム軍の別動隊一千が、主不在の王都を瞬く間に攻め落としたのだ。
別動隊を率いたのはバルタザール二世の実の弟であるエドワード。そして彼の傍らには戦争に行くとはとても思えない、黒い燕尾服に身を包んだ涼し気な男が佇んで居たという。
別動隊はブレノーアイ全土を瞬く間に降伏させると、城内に残された財宝と美女と今後の地位を餌に降伏兵を掌握。更にその降伏兵三万をすぐさま出撃させ、背後から元主君の率いるブレノーアイ軍十万に躊躇なく襲いかからせた。
ハイファウム軍との挟撃で壊滅するブレノーアイ軍。その戦場跡には元主君であるブレノーアイ国王とその主な側近の刎ねたての首が、無造作に打ち捨てられていたという。
ブレノーアイ軍壊滅の報がルージュスパ、ロンゲル両軍に漸く入ったのは、ブレノーアイ軍の高官の首が腐敗し白骨化した頃であり、その時には既に両国の王都は陥落していた。攻め落としたのはブレノーアイの留守居役であった貴族。その横には戦場に不釣り合いな紳士の存在も確認された。
そして降伏した両国の城兵がツェーロ手前に陣取ったままの、元主君等が率いる古巣の軍に先を競って襲い掛かった。一糸乱れず大物を貪り食らうその光景は、先のブレノーアイ軍壊滅を彷彿とさせたという。
バルタザール一世が軍を進めてから僅か一年。百年続いた戦乱はここに幕を閉じる。
終戦から間もなくして、バルタザール二世はこの世を去り、弟のエドワードがその遺言を聞くことになる。
一つはハイファウムを託すことになる息子の補佐、そしてもう一つは「滅びたくなければ朝貢を欠かすな」……であった。
エドワードが生前「今でも忘れられない」と語っていたこと。それは兄バルタザール二世が今際の際に浮かべていた、悪夢と見間違えるほどの醜悪な笑みだそうだ。
そしてバルタザール二世は英雄として語り継がれることになり、父の顔さえ知らぬバルタザール三世は物心つかぬ幼齢のうちから、父が築いた一大王国を遺言とともに継ぐことになる。
「また公達が騒ぐであろうな」
老齢の顔に疲れを滲ませながら、バルタザール三世が天井を仰ぎ見る。吊るされたシャンデリアには魔法的な光が優しく灯り、バルタザール三世の荒んだ心を僅かながら癒してくれた。
「ご心労、お察しいたします……陛下」
「いや、すまぬ。愚痴を零している場合ではなかったな」
困り顔の宰相を横目に、国王は自分の迂闊さを窘める。
この室内に居る使用人や騎士は主に貴族の子弟達だ。国王への忠誠とともに守秘義務を誓ってはいるが、裏で公派閥と繋がっているかなど正直わからない。
つい本音を零し聞かせてしまった宰相とは六十年の付き合いになる。今でもお互いにその心の内を知る、気が置けない間柄だ。しかし、だからと言って甘え過ぎるのも問題であろう。
バルタザール三世は宰相とそっくりの困り顔で、六十年来の友人に微笑んだ。
「陛下、私への遠慮は無用でございます。私は死んでも陛下の忠実な僕にございますが、同時に永きに渡る友人と自負しております」
眦に涙を湛えた宰相セバスティアンが、国王を仰ぎ正直な心の内を静かに小さく語る。この広い玉座の間で、国王以外にはこの声が届かないことを確信して。
「余は幸運に恵まれた」
「……ありがとうございます」
少々ふくよかになった体形で恵比須顔のように微笑む宰相。彼に感謝の意を告げると、国王は心の中でそっと一礼した。
「宰相閣下、ロビン・エルラー近衛兵長がお戻りです」
部屋付きの近衛兵が上司の帰還を更なる上司に告げる。
ロビン・エルラー。近衛兵長である彼は、近衛兵団長のエンリコ・アイヒマンを筆頭とする近衛兵団、ロイヤルガードに所属する超エリートだ。
彼らは他三人の近衛兵長とともに玉座ではなく、そこに座す国王を守り通している。
陛下に一礼し入室したのはロイヤルガードの象徴である赤い紋様の鎧に身を包む、身長百六十五cmの細マッチョ、ブロンドの髪が似合う優男だった。
背筋をピンッと伸ばしたロビンが宰相の前で一礼する。続いて口を開きかけるロビン。だが宰相は温和な表情でロビンに優しい視線を向けた。
「エルラー近衛兵長。予定よりも早い帰還、火急の要件があるのだろう?」
その言に驚きを隠せないロビンが、宰相に向ける目を見開く。
「私ではなく陛下に直接報告しなさい」
セバスティアンは国王に振り向きその意思を視線に乗せる。バルタザール三世は宰相を見つめると無言で頷いた。
国王の前に進み出るロビン。玉座に続く階段の手前で跪くと、心の篭る一礼で陛下への誠意を無言で伝えた。
「面を上げよ、近衛兵長。ブレノーアイからの長旅、苦労であったな」
「いえ! 陛下。ご下賜頂いたグリフォンに乗っての旅、疲れなど一切ありません!」
想定外の陛下直々の労いに、感無量のロビンがその恩情に深く感謝する。
獅子身中の虫の如く王国内に巣食う三公、それに追随する三侯のうちの二候、そして貴族に咀嚼され続ける民。憂慮して止まない陛下に比べれば、自分の苦労など鼻くそほどの価値もない、そう心の底からロビンは思う。
「それで、一体何があったのだ?」
自分には計り知れない陛下の心労を想えば「何も無い」ことが最良の答えだとわかるのだが……。
