後影
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どうして忘れていたのか不思議に思うくらいに、その映像はすんなりと浮かんだ。痛みを伴う記憶でも構わないと思えた。
これは僕の記憶なのだ。
「思い出しちゃった……ね」
僕の言葉に、藍華が微妙な表情で頷く。自然と頭痛は治まっていた。
「思い出した……ですか。なるほど。それなら納得ですね」
「納得? ウミカ、どうしたの?」
自嘲的な笑みを浮かべる雨帝に、藍華が軽く尋ねる。すると雨帝は、顔の左半分を隠す前髪を掻き上げてみせた。その光景に、僕らは絶句する。
「まったく、気持ち悪いったらありゃしませんよ……。顔の左半分、全部真っ黒ですよ。もう二度と、鏡を見るのは御免ですね」
言うと雨帝は、自分の足下を指差した。そこには藍華の象徴である鏡のような足場がある。この空間は僕、鏡は藍華、そして道路とタクシーは僕と藍華両方の象徴だった。それを軽く思い返して、僕は疑問に思う。
「閉ざされた思想、周りの声を否定したい願望、自分の声も聞きたくない思い、か……」
「? 定数、何か言いました?」
何となく呟いた僕を雨帝が不思議そうに見つめる。左側はもう前髪に隠されていた。その隣では藍華がしきりに雨帝の服を引っ張りながら「大丈夫? ねぇねぇ大丈夫?」と聞き続けている。その度に雨帝は穏やかに「私は大丈夫ですが主に顔面が大丈夫じゃありません」と答えていた。
その繰り返しを遮るように、僕は答える。
「ほら、あの防音室さ。あの近くに行ったら黒い奴が出てきただろう? ならあの防音室にいるのが閏年計画の首謀者かな……って」
「ねぇ潤、そのしゅぼうしゃって、誰なの?」
子供っぽい口調で随分と核心を突いた質問をしてくる藍華に、僕は内心かなり焦っていた。分からないからではない。とっくの昔に気づいていた。しかしこれを伝えれば、きっとあの防音室は壊れ、彼はその姿を現す。その前に、改めて言いたいことがあった。
「……藍華、雨帝。多分これが、『定数』としての僕の最後の言葉になると思うけど……。僕は、弱さを受け入れようと思うよ。閏年計画は達成させない。雨帝も消させない。藍華だって守ってみせる」
「潤……?」
訝しげに首を傾げる藍華に、僕はほんの少しだけ微笑んだ。雨帝はもう、気づいたみたいだった。僕は二人に向き直る。
「首謀者の名前は——」
閉ざされた思想を持ったインドアな奴。置いてけぼりの人間不信。本当は誰かがその扉を開けてくれるのを待っていたのに、自らそれを遠ざける素直じゃない奴。
そんなの、一人しかいないじゃないか。
「幸村——潤」
閏年を掲げるもう一人の僕——閏の名を告げた瞬間、後方から凄まじい勢いで風が吹いてきた。僕は必死に踏ん張ってなんとか体勢を保つ。藍華たちはお互いに支え合っていた。
「そんな……防音室が——」
まるで幽霊でもいるかのように、雨帝が驚きの声を上げる。藍華はただ呆然とそれを見ていた。
僕らの目の前で、防音室は脆く崩れ落ちた。
代わりに、あの時と同じ黒い影が姿を現す。
違うことと言えば、それが人の形をしていることぐらいで。
「引きこもってないで出てこいよ、閏年計画?」
黒い影は答えない。代わりに、陽炎のように揺れてこちらに数歩、歩みでた。
「いや——閏、とか呼んだ方がいいのか?」
我ながらずいぶんと挑発的な態度を取っていると思った。冷や汗が出る。しかし、彼は僕で僕は彼なのだから、多少の傲慢さは許してもらおう。
ここから先は、僕の独擅場だ。
「威張るなよ、傍観者が」
ノイズがかった、聞き取りづらい声。それでも確かに自分の声だと分かった。
「遅かったじゃないか——逃亡者」
彼——幸村閏は、その口元に卑しい笑みを浮かべた。
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