鏡像
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「え……?」
言葉は解けて消えた。何を言えばいいのか分からなかった。何も思い浮かばなかった。ただただ思考回路がちぎれては、不格好に繋ぎ合わされていく。今まで集めてきたパズルのピースが、強引に組み合わされて破綻するイメージ。一足す一が零になる感覚。
僕があの日の少年に感じたのと、同じ感覚。
「ねぇ、潤。貴方にはあたしが、どう映ってたかな。雨帝と同じに見えた? そんなわけないよね。多分、あたしは、雨帝とは全然違くって、一緒には見えなかったでしょう? でもね、鏡なんだよ」
鏡。
鏡に映った自分は、姿があるだけ。ただ瞳に映るだけ。そこに自分はいない。左右反転の鏡像。それは自分自身ではない。そこに意志はない。心はない。しかし、そこに映る姿は確かに自分のものだ。それを僕は、僕ではないと否定できるか? それが僕でないなら、それは誰だ?
完全な同一体でないそれを、確かにそれであると証明することはできない。
「確実に同じだって証明することは、できないの。でもね、同じじゃないって証明することも、できないんだよ。それなら、答えなんてないようなものよね。あたしたち、今までありもしない答えを追いかけてたの」
答えのない問いの連鎖。
合同ではない存在。限りなく酷似した存在。僕とは、今まで生きてきた全ての僕を総合した、僕。鏡に映った僕は、それまでの僕を持たない、薄っぺらな僕だ。しかし、その姿に、面持ちに、それまでの経験が現れないのなら、過去の価値はどうなってしまうのだろう。なくてもいい過去などない。一つでも抜け落ちたが最後、ここにいる僕はまるで違う僕になる。
それも、きっと僕だ。
「選んできた道がね、違うのよ。選択の集合で今があるなら、違った未来だってあるはずでしょ? 選択肢が一つだけなんて、そうあることじゃないよ。いつだって選択肢は目が回っちゃうくらいたくさんあって、あたしたちはその一部を見てるだけなんだ。他の道だって、選べたはずなの」
「……雨帝は」
言葉に詰まった。困ったような表情で笑う藍華の顔を見たら、もう何も言えなかった。藍華が言っているのは、雨帝がドッペルゲンガーだとか、クローンだとか、そういう問題ではない。雨帝は、鏡に映った藍華なのだ。選択の違いで、なったかもしれない姿なのだ。雨帝は藍華だったかもしれない。藍華は雨帝だったかもしれない。
けれど、ここにいるのは、紛れもなく三浦藍華なのだ。
「いいのよ、潤。あたしだって、逃げてばかりじゃだめなのは分かってるわ。大丈夫、だからそんな顔しないで」
諭すような口調で、藍華が僕に微笑む。僕は足下を見た。ひどい顔をしている。絶望したような、頼りない、まるでここに入ったばかりの頃のような顔をしていた。これでは、だめだ。閏に失望されてしまう。彼は僕だ。僕が今まで否定し続けてきた弱い僕だ。僕は受け入れたはずだ。弱くても、傷だらけでも、それでも僕は僕だと確信した。この確信は揺らがない。
けれど——藍華と雨帝は?
「ごめん、僕、どうかしてるみたいだ。おかしいな……いつもみたいに、できない。えっと……ごめん」
「……そっか」
藍華の瞳から、ゆっくりと、一筋の涙が流れた。
彼女は笑っていた。泣いているのはなぜだろう。そんなこと、分かりきっているのに、僕はそれを認めたくない。思考がついていかないわけではないのだ。藍華が、雨帝。そんな予感が、確かに、僕の頭を塞いでいた。藍華の話、今まで僕が感じてきた二人の印象が藍華の言葉を裏付けていた。
しかし、なんと理由を付けようとも、同一人物が同じ世界に存在することはない。
「……あたし、ずっと思ってた。あんな人になりたい、って。始めの頃は閏年計画の影響で幼くなってたから気がつかなかったけど、改めてここへ来て、気づいた。雨帝はあたしがずっとなりたいと思ってた理想像のまんまなんだ。多分、あたしがここに来たことでそうなったんだと思う。……ほら、雨帝って閏年計画――もっと言えば閏があたしたちの案内人として作った存在でしょ? もっと素っ気なくてもいいはずなのに、雨帝はそうじゃなかった。あれはきっと、あたしがここに来たことで、あたしの理想の人格、みたいなものが雨帝のもとになったから。雨帝がプログラムなのに触れるのも、だからだと思う。……さすがに姿形までは一緒にならなかったけど、雨帝は確かに、あたし。認めたくないけど……これは、絶対にそう。藍華はあたしがなれなかった……パラレルワールドのあたしみたいなものなのよ」
