希望
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Trojan horse。
彼女が打ったのは、僕達がここへ入ってくるときに映ったあの奇怪な文字だった。確か和訳は、トロイの木馬、だっただろうか。そんな名前のウイルスがあった気がするが、詳しいことは分からなかった。
藍華は僕の方を見て安心させるように微笑むと、画面がこちらにも見えるように機械を持った。今はロード中のようで画面には「Now loading」の文字が映っているだけだ。背景は黒く、藍華の姿が映り込んでいた。その顔には悲しみとも苛立ちともとれない切なさと、明らかな疲労が浮かんでいる。今ならまだ雨帝を助けられるかもしれないという一心でここまで来たのだろう。まだあまり体調は良くないに違いない。それでも必死に雨帝を助けようとする姿勢からは、僕とは違った焦りが感じられた。ロードを待つ時間も、動作とは裏腹に不安そうだった。
そんな藍華の様子を知ってか知らずか、画面が一変しメッセージを写すウインドウが開いた。メッセージは今は表示されていない。しかし、ログインできたことだけは確実だった。あまりにもロード時間が長くて壊れているのではと疑いもしたが、杞憂に終わったようで僕は胸を撫で下ろした。
「わお、入れちゃった。……あれ?」
「? どうしたの?」
隣で藍華が気の抜けた声を上げた。画面上部の文字を指でなぞりながら凝視している。僕はその文字に目をやった。書かれているのはログインしたユーザー名のようだ。文字が小さくとても見辛かったが、それでも見間違うことは無かった。
見間違うはずが無かった。
「三浦藍華って……。何であたしの名前なんだろ? あたし、こんなの登録した覚えないのに……」
そこには確かに、彼女の名前があった。日本語で表記された画面の中、その名前だけが何故かアルファベットで表記されている。しかも、大文字で表記されているのは「A」と「U」で、Mは小文字だった。それ以外に違和感は無い。画面上で彼女の名前だけが明らかに異質だった。
「本当だ……。藍華の名前になってるね。さっきのパスワードで、誰かが勝手に登録したってことなのかな?」
「うーん、どうなんだろ。とりあえずよく分かんないし、このメッセージっていうのが何なのかちょっといじってみようっ」
やけにテンションの高い藍華が適当に画面をいじり始める。何となく無理をしているのではと思ってしまって、元気なことを素直に喜べない。けれどそれを口に出すのは何だか憚られて言うことができなかった。自分が傷つきたくないからではない。藍華に嫌われるのを恐れているからでもない。藍華の焦りの理由は、誰より彼女自身が一番理解しているだろうと思ったからだ。僕が口出しするようなことは無いと思った。
「どーにもならないなぁ……。あ、潤もいじりたい? はい、あげる」
何も言わずにただ隣にいる僕に気を使ったのか、藍華が腕時計型の機械を僕に手渡した。僕と藍華の手が同時に機械に触れる。すると機械から、何やら奇怪な音が鳴った。藍華と顔を見合わせる。二人で首を傾げ、再び画面を見る。すると、メッセージの欄に文章が現れていた。
「あれ、これ……さっきまでは無かったよね?」
「さっき変な音がしたじゃない? あのときに出たんだよ、多分」
緊迫感の欠片も無い口調で藍華が言う。僕は深く考えないように画面へと目を向けた。そして、現れた文字に目を通した。
「えーっと、文字小さいから読み上げようか。んー。プログラム修復パッチについて。この空間内である行動をすることにより、プログラムを修復することができます——って、これっ!」
「そうだよっ! きっとこれを使えば雨帝も元通りに——って、『ある行動』って適当すぎ。これじゃあ何のことだかサッパリだよ……」
一気に賑やかになった閏年計画の世界に、藍華のため息が落ちる。確かにその表記は曖昧すぎだ。いくら何でも無茶振りが過ぎる。まるで字数制限か時間制限でもかけられたみたいだ。
まるでこれが、精一杯だったみたいじゃないか。
「それを探すのが僕らの仕事だろ? ほら、そう嘆かない。まだ終わってないだろ、この世界は」
「うわ、潤が男らしい。なんていうか違和感……。っ、でも、ありがと潤。そーだよねっ! ここで止まってちゃ雨帝に怒られちゃうよね」
頑張らなきゃと微笑むその顔に勇気を貰いつつ、僕は不安を募らせた。
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