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僕たちは水の張った道を座れる場所を探しながら歩いていた。しかし、どこも水浸しで座れそうにない。僕はふと気になって地面に触れた。冷たい。が、指は濡れていなかった。もう一度触れる。氷ではないようだ。見た目は水なのだが、感触はそうではない。冷えた岩のような感触だ。僕は手を離すと花を見ている藍華の方へ歩いた。
「あのさ、藍華。この床、水が張ってるように見えるけど、そうじゃないみたいだ。触ってみたけど濡れなかった。座っても平気なんじゃないかな」
「え? 本当? あ、本当だ。冷たいけど大丈夫そうだね。……座ろっか」
「うん」
水面に見える床に座り込んだ藍華に続いて、隣に座る。視界の端にナビゲーターが見えた。
「……そういえばなんだけどさ、このナビゲーター、雨帝が持っていたものなんだよね。やっぱりまだ何かありそうな気がするんだ。藍華はどう思う?」
それはずっと疑問に思っていたことだった。ナビゲーターは僕の腕時計のように途中から現れたわけでも、今のこの世界になってから現れたわけでもない。ナビゲーターは初めから閏年計画に存在した。少なくとも僕たちが雨帝に出会った時点では既に存在していた。この空間に無駄なものはない。それはこれまでの経験で分かっていた。しかしそれらは必要なときにだけ現れたり、この花園のように地下に隠れていたりした。しかし、ナビゲーターは違う。始めから僕たちの目につく所にあって、閏が空間を作っていた頃は雨帝が管理していた。そういう意味では、ナビゲーターにも存在することが分かっていても使えるわけではないという制約がかけられていたとも言えるだろう。しかし今、ナビゲーターはここにある。それはこのナビゲータに何か役割があるからではないのだろうか。始めに出たあのメッセージは閏が消え、消滅するはずだった雨帝が消滅せず、奇跡的に残すことのできたメッセージだ。計画通りに進んでいたら、きっとあのメッセージは存在しなかった。ならば、ナビゲーターには他の何かが隠されていると考えるのが妥当だろう。今の所計画に関連しそうな情報は出てきていないはずだ。
「あたしも、ちょっと気になってた。これ、いろいろおかしいいんだよね。ほら、トロイの木馬とか、あたしの名前とか、さ」
そういえば、と思った。トロイの木馬の件は自分なりの解釈を見つけて解決した気になっていた。まだ藍華に話を聞いていない。それに、ユーザー名が三浦藍華だったことを忘れていた。恐らく、この謎を解けば花はまた少し咲く。そんな気がした。
「それ、トロイの木馬のことなんだけど。ちょっと僕なりに考えてみたんだ。えっと……ほら。藍華、防音室から出てきた僕のこと、覚えてる?」
「うん。あの、ちょっと怖い潤だよね」
「そう。あいつ、敵意むき出しで、多分僕を生かして返す……て言うのはちょっと言い過ぎだけど、少なくとも心ぐらい折ってやろうと思ってたと思うんだ。でも、そうはならなかった。彼はあの空間に自分が不利になるようなものは作らなかったはずなんだ。雨帝だって、本当はただの案内人にすぎなかった。当初の目的ではあんな人格はなかったのかもしれない。そんな、彼にとって圧倒的に有利だった形勢が逆転したのは、多分、事故が起きたときに偶然側に君がいて、閏年計画に巻き込まれたことで閏年計画にイレギュラーが現れたからだと思うんだ」
これまでに考えてきたことを整理しながら、順序立てて話を進める。内面が幼かった頃の藍華に分かりやすい説明を心がけた成果か、多少説明が上手になった気がする。
「確かに、あの時の閏年計画って、ちょっと不気味っていうか、いろいろごちゃ混ぜで歪な感じがしたかも。もともとは潤だけの世界だった所に、あたしが来ちゃったからだったのかな?」
「うん……多分、そういうのもあると思うよ。それで……多分さ。今の世界は、見ての通りぼろぼろで、壊れかけてるだろ? 僕、はじめは藍華の精神状態とリンクしてるのかと思ってたんだ。でも、藍華が前を向いたからって空間が元通りになるわけじゃない。それで思ったんだ。閏年計画にとってイレギュラーである藍華は、ウイルスみたいな存在なんじゃないかな。だから今、そんな君を排除するために、この空間は壊れてきている。今の閏年計画は完全じゃないのかもね。そのせいで余計に脆くなってるのかもしれない」
「なるほどね……。それで、トロイの木馬ってこと。はじめの方は、あたしはこの空間の核じゃなかったから、何も起きなかった。でも今、あたしがこの空間を作ったことで、閏年計画そのものが崩れ始めた……ってこと?」
「崩れ始めたっていうか……正しい形に戻ろうとしてるっていうのかな。余計な悪意がそがれてる感じだと思う。ほら、前に防音室から黒い影みたいなのが出てきたことがあっただろ? あれは僕の影だったけど、今回はそれが君の影なんだ。だから逆に、君が前向きになれば今の閏年計画は崩れていく。君がどれくらい前を向けたかの指標が、ここの花なんだと思うよ……多分。だから、この花が満開になった後、まだ何かあるんだと思う」
僕の言葉に藍華は小さく唸った。問題なのはその何かだ。たとえ花が咲いたとしても、その後が分からなければ意味がない。花が咲いた直後に何かが起きるという可能性だってある。それでチャンスを無くすことだけはしたくない。
