混線
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道は鏡でできていた。その周囲を囲む花々の名前を僕はあまり知らない。手前には向日葵やチューリップのような明るい色の花が、奥には青や紫の色をした暗い色の花が並んでいた。一番奥の花は枯れているように見える。僕はぞっとした。ここは藍華の世界の最深部なのだ。
「もう、やんなっちゃうなぁ。でも、行かなきゃだよね。……潤、あたし、歩きながら話すね」
藍華は一度こちらを見てからターンして鏡の床の方を向いた。一瞬だけ見えた彼女の表情は、まるで泣き笑いのようだった。
「なんて言っても、別にこれと言って特別なことがあったわけじゃないのよね。ただ、なりたかったものになれなくて、自分が分からなくなっちゃっただけなの」
「藍華……」
自分が分からなくなった。
この言葉は、今の藍華を的確に表していると思った。これは僕の憶測でしがないが、おそらく彼女は理想の自分になれなかった現実の自分を自分だと認めたくないのだ。そして、純粋に夢を追えた幼い頃に戻って、やり直したいと思っている。彼女は自分自身を否定しようとしている。
さぞ辛いことだろう、と思う。僕にも認めたくない自分が、閏がいた。それでも最後は二人に支えられて、乗り越えることができた。しかし、今回は違う。藍華の側にいるのは僕だけだ。そして、きっと、僕は藍華の苦しみを一緒に背負ってやれない。藍華が一人で背負おうとしているからということもある。しかしそれ以上に、藍華の苦しみの全てを理解できない僕が口を出すのが憚られた。
「さっきさ、潤、頼れって言ってくれたじゃない? あれ、嬉しかったんだよ。夢に向けて勉強してる時は、本気で信頼できるひとなんていなかったもん。どんなに優しい言葉をかけられても、貴方にこの苦しみは分からないでしょ、って。でも、思うの。初めて閏年計画に来て、潤と会って。最初はなんかつかみ所のない人だなって思ってた。でも……違った。今なら分かる。潤はとっても優しくて、いつだって相手のことばっかり考えちゃうんだね。あたしとは違う……違う、けど、その分潤は、あたしよりあたしのことが分かってるんじゃないかな。あたしが見失っちゃった何かが、潤には見えるんじゃないかなって」
そう言って、藍華は振り向いた。彼女は泣いてはいなかった。笑っていた。気丈に、助けを求めるように、笑っていた。
僕の勝手な仮説が、果たして彼女の役に立つのだろうか。僕には自信がなかった。しかし、それでも、僕は藍華を助けたかった。僕の言葉で、彼女が今以上に苦しい思いをするとしても。
「……藍華ってさ、自分のこと好き?」
「どうかなぁ……どちらかというと、嫌い、かもしれない」
藍華は再び歩き出す。改めて本人の口から聞くと胸にくるものがあった。やはり彼女は自己嫌悪を繰り返しているのだ。いつもは記憶の瓦礫の下に埋まっていた傷口を、彼女は今自らの手で開けようとしている。
「それは、君が今の自分のことを、認めきれてないからなんじゃないかな。今の自分は偽者で、本当の自分は夢を叶えてどこか遠くにいるんじゃないかって、心のどこかでそう思ってる君がいるのかもしれない。だから初めて会ったときの藍華は五歳の少女で……まだ夢を諦めてない、夢を夢とはっきり認識していない君だったんじゃないかな」
恐る恐る、それでもはっきりと僕は告げた。仮説だけどね、と付け足しかけて、止める。そんなことを言っても藍華を迷わせるだけだ。曖昧な答えは彼女のためにならない。
「それに、酷いことを言うようだけど、君は何も見失っていやしないよ。君は、目を逸らしているだけさ。かつての僕のようにね」
花々が床に映り込む。それは七色に彩りを移しては彼女を照らし出すように輝いていた。進めば進むほどに花は重い色へと色彩を移す。果ては見えない。この道はどこまで続いているのだろうか。
「そうかもしれないね。何となく分かるよ。あたし、今の自分が嫌い。戻れるものならずっと小さかった頃に戻りたいよ。でも、無理なんだね。あたしはあたし以外の誰かにはなれないし、誰もあたしの代わりに頑張ってくれないんだね。分かってた。逃げ続けるだけの毎日で、あたし、このままでいいのかなって、本当に後悔しないかなって思いながら、それでも失敗するのが怖くて、これでいいんだって言い聞かせてた」
藍華の声は、泣いているように聞こえた。しかしその言葉とは裏腹に、声のトーンは底抜けに明るく、弾むような声だった。彼女の中で何かが切れたのだ、と思った。彼女の思いを塞いでいた縫い目がほつれ、千切れた。花びらのように零れ落ちる思いは確かに彼女自身のものだった。他の誰でもない、そこに三浦藍華がいた。
「何度もまた頑張ろうって思った。でも、それでまた挫折したら、あたしは今度こそ自分の無力を認めざるをえなくなるよね。それが怖かったの。振り向いたら歩けなくなるって、分かってたから。過去のことにとらわれちゃだめだって、ずっとそう思って生きてきたけど、未来を見ても真っ暗で、今には何もなくて、あたし、ずっと同じ所を歩いてたの。乗り越えなきゃいけない大きな壁の前で、立ち止まって、きっと別のもっと楽な道があるよねって、ずっと歩き続けてた。おかしいよね。出口なんてない……道は見えてたはずなのに」
