幕間6 魔族の影
「……情けない」
結局あの後、生まれて初めて壁にぶら下がったまま用を足した。スカートで良かったとは思うが、恥ずかしさは変わらない。
さっさと忘れようとわたしは早々に登り出す。
崖は上から見たときはつるんとしているように感じたが、思いのほかごつごつしていて手足をかける場所を探すのにそれほど苦労はしなかった。
あんまり深い穴に手を突っ込むと、またあの虫みたいのが出てきそうな気がして手がすくむ。
「わたしは女王だぞっ!」
竜として女王として、なによりヴィットーリア・ディ・サヴォイアとして恥じない行動を。
意を決して穴に手を突っ込み、体を持ち上げる。目線の高さになった時ちらりと視線を向けたが、思いのほか穴は浅く中には何もいなかった。
「ふぅ……」
安堵の声と同時に脱力して落ちそうになったのを、翼を広げてバランスを取って持ちこたえる。
これだけ広い壁だ。全ての穴に生物が住んでいるわけがない。さっきは運が悪かっただけだろう。
そう思い直して手足に力を込める。
その後は順調だった。変な虫の襲撃はないし、上からの攻撃や妨害もない。
地上に近づくにつれて体に魔力が満ちてくるのを感じる。
しかしこのまま普通に上がっていったら、こちらが体勢を整える前に攻撃されかねない。
既に早朝とは呼べない時間帯だ。ここまで近づけば肉眼でも見つかる可能性は高い。
(何か影になりそうなもの……)
わたしは崖から突き出した岩を見つけてその下へ向かっていった。その岩の下に槍戦斧を突き刺してその上に座り、顔だけを出して地上の様子を窺う。
「……おかしい」
地上まで残り30メートル。ここまで近づいてもまだ何の動きもないのはなぜだ。
敵は1キロ以上先の上空を飛ぶわたしを察知した。つまり敵は既にわたしがここまで上ってきたことに気が付いているはず。
罠と捉えるのが正しいだろう。そして迂回するなり、引き返したりするのが上策だ。
だがそれは敵も分かっているはず。ここで仕掛けてこないという事は、敵の狙いはわたしの捕獲・誅殺ではなく足止め。本隊が回り込んでくるまで早く見積もってあと1日。
つまり、それだけの期間足止めできれば彼らの目的は達成されてしまうことになる。
「やはり行くか。竜の王の一角として恥じぬ戦いを……っ!」
槍戦斧を蹴り、尻尾で掴んで引き抜く。翼を広げて羽ばたきながら崖を垂直に駆け上がる。
本当は飛び上がって見下したいところだが、この状況で無駄に魔力は使いたくない。
崖上まで10メートル。まだ敵に動きはない。脚にさらなる力を込めて、翼を力強く羽ばたかせ、迎撃に備えて槍戦斧を前に突き出す。
残り3メートル。もう槍戦斧の先は崖上に出ている。そこで初めて人間の息遣いが聞こえた。
(だが遅いっ!)
わたしは崖の縁に足を駆け、一気に身体を持ち上げる。
――最初に見えた光景は10を超える銃口。それが全てこちらを向いている。変わった形だが、鉛玉で傷つけられたところでわたしの優位に変わりはない。
翼を広げて制動をかける。同時に天頂を向いていた槍戦斧を水平に向けて迎撃態勢を取る。
――撃ぇっ!奥のほうに居る人間が叫んだ。カチリという撃鉄が動く音が響く。
違和感。
火薬の爆ぜる音の代わりに、くぐもった音が響く。さらに鉛玉が飛んでくると思われた銃口は、白――いやうっすら赤みを帯びている?――そんな色をしたものがせり出してくるのがわかった。
それが何かはわからなかったが直撃しなければ何の問題もない。水平に構えた槍戦斧を右斜め前方に傾け、そのまま手首を軸に回転させる。
一番近くの銃口から最初に弾が飛び出した。やはり赤いだ。槍戦斧の影に隠れてはっきりと見えなくなってしまったが、それでも脅威には感じない。
(何かの魔力塊……?)
