迷走
カミュは大空を飛んでいた。天候は晴れ、風は無風。月光に輝くカミュの髪が靡くのは、前へと推し進める力とその空気抵抗によるもの。
彼をその背に乗せて風を切るのは、ナターシャが貸し出してくれたヒポグリフ。身体の前半身が鷲、後半身が馬の姿をした、非常に誇り高き幻想騎獣だ。
そもそもカミュは、ナターシャん家の魔法陣で直帰するつもりだった。だが彼女から「騎獣に乗って帰れ」としつこく懇願されたため、偶には空の旅も良いかと気分を切り替えて帰途についていた。
だが彼は気付いていない。
ナターシャの懇願が、自分が庇護下に入ったという無言のアピールであることを。
まあ……アピールしたところで、魔国の者は誰一人として気にも留めないのだが。
セントラルレガロ付近までは細マッチョのムスティスラフとその配下が護衛に就いていたのだが、国境を越えると面倒になるとか何とかで、彼等は既に騎首を返して帰途へと就いている。
その飛び去る姿を見つめながら、カミュは「見送られるなら女性の方が良かった――」などと意味不明なことを呟き、騎乗中のヒポグリフを怒らせるという一面を見せていた。
どうやらそのヒポグリフの三人称は、彼ではなく彼女だったらしい。居た堪れなくなったカミュは、彼女の尻でも撫でて機嫌を取ろうかと悩んだが、その行為が犯罪であることを思い出して密かに取り止めていた。
そんな鞍も鐙も、手綱さえもないヒポグリフの馬上。安定した騎乗姿勢を保つにはどうすれば良いのか。カミュは悩み続ける。
内股に力を込めると、膂力で彼女を締め付けてしまう。だからと言って翼を掴んでは、おそらく飛べないだろう。かと言って胸のあたりに手を回すとセクハラ感が半端ない。
だからカミュは已む無く首にしがみつく。何処から何処までが首なのかはよく解らないが、おそらくここだろうという箇所にしっかりとしがみついた。なのでカミュの今の騎乗姿勢はヒポグリフの背に寝そべるような、サーフィンのパドリングのような斬新な形態だ。
ワイバー山の影を右手に見ながら、カミュは西北西へと進路を取る。というよりもヒポグリフが勝手に進路を決めてくれている。ムスティスラフの言を信じれば、禍々しい魔力の元を目指すだけで、自然にイクアノクシャルへ辿り着くとのこと。
ライフィールからクライネスランドまで、直線距離にしておよそ二千二百km。あまりの退屈な時間に忍耐力の限界を迎えたカミュは、時折ヒポグリフのお腹を撫でて気を紛らわせていた。
その度にヒポグリフは、気持ち良さ気にピィーと鳴いてくれる。その反応が楽しくてつい、カミュは何度も何度もお腹を撫でてしまう。そしてされるがままのヒポグリフは、大きな喘ぎ声の後で極端に飛行速度を落とて息を乱すのだった。
痴態を晒すヒポグリフが弛緩した身体を強張らせたのは、視界の右手にフィードアバンを捉えた時だった。
そう、ヒポグリフの首筋にフランケンシュタインのようなボルトを刺せば、敏腕ライダーのように乗り熟せるでは? とカミュが考えたその時。
猛烈な速度で迫り来るのは、百騎ほどの黒き飛行隊。だが光源が月光に限られる暗中では、その姿を正確に捉えることは出来ない。
「心配するな、大丈夫だ。……たぶん」
ボルトを取り付けようか迷っていた首筋を撫でながら、カミュは優しく語り掛ける。お前のことは俺が守ってやる、と安心させるかのように。
その行為に愛情を感じたからなのか、それとも首筋を撫でたことでコリが取れたからか、ヒポグリフの身体から僅かに硬さが抜けていく。
悲壮感に包まれるヒポグリフと、いまいち緊張感の足りないカミュ。彼等の視線の先にあった未確認飛行体は、既に認識可能なほど輪郭を露わにしている。
「なんだ……あれ?」
「ピィー?」
魔王とヒポグリフの間に会話など存在しないはず。そんな下らない常識を破りつつ、カミュは目を凝らして集団を凝視する。
群れを成すのは闘牛型のボディを褐色に染めた丙級のゴーレム。その名はディアブロ(火属性)。
背中に背嚢型の風魔法噴射式推進器、所謂ランドセル型のジェットスラスターを装着する彼等は、音速を超える速さで既に戦闘可能域へと殺到していた。
まさか今から戦闘がおっ始まるのか?
