魔国
ここは旧ルシファー、現カミュの居城であるイクアノクシャル。
山々に囲まれそびえるその城は、人外のものすら近づけぬ暗然たる雰囲気を纏っていた。
城には城壁も堀も、そして人影すらもなく、無防備かつ不用心な姿をただ晒している。だがこの城を攻め落とそうとする者は皆無であり、友好的に訪れる者さえ居なかった。
城内を這う回廊は漆黒の闇に満ち、希望を見出せぬほどに禍々しい。だが廊下を抜けた先、厳選された住人の部屋では、燭台に灯る魔法の光が淡く部屋の主人を包み込んでいる。
ロードマスターに与えられた城の一室。そこでベンヌ・オシリスは暇を持て余していた。
ベンヌ・オシリス。パーラミターの頂点に君臨する、魔国最高戦力であるロードマスター六人の一人。
水色とピンクと金に彩られたトリコロールの華麗なドレスに身を包み、口元を扇子で隠す仕草は貴族の令嬢を彷彿とせる。
女王のように巻き上げられた金髪はそのドレスと相まり豪奢な雰囲気を醸し出すが、釣り目がちな紫の瞳は悪戯好きの子供を連想させた。
愛らしい表情は将来多くの男性を魅了して止まないだろう。その姿は、身長百三十cm、見た目が十歳の……幼女だ。
一室の奥に据えられた重厚感溢れる漆黒の椅子に深々と座り、ベンヌは斜め前に待機する少女へ語り掛けた。
「シピュレ、暇なのよ」
扇子を仰ぐ手は退屈さを隠さず、その表情は弛緩に微睡む。
相対する少女は、赤茶の髪をねじりバレッタヘアに整え、後頭部をピンクの小さなリボンであしらう。豊満な胸部を強調するかのように腹部を太く黒いベルトが巻き、両肩を露出させたドレスは赤を基調としながら赤紫の艶やかさを所々に見せる。
スカート部分は大きなスリットにより前後に分けられ、その裾は長く伸びた前垂れのように脚線美を強調するが……、見た目十四歳の身長百五十cmが、スタイルとの違和感を壮絶に醸し出していた。
その少女、シピュレは褐色の肌に切れ長の赤琥珀の目を皿にして指摘する。
「ベンヌ様、発言にお気を付け下さい。ベンヌ様は守将という大切なお役目を担っておられる身。暇なはずがございません」
「守将など、イリアとその配下が居れば十分なのよ」
幼女はふてぶてしく言い放つと、フンッと鼻息を一つたてた。
「イリア様は玉座から動いてはならぬと厳命されています。そのイリア様を補佐されるのがベンヌ様のお役目」
「はぁ、まるでイリアのおまけなのよ」
憎まれ口の減らないベンヌ。
面倒になったシピュレは聞こえないように舌打ちすると、呆れ顔で最後の切り札を突き付ける。
「ルシファー様のお決めになったことに異論を挟むのは……」
「な、何をいう! ルシファー様に異論などと……物騒なこと言うでないのよ!」
先ほどまでの余裕は一切消え、ベンヌは蒼白の表情と甲高い声でシピュレの発言を全面的に否定した。
甲高い余韻が響き渡る中、この否定が会話の終わりだとでも告げるように、入口の扉から「トントントントン」と軽快なノック音が響いた。
ベンヌは顎をしゃくりシピュレに意思を伝える。
シピュレは主人の意を汲み取り、ドアの両脇に立つ女性二人へ視線を送ると軽く頷く。
釣り目がちの碧眼を伏せ一礼で承知の意を伝えると、扉の両側に立つ女性の片方が重厚な扉を少しだけ開き、セーラー服と白いエプロンを翻して覗くように外を伺う。
扉を開けた女性は、病的なほど透き通った色白の肌に金髪のロングヘアー。見るもの全てが見惚れるほどの美しい顔立ちなのだが、眉一つ動かさないその無表情さが一種の奇妙さを漂わせていた。
更には扉を開けていない女性、つまり扉を挟んで反対側に立つ女性とはまったくの瓜二つな姿かたちであり、それが彼女達の不気味さを一層引き立たせている。
彼女達はこの城に仕えるホムンクルス。総勢五百名からなるメイド隊の中の、ベンヌの部屋に宛がわれた二人だ。
五百名のメイドは全て同じ顔、同じ体形、同じ服装をしており、外見年齢も全てのメイドが同じ二十歳。
彼女らは一切歳を取らず、衰えず、美貌を崩さず……そして生涯笑顔を見せない。
そんなメイドが外を確認し、状況を報告する。
「ベンヌ様、シピュレ様。ラゴ様にございます」
「何の用なのよ? まぁ、通すかしら」
メイドがドアを開けると、目礼と共にラゴが入室する。
アスラ配下の修羅道に属するラゴは、同じ修羅道に属する同輩三人を纏めるリーダー格の少女だ。身長はアスラと同程度、見た目は二十歳前。
ブロンドの髪をクラウンハーフアップで纏め、頭部にナースキャップに似たホワイトブリムを乗せている。橙に輝く瞳はパパラチアサファイアを彷彿とさせ、掛けた眼鏡は知的な魅力を引き上げている。
着ているメイド服は白一色であり、膝上十五cmのスカートの裾にはフリルがあしらわれ、その姿は知的外見と相まって清楚と表現するのが最も相応しいだろう。
「ベンヌ様、お久しぶりにございます」
見る者に清潔感と安心感を与えるラゴが一礼と共に挨拶すると、手に持った扇子で口元を隠しながらベンヌは応用に頷いた。
「お前も健勝そうで何より。で、何用なのよ?」
