哀歌
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「くっ……」
竜巻は徐々に勢いを増し、やがて一本の柱のようになった。風の音の他に、ノイズのような音が聞こえる。それは人間の声にも、風の音にも聞こえる、どこか寂しげな音だった。勢いを増す竜巻は咆哮のような轟音を轟かせ、花園の中央に座している。その姿はまるでこの花園を統べる王のようだ。
風の柱を拝むように、花々が静かに揺れる。しかしそれは風によってではない。何か別の要因によって、花々はその身を小さく揺らしていた。
「にげないんだね」
「……!」
ぽつり、と、吹き荒れる風の音に混ざって、幼い少女の声が聞こえた。その声を恐れるかのように、轟音は息を潜める。風の柱は瞬時に霧散し、ノイズも消えていった。最後には声だけが残る。
ぼんやりと、鬼火のように幼い少女の姿が浮かび上がった。
「ずぅっとにげてた、よわむしアイカ。そのままにげてればよかったのに」
舌足らずで、どこか幼い。やけに不自然な猫なで声だった。まるで感情がこもっていない。言葉に熱がなかった。機械的で抑揚がない。不気味な上に不安な気持ちにさせる声音だ。何かを恨むような、呪うような、そんな言い回しだった。そこに優しさはない。あるのは諦め。どこまでも突き詰めた救いようのない迷路のような、そんな意図を感じた。
僕が傍観者なら、きっとこの声の主は、諦観者だ。
「ずっと隠れてた貴方に言われたくないわ」
藍華は大げさに抑揚をつけて声の主を睨んだ。その声に、声の主は不機嫌そうに小さく唸る。竜巻の影から現れたのは、枯れたバラの花束を抱えた幼い少女だった。見たことのない少女だが、そこには確かに彼女の面影があった。
間違いない。彼女は。
「あれは……藍華?」
僕は定まらない焦点で少女を見つめた。力なく垂れ下がった腕、世界を憎んだような瞳、今にも噛み付いてきそうな邪悪に満ちた表情。そのどこにも藍華の面影はないはずだった。なのに僕は、それが藍華であると、そう思った。なぜだろう。確信はない。にもかかわらず、僕は、少女に藍華の面影があると思った。その理由を、僕はあまり考えたくない。
「うん、小さい頃のあたし。潤風に言うなら……『哀歌』、ってとこかな。雨帝なら、きっと、『エレジー』なんて呼ぶんじゃない? 閏年計画なら——偶数、みたいな称号をつけてそうね」
自嘲的な笑みを浮かべながら、藍華はおどけた口調で言った。多少の余裕が見える。そう繕っているだけかもしれないが、僕には藍華が少女——哀歌の言葉に対する答えを既に持っているように見えた。
「ねぇ、どうして? どうしてあたし、なれなかったの?」
哀歌は虚ろな瞳をこちらに向けて、藍華を睨み返す。その瞳には純粋な疑問は宿っていない。始めから答えがないと分かっている質問を、あえてしているように感じた。そこには悪意だけが存在している。哀歌に、僕たちを無事に返すつもりなどかけらもない。
いや、そうではない。哀歌が壊したいのは、藍華ただ一人だ。僕のことなど視界に入っていない。哀歌にとって、僕などは他愛のない存在なのだ。哀歌は僕を価値のあるものとして認識してなどいない。その証拠に、彼女は決してこちらを見なかった。ただ真っ直ぐと、藍華の目を見ていた。
「ねぇ、どうしてどうして? おしえてよ。なんですごいひとになれなかったの? なんでやめちゃったの? おはながきらいになったの? おはななんて、どうでもよくなちゃったの? ねぇ、どうしてなの? おしえて、ねぇ、おしえてよ。どうして?」
身を乗り出し、抑揚のない声で畳み掛ける。声音とは裏腹に、その表情は苦悶に歪んでいた。とりとめのない疑問が宙を舞う。そんな哀歌を、藍華はまっすぐに見つめていた。拳を握りしめ、花の庭を背負うように立っている。その姿は、まさに花園の王のようで、しかし哀歌とは違った思いを感じた。心なしか、花々が藍華を心配しているように見えた。
「どうして?」
哀歌は繰り返し疑問を投げかける。藍華はそれを黙って聞いていた。なだめるような視線は、藍華にはと届きそうにない。彼女の目にはもう何も見えてはいなかった。いや、もしかしたら二人には僕には見えない何か別のものが見えていたのかもしれない。それは過去であったり、未来であったり、嘘のような世界だっただろう。しかし、二人が見ているものは、確実に、どうしようもないほどにすれ違っていた。
藍華は、今までになく冷たい目をしていた。
「今貴方が言ってることが答えだよ。どうしてって、人に聞いてばかりで、自分じゃどうにかしようとしなかった。やろうとしても、どうせあたしには無理だって、やる前から諦めて……そんなの挫折なんて言わないよ。そういうのは、臆病って言うの。やって後悔する方がいいって、口では言っても結局後悔することが怖かったんだ。ねぇ、反省してさ、ちゃんと何か変えようとしたかな? 思ってただけなら、何にもならないよ。行動しないと、だめなんだよ。甘えてばっかりでさ、もう、子供じゃないんだよ」
「やめてよぉっ!」
