表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
閏年計画  作者: 椎名円香
第二章 奇数
54/60

錯乱

ご閲覧頂き誠にありがとうございます。

 空気が震える。それは錯覚などではなく、確かに僕の目の前で起きた。幻想でもなければ妄想でもない。先ほどの風の何倍もの勢いで風が吹こうとしているのだと直感した。しかし、分かったからといって防げるかどうかは別だ。頭では分かっていても、そうそう体は追いついてくれない。内臓が浮かび上がるような感覚が襲う。ほんの一瞬の時間が、永遠であるかのように感じた。横目で藍華を見る。彼女のすぐ傍では雨帝が藍華を庇うような姿勢で立っていた。雨帝と視線が合う。雨帝は強い瞳で頷くと、藍華の体を支えて身構えた。僕も反射的に身構える。ありもしない砂礫が舞い上がるような感覚に陥った。しかし、僕はそれが幻だと知っている。ここには僕と、藍華と、雨帝しかいない。それ以外は何もない。何もない。僕はもう、僕自信が作り出した虚像に惑わされたりはしない。

「きらい——きらい、きらい、きらいきらいきらいきらいきらいきらい! もうみんなこわれちゃえ! もう——なにもいらない」

 突然に、哀歌の声から抑揚が消えた。その平坦な口調からは一切の感情がはがれ落ちている。背筋が、ぞっとした。身の毛がよだつ、というのを、僕は初めて実感した。なんだか、とても、気持ちが悪い。内臓を掴まれるような醜悪な感覚が心臓を抉る。それは人が心に憎しみを抱えるのと同じような心地の悪さで、僕は眉間に皺を寄せた。焦点がうまく合わない。僕は口元に手を当て腹部を押さえると、なんとかして前進した。

 風が吹き荒れたのは、ちょうどそのときだった。

 地鳴りのように轟く烈風は、もはや風と呼ぶに相応しくなかった。それは明らかに敵意と悪意を持って、僕たちを傷つけるための凶器だった。僕はとっさに顔の前で手を交差させる。こんなことで風が防げるとは思わない。ただ、やらないよりは幾分かましだった。

「っ——」

 それは確かに、凶器だった。かまいたちのように煌めく刃は僕の腕にたくさんの傷を作っていく。瞬時に吹き荒れたそれは僕の頬のあたりを掠めると、鋭く斬りつけて吹き抜けていった。顔のあたりにぬるりとした気持ちの悪い感覚が残る。こんな風の中ではきっと二人は動けないだろう。風の音があまりにも大きく、たとえ話すことができても哀歌の耳に届きはしないだろう。しかし、狂乱している哀歌もおそらくは動くとこはないはずだ。哀歌はこの風で二人を消そうとしている。自ら手を下すなどという非効率な発想には思い至らないだろう。今この状況をどうにかできるのは僕だけだ。幸か不幸か、哀歌は僕を敵の頭数に数えていない。哀歌の隙をつけるとしたら、おそらくはそこしかない。気づかれないようにそっと近づけば。この風を止めることも可能かもしれない。

 僕はほんの少し逡巡した。これは賭けだ。失敗すれば次はない。哀歌から数メートル離れたここでもこんなに風が強いのだ。近付きなどすれば、風はもっと強くなるだろう。十中八九、大怪我どころでは済まない。うまく風の合間を縫わなければ、きっと使い物にならなくなってしまうだろう。今ここで僕が倒れれば、本当にどうしようもなくなってしまう。それだけは避けなければならない。生憎僕は何も考えずに行動できるほど正直な人間ではない。慎重になりすぎてよく失敗していた記憶がある。僕は考えすぎるのだ。様々な可能性を考えて、起きてもいない未来に怯えて何もできない。それであとになって後悔する。その可能性だって考慮していたのに、どうして対処できなかったのかと——。

 知らず知らずのうちに、僕は前進していた。足を上げれば持っていかれる。それを踏まえてか、僕は足を引きずるようにしてほんの少しずつ前進していた。

 ずっと思っていた。哀歌は、誰かに似ている。性格だとか姿形だとかいうものではない。彼女の醸し出しているあの物寂しい雰囲気を、僕は前にも味わったことがある。そんな気がしてならないのだ。僕は今でも、それがいつのことだったのか思い出せないでいた。けれど、ただ一つ確信していた。

 僕は哀歌を一人になんてさせない。

 一歩、また一歩と、僕は歩を進めていく。進むごとに風は勢いを増していき、かまいたちは幾度となく僕の体を斬りつけた。それでも僕は止まらなかった。ただただ無心に、迷いのない足取りで進んだ。それは僕の意識とは違う、何か別の力に動かされているように感じた。

 僕はいつも孤立しがちだった。心から友達と呼べるような人はいなかったし、うまく立ち回ってはいてもいなくてもいい立ち位置をキープしていた。いつだってそこが僕の居場所だった。いつのことだったろう。そんな僕に話しかけてきた奴がいた。彼は僕とは正反対で、明るく、いつも誰かと一緒にいて、リーダーの風格を持った奴だった。僕は彼をうらやましいと思いつつ、僕はあんな風にはなれないと諦めていた。彼を見ていると、なんだか無性にイライラした。どんなことにも諦めず立ち向かっていく姿や、僕に手を差し伸べた笑顔が、幼い日の夢と重なってしまうのだ。その度に僕は惨めになって、自分の無力さを思い知らされたように感じた。僕は自分にできることとできないことの判断はできているつもりだった。けれどその度に僕は僕を嫌いになって、なにかに全力になることに呆れるようになっていった。

