始動
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会話も何もないまま時間が過ぎていく。この世界に時計はないのだろうか。僕らの日用品がこの空間に現れているのなら、時計ぐらいあっても良さそうなのものだ。しかし、辺りを見回してもそれらしいものはない。先ほど歩き回ったときにもそれらしいものはなかった気がした。それに、僕も藍華もここに来る前は家にいたのだ。腕時計などしているはずがない。そう思って左手首を見て、僕は目を見開く。
そこには、腕時計が巻かれていた。
どうしてだろうと、僕は首を傾げる。確かに僕は家にいたはずだ。腕時計などしているはずがない。にもかかわらず、手首には確かにそれが巻かれている。これはもしかして何かの手品なのだろうか。奇々怪々な称号で異常を引き起こせる世界なら、これくらいのことは起きても何らおかしくはない。しかし、腕時計の文字盤は壊れていて時間は分からない。こんなものをわざわざ手配するだろうかという疑問もある。これまでの話から察するに、依頼主というのは無駄なことを嫌うようだった。だとすればこの腕時計は、僕が現実で使っていたものとなる。
ならば、なぜ壊れているのだろう。現実の僕は物を大切にしない人なのだろうか。
そんなことをぐるぐる考えながら、僕は違うことを同時進行で考えていた。そういえば、依頼人とは何者なのだろう。幾何学的な空間を作り出し、かつ異常を起こす称号を与えた人物。人間の所業とは思えない。まさに神業、人智を超えた存在だとしか思えない。正直、神など信じてはいないが、こればかりはその存在を信じざるをえないだろう。
「……ん、潤!」
「あっ……ごめん、藍華。どうしたの?」
どうやら思考がどこか遠くまで行っていたようだ。藍華が不安そうに僕の顔を覗き込んでいる。僕は気を取り直すとなるべく優しく微笑みかけた。つまらなさそうな口調になってはいないか、と少し心配になる。しかし、心配など無用だった。
「ううん、なんか潤がしょんぼりだったから……。でも、もうだいじょーぶそう。よかったぁ……。あのね、潤」
「? うん、なに?」
何だかやけにかしこまった様子の藍華に、僕は少しだけ背筋を伸ばした。明るく能天気な彼女がこんな風な態度を取ることは珍しい。何かあったのだろうか、と心配になる。
「あたし、ウルードシケーカクとかわかんないけど、すごいことになってるのはわかるの。だからね、あたしも潤といっしょがいい。潤だけは、ずるい」
むくれてみせる藍華に、僕は驚いてぽかんと口を開けた。それから少しして、彼女が閏年計画のことを言っているのだと気づく。僕だけが理解していて、自分が情報を共有できないのは不条理だといっているのだ。そういえば先ほど後で分かりやすく説明すると言った気がする。そんなことができるかどうかは別として、僕が理解できた範囲は話そう。そう思い、藍華の方を向く。
「あぁ、そうだね。とりあえず、称号のことだけは分かっておかないとまずいかもね」
「ショーゴー? さっきのキスーっていうの?」
首を傾げる藍華に僕は小さく頷く。そこまで分かっているなら説明は簡単そうだ。
「そう……例えばさ、藍華は風邪をひくと、どうなる?」
「うーん……ぐったりする!」
僕は再び小さく頷く。『奇数』の称号に与えられた付加効果が一年で四年分の成長をしてしまうことなら、『風邪』という行動に付加されるのは不調の効果以外にないだろう。置き換えて説明すれば、おそらく分かってくれるはずだ。
「そう、ぐったりするよね。それと一緒なんだ。風邪になると具合が悪くなるように、今の君は『奇数』っていう名前の風邪を引いていて、そのせいで不思議なことが起きているんだよ」
「ふぅん……」
分かっているのか分からないのか中途半端な様子で藍華が手をいじり始める。そして、すぐに顔を上げて言った。
「いまの藍華はカゼぎみなんだね。なんか、なんとなくだけど、うん。じゃあ、潤。おっどってなぁに?」
藍華に言われて、ようやく僕は雨帝が彼女をそう呼んでいたことを思い出した。確か僕はフィクストと呼ばれていた気がする。おそらくはそれぞれの称号の英語読みかなにかだろう。しかし、そんなことを言っても藍華には伝わらない気がする。僕は仕方なく一番簡単で雨帝に申し訳ない説明をすることにした。
「何だかよく分からないけど、雨帝さんはそう呼んでるね。まぁ、オッドって言われたら自分だって思うようにしておけば大丈夫だと思うよ」
「ふーん……。うん、わかったぁ」
どうやら分かってくれたらしい。僕はほっとため息を吐くとぽっかりと開いた何もない空を見た。空、だろうか。真っ暗だ。何もない。
まるで僕の心を忠実に表したかのようなそれに、僕は嫌な微笑みを浮かべた。
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