胃の痛くなるような緊張感で現場が包まれる中、カミュは嬉しそうに笑顔で身を乗り出す。
「出迎えご苦労!!」
その懐かしい顔ぶれにカミュが手を上げると、ディアブロ達は飛行速度を落として旋回を始めた。
どうやらあのバックパックには、速度を調整する機能が付いているらしい。その性能の高さは、以前カミュが見た"ジェットストリーム"という名のゴミアイテムとは大違いだ。
だがそんな高性能な推進器であっても、フラップの付いていない機体を急激に減速させることは難しい。
ヒポグリフに高度を下げるよう命じたカミュの後を追うように、彼等は落下という名のハードランディング、つまり地面への激しいキスを次々と開始していた。
カミュの周囲で派手な土煙が巻き起こる。あの高さから慣性のままに激突したのだ。例えゴーレムであっても無傷で済まないだろう。
そんな土煙の晴れない光景に心配を募らせるカミュ。だが暫くしてその目に映ったのは、夜の帳とディアブロ達の無事な姿だった。
彼等の身体には新しいヒビが入ったようにも見えるが、それも含めてご愛敬というものだろう。
カミュが彼等と会うのは、修羅道の面々と初めて会ったあの日以来だ。
懐かしさに突き動かされながら、カミュは彼等へと歩み寄る。だがその再会は、とある幻獣によって阻止された。
「どうした? 袖を咥えられたら動けないんだが」
「ぴ、ピィー……」
「もしかして、怖いのか? 彼等は大人しいから大丈夫だ。怖くないぞ?」
戊級の幻獣一体を、丙級のゴーレム百体が取り囲んでいるのだ。怖くない訳がないのだが、そんな機微をこのカミュが察することなど出来やしない。
宥めても綴ってくるヒポグリフに、カミュは柔らかな苦笑を送りつつも、インベントリにドラゴンの肉があったことを思い出していた。
何故彼のインベントリにドラゴンの肉があるのか。それは彼の配下に居るレストエスという女性が、散らかしたものを片付けられない困った女性だったから。
腹を満たせば恐怖心は和らぐもの。そんな安易な考えをカミュは実践してみるが、その下らない案は意外にも劇的な効果を齎していた。
カミュが差し出したのは獲れたてホヤホヤの新鮮なお肉。その鮮度を嗅ぎ分けたヒポグリフは、彼の手ごと食らい尽くす勢いで急にバクつきだす。
彼の差し出した肉はホーリードラゴンのもの。甲級の高級な肉、というわけだ。彼女の貪り喰らう姿にいっそ清々しさすら感じつつ、カミュは何度もおかわりを差し出して労った。ちなみに、ホーリードラゴンの肉をヒポグリフが食べたのは、おそらくこの世界が始まって以来の快挙だろう。
さてどうしようか。困り顔のカミュが腕組みをして思案する。このままヒポグリフで移動するか、はたまたディアブロに乗り換えるか。
そんなどうでも良い思案に暮れる彼が見つめる先で、何もない空間が突如として歪みだす。空間の歪みは無色透明だったが、次第に青から紫、そして漆黒へと変化し、最後は厚みが一切ない直径三メートルの円になった。
その漆黒の円から歩み出たのは、銀の髪と赤い瞳をフードで隠しつつも、色白の肌と真っ赤な唇が異性の目を奪う美女、漆黒のローブを纏ったアスタロトだ。
「か、カミュ様!!」
「そうです。あたしがカミュ様です。で、何をそんなに驚いているんだ?」
「あ、いえ、てっきり転移魔法陣でお戻りになられるのかと……」
急に自信を無くしたアスタロトが、上目遣いでカミュを伺う。
「あぁ、ナターシャがどうしてもと言うのでな、せっかくだからこのヒポグリフに送って貰ったんだ。それが分かったから迎えに来てくれたんだろ?」
「え? あ……は、はい。そそ、その通りです」
「こんな夜遅くに出迎えさえてしまって、もうし――」
「いえ! 配下として当然のことにございます!」
ダイナミックに目を泳がせていたアスタロトが、突如としてキラリと目を輝かせる。
彼女の心中に一体どんな変化があったのだろうか。
「そ、そうか。嬉しく思うぞ」
「バンシーのところへ行っていらしたのですか。バアル・ゼブルからは何も聞いておりませんでした」
「何か不味いことでもあったか?」
「いえ、カミュ様のお考えに、問題など何一つ存在しません。我々の情報共有の問題です」