「はっ。アスラ様からのご伝言です」
ラゴは一旦、言葉を区切る。おそらくベンヌの性格を知っているラゴが、これからの会話に一抹の不安を覚えたのだろう。
アスラとベンヌに限らず、ロードマスター同士は仲が良い訳ではない。事に当たって協力はするが、同じ主君の元でその能力を競い合う仲でもあるのだ。
「ベンヌ様配下のラウフェイをアスラ様の元へ送るように、とのことです」
ラゴは非常に真面目な性格をしているが、どこか抜けたところも合わせ持つ。
まるでアスラがベンヌに指示しているような、そんなラゴの物言いに、ベンヌは眉間の皺を寄せて問いかける。
「何故わらわがアスラの指示に従う必要があるのよ? それよりアスラはラウフェイを呼んでどうするつもりなのよ?」
いつもより若干低いベンヌの声に、ラゴは焦りの表情を浮かべる。
見てくれはちんちくりんのつるぺただが、戦闘力はこの世界でも十指に入る強者だ。その力がラゴに向かうことは無いと確信しても、緊張してしまうのは仕方の無いことだろう。
「あ、アスラ様からの伝言ですが、指示されたのはカミュ様です」
「かみゅさま……? それ、誰なのよ?」
怪訝な表情で問い返すベンヌに、緊張を一段増しさせたラゴが焦りを印象付けるかのように答える。
「べ、ベンヌ様! カミュ様とは、ルシファー様のことです!」
ラゴの必死の形相に不信感を覚えつつも、ベンヌはラゴの言葉を咀嚼する。
「かみゅさまはるしふぁあさま……? お前は一体は何を言っているのよ?」
ベンヌは頭を捻るが、答えはまだ見つからない。
ただ先ほどよりは少し怒りが収まった気がして、もう一度冷静にラゴの発言を反芻する。
「かみゅさまはルシファー様……? まさか、いや!? ……お名前を? 変えられた!?」
低い声から急激に声を荒げて問うベンヌに、ラゴは首の縦運動だけで肯定の意思を表現する。
ラゴの肯定に自らの不敬を悟ったベンヌは、顔を赤から青、そして白へと目まぐるしく変化させるのだった。
「ば、バカ! 何故それを先に言わないのよ! 直ぐ送るに決まっているのよ!!」
「ベンヌ様、説明が足りず申し訳ございません。ルシファー様は今、カミュ様と名乗られていらっしゃいます」
ラゴが一礼と共に謝罪を口にする。しかし
「ですが、知らなかったとは言え――カミュ様に対する不敬な発言。そして命令不服従……。私めは現在、心がとても痛んでおります」
「知らなかったのは仕様がないのよ!!」
白から赤へと表情を変化させたベンヌの必死な言い訳。しかしラゴの残念そうな表情は変わらない。
「知らないで済めば、バアル・ゼブル様はいらない、とはよく言ったものです」
「ら、ラゴーーー!!!」
涙目で懇願の表情を作るベンヌ。
これ以上の問答は自身のためにならないと判断したラゴが、見下ろす視線を緩めフッと優し気な表情を作り静かに答える。
「そうでございますね。ベンヌ様は知らなかったこと。今回の件は私め一人の胸に仕舞っておきましょう」
手を胸に当てて目を瞑るラゴの言葉に、ベンヌから安堵の表情が漏れる。
あとはラゴの気が変わらぬうちに、別の話にすり替えるだけだ。
「して、カミュ様は今、何処におわすのよ? もちろんご無事なのよね?」
「現在セントラレレガロ付近を北上中にございます。また、カミュ様の身に問題があるとはアスラ様から聞いておりませんので、ご無事と思われます」
そう言えば気のせいだろうか? 先ほどのラゴは少なからぬ焦燥感を漂わせていたが、今は言葉に冷静さが戻っているように見えるのだが。
何か腑に落ちないものを感じつつも、ベンヌは先ほどの失態を覆い隠すように質問を続ける。
「徒歩で帰還されるおつもりかしら? いえ、違うのよ。ラウフェイを呼ぶのだもの。それに移動とは何処に向かうのよ?」
「私めには分かり兼ねます」
ベンヌは「そう……」と呟くと、意を決して二人へ伝える。
「シピュレ、ラウフェイにはお前から伝えるのよ。アガリアレプトにはラゴ、そちから伝えるのがいいのよ」
「承知しました。ありがとうございます」
その指示にラゴは一礼とともに感謝を告げる。
ベンヌは鷹揚に頷くと、隣で一礼するシピュレにも頷いてみせた。
「ではベンヌ様、失礼いたします」
「うむ。カミュ様によろしく伝えるのよ。そう、ベンヌがカミュ様のために喜んで送ったと伝えるのよ!」
自分を必死にアピールするベンヌを半分無視し、ラゴは一礼してシピュレと共に退出する。
退出して暫く歩き、ベンヌの部屋から程よく遠ざかったところでシピュレがラゴを見つめた。
「ラゴ、さっきのはわざとだな? 扉の前で中の会話を立ち聞きしていたのだろう?」
睨みつけるように問い質したシピュレに、暖簾に腕押しのラゴが臆面もなく答える。
「さあ……なんのことかしら?」
数瞬二人は見つめ合うが、どちらともなくお互いに含み笑いを浮かべた。
「じゃ、オレはラウフェイに伝えてくる」
「そう、お願いね。私めはアスタロト様とアガリアレプトに伝えて来るわ」
二人は急ぐように目的地へ向かう。なぜなら――彼女たちに暇などないのだ。