「……ねぇ、潤、あのさ。ナビゲーターの名前、なんだけど……」
少しの沈黙の後、藍華が言い辛そうに口を開いた。これまでずっと、そのことを考えていたに違いない。ここで話題を出したということは、彼女なりの何かを思いついたからだろうか。
「あたし、ずっと考えてて……何度も言おうとしたんだけど、タイミング逃しちゃって遅くなっちゃった。……でね、あたし、気づいたことがあるの」
「気づいたこと?」
藍華がうなずく。その瞳は今でも言うことをためらっているように見えた。
「名前、アルファベット表記だったでしょう? あれの大文字がAとUだったの、ずっと気になってたのよね。それで、ちょっと考えてみたの」
僕はログインした後に映った彼女の名前を思い出していた。あの時は誰かが藍華の名前でユーザー登録をしたという所が問題だと思って、表記のことはあまり考えていなかった。言われてみると、確かにAとUは大文字になっていた気がする。見るからに不自然だ。何かあっても不思議ではない。
「AとUってさ……雨帝のイニシャルだよね」
「あっ……ほんとだ。荒井、雨帝で、AとU。なんで気がつかなかったんだろう」
不覚だった。この空間に無駄なものはないと言っておきながら、こんなギミックを見落としているとは情けない。僕は自分を叱咤しつつ、藍華の話に耳を傾けた。
「そこまでは、ここに向かう途中……ちょうどこのバラが落ちていたあたりで気づいたの。でも、それが何を意味するのか分からなくて……。潤にも意見を聞こうって思ってたんだけど、言おうとするたび、なんだか怖くなっちゃって」
「ありがとう。藍華が言ってくれなかったら僕、完全に見落としてたよ。それにしても不思議だね。君の名前で誰かがユーザー登録をしたのかもしれないって思ってたけど、こうなってくるとあれは雨帝のアカウントだったって考えた方が自然になってくるな。それが何らかの理由で、藍華の名前に書き変わった。そこは今の閏年計画が藍華主体っていう方に関係してる気がするけど……。そうだ、藍華。今ここにあるもので藍華に関係してそうなのって何? ほら、僕の場合だとゲームっぽい空間になってたろ? やっぱり花と鏡以外にはないのかな……」
床を靴のかかとで小突きながら、僕は藍華の方を見た。藍華はすっと立ち上がると辺りを見回してため息をつく。
「うん。それ以外はなさそう。でも……それがどうかしたの?」
「いや、ただちょっと、さっきから思ってることがあって」
「なになに、教えて」
藍華が座って身を乗り出す。思っていることというのはこの空間のことだった。雨帝がこの世界が生み出したプログラムだったように、今のこの空間もまた、誰かが生み出したプログラムなのではないかという気がしていた。だからどうだという話ではない。ただ、彼女の理想を具現化したようなこの空間がプログラムなら、雨帝もまた、彼女の理想の人格なのではないかと思っただけだった。何か確証があるわけではない。雨帝がただの案内人で、あんな人格を持っていなかった場合のことを考えていて、ふと思っただけのことだ。今こんな議論をしても無駄かもしれないが、少しでも可能性のあることは聞いておきたかった。
「この空間、おかしな所が多いと思わないかい? 上とは全然雰囲気が違うし、いきなり水が広がったかと思ったらそうじゃないし。まるで僕たちがここに来たらそうなるようにできてるプログラムみたいだって思ったんだ。それだけなんだけど、不思議だと思わない?」
僕が問いかけると、藍華は真剣な目でうなずいた。細い指が床に触れる。水が張っていないと分かっていても、どうしても水があるような気がして、僕は咄嗟に触ったら濡れるよと言いそうになった。プログラムにしては出来が良すぎる気がしないでもない。それとも、強い思いで思い描かれた理想というものは、ここまでリアリティのあるものなのだろうか。
「確かに……潤の世界とは違った意味で不気味よね、ここ。なんか、できすぎてるっていうか、完璧な世界なのに、花が枯れてるのが違和感っていうか……」
「そう、それも思ったんだ。ここには瓦礫は降ってこないし、危険なものもない。なのに心が休まらないんだ。ここにいると、何かしないといけないような気持ちになる。花が枯れていることで、ここは完全じゃなくなってる。それが落ち着かないもとになっているのかどうかは、分からないけれど……」
藍華が膝に顔を埋める。精神的にかなり参っているようだった。ずっと解決策について考えて話し続けているのだから仕方ない。その上、閏年計画には朝も夜もない。ここでは時間の概念がないため、無限に続いているような気分になる。そんな中で自分について考えていれば気も滅入るだろう。
「まぁ、そういうわけだからさ、藍華。君は多分、この後もっと大きな問題と向き合わなきゃいけなくなるよ。だから、今は休んで。僕は少し周りの様子を見てくるから」
「でも……」
藍華が反論しようとする。しかし、その言葉とは裏腹に、瞳は眠たげに閉じられていた。「大丈夫、すぐ戻ってくるよ……お休み、藍華」
僕の言葉に、藍華は冷たい床に横たわってしまった。僕は上着を脱いで彼女にかけると、鏡の階段に向かって歩いた。
「潤……」
後ろから聞こえる藍華の声に、僕は無性に心が痛くなった。
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