第一章 青木沙依(第二部特殊部隊部隊長)を巡る冒険
「こんなとこ隊長には見せられないな。」
今日もまた呟いたと美咲は思った。本人は自覚してなさそうだが、何かがあると一馬はいつも「隊長」と口にする。おまじないの様に隊長と口にする。困った時、自分を律するとき、何かをしてしまった時、いつだって一馬は隊長と口にする。そして美咲は知っていた。時々一馬が自分を通してその隊長を見ていることを。時々自分に隊長を重ねて懐かしんでいることを。だから美咲はその隊長がどんな人なのか気になってしかたがなかった。
自分とそっくりな見た目をしていることは知っている。第二部特殊部隊の隊長をしていたことは知っている。あとは、皆から大事にされていたんだなってことしか美咲には解らなかった。一馬に聞いてもあまりよくは教えてくれなかった。一馬だけではない。この龍籠にいる誰もがその人を知っているようなのに、話を聞くと言葉を濁した。それはその人の話をしたくないのではなくて、その頃の話をしたくないという気持ちが大きいように見えた。ただその隊長を思い出す時、大抵の人が懐かしみ優しい目をした。だからその人は皆に愛されていたんだなと美咲は思った。
美咲が生まれるずっと昔、戦争があってこの龍籠は一度滅びたという。多くの人が死んで、こうやって復興した今も戻って来ているのはほんの一部の人たちだけ。その戦争で生き残ったほとんどの人は、鬼と化し最後まで人の姿には戻れなかったという。まるでお伽噺。何千年も昔に起きたというその事実は、美咲には実感が湧かない話だった。
美咲に解るのは自分にとってお伽噺のようなその話が、皆にとってはまだ忘れられない傷だという事と、皆は卑怯な手を使って自分達を貶めた人間を許すことができていないという事だけだった。割り切れている人もいる。でも多くの人がまだ怒りや憎しみを、その胸の内に宿していた。だから何か理由がない限り誰も龍籠から出ないし、人間と極力関わりたくはないと思っている。それは美咲も同じだった。美咲は戦争を知らない。でも美咲も人間社会には関わりたくないと思っていた。
この龍籠はターチェの国。ターチェとは地上の神と人の間に生まれた子供たちの子孫のことで、不老長寿であり特別な力が使える人たちの事。美咲は人間社会で生きてきたターチェと人の間の子を元に、オリジナルのターチェを再現しようとして作られた、人工のターチェ。奇跡的に成功した実験体で、ここに来るまで研究施設以外の生活を知らずに生きてきた。その頃は、形式上の兄だけが美咲と外界をつなぐ唯一の糸だった。兄は何も知らないからこそ、純粋に美咲を心配して毎日お見舞いに来てくれた。兄と一緒にいる時だけは普通の、ただ病弱で外に出られないだけの妹でいられた。将来は医者になって美咲の病気を治すんだと、そう本気で思っている兄が眩しくて、純粋に自分を大切に想ってくれる兄が大好きだった。そんな兄が教えてくれることだけが美咲の全てだった。だから年のわりに美咲が知っていることはとても少なく、出来ることも少なかった。
ここに来た当初の美咲は身体も弱く、特質した力もなく、ターチェとしてはあまりにも軟弱だった。それは自立して生活ができるようになった今でもあまり変わらないのかもしれない。軍事国家だったこの国では、元々は成人の儀を過ぎてからの三年間はよほどの事情がない限り入隊し訓練を受けることが義務付けられていたそうで、一般市民も、女性でも戦えることが当たり前だったという。とりあえず復興した今は、時々誰かが帰ってくるくらいで新しい住人が増えることも少なく、昔の様な脅威もなく、その軍事訓練の義務はなくなっていた。軍人になりたいものだけが訓練をする。だから軍人になりたくない美咲は訓練は受けていなかった。間違いなくこの龍籠で一番の軟弱者は自分だと美咲は思っていた。平和な今でも訓練を怠らない皆が、美咲には異様に思えた。それほど訓練をしている時の姿は鬼気迫るものがあった。
美咲が龍籠での生活に慣れ暫くした頃に、美咲の元となったターチェが龍籠に帰ってきた。その人は、正蔵沙衣といって、医療部隊の隊長を務めていた優秀なお医者さんだった。美咲と同じ見た目。でも一馬は彼女には隊長を重ねるようなことはしなかった。同じ見た目なのにどうして彼女には隊長さんを重ねないんだろうと、美咲は疑問に思った。だからよけい隊長のことが気になった。一馬が慕う隊長さん。見た目以外に自分と隊長さんは何か似てるのだろうか。そんなことを考えて気になって気になってかたがなかった。
「君が隊長と似てるかだって?全然似てないよ。隊長と君なんかと同一視するなんて、一馬の気が知れない。」
そう吐き捨てたのは孝介だった。一馬と同じく第二部特集部隊で副隊長を務めていた人。そう言って美咲を見下す目はとても冷たく、美咲は背筋に冷たいものを感じた。
「君はなんでそんなに隊長のことが知りたいの?一馬のことが気になるから?あいつが今でも隊長を想ってるから嫉妬してるの?」
そんなことを言われても美咲には解らなかった。知りたいから知りたい。気になるから気になる。それだけ。嫉妬しているのかと言われたら、それは違う気がした。美咲にはまだ、恋愛感情がどんなものかわからなかったが、一馬に対して胸が高鳴ったことも、独り占めしたいと思ったこともなかった。一馬が兄をぼこぼこにしていた時には殺意が湧いたが、彼に対して起きた特別な感情は今の所それくらいだった。
そんな美咲の様子を見て孝介は目を細めた。
「君は隊長に似てないよ。でも強いて言うならば、その鈍感さは似てるかもしれない。隊長は何も解っていなかった。君と違って、自分が何もわかってないことすら解っていなかった。あの人の世界は閉じていたんだ。高潔で高慢でまさに神というにふさわしい存在だった。その美しさに僕は強く惹かれ、だからこそいつも壊してやりたかった。僕は隊長をめちゃくちゃに壊したかった。でも僕が何をしたってあの人は壊れないんだろうなとも思ってた。君にはそんな風にめちゃくちゃに壊してやりたくなるような美しさはないよ。」
そう言う孝介は美咲を通して隊長を見ていた。そんな孝介の様子を見て美咲は納得した。誰も美咲の中に隊長を見ているのではない。隊長と美咲の違いを見て思い出してるのだ。あの人はこんな人だったと。美咲があまりにも隊長のことをきくから、どうしても思い出さずにはいられない。そして目の前によく似た姿があるからそれを通して思い出を引き出しているに過ぎないのだと。
「美咲君は勤勉だから授業のやりがいがあるよ。人間社会にいた頃は、勉強は清水が教えていたんだろ?教員を目指すだけあって、あいつの教え方もよかったのかもな。」
そう言ったのは忠次先生だった。そうやって兄のことも褒められると、美咲はなんだかくすぐったい気持ちになった。
先生は今は沙衣さんと一緒になって、正蔵忠次先生になった。先生はターチェではなかった。元々は人間で美咲の兄も卒業した進学校の教員を務めていたことがある人だった。昔は有名な天才児だったことを除けは彼はただの人だった。そんな彼は人間をやめてまで沙衣を追いかけてやって来た情熱の人だった。先生が龍籠に戻ってきたとき、美咲は人間って辞められるんだと感心した覚えがあった。
「この調子ならあと半年くらいで高校卒業程度の学力が身に付くが、その後はどうしたい?修士課程、博士課程まで勉強したいなら、一度人間社会に戻って大学に通うことを勧めるよ。さすがに自分の研究したことのない分野は私では教えられないし、大学に通うことは君にとってもいい刺激になると思うよ。」
先生は簡単に言う。確かに先生にとってそれは簡単なことなのかもしれない。でも美咲にとっては人間社会に戻ることは簡単なことではなかった。そもそもちゃんと社会で生活したことはないし、実験体として連れ戻される危険性もあるのに、自分の身も自分で守ることもできない自分が戻るなんて選択肢は美咲の中になかった。あの場所には二度と戻りたくない。毎日よくわからない注射を打たれ、身体の一部を削られ、死なない程度に苦痛を伴うよくわからない実験をさせられる。あの頃はまだ兄がいた。でも連れ戻されればもう兄もいない。奇跡的な成功例で再現ができなかったから生かされていたが、技術が発展し再現可能になればもう命の保証だってない。そんなところに戻りたくはなかった。
そんな美咲の様子を見て先生は優しく微笑んだ。
「好きなようにすればいいさ。ここでだって学べることも、できることも沢山ある。ただ、自分の可能性や世界を閉じてしまう事はもったいないことだと思うよ。時間は沢山あるんだ。何かしたいことが見つかるといいね。」
そう言う先生を見て美咲は自分のしたいことを考えて口にした。
「一馬の隊長さんの事知りたいです。どんな人だったのか知りたい。」
こんなことは勉強ではないと思う。でも美咲にとってそれが今一番興味のあることで、一番知りたいことだった。バカにされるかなと思って、美咲は恐る恐る先生の顔を見た。先生は、いいねと言って笑っていた。そこには美咲をバカにしたりする様子は見られなかった。本当に、いいと思って笑ってくれているように思えた。
「先生は隊長さんに会ったことあるんですよね?」
美咲の問いに先生はうなずいた。
「ここにいる人たちは皆彼女が死んだと思い込んでたから、会ったと言ってもなかなか信じられない様だった。いや今でも疑っている人も多いんじゃないかな。沙衣さんや隆生くらいだよ、素直に信じてくれたのは。」
そう言って先生は懐かしそうに目を細めた。
「興味があるなら会いに行ってみたらいい。ここと同じで普通に入れない場所だから、君一人ではたどり着けないだろうけど、誰かと一緒ならいけない場所じゃない。会いに行けば会えるところにあの人はいるよ。」
美咲にとってそれは人間社会に戻って大学に通うよりもずっと魅力的な提案だった。
隊長が生きていると信じられない筆頭に一馬がいると美咲は思った。一馬だって隊長が生きているならきっと会いたいに決まってる。そう思って美咲は一馬に隊長がいるというその場所へ連れて行ってもらうことにした。一馬は渋ったが、美咲はそれを押し切った。そこに孝介も一緒に行くと言い出し三人で隊長に会いに行くことにした。
美咲たちが張られていた結界を通り抜けて隊長がいるというこの場所にたどり着いたとき、急に一馬の様子がおかしくなった。
「隊長は本当にここにいるのか?本当にこんな場所にいるのか?」
そう言う一馬の表情は険しく美咲が見たこともないような怖い顔をしていた。
「見つけた。」
そう言って一馬は駆け出して行ってしまった。
「こんな事だろうと思ってたよ。」
そう呆れたように呟く孝介とは裏腹に、美咲は全く状況を理解できなかった。
「やっぱり一馬は気付いてなかったのか。忠次が帰ってきたとき、あいつからはあいつらと同じ気配がしてたっていうのに。となれば、隊長がどんな場所にいるのかなんてだいたい解るだろうって。本当あいつバカだよね。」
そう同意を求められても美咲には孝介が一体何の話をしているのかさっぱりわからなかった。
「そっか、君には解らない話だよね。君は僕達の事なんて何にも知らないんだから。」