自らを卑下するように淡々と語るアスタロト。そんな彼女が今度はヒポグリフへと鋭い視線を向けた。
その視線の先では、カミュがヒポグリフの背中を擦っている。そのヒポグリフはまだ貪るような食事の真っ最中だ。
「それで……そのガツガツとはしたないメスは、バンシーのところのヒポグリフですか?」
「ピッ!?」
アスタロトからの鋭い死線を受けて、ヒポグリフの身体が硬直する。
だが身体は固まっても彼女の口が止まることはない。幻の食材であるホーリードラゴンの肉は、彼女によって今も咀嚼され続けている。
「カミュ様の御前だ。その汚い咀嚼を今直ぐ止めぬか!」
「そんなに怒るなアスタロト。彼女は此処まで休まずに飛んでくれたんだ。少しくらいの食いしん坊は許してやろうじゃないか」
「――っな!?」
アスタロトの叱責から庇って貰ったヒポグリフが、そそくさとカミュの影に隠れる。勿論、彼女の口が止まることはない。幻の食材であるホーリードラゴンをまだまだ咀嚼中だ。
そんなヒポグリフを睨むアスタロトの目は更に厳しさを増し、その形相は既にレベル般若を軽く超えている。
怒り心頭のアスタロト。彼女が腹に据えかねるのは、拙だけの主君が鳥を庇ったことでも、今も咀嚼を止めぬゲス女が許せないからでも、ましてや愛しい主君に庇われた鳥がニヤついていたからでもない。
主君に優しく撫でられたバカ鳥が、トロンとしたご満悦の表情を浮かべていることが許せなかったのだ。
「アスタロトは優しい女性だ。今は気が立っているようだが、本来は怯える必要なんてないんだぞ?」
「ピィー……」
やっと咀嚼を終えたヒポグリフが、綴るような目でカミュを見下ろす。
彼女は不安気な鳴き声でカミュに真意を問うが、カミュは優しい眼差しでただ頷くだけだ。
「だがお前の任務は此処まで。後はアスタロトとディアブロ達に案内して貰うから、もうライフィールへ戻っても良いぞ」
「ピッ!? ピィー……」
名残惜しそうに瞳の奥を覗き込むヒポグリフの首を、笑みを湛えたカミュが優しく撫でる。
だが出逢いの後には必ず別れが来るもの。ふと冷静さを取り戻したヒポグリフが、自分を圧迫しながら包囲する百一の視線に気付いて、険悪な雰囲気から逃げだすように南の空へと飛び去っていった。
その慌てて飛び去る姿を、アスタロトは黙って見つめる。愛しさと切なさと勝利の余韻に心を酔わせながら。
「ハァ――……ま、仕方ないか。それにしてもどうしたんだ? アスタロト。お前らしくもない」
「も、申し訳御座いません。つい……」
つい、嫉妬してしまいました。そんなことは口が裂けても言えない。
地獄道を預かるパーラミターの自分が、鼻を鳴らして主君に甘える訳にはいかないのだ。そう心を引き締め直したアスタロトは、拳をググッと握り締めて弱さを堪えた。
恥ずかし過ぎる失態、だがカミュは何も言わない。それが彼の優しさだと勘違いした、アスタロトの乙女ちっくな心は揺れ動くが、ニヤついてはいけないと必死に表情筋を引き締める。見つめる、堪える、を繰り返していた彼女はいつしか、主君からギュッと抱き締められる甘美な妄想に耽っていた。
「――スタロト、聞いているか?」
「――え? あ! き、聞いております」
「私はイクアノクシャルに戻るが、お前も一緒に来るか?」
「あ……いえ、申し訳御座いません。拙はまだやるべきことが残っておりますので、一旦シャングリラへと戻ります。早急に用事を片付けて、可及的速やかにカミュ様を追い掛けます。拙のことはイクアノクシャルでお待ち下さい」
物凄くガッカリした表情で、アスタロトが焦ったように捲し立てる。
カミュとしては何気なく声を掛けただけなので、そこまで必死になって貰う必要は全く無かったのだが。
「そうか。それで用事とは?」
「転移魔法陣の微調整と、ゴーレムの再配置です」
「ふーん……ディアブロ達を何処かへ移すのか?」
「ディアブロだけではありません。フィードアバンとシャングリラの防備を固めるために、イクアノクシャルから大部隊を移動させます。アスラからお聞きになられていませんか?」
アスタロトからの問いに、カミュが不自然に視線を逸らす。
おそらくだが、アスラに対して何かやましい想いでもあるのだろう。だがカミュくらいの図太さがあれば、そんな些事など即座に忘れられるのだ。
