過多
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藍華が納得したところで、僕はこれまでのことを整理しようと思った。どうせこのままでいることはできないのだろう。ならば覚悟だけでも決めておきたい。
僕は疲れた様子の藍華をおいて、雨帝のいる方へと歩き出した。ここからは視認できないが、おそらくこの辺りだろう。僕はなるべく大きな声で言った。
「あの……雨帝さん? いますか?」
「はい、ここに」
僕が来るのを待っていたかのように、段差の下から雨帝が現れた。相変わらず飄々として読めない人だ。僕は無意識に体を強ばらせる。
そんな僕を見て雨帝が苦笑する。
「そんなに硬くならないで下さい。名前も、呼び捨てで構いません。敬語も解いて頂いた方がこちらとしても話しやすいですね」
指摘されて、僕はようやく思い出す。そういえば、今の僕の年齢は雨帝よりも年上なのだ。色々なことがありすぎて、すっかり忘れてしまっていた。いや、慣れてしまった、という方が正しいだろう。慣れるのは得意だ。ひとたび受け入れてしまえば後は楽になる。僕はそうやって生きていくのが賢い生き方だと信じていた。
「……それじゃあ、普通に話させてもらうよ。僕に対しても敬語じゃなくていいよ——って言っても、無理そうだね」
「よく分かっていらっしゃるようで」
不思議な空気だと思った。会話が成立しているようで、お互いに別のことを考えているのではないかという錯覚を起こしそうだ。事実、そうだったかもしれない。僕は雨帝の腹の底を探ってやろうと思っていたし、雨帝はきっと、そんなこと微塵も考えていなかっただろうから。
「ところで、雨帝。君はどうしてここにいるのか分かっているのかい?」
「ええ、それはもちろん、明確に」
そう言って雨帝が微笑む。その突き抜けた優しい笑みからは、安らぎさえも感じ取れる。それぐらい穏やかな微笑みだった。つい気が抜ける。
「私はお二方を閏年計画へと導くためにここにいます。それ以外の理由などありません。そう考えると、やるべきことが明確に分かっている分私の方がお二方より気楽ですね」
雨帝がクスクスと笑う。しかしそれは決して嫌味なものではなく、むしろ耳障りのいい響きだった。意外とお茶目な人なのかもしれない。
「その、ずっと気になってはいたんだけど、聞きそびれていたことがあるんだ。いいかな?」
「私に答えられる範囲のことなら何でも」
僕がずっと気になっていたこと。それは依頼主の存在だった。人間とは到底思えない不可解な存在について、雨帝はどれほどの情報を有しているのだろう。今の僕の頭の中で、その依頼主とやらはあまりに曖昧で人の形をしていなかった。雨帝から話を聞けば、もしかしたらもっとはっきりした輪郭が得られるかもしれない。
「依頼主って、一体なんなんだい?」
依頼主を『なんなんだ』と聞いたことに驚いたのか、雨帝はぽかんとしてから思い切り吹き出した。そのまま半ばむせるようにして咳き込む。大丈夫だろうかとあたふたする僕に、雨帝は右手を上げて制止した。そのとき、白い手袋の隙間からかすかに金属のようなものが見える。腕時計ではなさそうだ。なんだろうと僕は目を細める。しかし、不思議がる僕に気づかないのか、雨帝は笑い混じりに話し始めた。
「いやっ……はぁ、失礼。ただ、定数のそれがあまりに予想外だったのでつい——。申し訳ありません」
雨帝は右手を降ろすと今度はそれを口元に当てた。呼吸を整え、笑い顔のまま続ける。
「ええ、依頼主様のことですよね? 確かに、あれはヒトというよりモノに近いですね。ヒトの形はしていますが、やることが人間離れしています。あの黒い魔物を作り出したのも、おそらくは彼でしょう。何がしたいのかはいまいち分かりませんが……。まぁ、この計画自体が意味不明ですしね」
彼なのか、と思った。およそ神懸かり的なものにそう言った概念はないと思っていたのだ。僕の中で、ほんの少しだけ依頼主の形ができてきた。
最後に僕は、どうでもいいことを聞く。
「雨帝、依頼主のこと嫌いでしょ?」
すると雨帝は答えた。
「むしろ無関心ですね」
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