そう言う孝介の目は凄く冷たかった。それを見て孝介もまた怒っているのだと美咲は思った。何が起きたのかは解らない、でも二人ともひどく怒っている、それだけは解った。
「もし一馬が鬼になったら君のせいだよ。」
そう言って孝介もまた一馬を追って行ってしまった。そうして美咲は一人その場に取り残された。
一馬が鬼になるってどういう事だろう。ずっと鬼にならなかった一馬がなんで今になって鬼になるんだろう。そして、そうなったらわたしのせいってどういう事なんだろう。美咲には全く分からなかった。ただ言いしれない不安だけが美咲を襲いそこに呆然と立っていた。
○ ○
「沙依?こんなとこで何してんだ?」
声を掛けて振り返ったその不安そうな顔を見て磁生は人違いに気が付いた。後姿だけではない、顔も沙依によく似ていたが間違いなく沙依ではなかった。沙依に似ていたが沙衣でもないと思った。磁生は沙依の双子の妹のような存在である沙衣とは面識がなく、話を聞いてい知っていただけだが、違うと思った。沙衣は医者をしていると言っていたが目の前の人物はどうみても医者ではなかった。それにターチェであることは間違いなさそうだったが、全く戦慣れした雰囲気もなくとても軍人には思えなかった。よく似た見た目、でも沙依の方が全体的に締まった印象があった。華奢に見えて沙依は案外筋肉質だが、目の前の人物は多分本当に華奢なんだと思う。医療部隊とはいえ軍人のはずの沙衣がこんな華奢なはずはないだろう。
その人物は美咲と名乗った。屈託なく笑うその姿に磁生は無性に懐かしさを感じた。
不安だったところに人が来て心底安心した様なそんな美咲の顔をみて、こいつは本当にターチェなのかと磁生は疑問に思った。軍人でないことは間違いないだろうが、戦争を生き延びたにしては警戒心が無さすぎる。あの激闘の時代を生き抜いて、こんな風にいられる者などいるのだろうか。もしこれが油断させるための演技だとしたら、拍手喝采ものだと思った。
「悪い。知り合いによく似てたもんで間違えた。あんたどうやってここに入ってきた?迷って入ってくるようなとこじゃないだろ?」
一応警戒をしつつ磁生は聞いた。
「あなたが今さっきわたしを間違えたその沙依さんに会ってみたくて連れてきてもらったんだけど、一緒に来た人たちに置いてかれちゃって。」
そう本当に困った様な顔でそう言う姿からは、やはり全く敵意や害意は感じられなかった。それどころか磁生がいつでも応戦できる体制に入っているのさえ気が付いていない様子で、そのあまりにも無警戒な様子に磁生は毒気が抜かれた。
「あんたターチェだろ?そんなんでよく生き残れたな。」
そう呆れたように言う磁生に美咲は笑った。
「わたしが生まれたのは戦争が終わったずっと後だから、生き残るも何もそんな危険な目に遭ったことがないんだ。」
その言葉をきいて磁生は納得した。平和な時代の子か。そんな時代の新しい世代がいるなんて想像すらしたことはなかった。でもそんなこともあるのかもしれない。ターチェは滅びてはいないのだから。
考えても仕方がないことだが、春李が生まれたのが今の時代ならあいつもこんな風にいられたのかななんて思ってしまう自分がいて、そしたらあんなに苦しまなくてもよかったのに、殺されなくて済んだのに、そんなことを考えてしまう自分がいて、磁生は苦笑した。春李の死と向き合えるようになってから更に何千年と経つのに、まだこんなどうしようもない未練が残っているなんて、本当にどうしようもないと思う。想っても仕方がない人物をまだ想い続けているなんて、自分がそんな未練がましい奴だったとは知らなかった。磁生の中で春李が、自分の妻だった人がただの思い出になるのは、まだ遠い話しの様で、それを実感して磁生の胸が少し痛んだ。
そんなことに思いを馳せて磁生は気が付いた。目の前にいる人物の笑い方が春李に、自分の大切だった人によく似ているのだ。だから無性に懐かしくなったのだ。よりによって沙依の見た目で春李によく似た笑い方をするなんて、悪い冗談にもほどがあるだろ。磁生は心の中で悪態をついて、空を見上げた。
「大丈夫?どうかしたの?」
美咲は本当に心配そうに磁生を見上げた。その姿に何とも言えない気持ちが込み上げてきて、磁生は美咲の身体を引きよせて強く抱きしめた。
「悪い。ちょっとだけこうさせてくれ。すぐ終わるから。」
急なことに美咲は驚いたが、そう言う磁生の声が泣きそうになっているのに気が付いてされるがままにしていた。男の人にこんな風に抱きしめられるのは初めてだった。磁生の体温が、鼓動がとても近くに感じで、自分の鼓動が早くなり顔が熱くなるのを感じた。嫌な感じはしなかった。ただ、この人も自分を通して誰かを見ている、そう感じてちょっとだけ胸が苦しくなった。
暫くして身体を離した磁生は、悪かったなと呟いた。
美咲は恥ずかしくて磁生の顔が見られなかった。耳まで赤くして俯く美咲の姿を見て、磁生は顔を抑えて、それは反則だろと呟いた。
「いや、本当に悪かった。知らない男に急にこんなことされたら、そりゃあれだよな。」
しどろもどろに言い訳と謝罪を繰り返す磁生の姿がおかしくて、美咲は笑った。それを見て磁生は頭を掻きながらそっぽを向いて、ため息をついた。
「この年になって、まさかこんな思いするとは思わなかったよ。」
そう悪態をついて磁生は気持ちを切り替えた。
「沙依に会いに来たんだろ?案内してやるよ。一緒に来た奴らも沙依に会いに来たなら、あいつの所にいりゃ合流できるだろ。」
磁生の申し出に美咲は満面の笑みを浮かべてでお礼を言った。
歩きながら磁生に促されて美咲はここに来た経緯や置き去りにされた時のことを彼に話した。その話を聞くと彼もまた険しい顔をした。
「そいつら第二部特殊部隊の副隊長共か。よりによって沙依の部下だった血の気の多い連中かよ。そうすると道徳が危ないな。」
磁生はぶつぶつ呟きながら何かを必死に考えていた。どうして彼がそんなに焦っているのか美咲には解らなかった。磁生が何を言っているのか全く分からない、でも何か大変なことが起きている事だけは解って胸がざわついた。そんな美咲の様子を見て磁生は何とも言えない気持ちになった。
「本当にあんたは何にも知らないんだな。」
そう言う磁生の顔は困っている様に見えた。同じようなことを言われているのに、孝介とは違う響きで聞こえる。孝介からは軽蔑や侮蔑が滲んでいたが、目の前の人物は美咲を心配している様に聞こえた。そして少し何かを考えて彼は話した。
「昔、卑怯な手を使ってターチェを滅ぼしにかかったのは俺たち仙人なんだよ。当時、実際戦争に関わった連中はもういない。でも俺も鬼になったあいつらを沢山殺してる。今いる連中はほとんどがターチェの存在も昔の戦争のことも知らないような奴ばっかだが、そんなの関係ないだろ?ここはあんたらからしたら敵陣で、憎んでも憎みきれないような連中の巣窟なんだよ。そしてそんなところに自分の大切な奴がいる。それは誤解を生んでも仕方がないんじゃないか?ただでさえ血の気の多い連中が、頭に血を登らせるのも仕方がないことだろ。」
その言葉に美咲は血の気が引いた。一馬が今でもその戦争のことを忘れられないでいるのを美咲はよく知っていた。憎みそうになって、恨みそうになって、感情にのまれそうになって、それを隊長のことを考えることでなんとか押さえているのを知っていた。そんな一馬を無理やりここに連れてきてしまった。美咲は、一馬が鬼になったら自分のせいだと言われた意味がようやく理解できた。絶望的なまでに理解することができた。
「あんた戦えないんだろ?外に案内するから遠くに逃げろ。ここはきっと戦場になる。」
自分の話を聞いて青ざめた美咲を見て磁生はそう言ったが、美咲は首を横に振ってその提案を拒否した。
「わたしを連れてって。わたしが無理やり一馬をここに連れてきちゃった。わたしが止めないと。」
「止めるってあんたじゃ何もできないだろ。ターチェのくせに武術も呪術もどっちもダメって、邪魔にしかなんねぇんだよ。」
そう怒鳴りつける磁生にそれでも美咲は引かなかった。絶対に行くと言って聞かない美咲に、磁生は心底困り果てた。仙界大戦の時の沙依はこんな気持ちだったのだろうか。あの時沙依は、足手まといはいらないとはっきり言いきって一人で全てを終えようとしていた。自分さえどうなるか解らないところに、戦力外の者を連れていくわけにはいかない。守ろうとすれば自分を危機に陥れ、見捨てれば確実に傷になる。それが解っていたから彼女はあんなにも他の者が戦闘に加わることを拒絶していたのだろうか。結局沙依は足手まといを守るために、自分の戦力を削ってそちらに回した。あの時自分達を守るために割いていた力を女媧討伐に当てられれば、彼女はあんな状態にならなかったのではないだろうかと思ってしまう。かろうじて生命を繋ぎ止めた彼女は今も後遺症が残っている。身体も気脈ももう全快しているが、脳に受けたダメージだけは回復することはできなかった。そのため彼女はもう戦えない。以前の様に動くことも、考えることも、術式を組むことだって困難な状態になってしまった。そうまでして他人を守る覚悟は磁生にはなかった。でも目の前のこの人物を見殺しにする覚悟もできなかった。
「俺はあんたを守れない。そもそもそんなに強くない。沙依の話だと現役だった頃のあいつより強い奴ら相手に、あいつの足元にも及ばない戦力しかない自分は対応できるわけがない。それでも俺はここの人間で、事情も知ってる数少ない人間だ。行かなきゃならねぇ。あんたらと戦争になってここが滅びたとしてもそれは仕方がないことだ。だけどあんたがここで死ぬ必要はないだろ。俺はあんたに死んでほしくない。」
そう言う磁生の目は真剣だった。それでも美咲は引かなかった。
「戦争になることも、ここが滅びることも仕方がないことじゃないよ。なんでそんな大昔の話で喧嘩しなくちゃいけないの?今ここにいる人たちは一馬たちが引きずってる戦争に参加してないんだよね?それなのに自分たちのご先祖様がしたことだからってしょうがないなんて、自分たちが恨まれても仕方がないなんて、そんなのおかしいよ。今の戦争の事を知らない人たちが、いきなり攻撃されて住んでるところを滅ぼされたら、そしたらきっと一馬みたいになっちゃうんでしょ?そんなのダメだよ。そんなんじゃずっと戦争は終わらないじゃない。それこそどっちかが完全にいなくなるまで終わらない。そんなことはダメだよ。そんなことになる前に止めないと。」
そうまくし立てる美咲もまた真剣だった。
「一馬は頭に血は上りやすいけど、本当はいい人なんだよ。頭に血が上ってるからって周りが全く見えなくなるようなことはない。戦えないと解ってるわたしを攻撃なんてしない。だからわたしが説得しないと。それでも止められないのなら、その時は命を懸けたって止めて見せる。一馬にそんなことは絶対させない。させるわけにはいかないんだ。」
美咲の真剣な瞳に磁生は白旗をあげた。
「なんでターチェの女ってやつはこうも頑固なんだ。」
苦い顔をしながらも磁生は美咲を沙依の元に連れて行った。
○ ○
「結局、一馬は美咲に押し切られて沙依に会いにいくそうだ。」
そう言う沙衣に高英はそうかと答えた。
「お前はいいのか?」
高英の問いに沙衣は微笑んだ。