「藍華は道を間違ったと思ってるのかい?」
僕の言葉に、藍華は足を止めた。そして、振り返ることなく話し始める。
「間違ってないって、そう思ってるよ。思ってるけど、あたしには自信がないの。自分が選んできたことより、もっといい選択肢もあったんじゃないかって、今でも思うときがある。今更後悔しても遅いって、分かってはいても、あたしはもしもの世界を想像せずにはいられないの」
彼女が夢を叶えた世界。
それはここにない世界、夢物語だ。そしてきっと、彼女が夢を叶えていたら、彼女がこの閏年計画に巻き込まれることもなく、僕が閏を乗り越えることもなかった。閏は僕を成長させるつもりなどなかったはずだ。そこに藍華が現れ、彼の想定したシナリオは大きく変わった。全ては偶然と過去の歯車によってまわされる。閏の想定した、僕を壊すための完全な世界。そこにイレギュラーが加わった。彼の世界は壊れ、今ここには彼女の世界が広がっている。きっとこれが、トロイの木馬の真実だ。
彼女は彼女の壁を壊せるはずだ。
「じゃあさ、藍華。約束しよう」
「約束?」
「そう、約束。……君のこれまでを、僕が保証するよ。そのかわり、約束して。もう一度前を見て、壁の前に立つって」
僕の言葉に、藍華は少しだけ振り向いた。横目で僕を見ながら、不安そうに顔を俯かせる。
「でも、どうすればいいの? あたし、分からないわ。どうやればこの壁を越えられる?」
「無理に超えなくてもいいよ。ただ前に立つだけでいい。問題に向き合えば、自然に答えが見えてくるよ。流石にそれは僕には見えない。答えは君にしか見えやしないんだ。だから、せめて、僕が君の証人になるよ。君の覚悟の証人に――君と雨帝が僕の証人になってくれたようにね」
藍華がゆっくりとこちらを見る。その瞳は潤んでいるように見えた。花の光が彼女の瞳に映り込む。色とりどりのスポットライトが彼女を照らしていた。
鏡の舞台に僕と彼女の二人きりで取り残される。
「……うん、分かった……。頑張ってみる。これはあたしの問題、だけど、誰かが支えてくれてるのとそうじゃないのとでは、やっぱり違うね」
彼女は、やっと笑った。瞳を閉じた瞬間に、溜まっていた雫が頬を伝い落ちた。笑顔のまま彼女は泣いていた。その姿はどこか神秘的で、光の屈折が生み出した幻なのではないかと疑うほどだった。
「これで、一蓮托生だね」
元からそうだったけどね、と僕は心の中で付け足す。改めてここにはいると決めた時から覚悟はしていた。ただ今の約束で僕と藍華、そして雨帝の未来が複雑に絡み合った。もう後戻りはできない。もっとも、はじめから後戻りなどするつもりはなかったが。
「そうだね……。ああ、怖いなぁ。これからはあたしたちの選択で全部決まっちゃうんだ。ちゃんと考えて選ばないと、ちゃんと、自分と向き合わないと」
そう言って笑った藍華は、ようやく前を向いたように見えた。僕はほっと胸をなでおろす。そして、少し早足で藍華に近づき、その手を握る。藍華は少し驚いた様子で僕の顔を見た。そんな彼女に僕は笑いかける。
「大丈夫。藍華は一人じゃないよ。僕がいる。だから安心していいよ」
それは僕自身に言い聞かせた言葉でもあった。僕は一人じゃない。藍華がいる。そう思うことで、どんな不可能も可能にできるような気持ちになれた。それはまやかしだったかもしれない。僕の希望的観測が見せた偽りの安息だったかもしれない。それでも、藍華の髪を彩る青いバラを見ると、そんな夢幻も嘘ではないと思えた。
「ありがと、潤。あたし、もうこの花を枯らしたりしない。どんなに苦しくても辛くても、答えを見つけるよ」
絶対に、と藍華が言った。その瞬間、鏡の床に水が広がる。波紋は花々にまで及び、花の色が水面に反射していた。そして、枯れていた花が少しだけ顔を上げる。
「藍華、見て、花が……!」
「枯れた花が! ねぇ、もしかして、雨帝を助けるためのある行動って……!」
僕たちは顔を見合わせた。藍華と花が無関係だとは思えない。そして、閏年計画の最深部らしきこの場所で起きた出来事が無関係なはずがないだろう。僕は考える。雨帝を助けるためのある行動。それがここの花をすべて咲かせることだとしたら、一つの疑問が浮かび上がってくる。
藍華と雨帝の繋がりとは何なのだろう。
ただ同じ空間にいて、僕の影はもういないからということも考えられなくはない。しかし、雨帝は僕の影である潤が作ったものだ。普通に考えれば僕の方が雨帝との関係性は強い。しかし、雨帝を復活させる鍵が藍華だったなら、藍華と雨帝の間にはそれ以上の何かがあるということになる。
「とにかく、あの花が全部咲くまでここでいろいろ考えてみよう。もし僕らの考えが正しかったなら……」
「うん!」
藍華の声が花園に反響する。
まるでこの景色のすべてが幻であるかのように。
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