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藍色の書面

作者: 米原麻衣

「なぜこの原稿が通ると思っていたのかい?」

 僕の目の前で長机に腰かけてなお上目使いで凝視してくる彼女の眼は純粋無垢だった。見た目は幼子にしか見えないが、実年齢はいくつなんだろうという思考が頭の中を駆け回る。そしてそのせいで僕に対する彼女の罵倒が一切聞こえてこなかったのだから大変だ。いつの間にか僕の別称がミジンコやらアメーバまでといった原核生物にまで及んでいる。やめて、ミジンコを悪く言わないで!

「わかった、書き直すよ」

 彼女に渡したはずの原稿が無残にも床に抛り棄てられていた。それを回収すべく床に手を伸ばすと、彼女は僕にわざと聞こえるようにため息をついた。そして彼女は言った。

「ここまで言わせておいて、よく投げ出さないな、君は」

 僕はしゃがんでいた姿勢のまま彼女に振り向いた。そのとき見た彼女の表情は、普段ではとても見られないほど珍しい笑顔だった。なんでだよ。僕はゆっくりと立ち上がって彼女に言った。

「だって仕事だもの。それに、今日中に仕上がらないと校内新聞の締め切りに間に合わないだろ?」

 僕の発言を皮肉としてとらえたのか、彼女の顔に熱が篭るように赤くなっていった。

「そうかい。君は締め切りに間に合わないから原稿を書くと言うんだね。原稿が通り間に合いさえすればどんな内容であっても良いと」

 彼女のその発言に僕はつい狼狽えてしまった。そんなつもりは無かったのだ。ただ端的に、事実を事実として言ってしまっただけなのだ。彼女の眼は次第に充血していき、鬼の形相と化していくのが見て取れた。彼女を怒らせてしまったのは一体何回目だろう。この部活が出来てから一か月くらい経つが、その回数は優に二桁は超えているだろう。

「そんなつもりじゃないんだ、ごめん」

 謝りさえすればいいと思ってしまう自分もどうだと思うが、実際どうすればいいのかわからないからその場ではとりあえず誤ってしまう。自分が自分を嫌う欠点の一つだ。

「ちゃんと書くから、待っていてほしい」

 僕がそう言うと、熱のこもった彼女の顔から赤みが引けていくのがわかる。

「ならさっさと書き給え。今月に書き上げなければならない原稿がいくつか、君も分かっているだろう」

 彼女はそう言いながら座っていた長机から降り、自分の席へと戻ると早速パソコンを弄り始めた。彼女もまた抱えている原稿は二桁を超す。超人と凡人、二人だけのこの部活はまだギアが組み上げられたばかりの時計だ。時を刻み始めるにはまだまだ動力が足りていない。

「わかってる」

 僕はそう言い残すと、自分の席に戻ってひたすらキーボードをたたき続けた。



僕と彼女が初めて会ったのはやはり入学式だろう。それ以前に会った記憶はない。初めて話したのはこの部活のオリエンテーションの時だが、同じクラスだったため入学式が始まる前の控室扱いであった教室の中で、僕は彼女に会った。席順がちょうど前後で、入学式が終わった後でも話せる機会は多分にあったはずだ。あの時の僕は一体なにを考えていたのだろうか。そして、はじめて彼女と話した時のセリフは、なぜそのセリフだったのだろうか。自分に問い質しても全く分からなかった。

 そんなことを考えてふと部室の窓の外を見ると、校庭に桜の花びらが舞っていて、野球部のマラソンを見事に妨害していた。あれじゃ相当苦しいだろう。

「手が止まっているぞ」

 その言葉で我に返りパソコンに向き直ろうとすると、彼女が僕の真横に来ていたのに気付いていなかったためか彼女と僕の額が衝突してしまった。目の前が一瞬白くなり、衝撃で頭がくらくらした。

「な、何をするんだい! 痛いじゃないか!」

 彼女はすぐ横にいるのにその荒げた声は遠くから響いているようだった。

「ご、ごめん。大丈夫?」

 僕は衝突と同時に眼鏡を起こしてしまったため、ぼやける視界のなかに見える彼女の顔を確認できなかったため眼鏡を探すことを最優先にして腕を伸ばした。そして僕の手は半球状の柔らかい何かを手に取った。なんだこれは?