「わたしはいいんだ。わたしにとって沙依は大切で特別な存在だった。今でもそれは変わらないが、会わずにはいられぬほど恋い焦がれるほどじゃない。今ではもう沙依はわたしの中で過去になった。沙依の為と思うなら命さえ惜しくはないと、あれだけ想い続けていた相手なのに、今ではもうただの懐かしい思い出だ。そのうち気が向いたら会いに行ってもいいかもしれないが、今はいい。」
そう言う沙衣は本当にさっぱりした顔をしていた。
「昔のわたしなら考えられないことだろう。昔のわたしなら、忠次さんが沙依の無事を知らせてくれたあの時に、忠次さんを問い詰めて沙依に会いに行ってここに連れ戻そうとしていただろう。でも今は沙依が帰ってこないのは沙依の意思だと思えるし、それを尊重しようと思える。会いたくなったらいつでも会いに行けると思うから、今すぐ会いに行かなくてもいいと思える。凄く不思議な気分だ。こう考えられるようになったのは全部、忠次さんのおかげだ。」
そう笑う沙衣は本当に幸せそうだった。
「口調は昔に戻ったが、本当にお前はずいぶんと変わったな。」
今のお前を見たら沙依は喜ぶだろうな。そう高英は呟いた。
「ここに戻って来て昔なじみと昔と同じように働いていたらいつの間にか昔の口調に戻っていた。今ではどうやって沙依の真似をしていたのか、どんな風に話していたのかもよく思い出せないよ。結局わたしの真似っこは全然似てなかったらしいがな。」
そう肩をすくめて見せる沙衣は本当に普通の人に見えた。
「お前こそいいのか?」
沙衣のその問いに、高英は少し考えるそぶりを見せた。
「お前も気が付いているだろうが、お前も身体はもう長くは持たないぞ。逆によくここまで長く持ったものだと思うくらいだ。」
昔の戦争で高英の身体はその機能をほとんど失っていた。かろうじて心臓が動いているだけ。自分の意思で何一つ身体を動かすことができないこの状態で幾千年。本当によく持ったと思う。こうして会話ができるのは、彼のその能力が精神干渉で声帯を震わせずとも、直接相手の脳に働きかけることができるからに他ならなかった。そしてここは高英が作り出した精神世界。ここでは昔と同じ姿で、昔と同じように人と話すことができた。
「兄貴や沙依が俺とは違うと気が付いてた。俺の知らないところで何かしようとしてるということも。多分それが全部終わったんだろ。そのうえであいつが無事で幸せそうにしてるって聞いて気が抜けたのかもな。」
そういう高英は自分の死期を悟っている様子だった。
「沙衣。今の状態で身体を離れれば俺の身体はもうもたないだろう。後は任せてもいいか?」
「ああ構わないさ。」
二人は意思を確かめ合うように暫く見つめ合っていた。
気が付くと沙衣は精神世界から戻っていた。寝台に横たわる高英はまだ息があった。まだ心臓は動いていた。でもそこにはもう彼はいなかった。
「高英。ずっと沙依を守ってくれてありがとう。長い間お疲れさま。」
届かないと解っていながら沙衣はそっと声を掛けた。
「本当に行かなくて良かったのか?」
忠次に聞かれて沙衣は微笑んだ。彼の胸に頭をつける。そうすると彼の鼓動が聞こえてきて心が落ち着いた。
「いいんだ。忠次さんから話を聞くだけでわたしは充分だ。それに沙依に会うのがちょっと怖い。もし沙依に会ってしまえば、自分はまた昔の自分に戻ってしまうのではないかと思って怖い。また沙依しか見えなくなってしまうんじゃないかって、また沙依の意思を無視して自分の気持ちを押し付けてしまうんじゃないかって、怖いんだ。」
そうやって自分の胸に顔をうずめる沙衣を忠次は優しく抱きしめた。この人はとても繊細でとても弱い。それを一人で抱えていた頃は、本当に危うくて、心配で仕方がなかった。今はこうやって自分に素直に弱さを見せて甘えてくれる。それが忠次は嬉しくて、とても愛おしかった。出会った頃と口調も雰囲気も変わった彼女。それでも自分が好きになった人に変わりはなかった。今でも好きな気持ちは衰えるどころか膨れるばかりだった。
「大丈夫だよ。俺が傍にいる。」
そうやって頭を撫でられると沙衣の心は温かいもので満たされた。自分が切ったはずの縁を諦めないで彼は繋いでくれた。彼はいつだって自分の願いを叶えてくれる。自分がなんだって、どんなだって全部受け止めてくれる。この人がいてくれれば自分は大丈夫、本当にそう思わせてくれる人だった。
「忠次さん。大好き。」
そう呟やいて沙衣はなんだか気恥ずかしくなった。
「俺も好きだよ。愛してる。」
そう言って忠次はそっと沙衣に口づけをした。その唇を離すと忠次は遠くを見た。
「それにしても一馬さんは大丈夫だろうか?」
忠次のその言葉に沙衣は疑問符を浮かべた。
「美咲君は戦争を知らないしあなたはもうそれを乗り越えているが、彼はまだ戦争から立ち直れていないように思う。彼の時間は大昔で止まったままだ。そんな彼があそこに行くというのは、いささか厳しいものがあると思うのだが。」
そう言われても何が厳しいのか沙衣は全く分からなかった。怪訝そうな顔をする沙衣を見て忠次は眉間にしわを寄せた。
「もしかして気が付いてなかったのか?」
「何の事?」
「あなた達を苦しめたあの戦争。それを起こしたのは人間だったな。人間なのに、人間ではない力をつかう者。今の俺はそれに当てはまると思わないか?確証はないが、沙依さんがいるところはきっとそういうところだよ。」
それを聞いて沙衣は眉間にしわを寄せた。
「まさか忠次さんはわたし達をあんな目にあわした奴らの元で人間をやめたっていうのか。そして沙依はそんな奴らと安穏と暮らしてると?」
険しい顔をする沙衣を見て忠次は胸が痛くなった。
「とっくにその可能性に気が付いていると思ってた。自分があなた達を苦しめた元凶と同じようなものになっていることを解って受け入れてくれているのだと、ずっとそう思っていたんだが。」
そう言って辛そうに顔を歪める忠次に沙衣は首を横に振った。
「忠次さんはあいつらとは違う。あいつらじゃない。同じようなものになったって、あなたはあなたで、わたしの大切な人だ。」
真剣に自分にそう言い聞かす沙衣の頬に忠次はそっと手を当てた。
「同じだよ。あそこにいる人たちは俺と同じだ。戦争が終わった後に生まれて、何も知らずに人間をやめた。戦争を起こした者と同じ、人間を超越した者になった。それでもあなた達の目にはあなた達を苦しめた者と同じに見えてしまうだろう?」
そう言う忠次の目は優しかった。
「俺を違うというなら、彼らも違うんだよ。俺のことを特別に出来るのは、それは人間をやめる前の俺をあなたが知っているからに過ぎない。もし最初から俺が人間じゃなかったら、それで出会っていたら、同じように言えるのか?」
まるで生徒に言い聞かすように忠次は問いかけた。沙衣は知らずに涙が出た。
「戦争の問題というのは根が深い。割り切ってどうなる問題でもない。人間なんか見てごらん。世代が変わろうと、時代が変わろうと、当事者がいなくなったって、大昔のことを言い訳に今でもいがみ合っているんだ。ほぼ当事者しか残っていないあなた達が、簡単に割り切れるわけがない。相手がたとえ当事者ではなかったとしても、彼らのことを何も知らないあなた達が彼らに情を掛けられるのか?俺と同じように受け入れられるのか?ただの人間の事さえまだ完全に許すことが出来ないのにそんなこと出来るわけないだろう。」
そう言って忠次は沙衣を強く抱きしめた。
「ちゃんと話しておくべきだった。すまない。ここに戻ってきたとき俺はあなたと繋がれないのであれば死んだっていい、そんな気持ちでいたけれど、あまりにもあっけなく受け入れられて驚いたのに。その時にあなたが気付いていない可能性を考えるべきだった。あなたに再会できて、こうして一緒になれて浮かれていた。自分のことを解って受け入れてくれているのだと勘違いしていた。だから気軽に沙依さんの話をしてしまった。気軽に美咲君に会いに行けなんて言ってしまった。これは俺の責任だ。」
自分を強く抱きしめるその感触に何かを感じて沙衣は忠次の服を握りしめた。
「忠次さん、何をするつもり?」
そう問われて忠次は優しく微笑んだ。
「こんな時の為に俺は沙依さんから修練を積まされてるんだよ。何かあった時に対応できるようにって。それが今だろ。美咲君たちを連れ戻してくる。」
「ダメ、行かないで。一馬は止めようとして止められるような奴じゃない。そもそもそんなところに行ったならもう鬼になってるかもしれないし、そんなところに行ったらあなたが死んでしまう。」
泣きそうな沙衣の額に忠次は口づけをした。
「俺だって今でも訓練や研究は続けているんだよ。それ、一馬さんは鬼にはならないと思う。あの人は心の強い人だ。どんなに感情が高ぶってもそれに完全に飲み込まれるなんてない、芯の所で自分を抑えることができる人だ。俺の確信を信じて。」
そう言って忠次は笑った。
「ちゃんとあなたの所に戻ってくるから。」
そう言われた瞬間沙衣は決心した。
「わたしも行く。」
その台詞に忠次は驚いた。
「一人でなんか行かせない。わたしを置いてくなんて許さない。」
泣きそうな顔で笑う沙衣を見て、忠次は微笑んだ。
「そうだね。あなたを一人にはできないよな。じゃあ、一緒に行こうか。」
忠次はすんなり沙衣の決意を受け入れた。
忠次には気になっていることがあった。沙衣は自分が何者になったのか本当に気が付いてなかったのだろう。一馬もきっと知らずにあそこに赴いてしまったのだと思う。でも一緒についていった孝介は確実に解っていた。忠次がここに住む様になった頃、彼からあからさまな敵意を向けられ指摘されたことがあった。それなのにどうして彼は美咲たちを止めなかったのか。どうし美咲たちについていったのか。忠次には孝介が意識的に何かをしようとしているように思えて仕方がなかった。一馬の事よりも孝介の事の方に、忠次は不安を覚えていた。
「はぁ?お前も龍籠はなれるの?俺の仕事が増えるじゃん。ただでさえ人手不足なのにさ、やめてよほんと。」
そう悪態をついたのは、情報司令部隊の隊長、児島成得だった。
「しかも司令官がもう余命わずかで旅にでたとか。どれだけ俺の仕事増やす気なの。嫌がらせか?」
「別にたいした仕事ないんだからいいだろ。」
その沙衣の言葉に成得は大きなため息をついた。
「そのたいした仕事じゃないのが積み重なると大きな負担なの。それにそんなことなら俺が行きたいくらいだよ。沙依から聞き出せてない情報も多いし、俺が行くからお前残らない?」
「お前が行ったって一馬の事止めないだろ。」
「そりゃ興味ないしね。沙依もいて司令官もついてるならあいつらが何とかすんじゃないの?」
成得のその台詞に沙衣は呆れた。そんな沙衣の様子は気にせず成得は何かをしていた。
「楓ちゃん。ちょっとこの間できたあれ持ってきて。んで、こいつに渡してくれる。」
そう言われ、成得の傍についていた女性は一度部屋を後にすると、小さな黒い箱のような物体をもって戻ってきた。渡された物を見て、沙衣は首を傾げた。
「これは技術開発部隊が作った最新式の通信装置です。」
そう言って楓は淡々と使い方を説明した。使い方はいたって簡単。ボタンを押せば情報司令部に繋がって連絡がとれる、ただそれだけ。
