三人
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一体どれぐらい歩いたのだろう。ここへ来て、僕の時間の感覚は完全に当てにならなくなっていた。閏年計画内では空腹にもならない。それに加えて僕は、現実世界でも入院生活を送っていたため、日付の感覚も曖昧だ。そのため、体内時計は狂う一方だった。体力的には、もう相当の距離を歩いたような気分である。これまでそれに関しては文句を言わずに歩いてきたが、流石に疲れてきた。二人の様子を横目で見る。藍華は楽しそうな、寂しそうな表情をしている。雨帝は涼しい顔で歩いていた。僕はため息をつきながら再び前を向く。頭の中は今後のことでいっぱいだった。
雨帝をここから連れ出すにはどうすればよいか。
その答えとなり得る手段を、僕はもう思いついていた。しかし、それは手段として存在するというだけで、可能かどうかまでは考慮していない答えだ。分かっていても、どうにもならないことがある。ただ前だけを見て、可能だと信じることは簡単だ。けれど僕は、あまりそういうのが得意ではない。どちらかと言えば、どうなるか分からない未来のことをああでもないこうでもないと考えている方が性に合っていると思う。ポジティブ思考は藍華の専売特許だ。僕の分まで藍華が信じてくれている。僕はその代わり、実質的な行動をすれば良い。可能か不可能かは努力次第だ。今諦めることじゃない。
この短期間で、僕はずいぶん前向きになったと感じていた。この変化を、無意味にはしたくない。
「ねぇ、潤、雨帝っ! あそこ、出口じゃない?」
思考を遮って、藍華が遠くを指差した。その先には、普通の家の玄関のような、ただの扉がある。それはこの空間内であまりにも不似合いだった。扉と言えば防音室か先ほどの透明な扉かぐらいの物しかない。ここまで現実味があるものは初めてだった。
あと少しで、このおかしな計画は終わる。
「この扉を開けたら、向こう側は現実かな」
微かに自嘲を含んだ声で藍華が呟く。おそらく、防音室のことを思い出しているのだろう。あの時は、扉の先に現実はなかった。彼女の言葉は、分かり切った事実を改めて確認するような、そういう言葉だ。
この扉は現実に繋がっている。
きっと、逆はないんだろう。
「雨帝」
「おや、なんでしょう」
雨帝はいつも通りのトーンで返事をすると、そっとこちらを向いた。藍華は手を離して数歩後退する。扉を囲んで三角形に並んで額をつきあわせていると、これまでのことが夢ではないということが実感として感じられた。
「僕は、今君をここから連れ出すことはできない。悔しいけど、僕は無力だ。今の僕じゃ、君をここから連れ出せない」
今、という言葉を強調する。二人もそれに気づいたようで、黙って聞いていた。
「でも、いつか必ず、君をここから連れ出すよ。何年かかるか分からないけど……それでも絶対、外の世界を見せる。そのための方法は、もう見つけたんだ」
僕の言葉に、雨帝は目を細めた。藍華は驚いた様子で、ぽかんと口を開けている。僕は真っすぐ、雨帝を見つめた。雨帝は小さく微笑んで、からかうように口を三日月型に歪める。
「へぇ……じゃあ、期待して待ってますね」
雨帝の返事は、まるで惰性で買っている雑誌の新刊でも待つような、あまりに軽い返事だった。昔の僕が聞いたら、興味がないのだと落ち込んだかもしれない。けれど、今はそうはならなかった。
惰性で買っている雑誌の新刊。
それは、待っていればいつか必ず刊行される。
雨帝はいつだって遠回しだ。
「……それにね、僕、雨帝には感謝してるんだ」
「感謝?」
雨帝が首を傾げる。多分、本気で分かってないんだろう。
「君のおかげで、夢ができたよ。なりたいものも見つけた。人生に、目標ができたんだ。これって、凄いことだと思わないかい?」
夢は、雨帝をここから連れ出すこと。
なりたいものは、そのために必要になる。
全てがここから始まっていく。これまでとは違う。ただ、やり過ごすように日々を終えるわけじゃない。
ここでのことは、決して無意味じゃなかった。
「うん……とっても凄いことだよ。それに、とても大切なこと。やっぱり、夢があるって、幸せなんだ」
藍華は大きく頷いて、そっと微笑んだ。夢。これを夢のままにしないことが、目下の課題だろう。問題は山積みだ。言い換えれば、やるべきことがたくさんあるということ。目標を持って生活できるのは、良いことだと僕は思う。何も目標を持たず生きてきた僕が思うのだから、きっと藍華も、そう思ってくれるだろう。
「そうですね……。しかし、だとすれば私の夢は一体どうしたものでしょうか」
「どこか行ってみたいところとかは? 現実に出た時、見たいものとかあるでしょう?」
藍華の提案に、雨帝は小さくうなり声を上げた。情報としてなら、僕たちより多くのことを知っているだろう。改めて気になるものと言われても難しいかもしれない。
「そうですねー……潤の部屋とか見てみたいですけど。いや、でも、まさかこんなことで悩むことになるなんて考えもしませんでしたよ。私は、もっとこう、言われたことをやるだけだと思ってたんですがね。なんだか、感慨深いです」
「なんで僕の部屋が見たいかは聞かないでおくね……」
確かにそんなデータは雨帝のデータベースにないだろうが、そんなことに興味を持たないでほしい。僕は肩を落としてため息をつくと、そっと雨帝を見上げた。雨帝は相変わらず悪戯っぽい笑みを浮かべている。何を言っても無駄そうだ。
「まぁ、考えておきますよ。たまにはそういうのも、悪くないです」
そう言った雨帝の笑顔は、いままでになく清々しかった。満面の笑み、とでも言うのか、取り繕った笑みでも悪戯っぽい笑みでもない、普通の笑みだった。僕はなんだかほっとして、一緒になって微笑んだ。そんな僕たちを、藍華はにこにこしながら見ている。きっと、心の奥底に寂しさを抱いているんだろう。
別れの時が近づく。
「それじゃ——僕たちは行くね」
藍華が息を呑む。雨帝は、分かっているというように困り顔で微笑む。腕を組んで、口元には笑みを浮かべて、いつもと同じ、何も変わらないままで。雨帝は、ただ僕たちを見ていた。
「いつか絶対、迎えにくるからね!」
涙声で藍華が言う。彼女は泣いていない。震えてもいない。きっと、後悔もしていない。
ドアノブに手をかける。この先には、本来僕たちがいるべき場所があるだろう。そして、またいつも通りの明日が来る。けれどそれは、いままでと同じように過ごす明日ではないはずだ。
僕たちは歩いてゆける。
この足で、傍観も諦観もせず。
「ええ、待ってますよ、ずっと……」
ゆっくりと、扉を開ける。光は僕らを包み込み、やがて視界を閃光に染めた。微かに瞳に映る黒服は、恥ずかしそうな笑みを浮かべて、小さく唇を動かした。その言葉が、僕たちを送り出す。これで、計画はおしまいだ。もうこの世界には、悪意も悲しみも存在しない。
ハッピーエンドを目指して。
約束を果たすために。
「いってきます」
お読み頂き誠にありがとうございました。
次回で、最終回となります。