槍戦斧に何か影響があるかもしれないが、失ったら失ったで魔法攻撃に切り替えればいい。多少力は落ちているがもうここは大渓谷の外だ。
後続の弾も次々発射される。視界を覆う赤色の謎の弾。
ついに最初の一発が槍戦斧の刃先に触れた。
「っ!?」
――理解不能……。
弾いたはずの弾頭が槍戦斧が回転する軌道をすり抜けて内側に回り込んだ。さらに複数に分散している。後続の弾も次々に通過してくる。
槍戦斧の回転を止めつつ、翼をはためかせて距離を取り、身体を覆って守りにしようとする。
(間に合わない)
制動が間に合っていないのだ。地面に向かって落ち始めた私の身体は一度の羽ばたきくらいじゃ止まらない。
手の間をすり抜けた無数の弾頭はわたしの頭に、顔に、首に、胸に、腹に次々ぶつかっていく。
(これは……薬品?)
やはり弾頭は液体のようでわたしの装甲はおろか、肌を傷つける力すら持っていないようだ。
あまりに効果の無い攻撃に、いぶかしげな視線を向けながらわたしは地面に足を……。
「うっあ……?」
つけた足が力を失った。
たたらを踏んだもう一方の足も踏ん張りが利かずお尻から地面に落ちる。
びちゃっ、びちゃあぁぁぁぁ
「なっん……?」
座り込んでしまったわたしの頭に、おそらくあの弾頭と同じ液体がぶちまけられた。
「こんの……っ!」
支えにしようとした左手が謎の液体に滑って、胸と顔面を打つ。完全にバランスを崩したわたしは地面に転がった。
身体に力が入らない。
こんな敵陣のど真ん中で倒れている場合ではないのに。
「はっはーっ!見ろよっ!竜人様が手も足も出ねえみたいだぜーっ!」
「おおおおーっ!」
「どうだ?あの男と組んで正解だっただろ?」
「あの……男……?」
勝ち誇っているだけのようだったので無視していたが、気になる単語が聞こえたので首だけ動かして確認する。
「あん?何だぁ?意識あんのかよ。普通の竜人はこんだけ浴びせりゃ意識失うって話だったんだけどなっ!」
ボグォッ!
「がはっ!?」
何をされたのか分からなかった。身体が宙を浮き地面を滑って近くの岩に激突した。
「ひゃっはー!お頭鬼畜ぅーっ!」
「ガキとはいえ女の腹蹴っ飛ばすかぁ?」
「馬鹿野郎、こいつは俺ら人間より頑丈な竜人様だぜ?こんくらい何でもねえよ、なあ?」
「ごほっ、がはっ……(ああ、腹を蹴られたのか。……確かにそれ自体は大したことは無い。だが回復力まで落ちているのか……これは内臓少しやられたな)」
普段なら人間の蹴りなど直撃しても何の問題もない。内臓まで損傷して血を吐くなどありえない。やはりあの赤い水が原因か……。
―――――――。
「っ、はっ!?はっ、はぁぁ、んはっ!」
まずい。今一瞬意識が飛んでいた。
怪我のせいじゃない。おそらくあの水のせいだ。
「おいおい、まぁだ意識あんのかよ?」
「はっ!」
余裕を示そうと鼻で笑ったつもりだが、声に張りがない。
「わたしは……、女王……だぞ……。その辺の……、竜人の……娘と、一緒にするなよ」
蹴飛ばされてあの液体の水たまりから離れたお蔭だろう。意識は相変わらず飛びそうだが、身体はさっきより動いてくれる。岩を支えにして足に力を込めて立ち上がる。
「おおおおおいっ!」
「うわっ立ったぞ!?」
「やべぇんじゃねえの?」
周りを囲んでいた人間たちが動揺し始めた。好都合だ。一角を崩して一気に沈めてやる。
「落ち着けてめえらっ!!だた立っただけだ、何にも出来ねえよっ!」
「へいっ!」
「ちっ!」
思わず舌打ちをする。たった一言で落ち着いてしまった。
こうなれば魔法で……。無理だな。さっきから手に集中しようとしているが全く魔力が集まる気配がない。
変わりにと槍戦斧を探してみたが視界の中には捉えられない。おそらく囲んでいる人間たちの向こう側だ。非力な人間どもに動かせるとは思えないからどこかに転がったままだろう。渓谷に転げ落ちていなければいいが。
(しかし、どうする)
オルダーニの言った通り人間は真祖であるわたしの力をここまで奪えるだけの技術を持っていた。その謎の液体は髪にもこびりついているし服にも染み込んでしまっている。翼はゆっくりとは動くが、飛べるほどには動かない。
「よそ見してんじゃねえよ」
「っ!?」
びちゃあぁぁ
意識が飛びそうになっているせいか、考えているうちに視線が下を向いていたのだろう。どこからか飛んできたあの液体が再びわたしの頭に降りかかる。
続けて世界が左に滑った。液体を浴びたせいで力が抜けたのかと思ったが視界の端に腕を振りぬいた状態の人間の姿が一瞬見える。
(殴られた?でも、これは……?)
