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何が起きたのだろうか。僕は、死んだのだろうか。否、そうではない。僕たちは、救われたのだ。
「じゅ、潤っ……」
呆然と立ち尽くしていた僕の後ろで藍華が名前を呼ぶ。声は恐怖に震え、大きな両手が僕の腕を握りしめている。かなり動揺しているようだった。
僕も動揺していいのに、と思う。本来有り得ないことが起きたのだ。取り乱すなり何なりするといい。しかしもう、有り得ないことには慣れてしまった。驚くほどのことでもないと思ってしまうのだ。恐怖どころか安堵さえ感じられる。
そんな僕たちの様子に気づいたのか、その人物は優雅に振り返って丁寧にお辞儀をした。僕は何だか拍子抜けしながらも、とりあえず頭を下げる。すると今度は緩やかな足取りで近づいてきた。緊張で体が強ばる。藍華に至っては顔を伏せて震えていた。
「そんなに緊張なさらないで下さい。私は、アナタ方の味方です」
生憎、味方だと言って近づいてくる人間が本当にそうだった経験などない。だから信用できない、と言いかけて、すんでのところで飲み込む。この人は僕たちの窮地を救ってくれた人だ。無下にあしらうわけにもいかない。
「あぁ、自己紹介が遅れましたね。失礼。私の名は荒井雨帝と言います。どうか以後、お見知りおきを」
そう言って、雨帝は軽く頭を下げた。黒髪で隠れた左目と、中性的な顔立ちが印象的な美人だ。声も低く落ち着いているため、性別は分からなかった。
「僕は——」
「幸村潤様ですね。おおよその話は依頼主様より伺っております。そちらは……三浦、藍華様で間違いありませんか?」
穏やかな物腰で問いかけた雨帝に、藍華は小さく跳び上がる。かなり緊張しているようだ。フォローしようにも余裕がない。僕の頭にはまるで別のことが巡っていた。依頼主とは誰なのだろうか。きっとその人物に会うことができれば今置かれている状況を把握することも容易いだろう。どうにか取り次いでもらえないだろうかと、そんなことばかり考えていた。
「潤、このひとなんかこわい」
僕の背中に隠れている藍華が小声でぼそっと言った。彼女が怖がるのも無理はない。僕は右手で彼女の手を軽く握った。小さく微笑み、雨帝へと向き直る。
「雨帝さん。これは……いえ。ここは一体なんなんですか? いきなり連れてこられて、僕も藍華も混乱しているんです。依頼人の使い、ということは、ここがなんなのかもご存知ですよね?」
ほんの少し攻撃的な僕の問いに、雨帝は微笑んで一礼した。そして、真剣な顔でゆっくりと話し始める。
「もちろんです。私は依頼主様より代理人としての任を与えられておりますので、お二人にそれをご説明する義務があります。ですが、私が一方的にご説明するのではお二方も疲れてしまうでしょう。まずはここが何なのかという質問に答える、次に質問が出たら今度はそれに答える。これでいかがでしょうか」
「構いません。それで僕らが状況を把握できるなら」
「ありがとうございます」
雨帝は優雅に一礼すると、愛想の良い笑みを浮かべた。作り笑いだろうか。感情の境目が見えない。僕は少しだけ雨帝が怖くなった。
「と言っても、語れることなどほとんどないのですが……。とりあえず、お二方とこの空間の関係性からご説明致しましょう」
そこまで言って、雨帝は言葉を切った。そして、ゲーム画面のような足場を指差して顔を上げる。
「この空間は、お二方の好きなもの、日常的に常備していたものなどが具現化したものです。この足場を見るあたり、お二人のうちのどちらかがコンピュータゲームを好んでいらしたのではないでしょうか?」
「多分、僕の方ですね。少しだけ見覚えがあります」
幾何学模様の足場を見ながら、僕は何となく思い出した。中学生ぐらいのときに頻繁にゲームをしていた気がする。曖昧ではあったが、確信があった。
「となると、さっきの鏡みたいな足場は藍華かな」
僕が呟くと、藍華が「なに?」と首を傾げた。僕は微笑み、「何でもないよ」と返す。
ふと、ならば先ほどの防音室は雨帝のものなのだろうか、と考える。もしかしたら音楽を嗜んでいたのかもしれない。そこまで考えて、それはないかと思考を中断した。先ほど雨帝は、この空間は僕と藍華のイメージでできていると言った。ならばあの防音室は、僕か藍華のものに他ならないだろう。
違和感を感じつつも、僕は非日常を受け入れた。
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