「なんて言ったって俺の千里眼を元に技術開発して作ってるから、この地上の内だったらどこからでも通信できる優れものだ。丁度いいから性能確かめてきてくれ。これを使ってこまめに報告を入れること、あと撤退命令を出したらすぐ戻ってくること。以上。よろしく。」
そう言って薄ら笑いを浮かべている成得の姿に沙衣は何とも言えなくなった。
「お前ほど医療技術や知識に長けた人材はいない。ただでさえ医者は少ないのにせっかく戻ってきたその知識を失うわけにはいかない。それにお前の頭の中にはあの正蔵勝成の知識が詰め込まれてるんだからな。あのおっさんが生きてりゃともかく、正蔵家の書庫も戦火に焼けた今龍籠が培ってきた医術の全てはお前の頭の中だけだ。うちがそれを全部引き出すまでは絶対死ぬなよ。情報は大切な資源なんだからな。」
そう言う目は真剣だった。本当に昔から変わらない。成得の知識欲や情報に関する執念は並外れている。昔から常に成得は何かを知りたがっていた。その答えを沙依が持っていると確信して、彼がいつも沙依を追い回していたのを思い出して、沙衣は苦笑した。
「お前らが帰ってきたら俺もそこに行っていいか?」
成得の言葉に無理だろと沙衣は即答していた。
「いくらお前の部下が皆優秀とはいえ、高英の穴を埋められるのはお前くらいだろ。高英の次の司令塔統括管理官はお前以外いない。お前がいなくても仕事が回るうまい方法を編み出さない限りお前はここからはなれられないさ。」
沙衣のその言葉に、成得はどうでもよさそうに即答とかひどいなと呟いた。
「なら沙依に一度帰って来いって言っておけよ。あいつには聞きたいことが山ほどあるんだ。今度こそ全部吐かせてやる。」
そう言う成得の目にはどうしようもないほどの渇望が見えて、沙衣は疑問に思った。
「なんでそこまで沙依に拘るんだ?いったいお前は何が知りたい?」
沙衣の問いに成得は答えた。
「俺たちのルーツだよ。」
成得のその目の真剣さに沙衣は息を飲んだ。
「ずっと本当のことを知りたくて仕方がないんだ。俺は確実に最初の兄弟の一人だ。俺は最初の記憶を持っていない。でも自分がそうだったと分かる。どいつが兄弟だったのかも感覚で解る。その中で沙依は最初の記憶を持ってる。あいつは全部知ってる。そう思うからあいつから話を聞き出したい。どうして同じ兄弟なのに俺たちは忘れてしまったのか、どうしてあいつは覚えてるのか、始まりに何があったのか、それを知りたい。」
それは成得の悲願だった。どうしても諦めきれない思いだった。
「話がだいぶそれたな。」
そう言って成得は薄ら笑いを浮かべた。
「あいつらは目的地にまだ着いてないから、忠次の空間転移の術式を利用すれば追いつけなくもないだろう。陽陰みたく地上のどこでも転移できる訳じゃないから先回りは不可能だが、最短ルートを割り出しておいた。これで順調に行って間に合うかどうかは五分五分だな。忠次一人なら充分間に合うがお前もとなると負担が大きい。忠次の気力がどこまで持つか次第だ。武運を祈る。」
そう言って成得は沙衣を送り出した。
○ ○
「これ、とくちゃんが持ってたんだ?」
沙依は道徳の部屋にあった一つの刀を手に取ってみて懐かしくなった。それは自分の刀だった。とっくの昔に失くしてしまったと思い込んでいたとても大切なもの。それが意外なところで見つかって吃驚した。見つけた時はよく似た別のものかと思ったが、手に取ってみるとそれは間違いなく自分の刀だった。
「お前を探してる時に老子からもらったんだ。あの時はお前は危篤状態であの人は頑としてお前の居場所を教えないって言ってたから、形見のつもりだったのかもな。お前の事忘れろって言われて渡されたんだ。」
そう言われて沙依は納得した。太上老君。沙依がヤタと呼んでいるその人物は、戦争の際に沙依を連れてこの大陸に逃げてきて、記憶のなかった彼女をずっと守って世話していた人物だった。この大陸に渡って来てから仙人界へ連れ去られるまでずっと彼の元にいたのだから、彼の所に自分の刀があってもおかしくはない。
「これはね。コーエーがわたしの為に作ってくれた刀なんだ。ターチェは成人の儀が終わると近しい人から守り刀を送られる風習があるんだけど、これは武器の扱いが苦手で変な癖があるわたしが扱いやすいようにコーエーが作ってくれた守り刀なの。」
そうやって懐かしむ沙依からそのコーエーと呼ばれた人物への想いを読み取って、道徳は胸がざわついた。沙依を後ろからそっと抱きしめ、沙依の持つ刀に触れる。そうすると沙依が苦笑するのが解った。
「とくちゃん。さすがにこれを壊したら怒るよ。思い出に嫉妬するのは構わないけど、大切なものを壊されるのは許せない。」
そう諭され道徳は少し気落ちした。そう、まさしく嫉妬。今自分はいったい何をしようとしてたのだろうか。沙依の言う通り嫉妬に駆られて沙依がそんな眼差しを向けるそれを壊そうとしていたのではないだろうか。そう自覚して本当に自分が嫌になった。
道徳は自分の独占欲の強さが異常なことは理解していた。沙依の全てが知りたい。でも沙依が自分以外に向ける些細な想いでも感じ取ると、激しく嫉妬にかられ、胸が苦しくなる。自分だけを見てほしい。全てを手に入れたい。独り占めしたい。沙依はもう自分の恋人で、自分のものだと解っているのに、沙依も自分を好きでいてくれていると解っているのに、この関係になる前よりずっと彼女を渇望しているのは何故だろう。自分の異常さを抑えようとすればするほどそれは激しくなり、結局沙依を縛ってしまう。そしてどんなに彼女の近くにいても、彼女に触れて彼女と繋がっていても、心は満たされず乾いていく。だから、大切にしたいはずなのに、より強く彼女を感じたくて彼女を制圧するように、服従させるようにいつも彼女に激しく当たってしまった。そんな自分をいつも受け入れてされるがままになっている彼女が、自分の腕の中の彼女がひどく遠く感じて、恋人になる前より距離を感じた。この関係になる前は彼女が自分を慕ってくれていると、絶対的な信頼を寄せてくれていると確信できたのに、どうして今はそれができないんだろう。自分に抱かれる彼女の顔に度々恐怖に似た感情を見て取って、道徳は辛くなった。そんなつもりじゃないのに、そんな思いをさせたい訳じゃないのに、どうしてこうなってしまうんだろう。
道徳は沙依を強く抱きしめた。愛しているんだ。本当に大切でだと思っているんだ。そう思って、自分が安心できるように強く抱きしめた。
「とくちゃんがそんな気持ちになって嫌な思いをするなら、もう昔の話はしないよ。とくちゃんの知らないわたしの話はしない。」
困ったように沙依はそう言った。自分を抱きしめる彼からは強い不安が伝わってきた。いつもそうだった。いつも道徳が不安を募らせていることを沙依は感じていた。でもどうして彼がそんなにも不安になるのかは解らなかった。解らなかったが、昔の話をしなければ彼がこんなに不安にならなくては済むのではないかと思っての提案だった
「お前の事なら些細な事でも何でも知りたい。俺の知らないことがあるほうが嫌だ。」
きっぱりといいきる道徳に沙依は困り果てた。
どうしたら道徳の不安が解消されるのか沙依には解らなかった。ただ自分のせいで彼がこうなっていることだけは解った。だから彼が望むことは全部受け入れてきた。そうすれば彼が安心できるのではないかと思って受け入れてきた。なのに彼の不安は膨らむばかりでどうにもならなかった。
道徳は沙依が一人で出かければ事細かくどこで誰と何をしてきたかいつも聞いていた。道徳が出かけて沙依が留守番しているだけでもそれは同じだった。聞かれれば素直に話すが、聞いた後道徳は大抵不機嫌になる。本人は隠しているつもりのようだが全然隠れていないし、大抵その後激しく沙依を求めてくる。沙依が自分のものだと言い聞かすように強く自分を求めるその姿に、沙依は自分の想いが彼に届いていないような気がして淋しくなった。自分の気持ちを信じてもらえていない気がして悲しくなった。そしてそこに狂気を感じて、少し怖くなった。父が母を失って狂ってしまった時と同じようなものを道徳から感じて怖かった。自分はここにいるのにどうして彼は父様と同じ気配をまとっているのだろう。そんなことを考えて沙依は、彼はここにいる自分を見ていない気がして苦しくなった。彼の心がひどく遠く感じた。誰よりも繋がっていたいはずの人なのに、今はそのつながりに確信が持てなかった。
「コーエーみたいにわたしの頭の中と四六時中つなぎっぱなしにしてみててもらえれはいいのに。記憶だってなんだって筒抜けで、とくちゃんにわたしのこと全部見てもらえればいいのに。」
つい思ったことがぽろっと出てしまった。その瞬間道徳の怒気が膨らんだのが解り、沙依は自分が地雷を踏んだことを理解した。
「そいつに頭の中ずっと覗かれてたのか?四六時中?」
静かな声が狂気に満ちていて沙依はなんとも言えない気持ちになった。
「コーエーは過保護だったからわたしに何かあったらすぐ対応できるようにしてくれたんだよ。それでもつないでるだけで基本放置だったし、大きなことでもわたしの意思を最優先してくれたから、あんまり覗かれてるって意識はなかったよ。」
これも地雷になることは解っていた。でも言わなければ余計狂気が増すことが解っていたので、沙依は正直に話した。話すべきか話さないべきか、どちらの方がいいのか沙依には解らなかった。地雷になることは経験から解っていても、何が彼をそうさせるのか解らない沙依には彼を落ち着かせるために言うべき言葉を選ぶことはできなかった。
沙依の話を聞くと道徳はしばらく沙依を抱きしめたまま固まっていた。それは自分の狂気を必死に抑えようとしている様に思えた。そんな道徳の気配を感じて、今日もまたあれがくる、そう思って身構えている自分がいて、沙依は何とも言えない気持ちになった。
「ちょっと頭を冷やしてくる。」
そう言って道徳は出ていった。沙依はそんな道徳の背中を見送った。
道徳のことは特別で確かに好きなのに、自分も彼を求めているのに、彼と自分の好きな気持ちは違うように沙依は思えて仕方がなかった。沙依は道徳の様に、あそこまで感情が高ぶるほどの嫉妬心を覚えたことはない。狂気に走るほど道徳を渇望したことはない。自分は本当はそこまで彼のことを好きではないのだろうか。そんなことを考えて、沙依はそんなことはない否定した。今だって繋がりたいと思ってる。道徳が自分の命をつないでくれていたあの時と同じように、深く心を通じ合わせたいと思ってる。なら何でこんなにも心が離れてしまっているんだろう。沙依は深く考えようとして、頭が痛くなった。
深く何かを考えようとすると頭が痛くなる。いつだって身体が重くて、怠く、すぐ眠くなる。それが後遺症のせいだということを沙依は解っていた。自分の身体はもう以前の様には動かない。自分の頭はもう以前の様に働かない。でもちゃんと大切な人と向き合いたい。向き合うためにはちゃんと考えなくてはいけない。考えなくてはいけないのに。ひどい眠気が襲って、結局沙依はそれ以上考えることはできなかった。
少し日向ぼっこでもしながら昼寝しよう。そう思って沙依も家の外に出て、倒れ込む様にそこに寝転んだ。今日もいい天気だった。風が心地よい。暖かい日差しに包まれて沙依が意識を手放そうとしたとき、