「は! ヒンデンブルク候に手紙をお渡しした後、国境の状態を確認すべく西へ向かいました」
ロビンは「事前」「命令」などの単語を割愛して国王へ報告する。此処は公共の場である。余計なことは言わなくて良いのだ。
「それで?」
自分の意が通じたことに安堵し、ロビンは先を続ける。
「西の山中に突然、巨大で暗雲とした禍々しいドームが出現しました。その直後、ドーム内で大きな爆発が起こったようです」
「巨大? 爆発? もう少し詳細に状況を教えてくれ」
素直に疑問を口にする国王を危惧して宰相を盗み見るロビン。宰相はその視線に静かに、力強く頷いた。
「魔王の動向を調査するため越境させた部下全員とは連絡が取れておりません。国境で一両日待ちましたが消息不明のままです。この結果から、爆発に巻き込まれ死亡したものと判断し帰還しました」
最悪の結果を伝えられ眉を顰める二人に、ロビンは淡々と事実を告げる。
「ドームの正確な大きさは不明ですが、おそらく直径は百里、高さは数十里に及ぶと思われます。また、爆発の規模については……言葉では表せません。我々の常識を逸脱した、想像を隔絶するほどの爆発でした」
目を見開きロビンの報告を聞く二人。その回答があまりにも常識外れで想像が出来ないのだ。
ロビンの報告を咀嚼し得ないバルタザール三世が、暫くの間を置いてやっとその重い口を開く。
「その爆発は……魔法的なものか?」
もし魔法であれば、世界の常識を覆す超大魔法だ。そんな魔法を放たれれば、王国は一瞬にして滅ぶだろう。考えたくもない悪夢を拒絶するかのように、バルタザール三世は視線に懇願を乗せる。
「魔法ではございません。最も近い表現としては、突如として山中に太陽が現れた。……それくらいの閃光です」
「太陽!? それは想像もつかぬな……」
「はい。直接見ましたが、私もまだ信じられません」
「であろうな……それで魔王の動向は?」
「空から確認しましたが、魔王はおろか、その配下も見当たりませんでした。やはりパーラミター達はイクアノクシャルで待機しているようです。ですが……魔王の所在は依然として掴めません」
確認中に裸で抱き締め合う男女を見掛けたが、未だに誰かはわからない。少年を成人女性が抱き締めていたようだが、裸では魔族か人間かすら判別が出来ないのだ。
「魔王は一人で向かったのであろう? では魔王が爆発を起こしたのか?」
「可能性はあります。ですがあの爆発に巻き込まれて生き残れる者など、この世には存在しないでしょう……」
更に頭痛の種が増えたことにバルタザール三世が溜息を一つつくと、そんな状況から帰還したにも関わらず疲れを見せない配下を労う。
「……そうか。大儀であった」
「エルラー近衛兵長、ご苦労。だが如何なる事情があろうと、陛下からお預かりした部下を失うことは許されざる失態。この件を近衛兵団長に報告した後、自宅にて謹慎するように」
悲哀に満ちた目で部下を見つめる宰相に、ロビンは真剣なままの面差しでそっと微笑む。
近衛兵団長への報告、言い渡された謹慎、それはロビンの減罰を近衛兵団長から嘆願させるための猶予だろう。そうロビンは確信する。
「承知しました。力足らず、誠に申し訳ございません!」
「うむ。では下がって良い」
ロビンは清々しい顔で一礼すると、静かに玉座の間を退出する。顔も爽やかだが、性根も居住まいも非常に爽やかな三十六歳であった。
ロビンの退出を見送った国王と宰相が、疲労感の滲んだ顔を見合わせる。
「さて宰相……調査団を派遣せねばならぬか?」
「確かに調査は必要でしょう。ですが爆発の起きた場所は魔国領です。魔王の所在が掴めぬ今、通行許可を得るのは難しいかと……」
「……そうだな。騎士団を派遣するのは時間が掛かり過ぎるな」
「ただ調査は必要です。そこでご提案なのですが……朝貢の護衛に探索者を混ぜ、その者達に調査をさせては如何でしょうか?」
宰相は国王の目を見つめつつ、王国に火の粉が降り掛からぬ最善策を提示する。騎士団を派遣すれば鎧から密入国がバレてしまうが、一般人の密入国であれば王国は関与していないと白を切れるのだ。
「ふむ……良い案だが、誰に手配させるのだ?」
「都合よく手柄を欲している者が居ります。エンリコ・アイヒマン、彼に会議の場で命令を与えては如何でしょうか?」
「確かに……よかろう。エルラー近衛兵長も直ぐに復帰させられるな」
ロビンの進退に慈悲を与えた国王と宰相が、滲む疲労感をこぼれる笑みで上塗りした。
暫く見合っていた国王が、咳払いを一つして表情を硬く戻す。
「では宰相、臨時会議を開く。出席者は三公、二侯、辺境伯で在都の者。それに加え騎士団長、魔道士団長、近衛兵団長だ」
「はい。それで開催は……?」
「その前に騎士団長と話しせねばなるまい。三日後の朝だな……」
「承知しました。では私は此処で失礼いたします。これより各位に招集を掛けますので」
「うむ。頼んだぞ」
宰相は清々しい顔で一礼すると、静かに玉座の間を退出する。顔も優しいが、性根も判断も非常に優しい六十二歳であった。