よくわからない。
お腹だけだった熱が、右頬にも生まれ、地面に横たわった後人間の足が目の前に振り下ろされたように見えた後、肩や胸にも熱が生まれる。
視界が定まらず見えているのに認識できない。
人間たちの声だけが脳を叩く。
「てめえみてえなガキが、女王?笑わせんなっ!」
「そうだっ!ガキなんかに、竜人なんかに支配されてたまるかよっ!」
ようやく囲まれて蹴られているだろう、というところに思い至った。
「竜人ごときに……ってええぇぇぇぇ?」
「うおうっ!?」
「何だどうしたっ!?」
「こんのガキ、噛みつきやがったぁぁ!」
近くに居るなら好都合と目の前の足に噛みついた。振り回された足に釣られてわたしの身体も浮かび上がる。直後に腹に重い一撃が加わって再び地面を転がった。
しかしわたしの反撃を恐れてか近づいてくる人間はいない。お蔭で時間をかけて立ち上がることができた。
「ふざけるなよ、人間共。たしかにわたしは……ガキかもしれない。だがな、そんなガキ相手に……集団でリンチして、勝った気になっている種族に……、わたしの国はやれん」
身体のあちこちが熱を上げている。確認はしていないが血が出ているのだろう。だがその痛みはわたしの意識をつなぎとめてくれる。
「来いよ人間が。魔力を失おうが、翼をもがれようが、竜の誇りはまだ折られちゃいないぞっ!」
ああそうだ。こんなところで倒されるわけにはいかない。わたしの目標は首都ヴァルシオン。さっさと片付けてわたしの国民を守らねばならない。
「威勢がいいねえ、女王様……。てめえの誇りってのはコイツのことかい?」
お頭と呼ばれていた男の手に王冠が握られていた。マグナ・サレンティーナ国主、バーカンディ女王、そしてサヴォイア家当主の象徴。
いつもわたしの頭の上、2本の角の間に納まっているが、あれだけ蹴飛ばされて転がされれば落ちもするだろう。
「顔色が変わったな。……いいか、コイツを無事返してほしければ……」
男がもう勝ったとでも言いたげな表情で何か言っている。
はっきりいってあの王冠自体になんの価値もない。……まあ使われている金属分の価値くらいはあるだろうが、それでもわたしを女王たらしめているのはわたし自身だ。
自分の所有物を奪われるということ自体には腹がたつが、それ以上の感慨は浮かばない。
多分わたしより怒るのはオルダーニだろう。
(この期に及んで何を甘えているのだろう、わたしは。来るはずないじゃないか)
今更ながらに手が震えていることに気が付く。
(怖い……か。そうだな。怖い)
わたしの力が通用しない。
逃げる力も残っていない。
心が折れそうになる。
(だが、倒れてなるものか。わたしはバーカンディ女王、ヴィットーリアだ。腕を折られようとも、翼をもがれようとも、噛みついてでも……)
「あまり汚い手で触れないで頂けますかな」
「え?」
わたしにとって一番聞きなれた声が聞こえた。
しかしそんなはずはない。一度崖下に落ちたとはいえ、竜と同等の速度で人間が移動できるはずがないんだ。
「あん?なんだじじぃ?見かけねえ面だな、新入りか?いいかここでは俺がルールで……おぐおっ!?」
セリフの途中で「お頭」の身体が横に飛んだ。その陰から拳を振りぬいた姿勢で現れたのはやっぱり、一番見慣れた姿。ただし見慣れない剣を腰に帯びている。
「それと、先ほどから気になってはいたのですが、姫様の前であまり下劣な物言いをなされませんように。姫様の教育上よろしくありませんので」
「オルダーニ……」
あっさり王冠を奪い返した姿に思わず脱力して座り込んだ。気を抜くと泣きそうになるがそれだけは絶対にしない。
「どうしました姫様?いつもの返しもできなくなるくらいボロボロにやられましたか?」
「だっ、誰が姫だ?わたしは女王で……っ!」
パアアァァンッ
頬を叩かれたと気が付くまで数秒。
「そうです。あなたはもう姫ではありません。女王です。……私が、私たちがどれだけ心配したと思っておいでですか?」
「ごめん……なさい」
わたしは素直に謝った。
だって悪いのわたしだし。
本当は一人でも戦えたとか言いたかったけど、助けに来てくれて嬉しかったのは事実だから。
「まったく、無事で何よりです。……本格的な説教は後にして、まずは敵を排除させて頂きますか」