「隊長。」
声がした。ひどく懐かしい声だった。
沙依は自分の身体が宙に浮く感覚で、目が覚めた。沙依は両脇をもって宙高く持ち上げられていた。
「相変らずちっさいな。ちゃんと飯食ってんのか?」
「お前がバカみたいにでかいだけだろ。ひとの事、軽々と持ち上げるな。さっさと下ろせ。」
思わず昔の様に返していた。
目の前には自分が龍籠の第二部特殊部隊部隊長を務めていた時の副隊長、斉藤一馬の姿があった。なんでここに彼がいるのか沙依には解らなかったが、いても不思議ではなかった。自分が生きていることもここにいることも知られているのだから、いたっておかしくはないのだ。ただ目の前の人物から静かな怒りの感情を読み取って、沙依は疑問に思った。いったい彼は何に怒っているのだろうか。そもそも元来短気で直情的な彼がこんなにも静かに怒っていることが、沙依には不思議で仕方がなかった。それ故に、それだけ彼の怒りがとても深く大きなものに思えた。
「なぁ隊長。あんた、なんでこんなとこにいるんだ?」
その声は冷たく響いた。
「なぁ。あんたここで何された?何があればそんな風になるんだ?なんでこんなになってんだよ。」
そう言う一馬の顔が怒っている様にも泣きそうにも見えて、沙依は胸が詰まった。
「これはわたしの選択の結果だよ。大切なものを守りたくて、戦って、その結果後遺症が残った。それだけ。」
そう単調に言う沙依を、一馬はじっと見ていた。
「帰って来いよ。俺たちにはあんたが必要だ。」
一馬の目は真剣だった。本気でそう言っているのが解ったから沙依も本音で返した。
「見ての通りわたしはもう戦えない。もう軍人はできないし、以前のような働きもできない。お前がいるならわたしはもう必要ないよ。第二部特殊部隊はお前が纏めればいい。元々わたしの次はお前の予定だったし、行徳さんだってお前が立つのを望んでた。それにわたしの家はもうここなんだ。龍籠に戻るつもりもないよ。」
沙依の言葉を聞くと一馬は黙り込んだ。そしてそっと沙依を下ろすと、一馬は沙依の肩に手を置いて、沙依の顔を覗き込んだ。
「あんた、あいつらにどんな洗脳を受けたんだ?」
重く響く静かな声だった。それは今にも爆発しそうなほどの怒気を含んだ声だった。
「洗脳なんて受けてない。自分の意思だよ。」
沙依は努めて冷静に答えた。
「ふざけんなよ。どうやったらそんなことが信じられる?なんだここは?この気配は、あいつらの、ターチェを惨殺した、龍籠を滅ぼした、あの特殊な人間の巣窟だろ。こんなところにいる今のあんた見て、どうやったら敵につかまって洗脳されたんじゃないなんて信じられるんだよ。洗脳されてないなら何でこんなところでのうのうと暮らしてられるんだよ。あんたをこんなところに置いとける訳ないだろ。帰るぞ。帰って来い、隊長。洗脳されてないっていうなら、帰って来いよ。」
一馬の悲痛な叫びが沙依の胸に刺さった。肩に置かれた手には更に力が込められひどく痛かった。
そうか一馬は何も知らない。だから怒っているのだ。沙依が口を開こうとしたその時。
「誰だお前?何をしている?」
最悪のタイミングだった。道徳はあからさまに敵意をむき出しにして一馬を見ていた。今の状況で一馬にそんな殺気を向けたら。
「とくちゃん、来ちゃダメ。」
声をあげるのと同時に沙依は動いていた。自分の状態がどうとか、そんなことはどうでもよかった。一馬の怒りの矛先が、攻撃対象が、それが道徳に向いたことを察知した瞬間沙依の身体は自然に動いていた。沙依に術式をかけられて一馬の動きが止まる。
「ごめんね、一馬。少し眠っていて。」
そう言って沙依は一馬の耳元で何かを囁いた。一馬は意識を失ったようにその場に倒れ込み、沙依もまた膝をついた。
「沙依。大丈夫か?」
道徳は沙依に駆け寄った。道徳の無事な姿を見て沙依はほっとした。彼が無事ということは一馬は力を使わなかった。どんなに怒りに身をやつしても、自制して力は使わない。その力を使えばこの地上のありとあらゆるものを一瞬で滅ぼしてしまえる力があるのに、一馬はそれを使わない。一馬は変わってない。そう実感して沙依はまだ説得の余地があると感じて安心した。ただそれとは別にまだ安心できる状況でないことを沙依は感じ取っていた。
膝をつき肩で息をする沙依は、その視線を前方の林の中へ向け険しい顔をしていた。
「とくちゃん逃げて。後で全部話すから。とにかく、今は、ここから離れて。」
自分を支える道徳に沙依はそう言った。息も絶え絶えにそう言う沙依を怪訝に思っていると、気前方から見えない何かが飛んでくるのを感じ、道徳はとっさにそれを防いで応戦した。間髪入れずに放たれるその攻撃に、沙依を抱えたままでは回避が間に合わず、道徳はいくつか傷を負った。
「人間の分際で、案外いい反射神経してるんですね。」
そう言って現れたのは孝介だった。孝介は一気に間を詰めると、道徳の鳩尾に鞘を打ち込み、吹っ飛んだ道徳をさらに追い詰め、その足に深々と刀を差し込んだ。受け身も何も間に合わなかった。かろうじて視界には捉えていたが、道徳は全く反応することができなかった。なんとか反撃しようとする道徳の手足を次々に刀で差し込んで、孝介は道徳の身動きをとれなくしてしまった。あっという間の出来事だった。道徳は自分が何をされたのか全く認識することはできなかった。ただ四肢を穿たれた時に何かされたのは間違いなかった。術式を組もうとしても、全く発動できなくなっていた。起き上がることも術式を発動させることもできない道徳は、ただ地べたに這いつくばったまま孝介を睨みつけることしかできなかった。
「弱いですね。所詮、僕等がまともに戦えば、あなたたちなんてこの程度だった。」
そう冷たい視線を向けて孝介は道徳に刀を振り下ろした。カキンと音がしてその刃が返される。自分の刃を返した人物を見て、孝介は一瞬驚いた顔をして、そして、とても嬉しそうに笑った。
いつそこに現れたのか誰も認識できなかった。抜き身の刃を携えて、肩で息をしている沙依がそこに立っていた。沙依はいつになく強い殺気を纏ってそこにいた。
「さすがは隊長と言うべきですか。」
自分を睨みつける沙依に向かって、本当に心底嬉しそうに孝介は笑った。
「相変らずですね隊長。やっぱりあなたは美しい。あなたにそんな敵意をむき出しに見つめられると、ぞくぞくします。」
沙依が刀を振ると孝介は余裕の表情でそれを躱し、柄を抑えて動きを封じた。
「あの程度の術式の使用でそんな風になるなんて、見る影もありませんね。こんなに簡単に僕に動きを抑えられて本来のあなたの足元にも及ばない。何があればそんなにボロボロになるんですか?あなたを何がそんな風にしたのか、想像をすると凄く興奮します。でも、誰かがあなたをそんな風にしたと考えると凄く腹が立ちますよ。」
そう言って孝介は沙依の顎を掴んだ。沙依は明確な敵意を向けてまっすぐ孝介の目を見ていた。
「こんな状況で怯まない、媚びない、決して諦めない。その闘志。本当に隊長なんですね。会いたかったですよ、隊長。」
敵意を向ける沙依とは裏腹に孝介はとても愛しそうに沙依を見ていた。
「ねぇ隊長。あなたは迷いなく僕達の敵に回るんですね。あなたを信頼してついてきた部下を捨てて仲間の敵に味方するんですね。それがどれだけ残酷な事か解ってます?」
そう言われても全く揺るがない沙依の瞳に、孝介は笑った。心底楽しそうに笑っていた。
「何が、そんなに楽しいの?」
嫌悪を帯びた沙依の問いに孝介は答えた。
「今のあなたなら壊せそうだなって思って。」
そう言うと孝介は沙依の身体を引き寄せて道徳の方を向かせた。
「ずっと一緒に戦ってきた、ずっと傍にいてあなたを支えてきた僕達より、隊長はこの男をとるんでしょう?そんなにこの男が大切なんでしょう?ちょっと痛めつけただけでこんなにあなたが感情的になるくらいあの男が好きなんでしょう?あの男があなたを普通の女にした。」
そう言う孝介の様子に悪寒を感じて、沙依はとっさに道徳を自分の眷属に守らせた。一瞬、間に合わず、道徳が吐血する。その光景がひどくゆっくりに見えて、沙依は自分の頭に更に血が上るのを感じた。
「さすが隊長ですよね。あなたが生きてる限りもう彼には手出しできない。でもいいんですよ。僕には彼が生きていてくれる方が都合がいい。だって、彼にじわじわ苦しんでもらった方があなたの心に傷がつけられるでしょ。僕等より大切な彼が苦しめば、あなたの感情をむき出しにできる。あなたの感情をもっと見たい。隊長の強い感情を、もっと、もっと肌で感じたい。」
孝介の思惑通りに自分が動かされていることは解っていた。解っていたが、芽生えた怒りを抑えておくことが沙依にはできなかった。沙依は孝介を突き飛ばすと、自分の眷属の力を利用して、孝介に雷撃を放った。攻撃が放たれるより先にそれを察知した孝介はやすやすとそれを回避していた。
孝介は自分を睨みつける沙依の全身から殺気がほとばしっているのを見て取って、胸の高鳴りを感じた。もっと、もっと僕のことを憎悪して、僕にその感情を全て向けて、僕の事しか見えなくなればいい。孝介は笑っていた。まともに食らえば一発で即死出来るほどの攻撃を放たれながら、孝介は心から笑っていた。
「本気で殺す気で来るなんて、あなたはやっぱり素敵だ。」
沙依の雷撃をよけながら孝介は間合いを詰める。孝介が刀を振るった先にはもう沙依の姿はなく、孝介はとっさに横に回避した。一瞬前まで自分がいたところを雷撃が通る。追撃に備えてすぐ動く。今の沙依の動きは単調だから、予測するのは簡単だった。それでも食らえば即死、掠りでもすれば動けなくなることは間違いない連撃を躱し続けるのは命がけだった。
孝介は沙依との戦いを楽しんでいた。本当に楽しくて仕方がなかった。自分に向けられた殺意が、消耗していく沙依を見るのが、こうやって本気で隊長と殺し合っていることが、楽しくて、楽しくて仕方がなかった。本当に楽しいのに、胸が苦しくなった。だから孝介は思った。やっぱり今すぐにでも壊して、その瞳に自分の姿しか映らないようにさせて、自分だけのモノにしてしまわないと。あぁ、壊したい。めちゃくちゃに壊して、自分のものにしてしまいたい。沙依との攻防を続けながら、孝介はそんなことを思っていた。
孝介は思う。冷静な沙依相手だったらもうとっくに追い詰められて詰んでいただろう。隊長をしていた時の沙依だったら、どんなに感情が高ぶるような時でも、どんな状態だって、こんな風に冷静さを失う事なんてなかった。隊長は変わった。あの人間の手で変えられた。そう実感して孝介の中にどす黒い感情が広がった。
「ねぇ隊長。こうやって敵の味方をして、仲間を殺そうとするあなたを見たら、一馬はどうなっちゃうでしょうかね。あいつが鬼にならずにいられたのはあなたへの信仰心ですよ。そんなあいつがこんなところ見たら、今度こそ鬼になっちゃうかもしれませんね。」
「一馬は鬼にはならないよ。怒ってわたしごとここを消し去ることはあったとしても、あいつは鬼になんかならない。」
「あいかわらずあなたの一馬への信頼は厚いんですね。でも、案外あなたが思ってるより脆いかもしれないですよ。」
