召喚
徒歩での北上の途上、夕暮れに差し掛かる頃、カミュの眼前に空間の歪みが突如現れた。
丁度、野営とは名ばかりの、ロッジ休憩の場所を何処にしようか思い悩んでいた時のこと。
空間の歪みは無色透明だったが、次第に青から紫、そして漆黒へと変化し、最後に厚みが一切ない直径三メートルの円になった。
そして数秒が経過した後、漆黒の円から大きな狼が飛び出す。
(こんなにタイムラグがあると、狙い撃ちされそうだな……)
例え精鋭部隊であっても移動時に急襲されれば存外脆く崩れるもの。強者だろうと棒立ちしていれば只の的に過ぎないのだ。
カミュは飛び出した巨大な狼を見つつも、転移直後のリスクについて考察する。
(まあ、自分が転移しなければ良いだけなんだが……)
カミュは転移に関する問題点の抽出を一旦止め、改めて目の前の狼を観察する。体長三メートルはあるだろうか。背側は青、腹側は銀の美しい毛に覆われており、引き締まった体は肉体美に溢れている。
更には、大きく裂けた口はお婆さんを飲み込む赤頭巾の物語を連想させ、鋭い目に佇む黄色の瞳は何人も近付けることなき拒絶を感じさせた。
「で、デカイ……」
(……そして怖い)
カミュの率直な意見に微笑むアスラとレストエス。その目に幼子を見守る母のような慈愛を感じる。
片やラウフェイは「デカイ」と言われたことで、目の前の少年を訝しむ。
「ん? なんじゃこの小僧は? アスラ様、ル……いや、カミュ様は何処ですじゃ?」
名前が変わったことだけはラゴが伝えてくれたらしい。だが肝心の容姿については連絡が漏れているようだ。
(……じゃ? 変な語尾だな)
カミュが斜め上の問題を気にする傍らで、ラウフェイの率直な意見にアスラとレストエスの表情が凍り付く。その目に莫迦を見兼ねる悲哀のような驚愕を感じる。
「あぁ、私が――」
事情を知らないのだろうと思いカミュがラウフェイに説明しようとするや否や、一陣の豪風がカミュの頬を撫でた。そしてその直後に爆音が轟く。
豪風の発生源には鬼のような顔でラウフェイを睨むレストエスと、グレイヴを振り抜いたアスラが。
爆音の発生源には顔の半分を地中に埋め、五体投地で無言のまま沈むラウフェイが……いた。
ラウフェイが真っ二つになるのをカミュは幻視する。しかしグレイブは反転され、その峰がラウフェイの頭部を鋭く打擲していた。
「ぶ! ぶ……無礼者! カミュ様の御前で! な、何を言うか!!」
怒り心頭のアスラが甲高い絶叫を上げる。ハッキリ言ってうるさいのだが、ここで指摘するのは何か違う気がする。
あの爆音の衝撃下でもまだ意識を保つラウフェイ。体自体は無駄に頑丈なようだが、体と心は別物。アスラの怒声に頑丈な身体を震えさせている。
「も、申し訳ございません!! 存ぜぬとは言え不敬の極み……如何ような罰をも!!」
平身低頭のラウフェイがくぐもった声を上げる。ハッキリ言って聞き取り辛いのだが、口が埋まっているのだから仕方ないだろう。
「良いのだ、アスラ。ラウフェイを起こしてあげなさい」
カミュは”怒ってないよ”のアピールでアスラに優しく語り掛ける。ここで怒っている風を装うと、何か途轍もなく面倒なことに巻き込まれそうな気がするのだ。
アスラはカミュの言を受け、グレイブを何処へともなく仕舞い、ラウフェイの頭の毛を掴むと「フンッ」と地面から強引に引っこ抜いた。
無言で死線を飛ばすアスラとレストエスを手で制し、カミュは優しく語り掛ける。
「まずはラウフェイ、良く来てくれたな。先ほどのことは気にせずとも良い」
カミュの労いに、ラウフェイは伏せの姿勢で敬意を示す。