藍華の瞳には強い光が宿っている。そうだ。雨帝は閏年計画の中だけの存在。人格のモデルがあってもおかしくない。いや、ただ案内するだけの存在にしては人間らしすぎることは始めから分かっていたはずだ。きっとそれは、藍華の中の理想の人格データがインストールされたから。でなければああはならない。それに僕はたびたび二人に似た何かを感じていた。もっと前に気づいていてもおかしくなかった。なのに、僕は気がつかなかった。藍華は気づいていた。自分は自分以外の誰かにはなれない、自分のこと自分でやるしかない。その言葉はそれに気づいた上での言葉だったのだ。それは、辛いに決まっている。目の前に自分の理想そのままの人物が現れて、これまでずっとその人に頼ってきた。なのに、今はその人がいない。その上に幼い日の自分の夢を見て、不安ばかりが募っていたに違いない。今藍華が言ったことは、紛れもない事実だろう。それを、藍華自身が口にした。しかし、花はまだ咲かない。それはきっと、ナビゲーターに書かれていた『ある行動』が果たされていないからだ。全ては行動に移さなければ意味がない。思っているだけではだめなのだ。あのメッセージはきっと、そういうことだったのだろう。藍華は行動を試されている。
「あい――」
「大丈夫だよ、潤。分かったの。ずっと、考えてた。雨帝はもう一人のあたしかもしれない。少なくとも、閏年計画はそう考えてる。雨帝はあたしの理想の人格をもとに自立行動してるわ。あたしがそうだった可能性も、ゼロじゃない。あたしが迷わないで、自分の道を信じてられたなら、あたしは雨帝みたいになってたかもしれない。そんなの分からないわ。あたしはあたしだから、他の未来なんて分からないのは当然よね。けれど、確かに閏年計画はあたしと雨帝を同一人物としてカウントしてる。でも、あたし、それは違うと思うの。あたしはあたし。三浦藍華は現実にも閏年計画にも一人しかいないわ。あたしは雨帝じゃないし、雨帝はあたしじゃない。あたしが雨帝だって認めるってことは、今まであたしが選んできたことをなかったことにするのと同じでしょ? あたしはこれまで生きてきたあたしを否定したくないの。どんな道でも、それが、それだけがあたしの道だったの。振り向いたからって過去が変えられるわけじゃない。なら、別の道を選んだ時点で、それは今ここにいるあたしじゃなくて、別の存在よね。だから、あたし、今のあたしだけがあたしだって、断言する。あたしが今までしてきたことは無駄じゃなかったって、あたしが証明したいから」
藍華は迷いのない口調で言葉を紡いでいく。藍華にとって雨帝は理想の人格で、自分ではない。しかし、姿形は違えど雨帝のモデルは藍華が思い描いた理想の自分なのだ。選んだ道が違っていたら、雨帝が藍華だった可能性もある。僕から見れば、同一人物だと言われても実感がないが、本人である藍華にはそれが分かるのだろう。自分の理想像が実体を持って自分の目の前に現れて、戸惑わないわけがない。全くの同一人物ではないが、全くの他人でもない。写し鏡、同じでも違う存在。それが二人の関係なのだ。
「藍華は、それで納得できてるのかい? 僕は……僕も、何となくそんな気はしてた。ずっと感じていた違和感の正体は、これだったんだ。雨帝は閏年計画の案内人にしてはあまりに僕らに対して協力的だった。閏と会うまでは特に気にしてなかったけど、実際にあって話してみて、おかしいと思ったんだ。あんなに僕を消したがってた閏が、僕らを補助する存在を作るはずない。なら、どうして、って。その答えがそれなら、確かに辻褄は合う。でも、藍華が来たことで僕は救われたのに、それで雨帝が助けられなくなるなんて……こんな悲劇ってないよ」
「悲劇じゃないよ、潤。これは悲劇なんかじゃない」
藍華の力強い言葉が、花園に響く。悲劇によって始まり、悲劇によって終わる計画にしたくないのは僕だって同じだ。しかし、どうしても明るい未来がイメージできない。糸口もなく明るい未来を思い描けるほど、僕はポジティブな人間ではない。
「悲劇になんてさせない。みんなで帰るの。どんなに時間がかかっても、必ずね」
藍華は、笑った。笑っていた。僕は笑えなかった。
「だから、夢を叶えてたら、とか、もっと別の生き方があったとか、もう考えないよ。あたしはあたしの道を歩く。周りの人を見て行き先を変えるなんて嫌。そんなのあたしの道じゃないわ。誰かの道を歩くなんて、絶対嫌よ。だって、あたしは三浦藍華! 荒井雨帝じゃないんだから!」
涙の雫が宙を舞う。藍華の言葉にはもう迷いはなかった。雫は花の色を反射して七色に輝く。そして、緩やかに、崩れたバラに触れた。
花は色鮮やかに、幻影の庭は一枚の絵画のように。
世界は色づいていく。
「来るなら来なさい! あたしはもう迷わないわ。答えがないなら、あたしが作る! こんな壁、簡単に乗り越えて、雨帝だって助けて現実に帰るんだから、覚悟しなさいよね!」
藍華が満開の花の道を指差して誇らしげに笑う。直後、背後から風が吹いてきた。咄嗟に身構える。藍華はそれにも動じずまっすぐに道の先を見ていた。
そして、風は僕たちの前で竜巻状に変わり、大きくうねりだした。風で揺れない花が異質に映る。藍華は毅然と、物怖じすることなく対峙していた。瞳はまっすぐに竜巻を見つめている。
初めて会ったときより、藍華の背中は大きく見えた。
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