力強い藍華の言葉に、哀歌はかなぐり捨てるように叫んだ。無機質の仮面が微かに乱れる。その声にははっきりとした激情が感じ取れた。哀歌は頭を抱えて俯いたまま、憎らしげに爪を立てる。ふらふらと体を揺らしては、足下がおぼつかないようで何度も転びそうになっていた。僕は壊れた人形のような少女の動きに不気味にこみ上げる恐怖を感じながら、心のどこかで哀れみを感じていた。少女は何度倒れそうになっても、無理に体制をねじって前に進もうとしていた。小刻みに足が震えているのが見える。それでも彼女はふらつく足下を踏みしめて立っていた。同情は侮辱だと分かっていても、僕は少女を心配せずにはいられなかった。
「潤は、下がっててね。多分、哀歌に潤は見えてないよ。あたしのことも、ちゃんとは見えてないんじゃないかな。だから、何をしても、どうにもならないよ」
「でも……」
「潤、過去は変えられないんだよ」
はっとした。閏は、今の僕そのものだった。けれど、哀歌は違う。哀歌は幼い日の彼女だ。今の彼女と同じ記憶を持っていても、過去の存在であることに変わりはない。過去を変えることなど、できないのだ。たとえそれがこの閏年計画の懐にあったとしても。
僕は唇を噛み締めた。藍華はそんな僕を静かな瞳で見ていた。
「いやぁっ……だめっ。やだよ、あたし、おくびょうなんかじゃないもん。おくびょうなんか、じゃぁあっ!」
哀歌の叫び声が花園にこだまする。機械的な声音はもはや原形をとどめていない。壊れたテープレコーダーのように、ノイズ塗れの雑音が耳を貫く。
なんて悲しい声なんだろう。
そう思った刹那、背中のねじが止まってしまったかのように哀歌の動きが停止した。
「おくびょうって、なぁに? あきらめるのは、わるいこと? あたし、わかんないよ。いいことしかしちゃだめなの? だめなことって、なに? しちゃいけないことって、なに? どうしてしちゃいけないの? ねぇ、おしえてよ」
先ほどの叫び声とはまるで違う平坦な声音に、僕は少したじろいだ。もしかしたら彼女の背中には、本当にねじがついているのかもしれない。腕や足には糸がついていて、彼女は悪意によって操られている人形なのではないだろうか。そのために彼女の精神はひどく不安定で、激情が埋め尽くした言葉にすら思いが込められないのではないだろうか。
彼女はきっと、鏡に映らない。
脅迫するように哀歌がこちらを睨みつける。その瞳には深淵の色が映り込んでいた。少しでも気を抜いたら吸い込まれてしまう。そう思った。
「いいことだけして生きるなんて、できないよ。自分の都合を投げ捨てて、いいことだけのために生きるなんて、できないんだよ。だけど、いいことをしようって思うことは、誰にだってできる。できるだけいいことをしようって、そう思いながら、その思いを大切に抱えていくことはできるよ。していいことと悪いことの区別なんて、わざわざ考えなくたって、分かるようになるよ。でもね、どんなときになっても、一つだけ。それをしたら誰かが悲しむことだけは、しちゃ、だめ。たとえそれが、誰かを助けるためだったとしても」
藍華の声は真っ直ぐ、何も恐れることなく響いていた。しかしその表情には、どことなく悲しみの色が宿っているようだ。その理由を、僕は分からないわけではない。
藍華が言っているのは、雨帝のことだ。
「どんなに正しくても、ただ悲しませるだけの正義は、だめなんだよ。ただいいことをすればいいんじゃない……貴方だって、ほんとは分かってたんでしょ? ずっと子供じゃいられない。楽しいことが、一番いいことじゃないんだって。ずっと逃げてるのは楽だよ。でもね、甘えてばっかじゃどこにも行けないんだよ。理想ばかり追って、自分を責めたって、何にも変わらないのよ」
「あ、ああ、いやぁあ……」
彼女の叫びは泥のようだった。溶け出した悪意は重苦しく、彼女自身を押しつぶそうとする。思いの奔流は濁流となって彼女自身を蝕んでいった。僕は、見ていられなくなって、つい視線を逸らした。これが藍華の戦いだということは分かっている。分かってはいるが、僕にはどうしても彼女が悪の権化だとは思えなかった。ただ否定すればいいだけの存在ではないように感じたのだ。確かに、藍華の言っていることは正しい。藍華自身が言わなければいけないことなのは確かだ。しかし、それでは不十分のような気がした。哀歌が求めているものは、藍華には与えることはできない。そんな気がしてならなかった。
この違和感をぬぐい去る手段はどこにあるのだろう。
「認めなきゃだめなの。だから、哀歌! もうそうやって甘えて、しがみつくのはやめて! そんなことしたって、自分が辛くなるだけなの。自分で自分を追いつめても、何の解決にもならないんだよ。前を向かないといけないんだ。ずっと後ろばかり見てても……前進できるわけないでしょ!」
藍華の言葉は鋭く彼女自身を貫いていく。藍華は今、自分自身と会話している。自分の中の弱さと、自分を甘やかしてきた自分と戦っているのだ。その言葉は誰より、彼女自身に向けられたものなのだろう。
「うるさい! うるさい、うるさいうるさい! うるさぁい!」
哀歌の怒号が空気を薙ぎ払う。周囲に巻き起こる旋風は彼女の激情を孕んで僕らに襲いかかった。
一瞬、彼女が泣いているように見えたのは、僕の気のせいだったのだろうか。
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