一度わたしの頭を撫でた後王冠をのせてくれたオルダーニは、くるりと敵へ向き直る。一瞬見えた横顔は今まで見たことがないくらい真剣で、そして怒りと悲しみが混じったような顔だった。
そんな表情をさせてしまったのはわたしだ。
わたしが勝手に先走って、無様にヤられたせいだ。
「ひとりで大丈夫か?」
「ええ。23……いや24ですか。問題ありません」
先ほどオルダーニが殴り倒した「お頭」が立ち上がっている。人間とはいえ荒くれの頂点に立っているのだ。タフなのだろう。
「そうか。……ああそうだ。この者たちにわたしを無力化した道具を与えた存在がいる。吐かせるまでは殺すな」
「了解しました。陛下の御心のままに」
「ありがとう」
圧倒的。
その一言に尽きる。
なぜか魔力を帯びているような気がしたが、その攻撃のほとんどは物理的なもの。
剣を振れば腕や足が飛び、拳を握れば2、3人がまとめて吹き飛んでいく。
弱体化されたとはいえ、わたしが手も足も出なかった敵が5分もたたずに壊滅した。
「こんなところですかな」
わたしの指示通り「お頭」は殺さずに気絶させてある。他にも数名が運悪く生き残っているようだ。
「さて、では早速……」
オルダーニがこちらへ戻ってきた。心なしかその身体に怒りがこもっている気がする。
当然だろう。先走った挙句、ズタボロにやられた。お説教だけで済めばいいが……、過去に受けた猛特訓が頭を掠める。
「まずは身を清めてください」
「へ?お説教じゃないの?」
「その状態で首都へお戻りになるおつもりですか?」
言われて身体を確認すると、何度か地面を転がされたために髪は泥水で肌に汚く張り付いているし、その肌も血や泥で汚れている。
バトルドレスは砕けたり、破けたりしている。水を吸っているために下着も透けたりしているが、服はどうしようもないだろう。
「替えの服はこちらにございます」
どうにかなったようだ。
近くの小川まで連れて行ってもらって水浴びをする。この川を流れる水には魔力を低下させる効果はないようで、髪を洗って体を拭いてもらった後は今迄通り身体を動かせるようになった。
その後新しい服に着替えて元の場所に戻る。
少し離れたところで槍戦斧の手入れをしたり体の具合を確かめているうちに、オルダーニが拷問を終えて戻ってくる。
「『魔族』?」
「はい。さきほど陛下がかけられた水。それをこの者たちに与えた男は、自分の事をそう名乗っていたと」
魔族。
かつて魔王と共にこの世界に侵攻した彼らはお婆様たち竜の反撃で魔王が魔界へ逃げ去った後、いくつかの個体はこの世界に残されたと聞く。
しかしその多くは既に討伐されているし、下手に自身の存在を喧伝すれば我ら竜に滅ぼされる危険が高まる。
「己の存在を匂わせつつも、決して表舞台には上がらない。……たしかに今回の騒動には関わっていそうな存在ではありますな」
「そうなのか?」
恥ずかしながらわたしは大戦後かなり経ってから――ごく最近生まれているので、魔族に直接会ったことがない。
しかしオルダーニの口振りはまるで直接会ったかのようだ。人間の寿命では絶対にありえないはずだが。
ひょっとしたらわたしが生まれる前に魔族が騒動でも起こしてそれに関わっていたのかも。
「だが結局のところ、誑かされたのは人間だろう?」
原因はどうあれ、理由はどうあれ、この騒動は人間が関わっているのは間違いない。
「んっと……。ともかくわたしは首都に戻ろうと思うのだが」
「はい。ここまでくればそれが上策かと」
「……反対しないのか?」
あれ?また怒られると思ったのだが。
「わたしの速度では陛下の全力に追いつけませんし、首都には本隊が控えておりますので危険はないかと。
砦に到着する親衛隊への連絡役も必要でしょう。私が単身で首都に赴くよりも、親衛隊の持つ陛下の御者で向かった方が早いはずですが……」
「わかった。では後程ヴァルシオンで」
わたしは言いながら岩に飛び乗り、翼を広げた。身体が思い通りに動くことがこんなにも嬉しいことだとは思わなかった。
「お気を付け下さい、陛下」
「ふふっ!わたしを誰だと思っている。マグナ・サレンティーナ女王、ヴィットーリア・ディ・サヴォイアだぞっ!」
わたしは首都へ向け、大空へ飛び立った。




