序章
物心ついたときには母が傀儡だということを認識していた。
優しく微笑む顔の、暖かく響く声の、自分を包み込む温もりのその奥に、いつも別の誰かを感じていた。
愛してる。なんて美しいのだろう。あぁ、愛おしくてたまらない。全てが欲しい。
呪詛のように繰り返し聞こえてくるその声は、自分に向けられたものではなかった。それは地上に注がれたものだった。母の中の誰かはいつも地上に狂った愛を向けて、全てを欲していた。
幼い頃の自分には、視線の高さを合わせ話しかけてくるその人が、優しく頭を撫でるその人が、いったい何なのか理解できなくて、おぞましいもののように思えて、触れられるのが怖かった。妹や弟達のようにそれを母と慕い、甘えることはできなかった。距離を置き、心を閉ざし、いつだって警戒していた。その反面、心のどこかでやはり母を求めている自分がいて辛くなった。
この母というものの行動は何なのだろう。魂を壊され傀儡となった人間の面影なのか。魂を壊し傀儡とした何者かの意思なのか。解らなかった。自分たちの母とはどちらを指すのか、その両方なのか、それも解らなかった。自分達を愛しい我が子たちという母が本当に自分達を愛しているのかさえ解らず、母からの愛を妄信している妹弟達を見るのも辛かった。気がつけば自然と兄弟達とも距離が開いていた。
父が愛したのはいったい何だったのか解らない。父だってそれが傀儡だということは解っていたはずだった。なのにどうして傍に置き、添うことにしたのか自分には解らなかった。
壊されてしまった愛しい地上の子を憐れんだのか、地上に狂った愛を向ける何かに惹かれたのか。地上の神である父にとって、地上の全ては父の物であり、また同時に父自身が地上の全てだった。だから母の中にいるそれが愛し求めていたのは、父だと言っても過言ではなかったのかもしれない。その愛に父も応えていたのかもしれない。母の存在の答えも、父の想いも、自分には理解できなかった。
母の中のそれは地上に向けた愛を囁き続けるだけで他には何もしなかった。自分だけが異質なだけでそこには幸せな家族があった。自分に人の精神に干渉する力さえなければ、自分もその輪の中に普通に入ることができていたのかと思うと辛くなった。
末の妹が生まれてすぐ母の中にいた者は何者かに封印された。母を通してそれを知った時、自分は何とも言えない気持ちになった。その何者かの影響を失くしては母は自身を保っておられず、あれが封じられて間もなく息をひきとった。母の死を皆は深く悲しんでいた。そんな中、自分は母がいなくなって少しほっとしていることに気が付いて、胸に苦いものが走った。
母を失い気落ちしていた父の中に、母の中にいた者の気配を感じたのはそれからだいぶたってからだった。あれはまだ父(地上)を諦めていない。それどころか狂気が増している。そう感じた時にはもう自分にはどうすることもできなかった。
あれは父を狂わせ子供たちを傀儡に変えようとしていた。あれの意思を感じ取れるのは自分だけだった。何が起きていたのか、何が起きようとしているのか、解っているのは自分だけだった。皆を守らなくてはいけないそう思うのに、どうすればいいのか解らなかった。解らないまま決断の時は訪れて、自分は大切だった者達を手にかけていた。
こんな自分を許してくれなくていい。解ってくれなくていい。深く恨んでくれればいい。そう思った。
何度も生まれ、何度もあれ倒そうとその術を探し続けた。自分一人ではそれがかなわないと解っていながら、不毛な戦いを続け消耗していった。
解っていた。自分のしていることに意味なんてないのだと。それでも独り相撲を続けるほかなかった。自分にできるのは、自分は皆を助けようと努力しているのだと自分に言い聞かせることだけだった。
そんな繰り返しの中で、生まれ落ちた瞬間に独りでなかったあの時、そこに末妹の意思を感じた。
どうしてお前はいつだって俺の邪魔をするんだ。独りにさせてくれないんだ。どうして俺を助けようとするんだ。俺はこんなに酷い兄貴なのに。何もできない、どうしようもない、情けない兄貴なのに。
「兄様、大好き。」
そう言って笑った幼い妹の姿が目に浮かんだ。
その頃と変わらない姿で末妹が自分の前に現れた時、色々なことを諦めた。
神の子であっても自分たちは神ではないから、器が無くてはこの世に存在できない。それは末妹も同じ。でも末妹は昔と変わらぬ姿でそこにいた。お前だけは器の方が魂に寄せて変化させられるんだな。母(人間)によく似た容姿の妹は一番父(神)に近い存在だった。
末の妹の願いに抗えないことは解っていた。でも思った。お願いだから俺を助けようとしないでくれ。他の願いは全部助けるから、だから俺の事だけは諦めてくれ。俺は助かりたくなんてないんだ。
数え切れないほどの罪を重ねてきた。
決して許されるはずのない事を繰り返してきた。
それなのに、何でお前は。
自分の頬をつたったそれがいったい何なのか、長兄は理解できなかった。