 哀歌まで、あと一メートルほどだ。といっても、風が強すぎてほとんど目を開けていられないため、本当はもっと長い距離があるのかもしれない。それでも、前進していることだけは確かだった。傷は増えていく。けれど、心は死なない。

 ああ。

 あいつはなんで、僕に話しかけてくれたんだろう。

 同情でも皮肉でもなく、僕を見下すこともなく。

 あんな風に笑えるんだろう。

 僕は、優しい人になりたい。

 誰かになりたいわけじゃないんだ。

「あいか」

 胸の内から押し出されるようにして、言葉がこぼれ落ちた。きっと哀歌には聞こえなかっただろう。それでもよかった。

 僕の手が、壊れそうなほど華奢な哀歌の肩に触れた。

「あっ——」

 彼女は驚いたような声を上げると、人形のように全身の力を抜いた。僕は彼女が倒れないようにと背中を支える。腕を伸ばした反動で膝をついてしまった。風はまだ吹き荒れる。僕は血の滲む腕で、哀歌を抱きしめた。鼓動は聞こえない。けれど、ちゃんと触れられる。温度はない。けれど、息づかいは聞こえた。

「え、あ——」

 呆然とした哀歌の声が聞こえる。彼女は僕の頬の傷を見るや否や、慌てふためいて泣き出した。

「ち、でてるよ。あ、いや、ごめんなさい——。きず、うで、にも。いっぱい、ああ——」

 傷だらけになった僕に、哀歌は錯乱しているようだった。小さくうなり声を上げたまま完全に静止している。風は徐々に勢いを失い、最後には完全に凪いだ。哀歌はまだ泣いているようだ

「心配してくれてありがとう、哀歌。でも、大丈夫だよ。だから泣かないで」

 哀歌の頭をなでる。すると彼女は、余計に泣き出してしまった。子供の扱いは本当に難しい。いつだって泣かせてしまう。僕は困り果てて、とりあえず哀歌から離れようとした。しかし、僕が身を引いた途端、哀歌が僕の服の袖を掴んだ。僕は目を丸くする。哀歌はそんな僕を涙目で見上げた。

「ほんとに? ねぇ、ほんとうにだいじょうぶ? ち、でてるよ。いたい、ないの?」

 腕の傷口を指差しながら、心配そうに問いかける。その手は小刻みに震えていた。僕は彼女の手に自分の手を重ねる。僕の手よりずっと小さくか弱い手は、とてもあの烈風を巻き起こした張本人のものとは思えない。僕の目の前にいるのは、ただの少女。寂しがり屋で、泣き虫で、努力家な、彼女なのだ。

「本当だよ。だから……ほら、お願いから泣き止んでほしいな。……参ったな、ごめんね、僕、こういうときなんて言ったらいいかよく分からないんだ」

 こういう時の不器用さに我ながら呆れる。これではいつになっても泣き止んでくれなさそうだ。僕は再び彼女をなだめようと頭をなでる。すると哀歌は不安そうな顔のままそっと涙を拭った。目元を赤く泣きはらしてはいるものの、もう涙は流れていないようだった。僕はほっと一安心してしゃがみ込む。こういうときは目線を合わせるといいと、昔聞いたことがあった。

「ほんと? いたくない?」

 少女は首を傾げると、不安そうな瞳を潤ませた。しかし、今度は涙がこぼれ落ちることはなかった。微かに風の音が聞こえる。それはどこかで小鳥がさえずるような、穏やかで心地よい風だった。

 先ほどまで僕を視野にとらえていなかった様子の哀歌は、今になって僕がいたことに気がついたようだった。一体どこから現れたのかと、くるくると目を回している。その姿は微笑ましくもあり、切なくもあった。幼い頃の藍華の世界に、僕はいない。当たり前だ。当たり前だけれど、目の前にいて、いないもののように扱われるのは、結構辛い。慣れていると思っていたが、まだ僕の心はそこまで麻痺してはいないようだった。そのことに安心しつつも、心のどこかで、切ない、と。確かにそう思うのだった。ここに来て、僕は少し感傷的になっているのかもしれない。僕はセンチメンタルな心情を拭って、目の前の哀歌を見た。彼女は僕を真っすぐな瞳で見たまま視線をそらそうとしない。僕はなんだか照れくさくなって笑った。

「潤……」

 後ろから藍華の声が聞こえる。僕は哀歌の手を取って、そのまま振り返った。藍華も、雨帝も、心配そうな顔で僕のことを見ていた。対する哀歌は不服そうな顔で二人を見ている。藍華が彼女の方を見て気まずそうに視線をそらすと、哀歌は頬を膨らませて僕の腕にしがみついて離れなくなってしまった。僕はさっぱり困り果ててしまい、そのまま何もできずに笑っていた。

「二人とも、僕は大丈夫だよ。……ほら、哀歌もそんな風に睨んじゃだめだよ」

 しがみつかれていない方の手で哀歌の頭をなでる。すると彼女は疑うような目で僕を見てから、より一層強く僕の腕にしがみついた。離れる気はないらしい。

 助けたい、と思った。

 僕は彼女が、誰かの影に重なっていることに気がついたのだから。

お読み頂き誠にありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