「短気に見えるあいつが、あの能力を持って、一度だって無為に使ったことはない。それは、あいつが、無自覚であってもちゃんと自制してたからだ。あいつは誰よりも理性的だ。」
「理性的。一馬に最も似合わない言葉ですね。」
確実に沙依は消耗していった。抗いがたい睡魔が襲ってくる。でも今は集中力を途切れさせるわけにはいかなかった。
「あなたはいつだって高慢だ。あの時だってそうだった。人間をかばって僕たちに死ねと言った。あなたはそんなつもりがなかったとしても、あれはそういうことでしたよ。そして人間を見下してるってことだ。今だってそうでしょ。こうやって迷わずそっちを選ぶのは、彼らを弱いものと見下して、僕たちならそれを理解して受け入れてくれるって、心のどこかで思ってるからでしょ。」
孝介の言葉が沙依の頭に響いた。
「僕達が本当にあなたの言葉を理解して、共感してあなたの言うことを受け入れたんだと思ってますか?敬愛するあなたが、信愛するあなたがそう言ったから、それに従った。それだけだとは思いませんか?ねぇ、隊長。これって本当にひどい裏切りですよ。あなたを信じて従った僕らへの最大の裏切り行為ですよ。」
視界はぼやけて孝介が一体どんな顔をしているのか沙依には解らなかった。多分、笑っているのだと思う。声もいつも通りの孝介の声のはずだった。それでも沙依には彼が泣いている様に聞こえた。
「捉まえた。」
沙依の耳元で声がした。抗いがたい眠気に浸食され沙依の意識は朦朧としていた。
「こうやって捉まえていれば、あなたは僕を攻撃できない。あなたの眷属はあなたを傷つけることが出来ないから、自分ごと僕を攻撃できないでしょ。」
そう言って孝介は沙依を抱きしめていた。
「初めてあなたの姿を見たときからずっとあなたの事だけ考えてきました。ずっとあなたをめちゃくちゃに壊したくて、壊したくて、仕方がなかった。あなたをめちゃくちゃにした後、壊れたあなたをずっと手元において愛でていたかった。あなたを僕だけの人形にしてしまいたかった。愛してます、隊長。」
そう言って孝介は沙依に口づけをした。沙依の身体に力が入って、孝介は微笑んだ。
「かわいい抵抗ですね。リミッターを外したところで、今のあなたじゃ力で僕に勝てませんよ。」
沙依からまだ闘志を感じて孝介は強く沙依を抱きしめた。
「本当にあなたは素敵だ。こんな風にあなたを感じることができるなんて、僕は幸せです。」
そう言って孝介は沙依の首筋に顔をうずめて、深く息を吸った。しばらくして顔をあげると、孝介は再び沙依の唇を奪ってむさぼった。
「あぁ、あなたの匂い。あなたの味。その嫌悪に満ちた表情。身体からほとばしる殺気。たまらないです。無駄な抵抗を続けようとするところも、本当かわいいですよ、隊長。」
好きです。そう呟いて、孝介は執拗に沙依の口内を舐った。
屈辱だった。舌を噛み切ってやりたくても力が入らない。涙が溢れそうになって、沙依は悔しくなった。兄様から散々言われていたじゃないか、こういう相手には何も反応してはいけないと。散々訓練されたじゃないか、昔は普通にできていたはずなのに、どうして今は出来ないんだろう。道徳がそこにいる、それだけで自分の感情は自分の言うことをきいてくれない。どうして。
「ほら、見て下さい隊長。彼、凄い顔してますよ。ここでこのままあなたにこれ以上のことをしたら、彼はどうなってしまうでしょうね。あなたが僕にめちゃくちゃにされてるところを見せたら、あなたに傷をつけて死なないように痛め続けたら、あなたの苦痛に歪む顔を見せ続けたら、彼どうなってしまうでしょう。自分のせいで苦しむ彼を見たら、精神を壊していく彼を見たら、彼が壊れてしまったら、あなたはどんな反応をするでしょうか。」
まるで沙依の心を読んだかのように孝介は沙依の意識を道徳に向けさせた。出血がひどく道徳の意識は朦朧としている様だった。それでもそんな彼と目が合った気がして、沙依は胸が締め付けられる思いがした。
孝介は笑っていた。凄くいい顔をしてますよ。凄く興奮します。そう言って、本当に愛おしそうに沙依を見つめて孝介は笑っていた。
沙依ではない殺気を感じて、孝介は思わず沙依から手を離して飛びのいた。首を刀がかすめ、血が滴る。
「お前のそのどす黒い欲望を、実際に沙依に向けたら承知しないって警告しただろ。」
そう言って沙依を後ろに庇ったのは美咲だった。姿は美咲だったが、その口調も、気迫も、動きも、その全てが美咲のものではなかった。
「これはこれは司令官殿。隊長の守護神様のおでましですか。」
そう言って孝介は目を細めた。そこにはあからさまな侮蔑の色があった。
「いいですね。隊長の意識があるうちにケリをつけましょうか。自分を庇ってあなたが殺されたら、関係のないその子が死ぬことになったら、いい具合に隊長を追い詰められそうです。助けたくても身体が動かない、見ているだけしかできない、目の前で大切なものが失われていく。隊長の一番嫌いな展開ですよね。」
本当に嬉しそうに笑って、孝介は美咲の姿をした高英に躍りかかった。刀が交わり、火花が散る。距離をとって孝介は衝撃波を放った。それと同時に転回し別の角度から攻撃を仕掛ける。かろうじて凌いではいたがあからさまに高英は反応しきれていなかった。
「本来のあなたならともかく、本体が死にかけでろくに能力も使えない上にそのできそこないの訓練もまともに受けていない身体で何ができるっていうんですか。」
高英はあえて間合いを詰めて攻撃を仕掛ける。防御が間に合わないのならば攻撃に徹するしかない。そんな高英の連撃を受け流しながら、孝介も攻撃を繰り返すがなかなか仕留めさせてもらえない。より少ない手数で相手を仕留めることに特化した第二部特殊部隊の副隊長相手に、できそこないの身体でこれほど戦えるというのはさすがというべきか。でも、美咲の身体でこんな動きはそう長くは持たないだろう。孝介はそう考えたところで違和感を感じて、後退し距離をとった。違和感を感じたところに手を当ててると、そこに何か刺さっていた。その針のようなものを抜き捨てると、孝介はそれが刺さっていた部分を切って血を抜いた。
「少し侮っていました。まさかこんなところで連携を取る相手がいるとは思わなかったので。」
そう言って孝介が何もないところに衝撃波を放つと、何もなかったはずの場所から人影が飛び出し、退避した。それは磁生だった。
「司令官殿が陽動で、幻術に、針ですか。面白い。でもゲームオーバーですね。」
高英は膝をついていた。戦いなれていない美咲の身体は限界だった、手足が痙攣して動かなくなっていた。磁生がそれを術式で回復するが、戦況は悪かった。見つかってしまった以上、もう不意打ちは出来ないし、回復したとはいえ美咲の身体では行動に限界があった。
「あんたなんか作戦はあるのか?俺じゃ大した時間稼ぎはできねぇぞ。」
磁生のその言葉を聞いて孝介は笑っていた。
「時間稼ぎならできると思っているのが滑稽ですね。本当に時間稼ぎができると思っているんですか?」
そう言う孝介の目はひどく冷たく磁生は背筋が凍った。
高英は何かを考える様に目を閉じていた。
「悪いな美咲。お前の魂、無理やり解放させるぞ。」
高英がそう呟くと、美咲の身体は気を失ったように崩れ落ちた。その隣にはいつの間にか男が立っていた。赤茶色の髪にそれを少し薄くしたような色の瞳をした男。その男もターチェだった。
孝介はそれを見て心底驚いている様子だった。
「摂理に反することはしたくなかったが、しかたがない。覚悟はできてるな、孝介?」
男にそう言われて孝介は諦めたように笑った。
「これは想定外だったな。美咲ちゃんの魂があの人のものだったなんて思ってもみなかった。あなたがそれで復活するなんて、反則でしょ。司令官殿。」
孝介は自分の死を受け入れて両手を挙げた。後悔はなかった。自分が描いていた結末とは違うが、これはこれでかまわなかった。
高英が孝介に引導を渡そうとしたその時、
「待ってコーエー。手を出さないで。」
静止の声がした。沙依がそこに立っていた。高英が陽動している間に磁生は沙依の手当てもしていた。しっかりと意識を取り戻した沙依はとても真剣な目をして孝介を見ていた。
「なんだ戻っちゃいましたか。今度こそあなたを壊せると思ったのにな。」
本当に残念そうにそう言う孝介に娑依は歩み寄り、孝介の瞳を覗き込んだ。
「孝介。お前は何に怒っていたの?」
沙依の静かな声に孝介は遠くを見た。
「僕は本当にあなたを壊したかっただけですよ。そして自分のものにしたかった。」
その答えに沙依は首を横に振った。
「それはそれで本当の事なのかもしれない。でもお前は怒っていた。ただ怒りをぶつけていただけでしょう?そして死のうとした。最初から殺されるつもりだったんでしょう?」
孝介は沙依の目を見つめ返して、小さくため息をついた。そこにはもう敵意も殺意もなかった。そこには孝介が良く知っている隊長の姿があった。
「戦争を起こした人間に怒ってたの?それとも行動を強制しあなた達を死に向かわせたわたし?それとも自分自身に?」
自分が怒って自暴自棄になっていただけだと断言する沙依に、孝介は苦笑した。
「全部ですかね。」
そう言って孝介は改めて沙依の瞳を見つめ、やっぱり綺麗ですねと呟いた。
「あなたには本当かなわないな。あなたは僕の事嫌いだから殺してくれると思ったのに。あなたを壊せないならあなたの手で死にたかったんだけどな。どうせ死ぬならずっと我慢してたこと全部してしまおうと思ったのに。」
そう言う孝介からももう戦意は感じられなかった。
「あいかわらす孝介はバカだな。わたしがお前のこと嫌いなら、お前の願いなんて絶対かなえてやるわけがないでしょ。」
それもそうですねと孝介は笑った。
「またお前が自分の気持ちの置き場に困って暴れたくなったら全力で付き合ってあげるからさ、こんな面倒くさいことしないで普通に会いに来なよ。べつにお前はそこまで人間の事恨んでないんでしょ。人の感情逆立てて遊ぶのが好きなだけで、お前は恨むほど人間に興味なんてないんだからさ。」
あっけらかんとそう言う沙依に孝介は驚いて目を見開き、そして眩しそうに目を細めた。
「そうですね。そうなんだと思います。だから、やっぱり僕はあなたに怒ってたんですね。僕達のところに帰って来てくれないあなたに腹が立って、あなたに大切にされてる人間に嫉妬してたんだと思います。」
そうやって二人は和やかに笑い合っていた。いつの間にやら問題は終結しているようだった。完全に戦闘態勢に入っていた高英と磁生は二人のやり取りにあっけにとられていた。
「あんだけ大暴れしといてこんな終わりかったてありか?てか沙依、あんなことされてこいつのこと許して受け入れるとか、バカじゃねぇの。こんなとこ見たら道徳が発狂するぞ。」
そう言う磁生に沙依は笑った。
「うちの連中はさ、自己表現が苦手でめんどくさい奴ばっかなんだ。これが第二部特殊部隊のコミュニケーションの取り方だから、巻き込んでごめんね。」