一瞬だけ気まずそうな表情を見せる彼だったが、すぐさま気持ちを切り替えてアスタロトへと尋ねる。
「大部隊の移動とは、具体的にどんな感じだ?」
「フィードアバンとシャングリラが奇襲を受けても即座に陥落しない程度の、時間稼ぎに必要な分だけのゴーレムを移動させました。現在の状況ですが、フィードアバンにはサイクロプスを五百、スフィンクスを五百、そこの彼等を含めたディアブロを五百、そして念のためにイフリートを百ほど。シャングリラも同様に、サイクロプス五百、スフィンクス五百、ディアブロ五百、イフリート百、それとガーゴイルを三千ほど配置しています」
「……多過ぎないか?」
「お言葉ではございますが、この程度の戦力、カミュ様であれば半日で掃討なされるでしょう」
半眼のカミュが急に黙り込む。半日で殲滅とは一体、どんな類の冗談なのか。そんなこと出来る訳がないだろう、そう言いたげな表情だ。
だがアスタロトには主君の想いが判らない。
圧し掛かる不安に苛まれながらも、彼女は続く言葉を辛抱強く待ち続けた。
「……いや、普通に無理だろ?」
「いえ、壊滅など普通に余裕だと思いますが……。イフリートが最高戦力の部隊なぞ、赤子の手を捻るようなものかと」
「……そうなのか? ちなみにアスタロトなら、どのくらいで殲滅できるんだ?」
「そうですね……拙の戦闘力では足止めが精一杯でしょう」
アスタロトの答えにカミュが首を傾げる。
おそらくだが、アスタロトが壮大なお世辞を語っているとでも思ったのだろう。
彼と彼女の認識は平行線を辿り続ける。交わることのない自己評価を何となく察したカミュは、話題を変えるべくディアブロ達へと視線を移した。
「彼等はフィードアバンに戻るんだったな」
「はい。元々フィードアバンの所属ですので」
「そのジェットスラスターで、来た時のように飛んで戻るのか?」
「じぇっとすらすた……?」
聞きなれない名前に、アスタロトが可愛らしく小首を傾げる。
「あぁ、そうか。噴射式推進器、なら通じるか?」
「はい。ですが、彼等の帰還は徒歩になる予定です」
「……何故、歩きなんだ?」
空を自由に飛べるアイテムがあるのに、何故か彼等は歩いて戻るという。
四足歩行が果たして歩きと言えるのか。そんな疑問を投げ掛けたい衝動に駆られるカミュだったが、奇跡的に空気を読んで華麗にスルーする。
そして彼は、彼の中で芽生えた率直な疑問を、純粋な視線と共にアスタロトへとぶつけていた。
「――風魔法噴射式推進器の推進剤は、片道分しか積んでおりませんので……」
「なるほど、理解した。正に特攻兵器だな。ではお前達とは此処でお別れだ。私は一足先にイクアノクシャルへ戻るとしよう」
「い、いえ! 今すぐ護衛となるガーゴイルを呼び寄せます。今暫く、此処でお待ち願います」
「一人で大丈夫だ。私は強いのだろう?」
否定も肯定も出来ないアスタロトが、眉尻を下げて困り果てる。
単独での帰還を許してしまうと、万一の際に盾となることが出来ない。かといって拒否してしまうと、主君の戦闘力を否定することになる。
何も言えずに押し黙るアスタロト。そんな彼女の頭を、カミュは背伸びしながら優しく撫でた。
「何も心配はいらないさ」
「……はい」
主君の笑顔に魅了されたアスタロトが、頬を染めて下を向く。
本当はもっと主君の顔を見ていたかった。だが年甲斐もない気恥ずかしさと少女のような甘酸っぱい想いが、彼女が顔を上げることを許してはくれないのだ。
だからアスタロトは笑顔で手を振る主君を、下から覗き込むように見送った。
夜空へと舞い上がった主君を、アスタロトは黙って見送る。その至高なる姿が見えなくなっても、ずっとずっと見送り続けた。
アスタロトと別れたカミュは、満月だけが微笑む夜空を独りで駆ける。
案内も目印も記憶さえもない、月光だけが照らす漆黒の闇を西へと向かって駆け続けた。
そしてカミュは遂に……道に迷う。案内も目印も記憶さえもなく、禍々しい魔力を感知する超能力も彼にはないのだ。こうなるのは当然だろう。
そんなカミュがイクアノクシャルへと辿り着いたのは、東の空がオレンジ色に輝きだした早朝のことだった。