幕間:ルシウス帝国
トランディア王国の南に位置するルシウス帝国。
その国土はトランディアを上回り、特にマジックアイテムの質に関しては周辺諸国を圧倒をしている。
ただし砂漠地帯が多いので、食糧事情はトランディアに頼らざるを得ないのだが。
「そうか。もうこの時期か」
ルシウス帝国の中央に位置する帝城。
質実剛健を旨とした内装の執務室で机に向かっていたのは、オルレアン・ルシウス皇帝。
髪の大部分は白くなっているものの、がっしりとした筋肉質な身体には数多くの傷跡が刻まれている益荒男。
その手にあるのはトランディア王国からの知らせを綴った羊皮紙で、勇者と王女が三年間の旅に出たと記されていた。
一般的には秘匿されている勇者と王女の旅ではあるが、他国のトップに限り先んじて通達がされている。
これは勇者と王女が各国へ多大な貢献をした際、安易に叙爵されないようにするための手回しであった。
(我は選択を誤った。それでもあの男は我が国を見捨てずに戦い、そして命を落とした)
皇帝の表情は苦い。
彼の脳裏に浮かぶのは十五年前の記憶だった。
ルシウス帝国は実力主義の国であり、そのトップには政治と軍を操る手腕、そして何よりも本人の強さが求められる。
その権化たる皇帝自身が勇者の力を手中へ収めんと、平和外交のために諸国を回っていたソニア・トランディアを攫って幽閉した。
交渉材料に使い、勇者を自陣へ引き込もうと画策していたのだ。
そして。
時を同じくして魔王が復活した。
異次元から出現した魔王城は、あろうことかルシウス帝国の上空に顕現した。
この予想外の事態に、帝国民は震え上がった。
魔王出現の知らせはまだ先だと予見されていたため、まさか勇者を敵に回したタイミングで現れるとは思ってもいなかったのである。
魔王を倒せるのは、トランディア王国の秘術によって召喚される勇者だけ。
選択を間違えてしまった皇帝は、己が不運を呪った。
しかし、あの男だけは選択を誤らなかった。
愛する女がいる国のため、世界のため。ルシウス帝国を背に戦った。
百万を超える魔物の軍勢を単騎にて退け、魔王と相打ちすることで平和を守り通したのだ。
その時の勇者の背中は、皇帝が知る限り最も熱く、最も凄惨で、そして限りない悲哀に満ちていた。
勇者自身、自分が生き残れるとは思っていなかったのだろう。そうと分かったうえで、あの男は女のために笑っていた。
魔王を倒してルシウス帝城に妻を取り戻しに来た際ですら同じだった。
片腕と内臓のいくつかを失って明らかに致死量の血を流しながらも、他人を小馬鹿にしたような笑みだけは変わっていなかったのだ。
『……おいおい、何だその表情は。お前さん皇帝だろう? 辛気臭いツラしてんじゃねぇよ』
気丈に振舞ってはいたが、もう長くない命であることは誰の目にも明らかだった。魔王の黒い残滓が体中に纏わりつき、治癒魔法を跳ね除けて勇者の身体を蝕んでいたからだ。
涙を流す妻の腕の中で、勇者は静かに息を引き取った。
ソニアは皇帝を責めなかった。彼が守った国を自身の怒りで滅ぼしてはならないと、欠片しか残っていない理性が叫んでいた。
そのまま冷たくなった夫へと喉が枯れるまで愛を囁き続けていたが、華奢で無防備な背中に手を出す者は一人もいなかった。
その時、オルレアンは誓ったのだ。
生涯をかけて二人の恩義に報いると。
「我が国へ来た際には、かの娘達のところへ赴いて詫びねばなるまい……」
皇帝は羊皮紙とともに届けられた黄色い結晶体に触れる。
掌サイズの大きさで、魔力によって記録した映像を再生する装置だ。
結晶の上に現れた立体映像には、燃えるように赤い髪の生意気そうな少女と三角帽をかぶった女の子の姿があった。
どうやら魔法の修練を行っているようで、離れたところでは二人の女性が見守っている。
「あの時の子どもが、大きくなったものだな」
帝国を守った英雄の忘れ形見。
彼女らから父親という大きな存在を奪ったのは、他ならぬ皇帝自身だ。
もう二度と、間違いは繰り返さない。
皇帝は早速行動を起こすために、手を叩いて使用人を呼びつける。
入室してきたメイドの持つ珈琲を口に含み、最近夜更かしが辛くなってきた老骨へと鞭を打つのだった。