そう言って沙依は磁生に道徳の治療を頼んだ。そういう問題じゃないと磁生は思ったが、沙依が全く理解していない様子なので諦めた。道徳は出血性ショックで意識を失っていた。まだ命に別状はない。でも、もう少し戦闘が長引いていたらどうなっていたかは解らない。磁生は道徳の治療を始め、お前も苦労するなと心の中で呟いた。独占欲が人一倍強い道徳と、そういう感情に疎くて無頓着な沙依。自分でこの二人をくっつけといてなんだが、この二人すこぶる相性が悪いんじゃないかと磁生は思ってため息が漏れた。
沙依は道徳の傍にしゃがんで、道徳の頬を撫でた。
「とくちゃんをこんな風にされたのは、やっぱり腹が立ったな。つい頭に血が上って孝介の思い通りに動いちゃったよ。わたしとしたことがとんだ失態だね。」
沙依はそう言って道徳の傷口を目でなぞった。この程度の傷まともに術式が使える状態ならすぐ治せるのに、今の自分にはそんな力はない。今の自分は以前の様に思い通りに術式を使いこなすことはできないのだ。自分が以前の様に戦えないことは解っていたはずだった。でも、さっき一馬を止めるためにとっさに術式を発動させて初めてそれを実感した。何よりも使い慣れた夢封じでさえ略式では行えず、呪言を唱えなくては発動させることができなかったという事実がショックだった。仲間を裏切って、慕ってくれた部下を見捨てて、選んだことの結果がこれだった。そして自分は何もできない。今の自分には何の力もない。
沙依は孝介に言われた言葉を思い出してそれが心に刺さった。沢山の人を傷つけてきた。必要だと思った時、意図的に覚悟をもってそうしてきた。でも自分が知らないところで、気付かなかったところで、本当はもっと沢山の人の心を踏みにじってきたのかもしれない。裏切ってきたのかもしれない。沙依は目を閉じて自分の心と向き合った。じっと深く沙依は考えていた。
暫くして沙依は立ちあがると大きく伸びをした。
「あとは一馬を何とかしないとね。」
そう言って沙依は一馬の方に歩き出そうとしてバランスを崩し、それを高英が支えた。
「五方封じと夢封じを掛けてあるから、一馬が術式に気が付いて壊さなければわたしが解くまであのままだよ。わたしはちょっと寝るから一馬が起きないか様子を見てて。もし起きそうな様子があったら、叩き起こしてくれると嬉しい。」
高英を見てそう言うと沙依は本当に眠ってしまった。沙依は心底安心したような顔をして眠っていた。そんな沙依を高英はとても大切なものを扱うように優しく横にした。その様子を見て磁生は何とも言えない気持ちになった。
「道徳からしたらあんたもあの男も許せない存在なんだろうな。あいつは独占欲強いし、嫉妬深いし。なのにさ、あんなことしたあの男を許した挙句受け入れるとかありえないだろ。沙依はひどい女だな、まじで。そんなことしたら自分の恋人がどう思うとか考えやしない。それが裏切り行為だってこと解っちゃいない。どれだけ相手を傷つけるのか全く分かっちゃいない。あんたもこいつに男がいるのにいつまでも過保護に甘やかすなよ。」
高英の反応はなかったが磁生は続けた。
「道徳もあの男も異常だと思うよ。異常だと思うけどさ、沙依よりかはあいつらの方に俺は共感できるね。」
磁生のその言葉に高英は一言だけ返した。
「俺は全く共感できない。」
視線が交じりあって磁生は高英が何を思っているのか理解できた。
そうだった、沙依からも春李からも話を聞いて知っていたではないか。この男も異常なのだ。この男の異常な愛に守られて、沙依はいろんなものと向き合う機会を奪われてきたのだ。全て許されてきた。全て受け入れられてきた。そして守られてきた。結局、ここで記憶をなくし子供に戻った時も道徳に過保護に守られ、同じように許され、同じように受け入れられて育った。今更、それが普通じゃないなんて沙依には解らないのだ。高英が思っている様に、沙依が解っていないことが不都合なら、そう思う人間が気付かせなくてはいけないのだ。そう考えがいたって磁生は頭が痛くなった。
○ ○
「治療記録を見せてくれないか?」
沙衣にそう言われ磁生は困った。そんなものは今まで一度もつけたことがなかった。そう伝えると、沙衣は眉間にしわを寄せて難しい顔をしていた。遅れてやってきたこの沙依によく似た人物は、沙依の様子を見るとすぐさま治療を始めた。沙衣は医療記録がないと解ると、沙依が今の状態に至るまでどのような経緯かあったのか、原因と思われることは何なのか、今までどのような治療を行ってきたのか、磁生を根ほり葉ほり問い詰め、磁生はそれに辟易した。磁生のその様子に沙衣は呆れたようにため息をついた。
「医者のくせに治療記録をつけていないというのはどういうことだ。基本だろ。意識が低いんじゃないか。」
沙衣の怒気を含んだ物言いに磁生はうんざりして俺は医者じゃないとぼやいた。
「医者ではないのなら逆にこれだけの技術をこなせるのは凄いな。せっかくの才能だ、どうせなら本職にしてみたらどうだ?」
磁生のぼやきを耳で拾った沙衣はそう言った。
「お前が望むなら龍籠が誇る正蔵の医術を伝授してやってもいい。」
そう言う沙衣の顔があまりにもさっぱりしていて、磁生はそれも悪くないかもなと思った。春李も、沙依も自分を医者だと言った。そうじゃないと否定しても、それをさらに否定された。自分の手は人を助けたがっているのだと、そう言われた。本当に医者になってみるのもいいかもしれない。
「お前は沙依のこの状態、何が原因だと思う?」
そう問われて磁生は、脳の損傷による後遺症じゃないのか?と答えた。それに対して沙衣は首を横に振った。
「確かに沙依は脳に損傷を受けていたのかもしれないが、現在ここまでの後遺症が出るほどの損傷は見受けられない。人体蘇生術さえ使いこなす沙依だ。自分自身の身体の回復力も異常に高い。脳も機能に支障がない程度に回復している。」
そう言われて磁生にも心当たりがあった。簡単な擦り傷、切り傷程度の軽傷なら術式で治すことは簡単だが、損傷した臓器などの回復は不可能に近いほど難しい。にもかかわらず沙依はかろうじて息がある程度の重体の傷を跡形もなく治療していた。治療ではなく、あれは人体蘇生だったのだと言われれば納得だった。それでもその術式がひどく難しいことには変わりないが。
「じゃあ、どうして沙依はこんな状態なんだ?」
磁生のその当たり前の疑問に沙衣は、気脈の流れと魂の繋がり、そしてそれらを含めた身体全体をよく診てみろと言った。集中して全体を診てみる。
「やっぱり脳の障害じゃないのか?ここに影があって、身体の情報伝達の機能や気のコントロールに支障が出てるだろ。」
「今度は自分の錬気を沙依の気脈に流してその流れを診ろ。それが終わったら、血脈の流れも同じように調べてみろ。」
磁生は素直に言われたとおりに流れを調べてあることに気が付いた。その様子を見ていた沙衣は、やっぱりお前は優秀だなと満足そうにしていた。
「この影は脳の損傷じゃない。沙依が受けた術式の残骸だ。もう本来の効力は失っているようだが、これが脳の働きを阻害して今の症状を誘発している。治療にはこの術式の残骸を取り除かなければいけないが、場所が場所だけに無理やり取り除くわけにはいかない。今はその働きを止めているとはいえ、刺激してなにも起きないとは限らない。それに元の術式が壊れている以上どんな暴走の仕方をするか解らないしな。術式を解除するにも現状情報が少なすぎる。術式をかけたと思われる者の一人はもう死んでるから情報を吐かせることもできないしな。」
そう言われて、それじゃどうするんだと磁生は思った。それでは治療できないと言っているのと変わらないではないか。そんな思いが伝わったのか、沙衣が言った。
「そう焦るな。時間をかけて調べればいいだけの話だ。それに今は高英がいるから解析なんてしなくても解除できる。問題ない。」
「それ先に言えよ。」
おもわす磁生は突っ込んでいた。沙衣が高英を呼び何かを伝えると、高英が沙依の方をちらりと見て、脳機能を阻害していた術式の残骸は綺麗に消え去った。自分が何千年も時間をかけて解決できなかったことが、こんなにも簡単に解決されてしまったことに磁生は衝撃を受けた。
「お前、生きてるなら、生活に支障がないなら、それでいいと治療を諦めていただろう。微細な不具合の調節、つまりは対処療法だけで満足してたんじゃないのか。」
沙衣に指摘されて磁生は反論できなかった。反論できずに俯く磁生の手を沙衣は優しく包んだ。
「気に病むな、お前は優秀だ。医者でもないくせに充分な技術もある。話を聞くだけでもお前がどれだけ沙依のために心血注いでくれたのかは理解できる。沙依が生きているのはお前のおかげだ。感謝している、ありがとう。」
そう微笑む姿から本当に沙衣が心から感謝していることが伝わってきて、磁生は胸が熱くなった。
「ところで美咲は大丈夫なのか?まだ目を覚まさないみたいだが。」
磁生の問いに沙衣は問題ないと答えた。
「美咲は人間に作られたターチェのせいか、元来七つまでには能力に覚醒するのにそれがなかった。それを高英が魂に強制的に働きかけて能力を引き出したから、負担がかかったんだろう。覚醒直後は魂と肉体のバランスが一時的に崩れて消耗もするしな。充分な休息をとれば大丈夫だ。」
そんな話をしていると美咲が目を覚ました。状況が理解できないようで、呆然と辺りを見渡し、最後に高英に視点を合わせて、その目を大きく見開いた。その瞬間、強烈な殺気と共に、美咲の目が赤く輝き、黒かった髪が真っ白に染まった。
「許さない。」
美咲が呟く。
「皆はわたしが守る。」
いつの間にか美咲の手には槌が握られており、彼女は高英に躍りかかった。高英はとっさに避け、槌が触れた地面は大きくひび割れた。
「兄様。どうしてこんなことをしたの?どうして。」
美咲が叫んで、周囲を爆風が襲った。狙いが自分だと思った高英は、被害を抑えるために防戦に徹しながら集団から離れていった。狙い通り高英を追って美咲は離れていく。
「あれは山邊隊長のバーサクモードじゃないですか。あの状態だとあの人、司令官の精神干渉もきかないし、バカみたいに戦闘能力上がるし、やばいんじゃないですか?さっきので美咲ちゃんの魂があの人のだとは解ってたけど、起きてすぐあれって司令官いったい何してあんなに怒らせたんですか?」
孝介の他人事のようなその言いように沙衣は眉根を寄せた。
「錯乱してるのは確かだな。無理やり魂に干渉したことで、何か目覚めさせてしまったのかもしれない。高英がそうそうやられるとは思わないが、たった七歳で第一部特殊部隊の一班を全滅させた力だ、ひ弱な美咲の身体とはいえ侮れないな。」
頭を冷やさせるしかないがはたしてどうやったらそれができるのか。沙衣の知る限り、いつもこうなった時は対象を殲滅するまで治まらなかった。いったい陽陰はどうやってあれを治めたのだろう。沙衣には解決策が思いつかなかった。
「錯乱してるなら鎮静剤打ち込んでみたらどうだ?」
磁生のその提案に沙衣は考え込んだ。
「意識混濁を起こすくらいの量を打ち込まないとあれは止まらないぞ。そもそもおとなしく注射なんてさせないだろ。」
沙衣のその言葉に磁生は針灸用の針を出して見せた。
「ツボに針さして身体の動きを強制的に止めて、その隙に打ち込む。」
磁生はいたって真面目に言っている様子だったが、沙衣にはそれが出来るとは到底思えなかった。