「さ、先ほどの死をもって償うべき失態を……お許し頂きありがとうございます!」
ラウフェイはまだ混乱しているのか、恐縮しているのか、一拍置いて言葉を続けた。
「そして主人の命に従うのは当然のこと。この老体がお役に立つのであれば、何処へでも馳せ参じます!」
(あれ?……”じゃ”は? まぁいいか)先ほどとの語尾の違いに戸惑うが、(それよりも……老体? 一体なんのキャラ付けだ?)と別の疑問が湧く。
その意味を理解すべくカミュはラウフェイに問いかけた。
「そうか、助かる。ところでお前は自分を老体と言うが、とても若々しく見えるぞ?」
「ふぉふぉ……この年寄りに世辞など……。カミュ様はお優しいですの」
カミュの言葉に嬉しさが込み上げたのか、ラウフェイの語尾に老人感が戻り始める。
どうやらラウフェイは本当にご老体のようだ。でも顔は怖い。
カミュはじっとラウフェイを見つめる。アスラやレストエスと同様に言葉や仕草から忠誠心が溢れ出ており、危害を加えられる心配はなさそうだ。
「まぁ先ほどのことは不問にする。良いな? アスラ、レストエス」
カミュの判断に一礼で答える二人。
ラウフェイは「あ……あぁ」と口を小さく開閉させ、僅かながら体を震わせている。
ちょっとしたミスであれ程盛大なツッコミを入れられたのだ。まだ少し恐怖心が残っているのだろう。
往年のコント職人も真っ青なアスラのツッコミ芸を注意すべきか迷うカミュだったが、ラウフェイの傷を抉るのは……と思い直し、彼女への指摘を諦め話題を変えた。
ちなみにラウフェイは恐怖心を超えたカミュの優しさに感動しているだけなのだが。
「ところでラウフェイ、お前のその毛並みは見事だな。触っても良いか?」
忠実そうな配下に安心したカミュがラウフェイに尋ねる。
他二人に緊張が走ったような気がするが、おそらく気のせいだろう。
「構いませぬが……」
ラウフェイがそう呟くと、チラッと他二人を見る。
何か問題があるのだろうか? あまり動物と触れ合うのは得意ではないが、乱暴にしなければ問題ないだろう。
そう割り切ったカミュがラウフェイの横腹へおもむろに手を当てた。そして……驚愕が感動に包まれる。
(な、なんという……モフモフ感!)
あまりの手触りの良さに我を忘れて撫で回す。横腹から背、背から尻、尻から腹、そして腹から顎下へとくまなく愛撫していると、ラウフェイの体がいつしか痙攣していた。
カミュは異変に気付き声を掛けようとしたが、その問い掛けは間に合わない。
即座に一帯が、響き渡る絶叫で包まれる。
「あ……あ゛あ゛ぁあぁぁ~~~~!」
(な、何故ラウフェイは失神したのだ!?)
ラウフェイの突然の横転に混乱するカミュ。
慌てふためき傍へ駆け寄るが、恍惚の表情で舌と涎を出すラウフェイの意識が直ぐに戻ることはなかった。
混乱の中でアスラ達の存在を思い出したカミュは、咄嗟に振り向き視線に懇願を乗せる。
アスラならこの状況を解決してくれるだろう。そう願って。
しかしアスラは醒めた目でカミュを見据えた。カミュは背筋に冷たいものを感じるが、この状況を打破するにはアスラの助言が必須であり、意識の無いラウフェイのためにこれを聞く義務があった。
そして数瞬の後、アスラがゆっくりとその理由を伝え始める。
「カミュ様……。ラウフェイは女性です」
その以外な真実に一歩後ずさると、カミュは体を硬直させ全身で驚愕を表す。
(な……なんだと!? ババアの喘ぎだ……と?)
一体これはなんの罠だと小一時間問い詰めたいところだが、どう考えても自分が悪い。そう、決して赤頭巾が悪い訳ではない。
二人の冷たい視線を浴びつつカミュは、ラウフェイの意識が戻るまで自責の念に苛まれ続けた。