「ひゃぁっ!? ど、どこを触っているんだい君は! 不埒者!」

 彼女の叫び声とともに右の頬に衝撃を感じた。恐らく叩かれたのだろうか。僕が何をしたっていうんだ。そしてその衝撃は僕の体は椅子ごと押し返し、僕は椅子から滑り落ちた。その間僕は、自分の眼鏡が自分の体で押しされている瞬間を捉えていた。二つの理由で絶叫しそうになったがうつ伏せに倒れたため肺が恐れて叫ぼうにも叫べず、僕の体は床に倒れた。

「せ、責任を取ってもらうからな!」

 彼女の甲高い声が鼓膜を突き抜け、店頭で揺さぶられた脳をさらに揺さぶる。しかしその台詞は僕も言いたいものだった。どうしてくれる、僕の眼鏡。

「ごめんって……」

 何とか体を持ち上げると、ちょうど眼鏡が腹の上でひしゃげていた。危なかった。レンズがガラス製だったら破線が皮膚を貫いていただろう。考えるだけでぞっとする。

「いいからさっさと原稿を書き上げるんだ! 出来たら僕のところに持ってくるように!」

 彼女の機嫌は悪化していく一方だが、僕の不幸も鰻登りだった。そして残念なことに、僕はもうパソコンを使える状態ではない。替えの眼鏡をちょうど忘れてきてしまったのだ。自分の席に戻ろうとする彼女を呼び止め告げた。

「あの……さ。申し訳ないんだけど……」

 振り向いた彼女の顔はまだ熱が冷めていないようで、若干赤みが残る。

「なんだい? 原稿が出来たんだろうね? それ以外で質問も回答も受け付けないぞ」

 それは弱ったな。いやでも言わないとどうにもならないし、それこそ時間が惜しい。素直に言ってしまうことにする。

「今ので眼鏡が壊れちゃって…… 僕目が悪くて、今日はもうパソコン使えそうにないんだ」

 言わないとどうにもならないが、言ってもどうにもならないことに気付かなかったのは誤算だっただろうか。もしかしたら言うのはやめといた方がよかったのかもしれない。視界がぼやけるせいで彼女の表情を読み取ることが難しいのだが、それでも彼女の顔の色は分かる。冷めかけていた彼女の顔はまた赤くなっていき、そのぼやける彼女の後ろにはかの金剛力士像が待ち構えている気がした。

「何なんだい君は!? やるって言ったりできないって言ったり、人を小馬鹿にしているのか!?」

 やはり彼女の逆鱗に触れてしまった。一日に二回も怒らせてしまったのは恐らく今日が初めてだ。

「ほ、本当にごめん」

 しかし今度の彼女の顔は簡単には冷めなかった。彼女の非力そうな腕はミカンも潰せないような腕だが、今なら長机もテニスボール大程に圧縮してしまいかねない。

「突き飛ばしてしまったのは悪いが、原稿遅延とセクハラで借り一つだからな! 今度パフェ奢ってもらうぞ!」

 意外に安いなその借り。しかしその言葉を目の前で行ってしまえばハワイ旅行のツアーでも請求されかねないので止めた。今バイト入れてないからあまり高額なものを請求されると、一人暮らしの僕としては結構困ったことになってしまう。とはもともと僕が悪いからこんなこと考えてもいけない立場なんだろうけど。

「わかったよ、ありがとう」

 彼女は確かに意地悪だがそれは決して理不尽なものではない。

「感謝されることじゃない! いいからさっさと眼鏡を直して来たまえ!」

 彼女のその熱る顔は僕にとって至福であることにこの上ない。決してマゾヒストという意味ではないが、とても愛らしい顔なのだ。



 翌日の学校新聞は、彼女のおかげで無事に発行された。本来僕が書くはずだった月刊連載の詩集は休載となり、代わりに学校新聞の新コーナーとして設けられた『新聞部 お悩み相談室』の広告欄として使われた。

 それにしてもなんでこんなコーナーを作ったのだろうか。それを素直に彼女に聞いたら、「このコーナーは君の持ち分だ。生徒会に掛け合って投書箱を設置した。そこに投稿された悩み相談を君が解決するんだ。いいね?」と言われた。え、僕が? 悩みに答えるの?

「正直言って君の表現力はアメンボが水面に描く幾何学模様より低レベルなのだよ。それを鍛えるには他人の悩みを明確にとらえ、正攻法ではなくとも自分なりの答えを見つけ出しそれを説明することが必要不可欠になる。修行だと思って頑張りたまえ」

 彼女はまだ怒っていた。何故だろう。「僕、何かした?」と聞いてしまうのも僕の性格故の欠点なのだろう。

「君が何かしたと思ってないのであればその程度のものなのだろうね」

 そう言い放つ彼女の顔は、いつものあの赤く熱の篭っている顔ではなかった。もうちょっと薄い、ピンク色に染まっていた。

「いいから次は来週末締め切りの、県の文集に応募する原稿を仕上げるんだ! 休んでいる暇なんかないぞ!」

 正直彼女の怒っているときといないときの表情を見分けるのは難しい。だがそれは、彼女が僕に期待しているものが彼女に対して従順であることではなく自尊心を持つことであると理解している点なのだろう。僕はこれからも彼女についていこうと思う。決して報われないことかもしれないけど、この時の自尊心はいずれ僕の中で新しい何かを生み出す種になるかもしれない。もしかしたら明日にでも僕はいなくなってしまうかもしれないからだ。

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