「とても現実的とは思えないな。あいつに気付かれずに針を刺すなんて、そもそもあんなに激しく動く標的に的確に針を刺すなんて、そんな神業ができるわけないだろ。下手したらお前も標的になるだけだぞ。」
沙衣のその台詞に磁生は薄く笑って、針を投げて見せた。針は真っすぐ飛び、数メートル離れた場所の木に刺さった。そして磁生が更に連騰すると、それらは全て同じところに刺さった。近づいて見ると、それらが一ミリのズレもなく同じ場所に刺さっているのが解った。一見普通の針灸用の針に見えるが、それは戦闘用に加工された独特なものだった。
「そもそも俺はこっちが本業なの。どんなに素早く動く的だって、小さい的だって、視認できる的なら確実に当ててみせるさ。これで俺は沢山殺してきたんだからさ、実戦経験だけなら半端ないんだぜ。こんな技術でもあいつを止められるんなら儲けもんだろ。」
そう言って遠くをみる磁生に沙衣は違和感を覚えた。怪訝そうに自分を見る沙衣に気が付いて、磁生は笑った。
「あいつは春李と同じなんだろ?山邊春李は俺の妻だった。殺したり殺されたりが嫌いだったあいつが、本気で誰かを殺したい訳ないだろ。なら止めてやんねぇとさ。春李じゃないことは解ってるんだ。でも、それでもさ・・・。」
そう言う磁生は泣いている様に見えた。沙衣は磁生から目をそらして休んでいた忠次の所へ行った。
「忠次さん。疲れてるところ悪いけど力をかしてくれないか。磁生の援護を頼みたい。」
そう訊かれ、もちろんと、忠次は笑った。
そうして忠次の空間転移術で、忠次と磁生は移動した。
高英と美咲の戦闘は続いていた。高英の頭上に突如巨大な岩が現れ落ちてきた。それを避けたその先では目の前に槌が迫っている。どうにか避けながら間合いを詰めて攻撃を仕掛けるも、美咲はそれを半身で避けて高英の脇腹に槌を叩きこんだ。ぎりぎりのところで高英は鞘でそれを防ぎ退いたが、鞘ごと刀が粉砕されてしまった。もうこれで高英に武器はない。
美咲を気絶させて終わらせようと攻撃に転じたのが間違いだった。今の状態の美咲に精神干渉も幻術も効かない。会話をしようにも、会話にすらならない。美咲はただ何かを守ろうと必死に、高英を殺そうとしていた。高英には美咲が一体何を守ろうとしているのか、誰と自分を間違えているのか解らなかった。美咲の記憶は錯乱していて上手く情報が読み取れなかった。それに怒涛の攻撃を凌ぎながらあまりそちらに集中力を割くこともできなかった。
爆炎が上がった。一瞬、美咲の意識がそちらにとられ高英はその隙に大きく距離をとった。距離をとった場所に忠次の姿を見つけ、高英は状況を理解した。
「やあ、美咲君。ずいぶんと怒っている様子だけど、どうしたんだい?」
忠次の声掛に美咲は全く反応を見ず、攻撃を仕掛けるために間合いを詰めてきた。美咲が間合いを詰めたところで術式が展開され、美咲の姿が消えた。
「案外うまくいきましたね。」
そう言って笑う忠次は一見いつも通りに見えたが、その手は震えていた。高英の視線が自分の手に向けられているのに気が付いて忠次はばつが悪そうな顔をした。
「実戦は初めてなので。実際に殺気を向けられると、ずいぶん恐ろしいものですね。美咲君を罠にかけるあの一瞬の事だけだったのに、情けない限りです。」
そう言って忠次は美咲を転送した方へ目を向けた。
「後は彼がうまくやってくれるのを願うばかりですね。」
美咲には何が起きたか解らなかった。兄様を止めなくてはいけない。殺してでも、止めなくちゃ。そんな思いに囚われて、戦っていた。戦っていたその相手を追い詰めたところで、急に場所が変わった。場所が変わったら、身体が動かなくなっていた。何が起きたかは解らない。でも守らなきゃ。戦わなきゃ。いったい何を守りたいのか、何と戦わなくてはいけないのか、兄様とは誰なのか、美咲には解らなかった。でも戦わなくてはいけないことだけは解っていた。
首筋に何かが刺さる感覚がして美咲の意識は朦朧とした。
「大丈夫だ。大丈夫だから。」
誰かの声がした。ひどく懐かしい気がした。ひどく安心できる気がした。わたしはこの人を知っている。そう思ったが、これが誰なのか美咲は思い出すことができなかった。ただもう大丈夫だと思って気が抜けて、何かをしなくてはいけないと思っていたのにどうでもよくなって、意識が遠のいて眠りに落ちていた。
○ ○
沙依が目を覚ますと懐かしい顔がそろっていた。これは夢だろうか。なんだか不思議な気分だった。なんだか身体の調子がいい。いつも感じる倦怠感もなく凄くすっきりした気分だった。
「沙依、目が覚めたか?」
沙依が身を覚ましたことに気が付いた沙衣が、沙依の顔を覗き込んだ。
「なんだかすごく懐かしいね。」
沙衣を見て沙依は彼女が自分を治療し治してくれたのだと理解した。もう元には戻れないものだと思っていた。それが元通りになっている。普通に動かすことができる。ちゃんとつかめなくなっていた気脈の流れをちゃんと感じ取ることができる。さすがは沙衣だと思って、沙依は彼女に笑いかけた。沙衣も笑い返した。
「沙衣変わったね。」
そう言って嬉しそうに笑う沙依を見て沙衣は胸が暖かくなった。そして忠次の方を見た。自分の大切な人と目が合って沙衣は笑った。
「全部、忠次さんのおかげだ。」
幸せそうな沙衣の声を聴いて聞いて、沙依も幸せな気持ちになった。沙依が自分の為だけに作り出してしまった沙依の分身。沙依は自分の為にだけ生きる沙衣を見るのが辛かった。普通の人として生きてほしかった。幸せになってほしかった。その願いが叶ったことが解って沙依は嬉しかった。
沙依は立ちあがると道徳の元へ向かった。孝介にやられた傷は深く、暫くは動けそうにない様子だった。このままでは後遺症が残り手足を思うように動かせなくなるかもしれない、そんな傷だった。
「ひどいありさまだね。」
そう言って、沙依は道徳の傍に腰を下ろすとそっと傷に手をかざした。柔らかい暖かさに包まれて、傷はみるみる癒えていった。
「とくちゃん、怒ってる?」
道徳の治療を続けながら沙依は道徳に語り掛けた。道徳は何とも言えず目をそらした。惨めだった、悔しかった、どう表現していいか解らない感情が心の中を渦巻いていた。治療を終えると、道徳の胸に沙依は額をつけた。
「ずっと、考えてたんだ。わたしととくちゃんの気持ちの間には大きな違いがあるんじゃないかなって。」
それを聞いて道徳は胸が締め付けられるような思いがした。その先は聞きたくない。そう思った。沙依が自分の前からいなくなってしまう、そんな気がして怖かった。
何かを言おうとする道徳の言葉を沙依は遮った。
「大好きだよ。わたし、やっぱりとくちゃんのことが好き。どうしようもないくらい好き。あなたが無事で良かった。」
沙依は泣いていた。道徳も泣きたくなった。自分の胸に頭を押し付けて泣いている沙依を、道徳はそっと撫でた。
「とくちゃん、ごめんね。」
なんで沙依が謝るのか道徳には解らなかった。
「とくちゃんが不安になるのは、わたしがちゃんと気持ちを伝えなかったからだよね。いつもとくちゃんからばっかで、わたしあんまり自分の気持ち伝えたことなかった。これからは、わたしがちゃんととくちゃんのこと好きだって解ってもらえるように、とくちゃんのこと不安にさせないように頑張るから、だから、わたしのこと信じて。」
自分はいったい何を怖がっていたんだろう。何を不安に思っていたんだろう。沙依はこんなにも自分のことを想ってくれているのに。道徳は本当に自分が情けなくなった。本当にいつも自分の事ばかり考えて何もできない。自分に自信がないだけなのだ。どうしようもないくらい自分に自信がないから、どうしようもなく不安になってしまうのだ。弱い自分が受け入れられなくて、必要以上に求めてしまう。こうやって触れていないと、触れていたって沙依はどこかに行ってしまんじゃないかって不安になって、いつも縛りつけてしまう。「君は仙人としてあまりにも精神が未熟だよ。」太乙に言われた言葉を思い出して、本当にその通りだなと思って乾いた笑いが漏れた。
「俺こそ悪かった。」
そう言って道徳は沙依を抱きしめた。
「わたし、いくら考えてもよく分からないことが多いけど、でも、とくちゃんがいなくなるのは嫌だよ。とくちゃんが傷付くのも嫌だ。ずっと傍にいてほしい。わたしの全部を受け入れてほしいし、とくちゃんのことも受け止めたい。とくちゃんがわたしの何を知っても傍にいてくれたように、わたしもとくちゃんのことならなんだって受け入れられる自信があるよ。それくらい大好きだよ。とくちゃんがわたしを想ってくれてるのと変わらないくらい、わたしだって大好きだよ。」
沙依の声を聴いて、心が満たされていくのを道徳は感じた。彼女のぬくもりが、鼓動が、自分の胸を濡らす涙が、全てが確かな形をもって道徳の心に入ってきた。大丈夫。沙依の気持ちが自分だけを見てるって、ちゃんと実感できる。
「沙依。俺、お前への劣情を我慢しなくていいかな?なんかさバカらしくなってきた。我慢すればするほど、お前を縛りつけてさ、傷つけて、こんなつもりじゃなかったのにって後悔して。こんなことしてしまう自分からお前が離れてくんじゃないかって怖くなって、不安になって、どうしようもなくなって、またお前を傷つけて。どうせお前の事傷つけるなら、俺の全部ぶつけた方がましなんじゃないかなって、そう思ったよ。」
呆けた様な道徳の言葉に、顔をあげて沙依は疑問符を浮かべた。
「とくちゃん、我慢してたの?」
目が合って道徳は何故か笑いが込み上げてきた。
「そりゃ、我慢してたよ。昔からずっと、我慢しっぱなしだ。怖かったんだ、お前に自分の全部ぶつけて嫌われるのがさ。こんなにお前に想われてるのにバカだろ?」
そうだね、お互いに本当にバカだね。そう呟いて沙依は思いっきり道徳の胸に顔を埋めた。自分を抱きしめるその温もりが心地よくて、沙依は暖かい気持ちに包まれた。すれ違っていた心が久しぶりに通じ合えた気がした。少しの間その幸せに浸って、沙依は道徳から離れた。
「ちょっと一馬を説得しに行ってくるね。」
そう言うと沙依は道徳の目を見た。いつも出かける時とは違う。道徳の目には不安も不信もなかった。だから沙依は安心して笑いかけた。自分から離れていくのに、不思議と道徳は不安を感じなかった。ただ、少しだけ嫉妬した。だから口に出した。
「そんな笑顔で他の男んところ行くなよ。」
素直に口に出すと、それがどうでもいいことの様に思えた。自分の言葉を聞いて驚いた顔の沙依を見て、じゃあこんな顔ならいいかなと眉間にしわを寄せて見せる沙依を見て、道徳の心は和んだ。方向性は大いに間違っている。道徳の言葉の意味を沙依は全然わかってない。でも、自分の言葉を真剣に受け止めて考えている沙依を見ると、それだけで道徳は心が満たされていくのを感じた。道徳は快く沙依を見送った。
そして沙依は一馬の所にやってきた。自分がかけた術式はまだ解かれていない。
「どうするつもりだ?」
沙衣にそう問われて沙依は困ったように笑った。
「実は何にも考えてないんだ。」
それを聞いて沙衣は呆れたような顔をした。
「とりあえず一馬の夢の中に入って、話をして来ようと思う。ちょっと行ってくるね。」
そう言い残して沙依は夢の中に旅立っていった。